騎士のリボン

戦場(feld)においてはジャラジャラと章飾を佩用するわけにもいかないので、各章飾ごとの “綬(リボン)”部分のみに代えて、留め金(spange)付の細長い台座(金属製など)に並列して佩用したのが“略綬”…英語圏でいえば“Ribbon Bar”…独語でいえば “Feldspange”となる。(Bandspangeとして表記されることもある)

1939年6月4日に催された復員(退役)軍人のための式典に参加した際のヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ陸軍上級大将(当時)。
こうした式典などの礼装時には、左胸に勲章や記章ごと“吊綬(Ordenschnalle)”としてジャラジャラと佩用されることもあるが、通常はリボンのみを“略綬”として同位置に佩用する。
勿論、ロックピンを通すための糸掛かりを設けていても略綬を佩用しない者もいる。
因みに、Orden(勲章)+schnalle(留め金)は直訳すれば“勲章留金”となるのだが、同様の大日本帝国軍時代の物が“勲章吊り”とされているようなので、ココでは“略綬”に対し“吊綬”と(勝手に)呼称する。
ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ/九連吊綬(※左端から)
二級鉄十字章(1914年章)
プロイセン王国ホーエンツォレルン家勲章(金王冠剣付)
ヴュルテンベルク王国フリードリヒ剣付(一級)騎士十字章
ザクセン=マイニンゲン公国1914/15年戦功十字章(銅章)
前線戦士名誉十字章(剣付)※俗称“ヒンデンブルク十字章”
(国防軍)勤続章25年章
同12年章
防空名誉章(一等)
1938年3月13日記念メダル※俗称“オーストリア併合記章”

ブラウヒッチュの九連吊綬を略綬仕様にした模式図
第二次世界大戦終了までのドイツでは、勲章や記章は(通例)幅30㎜(前後)のリボンとともに授与されているが、略綬として佩用するためのリボンにはバリエーションが設けられていた。
元々のリボン幅のままの(横幅×縦幅)30㎜×10㎜、30㎜×17㎜の台座もあるが、この幅だと多連した場合は少々大仰過ぎることもあり、横幅を縮小した略綬用リボンが用意されている。
25㎜×17㎜という若干縮小されたタイプ(釦穴に通すことを想定した幅)もあるが、これも多連向きではないこともあり、当時のドイツでは横幅15㎜のリボンが一般的である。
最も一般的な15㎜×17㎜、多連や多段を想定し、また胸元をさり気なく誇示したい者のため(?)に15㎜×11㎜も用意されていた。
因みに、ドイツ以外では平面タイプが一般的なようだが、当国においては湾曲タイプが一般的である。
先ずはオリジナルの略綬で各サイズをご覧頂こうと思う。

●A:30㎜×8㎜幅リボン(四連)※中芯に薄い金属板が用いられた平面タイプのため、柔軟性があり、被服の曲面に馴染みやすい。
二級鉄十字章(1914年章)
戦争支援功労十字章
二級バルト(諸国)十字章
前線戦士名誉十字章(剣付)※俗称“ヒンデンブルク十字章”
●B:30㎜×17㎜幅リボン(単綬)
二級鉄十字章(1914年章/1939年章略章付)
※略章(Wiederholungsspange):“繰り返し”(Wiederholung)の“留金”(Spange)
●25㎜×17㎜幅リボン(各単綬)
C:二級鉄十字章(1914年章)
D:前線戦士名誉十字章(剣付)※俗称“ヒンデンブルク十字章”
●拗りリボン※リボンに拗りが入ったタイプで、他国ではあまり見られないようである。
E:30㎜×17㎜台座(二連)
二級剣付戦功十字章
1941年/1942年東部戦線冬季戦記章※俗称“東部戦線従軍記章”
F:25㎜×17㎜台座(単綬)
国防軍勤続章4年章
●G:15㎜×11㎜幅リボン(二連)
1938年10月1日記念メダル(プラハ城飾板付)※俗称“ズデーテン併合記章”
空軍勤続章4年章
●H:15㎜×17㎜幅リボン(五連)
二級鉄十字章(1939年章)
二級剣付戦功十字章
1941年/1942年東部戦線冬季戦記章※俗称“東部戦線従軍記章”
SS勤続章12年(?)章(装飾品(SSルーン)が一般的なモノではなく、個人的な嗜好の可能性もあり、その年章を“?”とした。)
1938年10月1日記念メダル(プラハ城飾板付)※俗称“ズデーテン併合記章”
※SS勤続章の装飾品(ミニチュア)は、基本的には8年章以上の等級において装着される。
8年章用ミニチュアは、そのメダルがそのまま縮小されたデザインとなっている。
エルンスト・アウグスト・クラーグSS少佐の写真で辛うじて確認はできるが、この装着例は結構稀有といえる。
そのうえ、クラーグは国防軍型の鷲章の装着やミニチュア装着無しの場合などもある。
12年章用ミニチュアの銀SSルーンに関しても、オットー・クムSS大佐(当時)の写真などで確認できるものの、実際はこれもまたなかなか御目に掛かれない装着例といえるかもしれない。
(この当時の略綬には、“拗りリボン”タイプ(左)と通常の15㎜×17㎜幅リボン(右)の略綬装用例が確認されている。台座は共に75㎜×17㎜の五連用で同サイズと思われる。)
因みに、25年章用ミニチュアは金SSルーンとなるが、1923年に党幹部の警護組織として発足した親衛隊は25年をもたずして消滅している。
エルンスト・アウグスト・クラーグ(上段)&オットー・クム(下段)/五連略綬
二級鉄十字章(1939年章)
1941年/1942年東部戦線冬季戦記章※俗称“東部戦線従軍記章”
SS勤続章8年章/12年章
1938年3月13日記念メダル※俗称“オーストリア併合記章”
1938年10月1日記念メダル(プラハ城飾板無し)※俗称“ズデーテン併合記章”

