シュレンドルフの映画2作品
ここのところの世情もあり、時間のある時に、これまで見よう見ようと思いつつも、ウォッチリストに溜まる一方だった映画を少し見ておこうかということで…今回は、ドイツの映画監督、脚本家フォルカー・シュレンドルフの…実話に基づいた作品2本を選択。
シュレンドルフは、代表作『ブリキの太鼓(原題:Die Blechtrommel)』(1979年)をはじめ、『Der Unhold(邦題:魔王)』(1996年)、『 Der neunte Tag(邦題:9日目)』(2004年)や…
今回紹介する、『 シャトーブリアンからの手紙(独題:Das Meer am Morgen)』(2011年)、『パリよ永遠に(原題:Diplomatie)』(2014年)など、ナチス・ドイツ期を題材とした映画に力を入れているように思う。
ドイツに生まれ、17歳の時に一家でフランスに移住、パリで学び…その後、映画の道に進んだシュレンドルフは、ドイツ人の血と…フランス人としての目をもって…特に、“パリ陥落”から“パリ解放”までの、フランスにおける独仏の人間模様を描くことには人一倍の思い入れをもって向き合っているのだと思う。
70歳を過ぎてからメガホンを握ったこの2作品には、シュレンドルフの…残しておきたい、伝えておきたい想いが込められているのだろう。
『パリよ永遠に(原題:Diplomatie)』

日本版の公式タイトル…“遠”の字の旁のデザインが、アドラーに卐と、なかなかに凝っている。
原作は、シリル・ゲリーによる同名の戯曲『Diplomatie(≒外交』(2011年)。
戯曲ということで、これまでに舞台上演なども数多くされている。

劇中で主演を務めた二人…スウェーデン総領事ラウル・ノルドリンク役のアンドレ・デュソリエとディートリヒ・フォン・コルティッツ将軍役のニエル・アレストリュプは、舞台上でも同名役を演じていただけあって、映画でも息の合った名演ぶりを見せている。
元々が舞台のための脚本ということで、1944年8月25日の未明から“パリ解放”までの出来事が…例えるならば、三谷幸喜の脚本ドラマよろしく…パリ防衛司令部が置かれているホテル「ル・ムーリス」のコルティッツの(ほぼ)スイート・ルーム(執務室)を中心に展開していく。
コルティッツを扱った話といえば、以前の記事でも紹介している映画『パリは燃えているか?(原題:Paris brûle-t-il?』が、“8月25日”を俯瞰的に描いているのに対し、この話は、ホテルの一室で繰り広げられるノルドリンクとコルティッツの“駆け引き(外交)”…人間模様を、主体的に…テンポよく描いている。

実際には、8月22日の段階で、コルティッツの方からノルドリンクを引見している。
これまでヒトラーに忠臣的な将軍だったコルティッツでも、パリの破壊には懐疑的であり、これをなんとか止めさせたいとは思うものの…
命令を実行しなければ、単に自身が解任されるだけのことであり…
しかも、家族連帯責任懲罰法(Sippenhaft)により、家族にも罪が及ぶこととなる。
そこで、米仏軍の即時介入という絶対的な既成事実によってパリ破壊を回避させるという提案を持ち掛け、ノルドリンクに米軍司令官に交渉の仲介を要請し、ノルドリンクもこれを了承した。
ただ、これは反逆行為に当たる危険な交渉であり、水面下で行われたことは言うまでもない。
従って、表向きは粛々と破壊準備を進めつつも、破壊指令は先延ばしして、米仏軍の突入までの時間稼ぎをしている。
コルティッツは通行許可証を発行、ノルドリンクの実弟ラルフ・ノルドリンクらが急ぎ、この要請を米軍側に伝えに向かった。
第12軍集団司令部のオマール・ブラッドレー大将にも伝えられ、フィリップ・ルクレール少将の率いる仏第2機甲師団が北進(主力)・南進の二部隊に分かれ、パリへ向け進軍を開始した。
(※このあたりに関しては先の記事「Brennt Paris?」もご参照頂ければと思う)
ただ、このコルテッツの要請によってパリ進軍が開始されたというわけではなく、あくまでも戦局のなかでの一助としての意味合いである。
以前にも記したが、この要請が、戦後を見据えた担保だったのか否かは別にして、米仏(殊に米)側にしても、美談とすることにより、パリ解放をよりセンセーショナルに演出するために利用したと言えなくもない。

劇中、SD(SS保安情報部)のSS准将とSS少尉が司令部を訪れるシーンがあるが…
実際も、ルーブル美術館の収蔵品の何点かをベルリンに持ち帰るようにとヒムラーから命令を受けた…おそらくSD(3c部)の部員4名が、8月23日に来訪したようである。
映画では、ノルドリンクの一枚上の“駆け引き”に、次第に術中に嵌っていく様子が…
こうした映画にありがちな、愚かで悪列な“ナチ”という体で描かれてはおらず、威厳を保たせたうえでの心の葛藤として描いている点がよい。
また、英語圏の映画だと、全て英語で語られそうだが…
独語の話せなかったノルドリンクとのやり取りは仏語…ドイツ人同士のやり取りは独語と、両国語を使い分けているところもよい。
いずれにしても、多少の設定は変わってはいるが、映画としてはなかなか面白く…83分という上映時間も、『パリは燃えているか?』に比して90分も短く…当方的には、このくらいが間延びせず見られて丁度良い。
『シャトーブリアンからの手紙(原題:La Mer à l'aube)』

ドイツ占領下のフランスで起きた青年共産党員らによる独将校の襲撃暗殺事件。
実行犯は逃亡…その報復として、計48名の人質が銃殺刑に処された。
シャトーブリアンのショワゼル収容所から選ばれた人質のなかには最年少(17歳)のギィ・モケもいた。
この映画は、そのギィを中心に、事件前日から銃殺に至るまでの4日間を描いている。

上映時間(91分)の1/6程のパリのドイツ軍司令部でのシーンでは、こうした題材を映画にする際、“ヒール”(悪役、敵役)として対比されそうなところを、シュレンドルフは当作品でも良識あるドイツ軍人として描いていてくれている。
現に、報復処刑に関して…司令官として処刑を許可したシュテュルプナーゲルは“悪玉”として、ナチスの象徴とでもするかのような表記も多いが、実際のシュテュルプナーゲルは反ナチズム的な考えを持っており、この後もヒトラー…ベルリンと度々衝突が生じ、翌年には辞任している。

