フリッツ・エスター陸軍参謀大佐の希有な装用例

このフリッツ・エスター陸軍参謀大佐のポートレートをご覧頂き、先ず目に付くのは襟元の見慣れぬ勲章であろうか…
これはルーマニア公国(当時)により1864年と1877年に制定されたルーマニア星勲章の1877年版…第2モデルとされるもので、軍人、民間人、そして外国人にも授与している。

ドイツと共同し枢軸国側として第二次世界大戦に参戦したルーマニア王国は、’41年~’44年にかけて戦功のあったドイツ軍人にもこの勲章を授与しており、エスターも1944年5月16日付でルーマニア星勲章の“優れた指揮官のための(第1)クラス”を授与されている。
外国から授与された勲章でもあり、騎士鉄十字章などのように常に襟元に佩用する類のものでもないことから、おそらくは授与直後か、何らかの特別な集まりなどの際に撮られたのではないかと思うのだが、枢軸国側の劣勢が続くなか、3か月後の8月に起こった政変により、独裁体制を敷いていたイオン・アントネスク元帥ら親ドイツ派が逮捕され、ルーマニアは連合国側に鞍替えをしているため、この僅かな期間に撮られたものであることが推測される。
他には、第二釦穴の東部戦線従軍記章のリボン…
左胸ポケットに、1級鉄十字章、戦傷章黒章、一般突撃章…
右胸ポケットのドイツ十字章金章などの佩用が見受けられる。
ただ、今回注目したいのは、ルーマニア星勲章でも、ドイツ十字章金章でも…言ってしまえば、さほど…というより、ほとんど無名に近いいち陸軍参謀大佐のエスターという人物でもない。
ご覧頂きたいのは襟元は襟元でも、その両襟に装用されている“襟章”である!
下の画像を拡大してご覧頂ければ、さらにお分かりかと思うが…

本来、陸軍将校の襟章は兵科に拘わらずシンメトリーなデザインの物が装用される。
エスターの場合は陸軍参謀大佐であるから、“参謀科”将校用の襟章を装用する。
拡大画像を見ると、左襟上の襟章には確かにこの“参謀科”将校用の襟章が装用されているのだが、右襟上の襟章はその“参謀科”将校用の特徴的なレリーフ模様とは明らかに異なった…つまり、通常の陸軍将校用…色のトーンから推測すると“歩兵科”の兵科色(Waffenfarbe)である「白(weiß)」あたりが装用されているように見える。

実際に組み合わせてみると、このような感じになる。
制帽のパイピングは、若干濃い色のトーンから、“参謀科”の兵科色である「深紅色(Karmesinrot)」の制帽と考えてよいのではないかとは思えるのだが…
当初、肩章に関しても…何となく右肩側の物の編み紐のレリーフがはっきりしていないことなどから、これも左右で違った物(まさか尉官用?)が装用されているのでは?とも思ったが、これに関しては、おそらくは写り込みの問題で…よもや肩章まで左右で異なった階級の肩章を装用するということも考えられないので、これは佐官用の肩章ということで問題はないものと思う。
ただ、その色のトーンから台布の色が「深紅色(Karmesinrot)」にしては若干トーンが明るく…まさかとは思うが、“歩兵科”の「白(weiß)」あたりで装用されていたりするのでは?との疑問も残るような写り方なのである。
エスターに関する分かっている限りの軍歴を以下に列挙する。
1934年10月1日付で(ヴァイマル共和国軍)第15歩兵連隊15/第8中隊指揮官に任官。
1935年3月1日付で陸軍大尉に昇進。
同年10月15日付で同連隊副官に任官。
1938年11月10日付で戦争アカデミーにて参謀養成課程を修学。
1939年7月1日付で19軍団の情報参謀(Ic)に任官。
同年9月29日付で2級鉄十字章を受章。
1940年6月20日付で1級鉄十字章を受章。
同年8月1日付で陸軍参謀少佐に昇進。
同年12月5日付で第2装甲軍の情報参謀(Ic)に任官。
1941年10月4日付で第18装甲師団の作戦主任参謀(Ia)に任官。
1942年4月1日付で陸軍参謀中佐に昇進。
同年5月13日付でドイツ十字章金章を受章。
同年7月9日付で第22装甲師団の作戦主任参謀(Ia)に任官。
1943年2月12日付で第8陸軍上級司令部(AOK(Armeeoberkommando)8)の作戦主任参謀(Ia)に任官。
同年3月1日付で陸軍参謀大佐に昇進。
1945年1月10日付で待命指揮官(Führerreserve)に編入。
1945年2月1日付で第11陸軍上級司令部(AOK11)の参謀長に任官。
エスターは、1904年10月15日に生まれ、1997年(月日は不明)に亡くなったとのことであるから、おそらくは92歳(もしくは93歳)…少なくとも天寿を全うされたものと思う。
このリザルトを見ると、“参謀科”に所属する以前…志を持ってヴァイマル共和国軍へ入営した当初は…歩兵連隊の中隊長だったという経歴からも“歩兵科”に配属されていたものと思われ、そのため参謀将校となった後も“歩兵魂”を忘れぬよう…「初心忘るべからず」という思いから…このような“歩兵科”と“参謀科”の二種の襟章を装用するという希有なことをしていたのでは?などと想像を逞しくしてしまうのは私だけだろうか?
真相は“本人のみぞ知る”というところではあるが…真相や如何に?

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カテゴリ : 3R
テーマ : 第二次世界大戦【ドイツ】
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