奇しくも、この両人のリボンの並びはSS勤続章における装飾品の違い以外は全く同じである。
クムに関しては、1931年12月1日付でのSS入隊から1943年4月20日付でのSS大佐への昇進、そしてSS准将に昇進する翌年1月30日までの期間で、ようやく12年を越えており、この撮影の時期においては時間的には12年は越え12年章の受章がほぼ決定していたとしても、実際に授与されていたかは微妙なところでもあり、個人的に8年章に銀SSルーンの装飾品を装着した可能性もないとは言えない。
…とはいっても、勤続章の場合はリボン自体が変わるわけではないので、正式な受章云々の段取りなどはあまり問題にはならなかったのかもしれないが…
リボンに代えて佩用するのは騎士鉄十字章などのような高位な勲章ではなく、二級鉄十字章以下の戦功章、名誉章、従軍記章や記念章などとなる。
尚、1935年以前に授与された章飾も合わせて佩用することが許されている。
また、佩用の際には、向かって左側から高位な章飾を並列する事になっている。
ただ、例えその規定に沿って並列したとしても、各人により授与された章飾も違ううえに、授与された章飾のどのリボンを選別するのか、その順列をどう選択するのかなど、個々の嗜好性に因るところもあり、またリボン自体のバリエーションも300種類以上と、ある意味、略綬は独自性が一目でわかる軍装アイテムと言っても過言ではない。
勿論、実物品の“略綬”をそのままコレクションとする楽しみ方もあるが、その“台座”の構造などもあり、色々にリボンを入れ替えて“独特”な一品にするという楽しみ方も出来る。
複製品のなかでも、特定人物用アイテムとして用意されているのが最も多いのも略綬であり、もう20年以上も前になるが、軍装品に興味を持ち始めた頃に購入したのがロンメル用の略綬であった。
当時はおそらく国内のショップも注文を受けてから、海外の製造元に発注し、取り寄せるという流れだけだったように思う。
現に、東京(当時、問い合わせた店は現在はすべて閉店)や大阪のショップなどに問い合わせてみたが、かなりの日数待ちとのことで…米英独のどこのショップだったかは失念したが、直接注文して購入することにしたのを憶えている。

エルヴィン・ロンメル/後期型 十連略綬(15㎜×17㎜幅リボン)
二級鉄十字章(1914年章/1939年章略章付)
ヴュルテンベルク王国騎士戦功十字章(金葉環付)
ヴュルテンベルク王国フリードリヒ勲章(一級)騎士十字章
バイエルン王国四級剣付戦功章
オーストリア三級戦功十字章(銀柏葉葉環付)
前線戦士名誉十字章(剣付)※俗称“ヒンデンブルク十字章”
(国防軍)勤続章25年章
同12年章
1938年10月1日記念メダル(プラハ城飾板付)※俗称“ズデーテン併合記章”
1939年3月22日メーメル返還記念メダル