オットー・フォン・シュテュルプナーゲル将軍役を演じたアンドレ・ユング。
軍装姿も様になっており、将官然としていてなかなかに良い!
オットーというよりは、どちらかというと従弟のカール=ハインリヒ・フォン・シュテュルプナーゲルの方が雰囲気は似ている。

エルンスト・ユンガー役を演じたウルリッヒ・マテスは、その特徴のあるお顔立ちからお気づきの方もあると思うが、『DER UNTERGANG/ヒトラー ~最期の12日間~』でゲッベルスを演じている。
シュレンドルフ作品の『Der neunte Tag』(2004年)にも出演している。

ハンス・シュパイデル大佐役を演じたハラルド・シュロット。
眼鏡をかけた感じなど、シュパイデルの雰囲気が出ている。
映画デビューは、シュレンドルフ作品の『Die Stille nach dem Schuß (邦題:リタの伝説)』(2000年)ということである。

駐仏ドイツ大使オットー・アベッツ役を演じたトマシュ・アーノルド。
シュレンドルフ作品には、シュロットと共に出演した『リタの伝説』、また『パリよ永遠に』ではパリ爆破の現場責任者ヘッガー中尉役を演じている。
占領下の5区(サン=ジェルマン=アン=レー、アンジェ、ディジョン、ボルドー、パリ)を統括するため1940年10月16日付でフランス軍事司令部が設立、司令本部はクレベール通りに面したホテル・マジェスティックに置かれた。
(北フランス~パ=ド=カレー県に関しては、ブリュッセルのベルギー=北フランス軍事司令部が管轄。)
1940年10月25日付で、その初代司令官にオットー・フォン・シュテュルプナーゲル陸軍中将(当時)が任官。(同年12月1日付で陸軍歩兵科大将に昇進)

※襟元に佩用しているのは聖ヨハネ騎士団名誉十字勲章…プール・ル・メリット勲章ではない。
因みに、実兄のヴァイマル共和国軍エトヴィン・フォン・シュテュルプナーゲル退役陸軍大将は、1918年8月4日付でプール・ル・メリット勲章を受章しているが、1933年3月6日に死去。(享年56歳)
任官中、シュテュルプナーゲルは、フランスの産業資源を適宜に運用できれば、延いては戦争活動を支援することにも繋がると確信し、産業、流通、文化面、安全保障上の問題など、独仏両国間の良好な関係を維持することは不可欠であり、そのために出来得る限りの役割を果たそうとしたようであるが、次第にベルリンとの温度差は拡がりをみせ…
そうした最中に襲撃暗殺事件など起こったことで、圧政による統治という機運の高まりは必至となっていく。

劇中、本国側の意向を伝えに来た駐仏ドイツ大使のオットー・アベッツ(SS大佐の階級を持つ)は、独仏の外交問題(社会、芸術、産業、教育、そして財産)を監督・管理する立場ではあったものの、フランスにおける如何なる権限に対しても、実質的にはほぼ無力であり、また、独仏間に平和条約が締結されていなかったため、“大使”としても認定されておらず、結局は据え者に過ぎなかった。
1941年6月22日のソ連侵攻後、ボリシェヴィキ本部からの指示を受け、フランス共産党(PCF=Parti Communiste Français)による仏国内におけるレジスタンス運動が活発化し、地下組織による武装闘争へと発展していく。
8月21日、パリのバルベス・ロシュシュアール駅でのアルフォンス・モーザ海軍管理部補佐官の射殺事件に端を発し、9月3日にエルンスト・ホフマン陸軍伍長、同15日にはヴィルヘルム・シェーベンス陸軍大尉が射殺されるなど、PCFのメンバーらによる襲撃事件がフランス各地で散発。
ドイツ側は、これに対し共産主義者の処刑(各6名、10名、12名)というかたちで報復した。

ナントでは、マルセル・ブルダリアス、ジルベール・ブリュストリン、スパルタコ・ギースコら3名のPCF構成員たちにより、将校クラスに対する襲撃・暗殺が計画された。
そして、この映画のストーリーの発端ともなる1941年10月20日(月曜日)午前8時少し前…
ロワール=アトランティック県地域軍政司令部指揮官カール・フリードリヒ・ホッツ陸軍中佐は、副官のヴィルヘルム・ジーガー陸軍大尉を伴い、宿舎のホテルを出たあと、ロワ・アルベール通りからサン=ピエール広場前の司令部に向かっていた。
ブリュストリンとギーコスは二人の後をつけ、サン=ピエール広場通りに出る直前に…
ブリュストリンはホッツに向け2発…これにより、ホッツは数分後に絶命。(享年64歳)
しかしギースコの拳銃はジャミングを起こし、ジーガーは命拾いをしている。
(※PCFは1950年まで事件への関与を否定。)
襲撃直後は警戒が厳しく、3人は市内に潜伏した後、街(北)外れのアジトに移り、レンヌ道路の岐点で各々に分かれた。
ジーガーの証言と、警察への通報により、2日後にはブリュストリンとブルダリアスが特定。
見張り役のブルダリアスは、その後パリに戻り、いくつかのテロ行動に参加したが、1942年1月5日に逮捕された。
ギースコもパリに戻り、地下組織と連絡を取り、スペイン共産党のメンバーに協力したが、同年2月5日に逮捕された。
(当初、ギースコは襲撃犯とは特定されていなかったが、取り調べ中の拷問により自白)
同年4月14日、パリの“Maison de la Chimie(≒化学会館)”で開廷された軍事裁判により、ブルダリアス(享年18歳)、ギースコ(享年30歳)他の25名に対し死刑が宣告され、同年4月17日にモン・バレリアンで銃殺。
ブリュストリンもパリに戻ったが、直後にパリで行動を共にするはずだったメンバー4人が逮捕されるなど、捜査の手が迫っていた。
また、同年11月19日刊の新聞に顔写真が公開され、市中の掲示板にも手配写真が貼られるなど、仏国内での潜伏は厳しいものとなったため、英国への逃亡を計画。
なんとかスペイン国境を越え、偽の身元で逮捕(ミランダ・デ・エブロ強制収容所に収監)、身柄は英国に引き渡された後、英国に移送されている。
1942年11月に自由フランス軍(FFL=Forces Françaises Libres)に参加、パリ解放後の1944年後半にフランスに戻っている。
2009年2月25日、フランスのエーヌブレーヌで死去。(享年89歳)

(左)手前の革コート、制帽の将校がカール・ホッツ…隣を歩くのがヴィルヘルム・ジーガーかは詳細不明。
(右)カール・ホッツの墓標。※現在は、ポルニシェの軍人墓地(2区21番通路655番)に移転。
因みに、劇中でも語られているが、ホッツは土木建築技師でもあったようで、ナントに赴任後、地域のインフラ整備などにも力を入れ、地元民からの評価も悪くはなかったとのことである。
友人の話によれば、謙虚な人柄の好人物だったようである。

