Festungskommandant

↑の連続写真は米陸軍第83歩兵師団に投降した際のアンドレアス・アウロック陸軍大佐の写真である。
モノクルをはめ、タバコを煙らせ、襟元には騎士鉄十字章を佩用する、その姿はまさにドイツ軍高級将校といった風格で…この写真を単に見せられたら、どちらが捕虜なのかわからない。
因みに、LWの鷲章のままのタンぼかし迷彩図柄の降下猟兵用スモックを着用しているショットというのも写真コレクターにとっては堪らないところでもある。
1930年代に始まったドイツ国防軍の国境線要塞化は、1940年6月のフランス降伏後には対英防衛体制を強化すべく英仏海峡の沿岸線のみならず、ノルウェーの極北地方からフランコ政権下のスペイン国境にまで至る大西洋防壁を構築し、更にはソ連軍の進撃を食い止めるべく新たな東方防壁、南方から迫る連合軍に対しては特別防御陣地をバルカン半島、イタリア本土各地に構築するなど要塞化した地域は歴史上、類を見ないほど大規模なものとなった。


フランス北西部に位置するブルタ-ニュ地方は、英仏海峡と大西洋に突き出た半島で、その北側付根に位置する港町のサン・マロ(St.Malo)のサン・マロ城、サン・ヴァンサン大聖堂を中心とした旧市街は12世紀に築かれた城壁に周囲を囲まれ た城砦都市である。

このサン・マロも城砦が補完され要塞化がなされ、それにあたり、固定陣地…ドイツ軍のあいだでは“Tobruk”と呼ばれるトブルク陣地構築のための“Regelbau(建造規定)”に基いて多数のブンカー(バンカー)が構築されていた。
コンクリートで地下壁面や天井を固めた掩蔽壕は地下18メートルにもおよぶ施設も建造され、その地上部には砲塔陣地や“Schartenstand(=影の場所)”と呼ばれた機関銃陣地が設置され、地下の戦闘室間は地下通路で繋がっており、まさに堅固な要塞と化していた。


そして、この要塞および沿岸圏の防衛司令官として任官した人物こそが、↑の写真で紹介したアンドレアス・マリア・カール・フォン・アウロック陸軍大佐であり、先頁『Brennt Paris?』で紹介したコルティッツ大都市パリ圏防衛司令官とは逆に、後世に悪評を残してしまった人物でもある。
アウロックは、1893年3月23日 メクレンブルク=フォアポンメルン州のコッヘルスドルフに生まれ、クロイツベルク郡で育っている。
騎士領(私)領主であった両親の奨めで陸軍士官学校に入学し、1912年には陸軍少尉として第95チューリンゲン歩兵連隊・第6中隊に任官している。
第1次世界大戦が勃発すると、転属先の第3中隊はベルギーのナミュールの最前線で奮戦し その後、第4中隊の指揮を引継いだ彼の指揮能力、戦功に対し2級および1級鉄十字章(1914年版)が授与されている。
(※2級:1914年11月9日付、1級:1915年2月23日付)
更に陸軍中尉に昇進、連隊本部配属となり、1916年のヴェルダンの戦い、1917年の第三次イープル会戦(パッシェンデールの戦い)に従軍している。
戦後は1920年4月までハノーファーシュ・ミュンデン、ゲッティンゲン等の将校キャンプに収容されている。
1937年に新生国防軍の第87歩兵連隊・第Ⅲ大隊に予備役陸軍大尉として復官。
その翌年には陸軍少佐に昇進し、1939年3月から第212歩兵連隊・第Ⅱ大隊・大隊長に任官している。
1940年8月に陸軍中佐に昇進し、第226歩兵連隊の連隊長として東部戦線に赴き、1942年8月からスターリングラード攻防戦に従軍。
ソ連軍に包囲されるも何とか飛行機でスターリングラードから脱出した。
第226歩兵連隊は1943年3月25日付で第226擲弾兵連隊として再編成された。
そのまま指揮官を継続し…その後、クバン橋頭堡の戦い等に従軍、その時の功績に対し1943年11月6日付で騎士鉄十字章を授与され、同時に陸軍大佐に昇進、第79歩兵師団の師団長に任官している。
続いて陸軍総司令部待命指揮官となり、オランダ駐留ドイツ国防軍最高司令官フリードリッヒ・クリスチャンセン空軍大将の肝入りで1944年1月にD軍集団司令部に配属となり、2月15日付で要塞“サン・マロ”の司令官に任官した。
『パリは燃えているか?』の頁でも紹介したように、“パリ解放”は市民の蜂起によって為されたかのように後世には伝えられてはいるが、実際は戦後の勢力図を見据えてのフランス共和国臨時政府(ド・ゴール)側の意図的な操作によるところと、それを利用した連合国側の思惑によるところが大である。
少なくともパリに関する限り、世に言われる“レジスタンス神話”は、あくまでも“神話”の域を脱し得るものではなかった。
フランス国内においても、4年にわたりドイツの占領下に置かれていたが…その間、対独従属であったことは否定はしないが、実のところは占領国ドイツと政治、経済、治安維持など多岐にわたり積極的に関係を持とうとする動きも多く、ドイツ側もフランスに対しては他の占領・統治国とは違い、一定の理解、それなりの自由を容認しおり、後世に伝えられているような偏った歴史認識は誤りであるとも言える。
そうしたこともあり…1944年に入り、来たるべきX-Dayが確実に迫っていたものの、サン・マロのみならず…フランス国内各所はまだ比較的安定していたものと思われるが、D-Dayを堺に状況は一変する。
8月に入り、米陸軍の第4機甲師団はレンヌに…第6機甲師団はデイナンに達し…第8、第79および第83歩兵師団がそれに追従してサン・マロを目指し進撃していた。
しかし、第6機甲師団はディナンでルドルフ・バッヘラー陸軍大佐率いる第1049擲弾兵連隊によって側面をつかれ進撃を止められることとなった。
これによって、サン・マロのドイツ軍守備隊に24時間程の準備時間をもたらす結果となり、その功績によってバッヘラーには8月11日付で第550番目となる柏葉章が授与されている。
因みに、ベッヘラーの部隊は8月15日に米第83歩兵師団ロバート・C.マコン少将の申し出を受け、350名の部下と共に降伏している。
一方、サン・マロが既にほぼ米軍の手中に落ち、旧市街…“要塞“を包囲するカタチで上記の三歩兵師団は外環を狭めてきていた。

アウロック要塞司令官によって出された住民に対する市街からの退避を勧告したビラ
8月15日までには旧市街以外を全て失ったにもかかわらず、それでもでなお要塞部隊“サン・マロ”は徹底抗戦の構えを崩さず、堅固な要塞もまた何とか持ち堪えてはいたが…執拗な爆撃と砲撃についに1944年8月17日の午後、アオロックは降伏を決意し、605名の部下たちと共に降伏した。

因みに、この最後の抵“功”を認てか…はたまたヒトラーの“降伏防止”常套策のつもりだったのか…降伏前日の8月16日付で第551番目となる柏葉章が授与されている。

マコン少将に通訳を通して状況を説明するアウロック要塞司令官(残念ながら柏葉章は間に合わなかった…)
サン・マロの街は、この一連の猛爆を受けて街の8割方が壊滅し、城壁を残すのみとなるまで破壊された。

戦後、住民たちはその瓦礫のひとつひとつを積み上げて…街を元通りに復元したのだという。
日本であれば新しい街に作り替えるところであろうが…サン・マロに限らず、欧州の街の復元という考え方には驚かされる。

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