このロンメルの略綬は、リボンは概ね戦中当時の実物…某店のいうところの“最高級版”だが、その装飾品(ミニチュア)に関しては、精巧ではあるものの、致し方ないことではあるが複製品も混在している。
そこで今回は、リボン、装飾品とも全て実物品で組み替えて作製した“騎士”鉄十字章受章者・著名人物装用の“リボン(略綬)”を紹介させて頂こうと思う。
作製作業自体は、略綬のその構造からも至って簡単なのだが…
先ずは使用するリボン、装飾品を含む何連かの略綬を探し、購入しなくてはならない。
なかには欲しかったリボン以外は無駄になるというケースもあり、なるべく他用/多用可能な品を探すことも必要となってくる。
ただ、組むにあたっては、その風合いの程度も同等である必要があり、その程度(主に汚れ)故に残念ながら断念するということもあった。
また、品質の差が一目瞭然となる…特に鷲章等のミニチュアはディテールの細かく、モールドのはっきりした物が装着されているモノを探すのもなかなかに難しい。
勿論、今回の作製を思い立つ以前から、略綬というアイテムは一次・二次戦に関係なく何とは無しに購入していたこともあり、その点で助かったということもあるが、総じて何気に労力と時間と出費の嵩む“お遊び”故、あまりお薦めはしない。

1940年頃(陸軍少将当時)は、後半二連の無い八連タイプを佩用している。
因みに、この際は第二釦穴に1939年章略章を装着した二級鉄十字章(1914年章)のリボンを佩用しているため、略綬のそれには1939年章略章のミニチュアは装着されていない。
ただ、これに関しては個人の嗜好に因るところもあり、なかには両方に装着している者もいる。

例えば、哲学博士フリードリヒ・アルトリヒター陸軍中将の場合、第二釦穴に1939年章略章付二級鉄十字章(1914年章)と1941年/1942年東部戦線冬季戦記章(=東部戦線従軍記章)のリボンを佩用しているが、略綬のそれにも1939年章略章のミニチュアが装着されている。
ただ、さすがに東部戦線従軍記章のリボンは略綬には加えてはいない。
因みに、1942年1月23日付でドイツ十字章金章を受章しているが、残念ながら騎士鉄十字章の受章にまでは至らなかった。
アルトリヒターの経歴、受章歴の資料などから、この七連略綬をリストアップしてみると…
フリードリヒ・アルトリヒター/七連略綬(15㎜×17㎜幅リボン)
二級鉄十字章(1914年章/1939年章略章付)
ザクセン=マイニンゲン公国1914/15年戦功十字章(銅章)
ハンブルク・ハンザ十字章
前線戦士名誉十字章(剣付)※俗称“ヒンデンブルク十字章”
(国防軍)勤続章25年章
同12年章
1938年10月1日記念メダル(プラハ城飾板無し)※俗称“ズデーテン併合記章”
…となるのだが、どうも左から2番目のリボンが、どうしても当方的にはそれには見えてこない。
そこで、ザクセンはザクセンでも…“ザクセン=マイニンゲン公国”ではなく、“ザクセン王国”の『ザクセン王国1914/18年戦功十字章』なのではないだろうか?と思い…
双方での七連略綬を模式図にして、さらに写真に写った略綬との比較のため白黒画像にした図で、その見え方の違いを見比べてみた。
“白飛び”など考慮しても、何となく下段の方がそれに近いように思うのは私だけだろうか?