※射殺現場
これに激怒したヒトラーは、当初、150名の処刑をシュテュルプナーゲルに命じた。
シュテュルプナーゲルは、150名という数字は一度に処刑する人数としてはあまりに多く、そのような報復処刑に対する仏国民の反発が、今後の協力関係を危うくすることを懸念し、先ずは翌21日に50名を銃殺刑に処し、翌々日23日までに犯人が逮捕が為されなかった場合には、さらに50名を銃殺するという段階的な案を国防軍最高司令部(OKW)に提示し、了承を取り付けた。
10月21日、この事件に関する報復措置の通告と犯人逮捕に繋がる情報提供を求めるビラが市内に掲示された。

【独語】
BEKANNTMACHUNG
Feige Verbrecher, die im Solde Englands und Moskaus stehen, haben am Morgen des 20. Oktober 1941 den Feldkommandanten in Nantes hinterruecks erschossen.
Die Taeter sind bisher nicht gefasst.
Zur Suehne fuer dieses Verbrechen habe ich zunaechst die Erschiessung von 50 Geiseln angeordnet.
Falls die Taeter nicht bis zum Ablauf des 23. Oktober 1941 ergriffen sind, werden im Hinblick auf die Sehwere der Tat weitere 50 Geiseln erschossen werden.
Fuer diejenigen Landeseinwohner, die zur Ermittlung der Taeter beitragen, setze ich eine Belohnung im Gesamtbetrag von 15 MILLIONEN FRANKEN aus.
Zweckdienliche Mitteilungen, die auf Wunsch vertraulich behandelt werden, nimmt jede deutsche oder franzoesische Polizeidienststelle entgegen.
Paris, den 21 Oktober 1941,
Der Militärbefehlshaber in Frankreich von STÜLPNAGEL General der Infanterie
【仏語】
AVIS
De lâches criminels, à la solde de l'Angleterre et de Moscou, ont tué, à coups de feu tirés dans le dos, le Feldkommandant de Nantes (Loire-Inf.), au matin du 20 Octobre 1941.
Jusqu'ici les assassins n'ont pas été arrêtés.
J'ai t arrtés.
En expiation de ce crime, j'ai ordonné préalablement de faire fusiller 50 otages.
Etant donné la gravité du crime, 50 autres otages seront fusillés au où les coupables ne seraient pas arrêtés d'ici le 23 Octobre 1941 à minuit.
j'offre une récompense d'une somme total de 15 MILLIONS DE FRANCS aux habitants du pays qui contribueraient à la découverte des coupables.
Des informations utiles pourront être deposées à chaque service de police allemande ou français.
Sar demande, ces informations seront traitées onfidentiellement.
Paris, le 21 Octobre 1941,
Der Militärbefehlshaber in Frankreich von STÜLPNAGEL General der Infanterie
(和訳)
通告
1941年10月20日の朝、イギリスとモスクワの手先である臆病な犯罪者がナント(ロワール=アトランティック県)で地域司令官を射殺した。
これまでのところ犯人はまだ捕まっていない。
この罪に対する償いとして、本官は先ず50名の人質の銃殺を命じた。
犯罪の重大性を考慮して、犯人が1941年10月23日深夜までに逮捕されない場合は、更に50名の人質が銃殺されるであろう。
本官は、犯人逮捕に貢献した国民に対して、合計1500万フランの報酬を提供する。
有益な情報はドイツまたはフランスの警察署に通報し、その通報は匿名でも構わない。
パリ、1941年10月21日
フランス軍事司令官 フォン・シュテュルプナーゲル陸軍歩兵科大将
ヴィシー政府の内務大臣ピエール・ピュシューは、所轄の機関に対し人質リストの作成を指示、これにより共産主義者などの政治犯および労働組合活動家などの収監者からその多くが選別されることとなる。
そして10月22日(水曜日)、シャトーブリアンで27名、ナントで16名、モン・ヴァレリアン刑務所(パリ)で5名の計48名の人質の銃殺刑が執行された。
シャトーブリアンのショワゼル収容所から3㎞程にある砂利採取場に連行された27人は、9人づつ3組に分けられた。
刑の執行に際し、全員が目隠しされることを拒否した。
●Châteaubriant / camp de Choisel (27名)
(1組目:午後3時50分執行)
Charles Michels(38 )
Jean Poulmarc'h(31)
Jean Pierre Timbaud(31)
Jules Vercruysse(48)
Désiré Granet(37)
Maurice Gardette(49)
Jean Grandel(50)
Jules Auffret(39)
Pierre Gueguen(45)
(2組目:午後4時執行)
Marc Bourhis(34)
Raymond Laforge(43)
Maximilien Bastard(21)
Julien Le Panse(34)
Guy Môquet(17)
Henri Pourchasse(34)
Victor Renelle(53)
Maurice Tenine(34)
Henri Barthelemy(58)
(3組目:午後4時10分執行)
Raymond Tellier(44)
Titus Bartoli(58)
Eugene Kerivel(59)
Huynh Khuong An(29)
Charles Delavacquerie(19)
Claude Lalet(21)
Antoine Pesque(35)
Edmond Lefevre(38)
Emile David(39)
(上段より、向かって左→右の柱への配列順 ※( )内は年齢)

戦後、フランスの約50都市で通りの名称が「ギィ・モケ」に改称されたり、公共施設などの名称に使われたりと、ギィを“若くしてフランスと自由のために命を捧げた悲劇の英雄”として称え、祭り上げていた。
近年、その見方も修正が為されてはいるようであるが…どうも、人の褌で戦勝国に名を連ねた国ほど戦時中の辛酸を美化する傾向にある…(苦笑)
劇中では、処刑当日の22日に釈放予定だったクロード・ラレだが、一転して処刑者として名前を呼ばれ、出迎えに来ていた妻と最期の10分間を惜しむ。
実際は、妻のウジェニー・ラレによると…内務省からの“23日釈放”の通知が届き、ショワゼル収容所に行くと、夫が前日に銃殺されたことを知ったとのことである。
しかも、最初のリストにクロードの名前はなかったようで、処刑場所となる砂利採取場に向かいかけた部隊を停止して“学生(クロード)”を追加するように命じられたようである。