【追記】
当初、上記の如く書いてはみたが…それよりもリボンの柄的に、同ザクセン王国の『アルブレヒト勲章/1級剣付騎士十字章』の方がよりしっくりくるのではないかとの思いから、以下の段を追記する。
アルブレヒト勲章は、ザクセン王国の第3代国王であったフリードリヒ・アウグスト2世(在位:1836~1854年)により1850年12月31日に制定されている。
この勲章制定の経緯は、ヴェッティン家の分枝の一つアルベルティン家の始祖である…勇敢公としても知られるアルブレヒト3世の死から350年を記念したものであった。
等級としては、大十字章(Großkreuz)、一等指揮官十字章(Komturkreuz 1)、二等指揮官十字章(Komturkreuz 2)、騎士十字章(Ritterkreuz)、小十字章(Kleinkreuz)の5等級があり、武功のみならず、公民道徳、科学、芸術、その他において国家に貢献したと認められた者に授与された。
騎士十字章には、王冠章の有無、剣章の有無など4種があるようであるが、剣章付きの武功に対する物は、主に第一次世界大戦中に授与されたようである。
当時せいぜい尉官クラスの若かりしアルトリヒターがこれを授与されたとするならば、おそらくはこの等級であろうが、それに更に王冠付であったかどうかはわからない。
因みに、王冠付の場合、略綬のリボン上に王冠のミニチュアを付けるのかということも不明。
既にいくつものリボンを列挙しているが、今回は個々のリボンに関しては名称および画像のみにとどめ、詳細などは割愛させて頂くこととするが、話を「“騎士のリボン”を作製してみよう!」のテーマに戻す前に“勤続章”に関しては以下で簡単に触れておく。
勤続章(Dienstauszeichnungen)
(国防軍)勤続章は国防軍創設1周年にあたる1936年3月16日付で制定され、基本的に「1935年3月16日以降に軍務に従事していた、または(同等の)活動していた」国防軍三軍の全ての将兵に授与された。
ドイツ帝国軍、1918年以降の公認の義勇団、および1921年9月30日までの“暫定”共和国軍での勤務期間および“その後”も継続して軍籍に残った期間(除隊、退役した場合の考慮あり)も遡及的に考慮された。
勤続年数に応じ四等級に分けられているが、40年以上の在勤者に対する特別枠的な等級も1939年3月10日付で設けられている。
Ⅳ等級:4年間の勤務(銀鷲章)
Ⅲ等級:12年間の勤務(金鷲章)
Ⅱ等級:18年間の勤務(銀鷲章)
Ⅰ等級:25年間の勤務(金鷲章)
特等級:40年間の勤務(金鷲章+柏葉)※25年章に柏葉帯が追加されるのみ。
※陸海軍は共通の鷲章、空軍のみ独自の鷲章、但し各等級の記章は全軍共通。
各等級の佩用の際には基本的に規定があり、4年章は単体による佩用となるが、12年章以降はその等級を組み合わせにより識別するかたちの佩用となる。
Ⅲ等級:12年章(金鷲章)+4年章(銀鷲章)
Ⅱ等級:18年章(銀鷲章)+4年章(銀鷲章)
Ⅰ等級:25年章(金鷲章)+12年章(金鷲章)
特等級:40年章(金鷲章+柏葉)+25年章(金鷲章)
この他に以下の勤続章・名誉章なども設けられている。
親衛隊(SS)勤続章4年/8年/12年/25年(1938年)
警察勤続章8年/18年/25年(1938年)
国家労働奉仕団(RAD)勤続章4年/12年/18年/25年(1938年)※男女用でデザインに若干の差異あり。
国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)勤続章10年/15年/25年(1939年)
文官名誉章25年/40年(1938年)/50年(1942年)
税関国境警備名誉章(1938年)※資格対象者により4年、8年の勤続で授与。(一等級のみ)
“騎士のリボン”を作製してみよう!

エルンスト・ブッシュ/六連略綬(15㎜×17㎜幅リボン)
二級鉄十字章(1914年章/1939年章略章付)
プロイセン王国ホーエンツォレルン家勲章(金王冠剣付)
前線戦士名誉十字章(剣付)※俗称“ヒンデンブルク十字章”
(国防軍)勤続章25年章
同12年章
1938年10月1日記念メダル(プラハ城飾板付)※俗称“ズデーテン併合記章”
※1939年章略章、プラハ城飾板の両方とも装用の無い略綬佩用も確認されている。(画像)


エーヴァルト・フォン・クライスト/六連略綬(15㎜×11㎜幅リボン)
二級鉄十字章(1914年章)※二級鉄十字章(1939年章)略章ミニチュア装用無し
ハンブルク・ハンザ十字章
前線戦士名誉十字章(剣付)※俗称“ヒンデンブルク十字章”
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(国防軍)勤続章25年章
同12年章