銃殺刑が執行された砂利採取場(当時)跡は追悼碑などが建てられた広場となっていて、記念式典なども催されている。(※MAP)
●Nantes (16名)
Maurice Allano(21)
Paul BirienIRIEN(50)
Joseph Blot(50)
Auguste Blouin(57)
René Carrel(20)
Frédéric Creuse(20)
Michel Dabat(20)
Alexandre Fourny(43)
Joseph Gil(19)
Jean-Pierre Glou(19)
Jean Grolleau(21)
Robert Grassineau(37)
Léon Jost(57)
Léon Ignasiac(22)
André Le Moal(17)
Jean Platiau(20)
●Paris / Mont-Valérien (5名)
Robert Caldecott(35)
Marcel Hevin(35)
Philippe Labrousse(32)
André Ribourdouille(---)
Victor Saunier(---)
(※( )内は年齢)
ナントでの暗殺事件に埋もれがちではあるが、実はさらに、その翌日にもボルドーで暗殺事件が起きている。
(同年)10月21日(火曜日)の午後7時30分頃…
フランス軍事司令部の下部組織であるボルドーの第529地域軍政司令部人事部長のハンス・ゴットフリート・ライマース戦争管理評議員(Kv.Rat≒少佐相当)と同僚のコールマン(同役職)が事務所を出て帰宅途中…自転車に乗ったピエール・ルビエールとスペイン共産党構成員らに背後から発砲(2発)され、1発がライマースの心臓を貫通し、即死した。(享年39歳)

襲撃現場となったジョルジュ・サンク通りとパテ通りの角。
この暗殺に対する報復として、シュテュルプナーゲルは50名の人質の処刑を命じ、10月26日までに犯人が逮捕されなかった場合は追加の50名の処刑を通告した。
そして翌日の10月24日、ボルドーから25㎞程のところにあるスジェ収容所で50名の銃殺刑が執行された。
相次ぐ暗殺事件に伴う報復処刑に対する国民感情に鑑み、シュテュルプナーゲルは両事件に対する追加の処刑は断念すべきと判断し、行われなかった。
ルビエールは、同年12月15日に逮捕され、翌1942年1月10日にドイツ当局に引き渡され、収監された。
同年8月24日から9月9日まで、パリのホテル・コンチネンタルで開廷された簡易裁判において死刑判決を受け、同年10月5日にバラード射撃場(パリ15区)にて銃殺。(享年33歳)

その後も、事件が起きる度に報復措置としての処刑をOKWから求められ、辟易として、精神的にも限界に来ていたシュテュルプナーゲルは神経衰弱の症状も見られるようになっていた。
1942年2月13日付で司令官を辞任し、そのまま待命指揮官(Führerreserve)に編入。
同年8月31日付をもってドイツ国防軍からも除隊した。
終戦後の1945年8月2日に英国軍に逮捕。
1946年12月25日に仏国側に引き渡され戦争責任の罪で収監。
1948年2月6日、シェルシュ=ミディ刑務所(パリ)にて自殺。(享年69歳)

ハンス・シュパイデル陸軍中将は、パリ占領後の1940年6月にパリ軍事司令部の参謀長に任官し、フランス軍事司令部の設立とともに、そのままシュテュルプナーゲルのもとで参謀長として任官。(1941年2月1日付で陸軍参謀大佐に昇進)
シュテュルプナーゲルの辞任後、東部戦線への配属を志願して仏国を離れ、第8軍の参謀長に任官。
1944年2月のコルスン(チェルカッシー)包囲戦における友軍脱出作戦の戦功により、1944年4月1日付で騎士鉄十字章を受章。
同年同月、西部戦線に戻り、ロンメルのもとでB軍集団の参謀長に任官。
反ヒトラーのクーデター計画に参加しており、ロンメル負傷後は後任のヴァルター・モーデルに極めて”政治的”な話を持ち掛けたが、両人とも反応は芳しいものではなかった。
ヒトラー暗殺未遂事件後、逮捕されたシュパイデルだが、ゼップ・ディートリヒの働きかけなどにより無罪となり、軍人資格の剥奪もなかった。
一方、ロンメルには厳しい裁定が下されることとなり、服毒自殺を強要されている。
戦後は、西ドイツ軍、NATO軍(北大西洋条約機構)の発展に寄与。
1984年11月28日にバート・ホネフで亡くなっている。(享年87歳)
因みに、シュテュルプナーゲルの辞任の後、1942年2月20日付でその後任となったのが従弟のカール=ハインリヒ・フォン・シュテュルプナーゲル陸軍歩兵科大将である。
カール=ハインリヒもクーデター計画に参加しており、暗殺未遂事件後に露見するとベルリンに出頭を命じられた。
だがベルダンまで来たところで、ムーズ川の辺で拳銃自殺を図っている。
失明はしたが死ぬことは出来ず、収容先のべルダン野戦病院で逮捕、ベルリンに連行された後、厳しい尋問を受けることとなる。
その最中、せん妄状態にはあったものの、“ロンメル”の名前が繰り返し出たことで、ロンメルの事件への関与が浮上したと言われている。
1944年8月30日、人民法廷で死刑判決を宣告…同日、プレツェンゼー監獄において絞首刑となった。(享年58歳)

エルンスト・ユンガーは、武人と文人の両面を持つ稀有な人物といえる。
先の大戦では、西部戦線における全ての主要な戦いの最前線に参加し、1918年9月18日付で最高位(当時)の名誉勲章であるプール・ル・メリット勲章も受章している。
(WWI)戦後、ヴァイマール共和国陸軍に残り…その頃から執筆活動を始めている。
国軍内では、その白兵戦指揮の能力が高く評価され、次代の歩兵戦術に関する草案作成にも加わわる程であったが、1923年に国軍を退官し、生物学と哲学を学ぶためミュンヘン大学に入学。
そのまま国軍に留まっていれば、国防軍において将官クラスにまで昇進していてもおかしくはなかったであろう。
その後、時代の潮流がキナ臭くなってくるなか、思想的な考えにも関心を持つ。
1939年刊の著書『Auf den Marmorklippen(大理石の断崖の上で)』にもみられるように、特に台頭するナチズムに対しては一線を画していた。
そのため執筆活動は禁止された。
第二次世界大戦の勃発により、国防軍に召集され、前線勤務後、陸軍大尉に昇進。
その仏語能力と文章力を買われ、友人であったシュパイデルの計らいで1941年からフランス軍事司令部において主に書簡検閲を担当している。
ユンガーもまた、反ヒトラーのクーデター計画に参加していたが奇跡的に逮捕はされなかった。
但し、国防軍は解雇され、ハノーファー近郊のキルヒホルストで終戦を向かえている。
戦後も執筆活動、昆虫学の研究などを精力的に熟し、1998年2月17日にリートリンゲンにて、その長い人生に幕を下ろした。(享年102歳)