この六連略綬の左から4番目のリボンに関しては、実はよくわからない。
画像の色調、質感などから、その後に並ぶ勤続章のそれと同様にも見えることから、クライストの複製品略綬の商品見本では勤続章の“コーンフラワーブルー(矢車菊の青)”のリボンがこの部分には用いられている。
クライストの陸軍での軍歴は、1900年の入営以来、国防軍に移行する前のドイツ帝国およびヴァイマル共和国軍を通し既に35年におよび、国防軍勤続章はⅠ等級の25年章を授与され、またⅢ等級/12年章とともに5、6番目のリボンとして佩用もされている。
ドイツ帝国陸軍時代の18年間でⅠ等級/15年(XV)章を受章していたとしても、国防軍勤続章と重複しての佩用というのは考え難い。
受章歴の資料には、先にロンメルでも示したバイエルン王国四級剣付戦功章の受章歴も挙げられているが、このリボンとは明らに違う。
また嗜好性はあるにせよ、クライストもコレを受章しているのならば、おそらくは略綬として佩用しているのではないだろうか?
それらを考え合わせて…私見ではあるが、“四級”は“四級”でも、プロイセン王国四級王冠勲章を誤認したのではないだろうか?(王冠を囲む円環には“GOTT MIT UNS”(神は我等と共に)のスローガンが刻まれている。)
コチラならばリボンの色目は勤続章のそれと同様でもあり、合点がいくのであるが…
因みに、前出の商品見本では2番目のリボンを“ホーエンツォレルン家勲章”としていて、商品説明には「初期のポートレイト写真で装用している細版6連の略綬/リボンバーを完全再現」とあるのだが、当方はホーエンツォレルン家勲章のリボンを佩用しているクライストの写真をまだ見たことがない。
先にも触れた受章歴の資料にも記載はなく、また仮に受章しているのならば、上の写真の時点で名誉あるリボンが佩用されていないのも合点がいかない。

エルンスト・オットー・レーマー/三連略綬(15㎜×17㎜幅リボン)
二級鉄十字章(1939年章)
1941年/1942年東部戦線冬季戦記章※俗称“東部戦線従軍記章”
(国防軍)勤続章4年章


この写真は、おそらく1942年9月3日付で受章したルーマニア剣付王冠章(四等:将校対象)の授与式的な場面で撮られたものと思われる。
東部戦線従軍記章のリボンは第二釦穴に佩用しているので略綬にての佩用は無い。
因みに、この時点では歩兵突撃章は銅章(1942年3月2日付)、銀章は1943年9月4日付で受章している。
テオドール・ヴィッシュ/五連略綬(15㎜×17㎜幅リボン)
二級鉄十字章(1939年章)
SS勤続章8年章
同4年章
1938年3月13日記念メダル※俗称“オーストリア併合記章”
1938年10月1日記念メダル(プラハ城飾板付)※俗称“ズデーテン併合記章”


1944年3月1日、リューネブルクでの婚礼の際にヒルデガルト・ブルメスターと撮った結婚写真
ミヒャエル・ヴィットマン/五連略綬(15㎜×17㎜幅リボン)
二級鉄十字章(1939年章)
1941年/1942年東部戦線冬季戦記章※俗称“東部戦線従軍記章”
1938年3月13日記念メダル※俗称“オーストリア併合記章”
1938年10月1日記念メダル(プラハ城飾板無し)※俗称“ズデーテン併合記章”
ブルガリア四級勇敢記章(Ⅱ等)


柏葉章の佩用および肩章にピプらしき陰影も見当たらないことから、1942年3月~7月の間に撮影されたSS少将兼警察少将(当時)と思われる。
アルフレート・ヴュンネンベルク/六連略綬(15㎜×17㎜幅リボン)
二級鉄十字章1914年章(1939年章略章付)
プロイセン王国ホーエンツォレルン家勲章(金王冠剣付)
前線戦士名誉十字章(剣付)※俗称“ヒンデンブルク十字章”
(警察)勤続章18年章
防空名誉章(一等)
ドイツ国民福祉従事者名誉章(三等)


この写真が撮られたのも、先の写真が撮られた時期とさして変わらないと思うが、ここではまだ後半二連の無い四連…それも幅広の25㎜×17㎜タイプを佩用している。
やはり、第二釦穴に1939年章略章を装用した二級鉄十字章(1914年章)のリボンを佩用しているため、略綬のそれには1939年章略章のミニチュアは装着されていない。

1942年2月に一般SSおよび武装SSの1942年型(後期型)襟章の導入に合わせ、警察将官の襟章をSS型に切り替えているが、それ以前はこのような陸軍(その他、国防軍)将官と同様のデザインである、いわゆる“ラリッシュ・シュティッケライ”型の襟章を装用していた。
ただ、警察将官の場合は、その台布色は警察緑色(Polizeigrün≒ライムグリーン)となる。

SS型の警察将官襟章も、一般SSおよび武装SSと異なり、台布色は“黒”ではなく警察緑色、また柏葉およびピプなども銀ではなく金モール糸により刺繡が施された。
ヴュンネンベルクのこの写真を見てもわかるように、黒台布に銀モール糸の通常のSS型襟章を装用している例は珍しいことではない。
緑台布があまり人気がなかったこともあるが、その多くの者がSS階級も有していたこともあり、SSとの関係性を誇示する意味合いもあったようである。
因みに、肩章の台布も警察緑色ではなく、SS将官色である“明るい灰色”のようにも見える。
その割には…と言っては何だが、袖鷲章はSS型ではなく国防軍型の金鷲章を装用している。