戦後に顔を合わせたシュパイデルとユンガー
シュレンドルフは、代表作『ブリキの太鼓(原題:Die Blechtrommel)』(1979年)をはじめ、『Der Unhold(邦題:魔王)』(1996年)、『 Der neunte Tag(邦題:9日目)』(2004年)や…
今回紹介する、『 シャトーブリアンからの手紙(独題:Das Meer am Morgen)』(2011年)、『パリよ永遠に(原題:Diplomatie)』(2014年)など、ナチス・ドイツ期を題材とした映画に力を入れているように思う。
ドイツに生まれ、17歳の時に一家でフランスに移住、パリで学び…その後、映画の道に進んだシュレンドルフは、ドイツ人の血と…フランス人としての目をもって…特に、“パリ陥落”から“パリ解放”までの、フランスにおける独仏の人間模様を描くことには人一倍の思い入れをもって向き合っているのだと思う。
70歳を過ぎてからメガホンを握ったこの2作品には、シュレンドルフの…残しておきたい、伝えておきたい想いが込められているのだろう。
『パリよ永遠に(原題:Diplomatie)』

日本版の公式タイトル…“遠”の字の旁のデザインが、アドラーに卐と、なかなかに凝っている。
原作は、シリル・ゲリーによる同名の戯曲『Diplomatie(≒外交』(2011年)。
戯曲ということで、これまでに舞台上演なども数多くされている。

劇中で主演を務めた二人…スウェーデン総領事ラウル・ノルドリンク役のアンドレ・デュソリエとディートリヒ・フォン・コルティッツ将軍役のニエル・アレストリュプは、舞台上でも同名役を演じていただけあって、映画でも息の合った名演ぶりを見せている。
元々が舞台のための脚本ということで、1944年8月25日の未明から“パリ解放”までの出来事が…例えるならば、三谷幸喜の脚本ドラマよろしく…パリ防衛司令部が置かれているホテル「ル・ムーリス」のコルティッツの(ほぼ)スイート・ルーム(執務室)を中心に展開していく。
コルティッツを扱った話といえば、以前の記事でも紹介している映画『パリは燃えているか?(原題:Paris brûle-t-il?』が、“8月25日”を俯瞰的に描いているのに対し、この話は、ホテルの一室で繰り広げられるノルドリンクとコルティッツの“駆け引き(外交)”…人間模様を、主体的に…テンポよく描いている。

実際には、8月22日の段階で、コルティッツの方からノルドリンクを引見している。
これまでヒトラーに忠臣的な将軍だったコルティッツでも、パリの破壊には懐疑的であり、これをなんとか止めさせたいとは思うものの…
命令を実行しなければ、単に自身が解任されるだけのことであり…
しかも、家族連帯責任懲罰法(Sippenhaft)により、家族にも罪が及ぶこととなる。
そこで、米仏軍の即時介入という絶対的な既成事実によってパリ破壊を回避させるという提案を持ち掛け、ノルドリンクに米軍司令官に交渉の仲介を要請し、ノルドリンクもこれを了承した。
ただ、これは反逆行為に当たる危険な交渉であり、水面下で行われたことは言うまでもない。
従って、表向きは粛々と破壊準備を進めつつも、破壊指令は先延ばしして、米仏軍の突入までの時間稼ぎをしている。
コルティッツは通行許可証を発行、ノルドリンクの実弟ラルフ・ノルドリンクらが急ぎ、この要請を米軍側に伝えに向かった。
第12軍集団司令部のオマール・ブラッドレー大将にも伝えられ、フィリップ・ルクレール少将の率いる仏第2機甲師団が北進(主力)・南進の二部隊に分かれ、パリへ向け進軍を開始した。
(※このあたりに関しては先の記事「Brennt Paris?」もご参照頂ければと思う)
ただ、このコルテッツの要請によってパリ進軍が開始されたというわけではなく、あくまでも戦局のなかでの一助としての意味合いである。
以前にも記したが、この要請が、戦後を見据えた担保だったのか否かは別にして、米仏(殊に米)側にしても、美談とすることにより、パリ解放をよりセンセーショナルに演出するために利用したと言えなくもない。

劇中、SD(SS保安情報部)のSS准将とSS少尉が司令部を訪れるシーンがあるが…
実際も、ルーブル美術館の収蔵品の何点かをベルリンに持ち帰るようにとヒムラーから命令を受けた…おそらくSD(3c部)の部員4名が、8月23日に来訪したようである。
映画では、ノルドリンクの一枚上の“駆け引き”に、次第に術中に嵌っていく様子が…
こうした映画にありがちな、愚かで悪列な“ナチ”という体で描かれてはおらず、威厳を保たせたうえでの心の葛藤として描いている点がよい。
また、英語圏の映画だと、全て英語で語られそうだが…
独語の話せなかったノルドリンクとのやり取りは仏語…ドイツ人同士のやり取りは独語と、両国語を使い分けているところもよい。
いずれにしても、多少の設定は変わってはいるが、映画としてはなかなか面白く…83分という上映時間も、『パリは燃えているか?』に比して90分も短く…当方的には、このくらいが間延びせず見られて丁度良い。
『シャトーブリアンからの手紙(原題:La Mer à l'aube)』

ドイツ占領下のフランスで起きた青年共産党員らによる独将校の襲撃暗殺事件。
実行犯は逃亡…その報復として、計48名の人質が銃殺刑に処された。
シャトーブリアンのショワゼル収容所から選ばれた人質のなかには最年少(17歳)のギィ・モケもいた。
この映画は、そのギィを中心に、事件前日から銃殺に至るまでの4日間を描いている。

上映時間(91分)の1/6程のパリのドイツ軍司令部でのシーンでは、こうした題材を映画にする際、“ヒール”(悪役、敵役)として対比されそうなところを、シュレンドルフは当作品でも良識あるドイツ軍人として描いていてくれている。
現に、報復処刑に関して…司令官として処刑を許可したシュテュルプナーゲルは“悪玉”として、ナチスの象徴とでもするかのような表記も多いが、実際のシュテュルプナーゲルは反ナチズム的な考えを持っており、この後もヒトラー…ベルリンと度々衝突が生じ、翌年には辞任している。

オットー・フォン・シュテュルプナーゲル将軍役を演じたアンドレ・ユング。
軍装姿も様になっており、将官然としていてなかなかに良い!
オットーというよりは、どちらかというと従弟のカール=ハインリヒ・フォン・シュテュルプナーゲルの方が雰囲気は似ている。