アルフレート・ヴュンネンベルクSS大将(兼警察大将)は1891年7月20日に旧ドイツ帝国領のザールブルク(サールブール:仏グラン・テスト地域圏モゼル県)で生まれている。
(※独ラインラント=プファルツ州のザールブルクとは現在、姉妹都市)
1913年2月25日付で士官候補生としてプロイセン王国陸軍の第56歩兵連隊(※)に配属。
(※別称:ヴェストファーレン第7連隊“Vogel von Falckenstein“)
同年6月28日付で軍曹並、1914年1月27日付で見習士官に昇格。
1914年8月5日付で陸軍少尉に昇進。
同年6月より飛行教練を受け、1917年8月から偵察機パイロットとして第47野戦飛行分遣隊に配属。
同年11月6日付で陸軍中尉に昇進。
第一次世界大戦の終結後、1919年4月に上部シレジア国境警備隊"Ost"に入隊。
同年10月からは上部シレジア義勇軍にも参加。
1920年2月1日付で警察中尉として都市防護警察(Schutzpolizei)に転籍し、エッセン高等警察学校、ポツダム(アイヘ)高等警察学、クレーフェルト警察学校、ケルン警察学校で警察犬訓練部門などを歴任。
1921年7月13日付で警察大尉に昇進。
1928年5月、ベルリン警察管理部に転属後、シャルロッテンブルクの警察協会に私講師として出向。
1929年、ヒンデンブルク警察の監察官に任官。
1932年4月1日付で都市防護警察少佐に昇進。
1933年5月1日付でN.S.D.A.P.に入党 (党員番号:22216008)。
ポーランドのビトム(1933年8月∼)、グライヴィッ(1934年5月∼)、本国のザールブリュッケン(1935年2月∼)、ブレーメン(1935年10月∼)、マンハイム(1937年10月∼)における各都市の警察守備隊の指揮官に任官。
1937年4月20日付で都市防護警察中佐に昇進。
1938年12月、シュトゥットガルトの秩序警察(Ordnungspolizei)における最初の第一種参謀(Ia)に任官。
1939年10月1日付で新編成された警察師団/第3警察射撃連隊の指揮官に翌日(2日)付で任官。
1940年1月1日付で都市防護警察大佐に昇進。
同日付でSSへの入隊(SS隊員番号:40689)により、Dienstgradangleichung(階級調整)によりSS大佐に昇格。
(※同連隊にて西方戦役に参加。戦役後、師団は占領軍としてサン=ディジエに駐屯した後、再編成され東部戦線に移動。)
1941年10月1日付で警察少将に昇進。
同年11月9日付でSS准将に昇進。
同年11月15日付でクラスノヤルスク~ルガにおける戦功により騎士鉄十字架を受章。
同年12月9日付でSS少将に昇進。
同年12月15日付で警察師団の指揮官に任官。
(※1942年2月10日付で師団は武装SSに編入され、SS警察師団に改称)
1942年3月15日、第38軍団の救援のためにSS警察師団も投入され、そのヴォルホフ包囲戦における戦功により同年4月23日付で全軍第91番目の柏葉章を受章。
同年7月1日付でSS中将、同月11日付で警察中将に昇進。
1943年6月10日付で第4SS装甲軍団の司令官に任官。
同年7月1日付でSS大将(兼警察大将)に昇進。
クルト・ダリューゲSS上級大将(兼警察上級大将)の休職(病気療養)に伴い、同年8月31日付で秩序警察本部長官事務取扱に就任。
敗戦直前、“鼠の行列(Rattenlinien)または修道士の道(Klosterrouten)“と言われる脱走ルートを抜けフレンスブルクに逃走したが、米軍に逮捕されてダッハウの(米軍)捕虜収容所に拘禁、一年の刑期で釈放されている。
1963年12月30日にクレーフェルトで亡くなっている。(享年72歳)

ルドルフ・ヴィツィヒ/四連略綬(15㎜×17㎜幅リボン)
二級鉄十字章(1939年章)
(国防軍)勤続章4年章※空軍転籍前の受章のため陸海軍型の鷲章を装着。
1938年10月1日記念メダル(プラハ城飾板付)俗称“ズデーテン併合記章”
イタリア-ドイツ・アフリカ戦線従軍メダル※略称“アフリカ従軍メダル”

アフリカ従軍メダルのリボンの配色は、ドイツ、イタリアの各々の国家色である黒白赤と緑白赤が”赤”を中心にシンメトリーに配列されている。
そのため、独側の受章者は向かって左に黒が…伊側の受章者は緑が来るように佩用することが多かったようだが、その倣いからいえば異(伊)な向きに佩用していることになる…(苦笑)。
ルドルフ・ヴィツィヒ空軍少佐は、1916年8月14日に(旧) ヴェストファーレン州のレーディングハウゼンで生まれている。
1935年4月1日付で士官候補生としてヘクスター工兵大隊(※同年10月15日付で第16工兵大隊に改称)に配属。
1937年4月20日付で陸軍少尉に昇進。
同年10月12日付で第31歩兵師団/第31工兵大隊の小隊長に任官。
リヒャルト・ハイドリヒ陸軍少佐(当時)によりシュテンダールに新設された落下傘歩兵大隊(※)に志願、厳しい適性検査に合格し、1938年8月1日付で同大隊に異動。
(※1937年4月1日付で落下傘歩兵中隊として編成され、翌年6月1日付で大隊に改編)
空軍における第1降下猟兵連隊の編成にあたり、1939年1月1日付で既存の1個落下傘大隊(のち第Ⅲ大隊)、空挺大隊(Luftlande-Bataillon)”General Göring”(のち第Ⅰ大隊)に加え、陸軍から落下傘歩兵大隊(のち第Ⅱ大隊)を移管。
(※以降、Luftlande:"空挺"、Fallschirm:落下傘として和訳)
これに伴いヴィツィヒも空軍に転籍。
同年8月1日付で空軍中尉に昇進。
西方への侵攻計画において緒戦の障害となるベルギーの主要な三橋梁(フェルドウェーゼルト橋、フルーンホーフェン橋、カンネ橋)の確保と堅固なエバン・エマール要塞占拠のため、同年11月、ヴァルター・コッホ空軍大尉(当時)により特殊部隊の突撃大隊 "Koch"が編成され、1940年5月10日未明に始まった“エバン・エマール要塞の戦い”では、ヴィツィヒ以下85名の突撃隊“Granit”は11機のグライダーに分乗し、そのエバン・エマール要塞急襲を担当…見事、要塞の奪取に成功した。