エルンスト・ユンガー役を演じたウルリッヒ・マテスは、その特徴のあるお顔立ちからお気づきの方もあると思うが、『DER UNTERGANG/ヒトラー ~最期の12日間~』でゲッベルスを演じている。
シュレンドルフ作品の『Der neunte Tag』(2004年)にも出演している。

ハンス・シュパイデル大佐役を演じたハラルド・シュロット。
眼鏡をかけた感じなど、シュパイデルの雰囲気が出ている。
映画デビューは、シュレンドルフ作品の『Die Stille nach dem Schuß (邦題:リタの伝説)』(2000年)ということである。

駐仏ドイツ大使オットー・アベッツ役を演じたトマシュ・アーノルド。
シュレンドルフ作品には、シュロットと共に出演した『リタの伝説』、また『パリよ永遠に』ではパリ爆破の現場責任者ヘッガー中尉役を演じている。
占領下の5区(サン=ジェルマン=アン=レー、アンジェ、ディジョン、ボルドー、パリ)を統括するため1940年10月16日付でフランス軍事司令部が設立、司令本部はクレベール通りに面したホテル・マジェスティックに置かれた。
(北フランス~パ=ド=カレー県に関しては、ブリュッセルのベルギー=北フランス軍事司令部が管轄。)
1940年10月25日付で、その初代司令官にオットー・フォン・シュテュルプナーゲル陸軍中将(当時)が任官。(同年12月1日付で陸軍歩兵科大将に昇進)

※襟元に佩用しているのは聖ヨハネ騎士団名誉十字勲章…プール・ル・メリット勲章ではない。
因みに、実兄のヴァイマル共和国軍エトヴィン・フォン・シュテュルプナーゲル退役陸軍大将は、1918年8月4日付でプール・ル・メリット勲章を受章しているが、1933年3月6日に死去。(享年56歳)
任官中、シュテュルプナーゲルは、フランスの産業資源を適宜に運用できれば、延いては戦争活動を支援することにも繋がると確信し、産業、流通、文化面、安全保障上の問題など、独仏両国間の良好な関係を維持することは不可欠であり、そのために出来得る限りの役割を果たそうとしたようであるが、次第にベルリンとの温度差は拡がりをみせ…
そうした最中に襲撃暗殺事件など起こったことで、圧政による統治という機運の高まりは必至となっていく。

劇中、本国側の意向を伝えに来た駐仏ドイツ大使のオットー・アベッツ(SS大佐の階級を持つ)は、独仏の外交問題(社会、芸術、産業、教育、そして財産)を監督・管理する立場ではあったものの、フランスにおける如何なる権限に対しても、実質的にはほぼ無力であり、また、独仏間に平和条約が締結されていなかったため、“大使”としても認定されておらず、結局は据え者に過ぎなかった。
1941年6月22日のソ連侵攻後、ボリシェヴィキ本部からの指示を受け、フランス共産党(PCF=Parti Communiste Français)による仏国内におけるレジスタンス運動が活発化し、地下組織による武装闘争へと発展していく。
8月21日、パリのバルベス・ロシュシュアール駅でのアルフォンス・モーザ海軍管理部補佐官の射殺事件に端を発し、9月3日にエルンスト・ホフマン陸軍伍長、同15日にはヴィルヘルム・シェーベンス陸軍大尉が射殺されるなど、PCFのメンバーらによる襲撃事件がフランス各地で散発。
ドイツ側は、これに対し共産主義者の処刑(各6名、10名、12名)というかたちで報復した。

ナントでは、マルセル・ブルダリアス、ジルベール・ブリュストリン、スパルタコ・ギースコら3名のPCF構成員たちにより、将校クラスに対する襲撃・暗殺が計画された。
そして、この映画のストーリーの発端ともなる1941年10月20日(月曜日)午前8時少し前…
ロワール=アトランティック県地域軍政司令部指揮官カール・フリードリヒ・ホッツ陸軍中佐は、副官のヴィルヘルム・ジーガー陸軍大尉を伴い、宿舎のホテルを出たあと、ロワ・アルベール通りからサン=ピエール広場前の司令部に向かっていた。
ブリュストリンとギーコスは二人の後をつけ、サン=ピエール広場通りに出る直前に…
ブリュストリンはホッツに向け2発…これにより、ホッツは数分後に絶命。(享年64歳)
しかしギースコの拳銃はジャミングを起こし、ジーガーは命拾いをしている。
(※PCFは1950年まで事件への関与を否定。)
襲撃直後は警戒が厳しく、3人は市内に潜伏した後、街(北)外れのアジトに移り、レンヌ道路の岐点で各々に分かれた。
ジーガーの証言と、警察への通報により、2日後にはブリュストリンとブルダリアスが特定。
見張り役のブルダリアスは、その後パリに戻り、いくつかのテロ行動に参加したが、1942年1月5日に逮捕された。
ギースコもパリに戻り、地下組織と連絡を取り、スペイン共産党のメンバーに協力したが、同年2月5日に逮捕された。
(当初、ギースコは襲撃犯とは特定されていなかったが、取り調べ中の拷問により自白)
同年4月14日、パリの“Maison de la Chimie(≒化学会館)”で開廷された軍事裁判により、ブルダリアス(享年18歳)、ギースコ(享年30歳)他の25名に対し死刑が宣告され、同年4月17日にモン・バレリアンで銃殺。
ブリュストリンもパリに戻ったが、直後にパリで行動を共にするはずだったメンバー4人が逮捕されるなど、捜査の手が迫っていた。
また、同年11月19日刊の新聞に顔写真が公開され、市中の掲示板にも手配写真が貼られるなど、仏国内での潜伏は厳しいものとなったため、英国への逃亡を計画。
なんとかスペイン国境を越え、偽の身元で逮捕(ミランダ・デ・エブロ強制収容所に収監)、身柄は英国に引き渡された後、英国に移送されている。
1942年11月に自由フランス軍(FFL=Forces Françaises Libres)に参加、パリ解放後の1944年後半にフランスに戻っている。
2009年2月25日、フランスのエーヌブレーヌで死去。(享年89歳)

(左)手前の革コート、制帽の将校がカール・ホッツ…隣を歩くのがヴィルヘルム・ジーガーかは詳細不明。
(右)カール・ホッツの墓標。※現在は、ポルニシェの軍人墓地(2区21番通路655番)に移転。
因みに、劇中でも語られているが、ホッツは土木建築技師でもあったようで、ナントに赴任後、地域のインフラ整備などにも力を入れ、地元民からの評価も悪くはなかったとのことである。
友人の話によれば、謙虚な人柄の好人物だったようである。