(※左端の人物がヴァルター・コッホ、その隣がルドルフ・ヴィツィヒ)
この戦功に対し1940年5月10日、同日付で早々に騎士鉄十字章(一級、二級鉄十字章両章も追授)が授与され、この作戦の成功は翌5月11日付けの国防軍軍報の特別報道でも大々的に報道させるなど、ヒトラーは終始ご満悦で、コッホ以下この作戦に拘わった将兵達に対して、わざわざ彼らのもとに出向き、直接その戦功を労い、勲章を授与している。
同年5月16日付で空軍大尉に昇進。
1941年5月20日発令のクレタ島におけるメルクール作戦では、オイゲン・マインドル空軍少将(当時)指揮下の空挺突撃連隊(Luftlande-Sturm-Regiment)/第Ⅲ大隊/第9中隊を率い、マレメ飛行場の東地区を強襲。
第Ⅲ大隊の各中隊はニュージーランド軍防衛陣地の直近に降下してしまったため、この大隊の戦傷率は高く、1941年10月18日にヴィツィヒも戦闘中に負傷し、その後、アテネのドイツ空軍病院などで療養生活を送ることとなる。
軍への復帰後は、1942年5月10日付で落下傘部隊工兵大隊(Korps-Fallschirm-Pionier-Bataillon)の指揮官に任官。
同年8月24日付で空軍少佐に昇進。
チュニジア防衛に当たるべくフリードリヒ・フォン・ブロイヒ陸軍大佐(当時)指揮のフォン・ブロイヒ師団(※)が編成。
1942年11月11日付で、ラ・マルサ、エル・アウィナ、チュニスの飛行場を確保するべく、その降下猟兵(自動車化)連隊(Fallschirmjäger-Regiment (Mot))“Barenthin”にヴィツィヒの大隊も編入された。
(※1943年2月11日付でハッソ・フォン・マントイフェル陸軍大佐(当時)、4月1日付でカール・ビューロヴィウス陸軍中将に引き継がれたフォン・マントイフェル師団でも変更なし。)
ヴィツィヒの大隊のみならず、ビゼルト、チュニスに突入の米英軍に撃退され、枢軸国軍は甚大な損害を出して降伏。
1943年5月13日、ついに北アフリカ戦線は消滅した。
同年10月17日付でドイツ十字章金章を受章。
1944年1月、残存のヴィツィヒの大隊を基(第Ⅰ大隊)に、落下傘工兵補充部隊(第Ⅱ大隊)、第1教導大隊(第Ⅲ大隊)による第21落下傘工兵連隊(Fallschirm-Pionier-Regiment 21)の編成が進められ、ヴィツィヒは同年5月1日付で第Ⅰ大隊の大隊指揮官に任官。
同年6月15日付で同連隊の連隊指揮官も兼任。
同年7月より同連隊はリトアニアにて運用され、カウナスでの白兵戦においては1日に敵戦車27輛の撃破という”模範的な戦闘精神”を示したとして、その戦功は同年8月8日付の国防軍軍報(二回目)にて報じられた。
この後、連隊は東プロイセンに撤退を余儀なくされ、再編により解散。
同年11月25日付で全軍662番目の柏葉章を受章。
同年12月16日付で第1空挺軍/第6降下猟兵師団隷下の第18降下猟兵連隊(Fallschirmjäger-Regiments 18)指揮官に任官。
1945年2月、英・カナダ軍によるヴェリタブル作戦(2月8日∼3月11日) に対し、ポーランド国境とドイツ国境を跨いだライン川間のライヒスヴァルトでの攻防に投入された。(※”Fallschirm-Armee”は”Fallschirmjäger”と区別するため、多くの和訳で"降下猟兵軍"とはされているが、「Fallschirm」は”落下傘、パラシュート”と訳されるため、”落下傘軍”では冴えないので、ここでは”空挺軍”とした。)
同年5月7日付の空軍名誉鑑に氏名が掲載。
翌5月8日、連合国軍に投降。
戦後は1945年9月に釈放された後、1956年1月16日付でドイツ連邦軍(西ドイツ当時)に再入隊。
1974年9月30日付で退役。(最終階級:空軍大佐)
2001年10月3日、ミュンヘン近郊のオーバーシュライスハイムで亡くなっている。(享年85歳)

ヘルムート・ブルック/四連略綬(15㎜×17㎜幅リボン)
二級鉄十字章(1939年章)
(空軍)勤続章4年章
1938年3月13日記念メダル※オーストリア併合記章
1938年10月1日記念メダル(プラハ城飾板付)※俗称“ズデーテン併合記章”

ヘルムート・ブルック空軍大佐は、1913年2月16日にシュレージエン(旧プロイセン領域、現:ポーランド)のキトリツトレベン(現:ブンツラウ)で生まれている。
アビトゥーア(Abitur)合格後、ブレーメン警察学校に入学。
1935年、指揮官養成課程の空軍(LW)移管に伴い、飛行訓練等の課程を修了。
1936年4月1日付で空軍少尉に昇進し、キッツィンゲン(バイエルン州)の第165急降下爆撃航空団(St.G.165)に配属。
1938年11月1日付で空軍中尉に昇進。
1939年5月1日付で再編成されたSt.G.165は、第77急降下爆撃航空団(St.G.77)と改称、第Ⅰ飛行隊/第1中隊の指揮官に任官。
1940年8月20日付で第Ⅰ飛行隊の指揮官に任官。
1941年4月1日付で空軍大尉に昇進。
1941年9月4日付で騎士鉄十字架を受章。
1942年10月20日付でドイツ十字章金章を受章。
1943年2月19日付で全軍193番目の柏葉章を受章。
翌20日付で第77急降下爆撃航空団(St.G.77)の司令官に任官。
同年3月1日付で空軍少佐に昇進。
再編成後、第77地上攻撃航空団(SG(≒Sch.G)77)に改称し、同年10月18日付で引き続き司令官に再任。
同年11月1日付で空軍中佐に昇進。
1944年4月1日付で空軍大佐に昇進。
ポーランド、フランス、イギリス、バルカン半島(クレタなど)、東部戦線に参加し、最終的な出撃は973回に及んだ。
1945年2月15日付でSG77をマンフレート・メッシンガー空軍中佐に引き継いで、第151教導航空団の司令官に任官。
戦後はクルムバッハ地区(フランコニア北部行政区)の区画森林官となり、2001年8月25日に亡くなっている。(享年88歳)

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テーマ : 第二次世界大戦【ドイツ】
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