※射殺現場
これに激怒したヒトラーは、当初、150名の処刑をシュテュルプナーゲルに命じた。
シュテュルプナーゲルは、150名という数字は一度に処刑する人数としてはあまりに多く、そのような報復処刑に対する仏国民の反発が、今後の協力関係を危うくすることを懸念し、先ずは翌21日に50名を銃殺刑に処し、翌々日23日までに犯人が逮捕が為されなかった場合には、さらに50名を銃殺するという段階的な案を国防軍最高司令部(OKW)に提示し、了承を取り付けた。
10月21日、この事件に関する報復措置の通告と犯人逮捕に繋がる情報提供を求めるビラが市内に掲示された。

【独語】
BEKANNTMACHUNG
Feige Verbrecher, die im Solde Englands und Moskaus stehen, haben am Morgen des 20. Oktober 1941 den Feldkommandanten in Nantes hinterruecks erschossen.
Die Taeter sind bisher nicht gefasst.
Zur Suehne fuer dieses Verbrechen habe ich zunaechst die Erschiessung von 50 Geiseln angeordnet.
Falls die Taeter nicht bis zum Ablauf des 23. Oktober 1941 ergriffen sind, werden im Hinblick auf die Sehwere der Tat weitere 50 Geiseln erschossen werden.
Fuer diejenigen Landeseinwohner, die zur Ermittlung der Taeter beitragen, setze ich eine Belohnung im Gesamtbetrag von 15 MILLIONEN FRANKEN aus.
Zweckdienliche Mitteilungen, die auf Wunsch vertraulich behandelt werden, nimmt jede deutsche oder franzoesische Polizeidienststelle entgegen.
Paris, den 21 Oktober 1941,
Der Militärbefehlshaber in Frankreich von STÜLPNAGEL General der Infanterie
【仏語】
AVIS
De lâches criminels, à la solde de l'Angleterre et de Moscou, ont tué, à coups de feu tirés dans le dos, le Feldkommandant de Nantes (Loire-Inf.), au matin du 20 Octobre 1941.
Jusqu'ici les assassins n'ont pas été arrêtés.
J'ai t arrtés.
En expiation de ce crime, j'ai ordonné préalablement de faire fusiller 50 otages.
Etant donné la gravité du crime, 50 autres otages seront fusillés au où les coupables ne seraient pas arrêtés d'ici le 23 Octobre 1941 à minuit.
j'offre une récompense d'une somme total de 15 MILLIONS DE FRANCS aux habitants du pays qui contribueraient à la découverte des coupables.
Des informations utiles pourront être deposées à chaque service de police allemande ou français.
Sar demande, ces informations seront traitées onfidentiellement.
Paris, le 21 Octobre 1941,
Der Militärbefehlshaber in Frankreich von STÜLPNAGEL General der Infanterie
(和訳)
通告
1941年10月20日の朝、イギリスとモスクワの手先である臆病な犯罪者がナント(ロワール=アトランティック県)で地域司令官を射殺した。
これまでのところ犯人はまだ捕まっていない。
この罪に対する償いとして、本官は先ず50名の人質の銃殺を命じた。
犯罪の重大性を考慮して、犯人が1941年10月23日深夜までに逮捕されない場合は、更に50名の人質が銃殺されるであろう。
本官は、犯人逮捕に貢献した国民に対して、合計1500万フランの報酬を提供する。
有益な情報はドイツまたはフランスの警察署に通報し、その通報は匿名でも構わない。
パリ、1941年10月21日
フランス軍事司令官 フォン・シュテュルプナーゲル陸軍歩兵科大将
ヴィシー政府の内務大臣ピエール・ピュシューは、所轄の機関に対し人質リストの作成を指示、これにより共産主義者などの政治犯および労働組合活動家などの収監者からその多くが選別されることとなる。
そして10月22日(水曜日)、シャトーブリアンで27名、ナントで16名、モン・ヴァレリアン刑務所(パリ)で5名の計48名の人質の銃殺刑が執行された。
シャトーブリアンのショワゼル収容所から3㎞程にある砂利採取場に連行された27人は、9人づつ3組に分けられた。
刑の執行に際し、全員が目隠しされることを拒否した。
●Châteaubriant / camp de Choisel (27名)
(1組目:午後3時50分執行)
Charles Michels(38 )
Jean Poulmarc'h(31)
Jean Pierre Timbaud(31)
Jules Vercruysse(48)
Désiré Granet(37)
Maurice Gardette(49)
Jean Grandel(50)
Jules Auffret(39)
Pierre Gueguen(45)
(2組目:午後4時執行)
Marc Bourhis(34)
Raymond Laforge(43)
Maximilien Bastard(21)
Julien Le Panse(34)
Guy Môquet(17)
Henri Pourchasse(34)
Victor Renelle(53)
Maurice Tenine(34)
Henri Barthelemy(58)
(3組目:午後4時10分執行)
Raymond Tellier(44)
Titus Bartoli(58)
Eugene Kerivel(59)
Huynh Khuong An(29)
Charles Delavacquerie(19)
Claude Lalet(21)
Antoine Pesque(35)
Edmond Lefevre(38)
Emile David(39)
(上段より、向かって左→右の柱への配列順 ※( )内は年齢)

戦後、フランスの約50都市で通りの名称が「ギィ・モケ」に改称されたり、公共施設などの名称に使われたりと、ギィを“若くしてフランスと自由のために命を捧げた悲劇の英雄”として称え、祭り上げていた。
近年、その見方も修正が為されてはいるようであるが…どうも、人の褌で戦勝国に名を連ねた国ほど戦時中の辛酸を美化する傾向にある…(苦笑)
劇中では、処刑当日の22日に釈放予定だったクロード・ラレだが、一転して処刑者として名前を呼ばれ、出迎えに来ていた妻と最期の10分間を惜しむ。
実際は、妻のウジェニー・ラレによると…内務省からの“23日釈放”の通知が届き、ショワゼル収容所に行くと、夫が前日に銃殺されたことを知ったとのことである。
しかも、最初のリストにクロードの名前はなかったようで、処刑場所となる砂利採取場に向かいかけた部隊を停止して“学生(クロード)”を追加するように命じられたようである。

銃殺刑が執行された砂利採取場(当時)跡は追悼碑などが建てられた広場となっていて、記念式典なども催されている。(※MAP)
●Nantes (16名)
Maurice Allano(21)
Paul BirienIRIEN(50)
Joseph Blot(50)
Auguste Blouin(57)
René Carrel(20)
Frédéric Creuse(20)
Michel Dabat(20)
Alexandre Fourny(43)
Joseph Gil(19)
Jean-Pierre Glou(19)
Jean Grolleau(21)
Robert Grassineau(37)
Léon Jost(57)
Léon Ignasiac(22)
André Le Moal(17)
Jean Platiau(20)
●Paris / Mont-Valérien (5名)
Robert Caldecott(35)
Marcel Hevin(35)
Philippe Labrousse(32)
André Ribourdouille(---)
Victor Saunier(---)
(※( )内は年齢)
ナントでの暗殺事件に埋もれがちではあるが、実はさらに、その翌日にもボルドーで暗殺事件が起きている。
(同年)10月21日(火曜日)の午後7時30分頃…
フランス軍事司令部の下部組織であるボルドーの第529地域軍政司令部人事部長のハンス・ゴットフリート・ライマース戦争管理評議員(Kv.Rat≒少佐相当)と同僚のコールマン(同役職)が事務所を出て帰宅途中…自転車に乗ったピエール・ルビエールとスペイン共産党構成員らに背後から発砲(2発)され、1発がライマースの心臓を貫通し、即死した。(享年39歳)

襲撃現場となったジョルジュ・サンク通りとパテ通りの角。
この暗殺に対する報復として、シュテュルプナーゲルは50名の人質の処刑を命じ、10月26日までに犯人が逮捕されなかった場合は追加の50名の処刑を通告した。
そして翌日の10月24日、ボルドーから25㎞程のところにあるスジェ収容所で50名の銃殺刑が執行された。
相次ぐ暗殺事件に伴う報復処刑に対する国民感情に鑑み、シュテュルプナーゲルは両事件に対する追加の処刑は断念すべきと判断し、行われなかった。
ルビエールは、同年12月15日に逮捕され、翌1942年1月10日にドイツ当局に引き渡され、収監された。
同年8月24日から9月9日まで、パリのホテル・コンチネンタルで開廷された簡易裁判において死刑判決を受け、同年10月5日にバラード射撃場(パリ15区)にて銃殺。(享年33歳)

その後も、事件が起きる度に報復措置としての処刑をOKWから求められ、辟易として、精神的にも限界に来ていたシュテュルプナーゲルは神経衰弱の症状も見られるようになっていた。
1942年2月13日付で司令官を辞任し、そのまま待命指揮官(Führerreserve)に編入。
同年8月31日付をもってドイツ国防軍からも除隊した。
終戦後の1945年8月2日に英国軍に逮捕。
1946年12月25日に仏国側に引き渡され戦争責任の罪で収監。
1948年2月6日、シェルシュ=ミディ刑務所(パリ)にて自殺。(享年69歳)

ハンス・シュパイデル陸軍中将は、パリ占領後の1940年6月にパリ軍事司令部の参謀長に任官し、フランス軍事司令部の設立とともに、そのままシュテュルプナーゲルのもとで参謀長として任官。(1941年2月1日付で陸軍参謀大佐に昇進)
シュテュルプナーゲルの辞任後、東部戦線への配属を志願して仏国を離れ、第8軍の参謀長に任官。
1944年2月のコルスン(チェルカッシー)包囲戦における友軍脱出作戦の戦功により、1944年4月1日付で騎士鉄十字章を受章。
同年同月、西部戦線に戻り、ロンメルのもとでB軍集団の参謀長に任官。
反ヒトラーのクーデター計画に参加しており、ロンメル負傷後は後任のヴァルター・モーデルに極めて”政治的”な話を持ち掛けたが、両人とも反応は芳しいものではなかった。
ヒトラー暗殺未遂事件後、逮捕されたシュパイデルだが、ゼップ・ディートリヒの働きかけなどにより無罪となり、軍人資格の剥奪もなかった。
一方、ロンメルには厳しい裁定が下されることとなり、服毒自殺を強要されている。
戦後は、西ドイツ軍、NATO軍(北大西洋条約機構)の発展に寄与。
1984年11月28日にバート・ホネフで亡くなっている。(享年87歳)
因みに、シュテュルプナーゲルの辞任の後、1942年2月20日付でその後任となったのが従弟のカール=ハインリヒ・フォン・シュテュルプナーゲル陸軍歩兵科大将である。
カール=ハインリヒもクーデター計画に参加しており、暗殺未遂事件後に露見するとベルリンに出頭を命じられた。
だがベルダンまで来たところで、ムーズ川の辺で拳銃自殺を図っている。
失明はしたが死ぬことは出来ず、収容先のべルダン野戦病院で逮捕、ベルリンに連行された後、厳しい尋問を受けることとなる。
その最中、せん妄状態にはあったものの、“ロンメル”の名前が繰り返し出たことで、ロンメルの事件への関与が浮上したと言われている。
1944年8月30日、人民法廷で死刑判決を宣告…同日、プレツェンゼー監獄において絞首刑となった。(享年58歳)

エルンスト・ユンガーは、武人と文人の両面を持つ稀有な人物といえる。
先の大戦では、西部戦線における全ての主要な戦いの最前線に参加し、1918年9月18日付で最高位(当時)の名誉勲章であるプール・ル・メリット勲章も受章している。
(WWI)戦後、ヴァイマール共和国陸軍に残り…その頃から執筆活動を始めている。
国軍内では、その白兵戦指揮の能力が高く評価され、次代の歩兵戦術に関する草案作成にも加わわる程であったが、1923年に国軍を退官し、生物学と哲学を学ぶためミュンヘン大学に入学。
そのまま国軍に留まっていれば、国防軍において将官クラスにまで昇進していてもおかしくはなかったであろう。
その後、時代の潮流がキナ臭くなってくるなか、思想的な考えにも関心を持つ。
1939年刊の著書『Auf den Marmorklippen(大理石の断崖の上で)』にもみられるように、特に台頭するナチズムに対しては一線を画していた。
そのため執筆活動は禁止された。
第二次世界大戦の勃発により、国防軍に召集され、前線勤務後、陸軍大尉に昇進。
その仏語能力と文章力を買われ、友人であったシュパイデルの計らいで1941年からフランス軍事司令部において主に書簡検閲を担当している。
ユンガーもまた、反ヒトラーのクーデター計画に参加していたが奇跡的に逮捕はされなかった。
但し、国防軍は解雇され、ハノーファー近郊のキルヒホルストで終戦を向かえている。
戦後も執筆活動、昆虫学の研究などを精力的に熟し、1998年2月17日にリートリンゲンにて、その長い人生に幕を下ろした。(享年102歳)

戦後に顔を合わせたシュパイデルとユンガー

カテゴリ : Film
テーマ : 戦争映画(第二次世界大戦)
ジャンル : 映画