現在では、「映画の上映や芝居の上演が取りやめになること」「発表・発売が中止になること」「計画が取りやめになること」などの意味として…
単に“御蔵、御倉”などとも表現されたりもする「お蔵入り」の語源には二説あり、上記の意味の如く、「蔵にしまい込んでしまい、日の目を見ず終いになる」というような意味合いからとする説も勿論ある。
江戸時代、芝居の入りが振るわない演目は最終公演日である『千秋楽(略して“楽”)』を待たずして興行が中止になることがあり…
こうした芝居を「楽(ラク)になる」と言ったそうである。
それが当時の庶民の間で流行っていた倒語として、「ラク」が「クラ」として「クラになる」と言ったことからというのが、もう一説である。
ただ、これが先の“蔵にしまい込んでしまう”という意味とも符号して…
いつしか「蔵(倉)入り」…丁寧語の「御」がついて「御蔵入り」として伝わったものではという説の方が有力なようである。
だいぶ前置きが長くなってしまったが…
実は、先にPCがクラッシュした際に、画像などのデータが消失に遭い、少なからず過去の作例などで確認出来なくなってしまった画像、動画があった。
Windows7サポート終了にあたり、フォルダーの整理、移転作業をしていたところ、既に消えてしまったと諦めていた…勿論、元サイズでもなく、数も少ないが、別ファイルに辛くも保存されていた画像が見つかった。
今回は、そんな御蔵入りしていた過去の作例『ハインツ・ハーメルSS大佐』をご覧頂こうと思う。

『遠すぎた橋』(1977)でハーディ・クリューガーが演じたルートヴィヒ少将のモデルは、連合国の『マーケット・ガーデン作戦』を阻止すべく奮戦した第10SS装甲師団“Frundsberg”師団長のハインツ・ハーメルSS少将と、第9SS装甲師団“Hohenstaufen”のSS戦闘団“Harzer”を指揮した
ヴァルター・ハルツァーSS中佐(当時、のちSS准将)の二人を基にした合わせキャラのようであり、“ルートヴィヒ少将”という役名になっているのは、ハーメルが自分の名前が映画に出ることを望まなかったからだと言われている。
そんな、そこそこ有名で、しかも1942年に撮影された下の写真の如くイレギュラーな着用例をしているとなればモチーフとしてはうってつけである。


右胸に佩用されているドイツ十字章金章は、その前年の1941年11月29日付で受章。
ただ、襟元の騎士鉄十字章は後年の加工であり、この時期にはまだ受章していない。
騎士鉄十字章を受章するのは、この翌年…1943年3月31日であり、さらにはSS大佐に昇進するのも、この年の4月20日となる。
通常、SS大佐以上は各階級ごとに左右シンメトリーの“オークの葉”のデザインで階級を表示するが、この写真では左襟のみで、右襟はルーン文字のSSの襟章が着用されている。
但し、この左のみをオークのデザインの襟章にした着用が後年の修正ではないとするならば、このイレギュラーな着用はかなり稀少な例である。
襟章に関しては、4月20日付でSS大佐に昇進したからといって、それも前線にいれば徽章類がすぐに手に入るものではない。
陸軍元帥に昇進したロンメルでさえ、当初はケッセルリンクから譲り受けた空軍元帥用の白の台布の肩章を着用していたくらいである。
それも、何処となく葉の感じが親衛隊などの大佐用襟章と違和感もあることから…何か別物?の片方だけをとりあえず代用品として着用しての間に合わせ着用という可能性もあるのではと思っている。
3月31日付で騎士鉄十字章を受章したといっても、こうした高位の勲章になればなる程、授与されて直に佩用できるまでには日数もかかり、しかも簡易にせよ、それなりのセレモニーが執り行われたうえでの授与ということも致し方のないことではある。
SS大佐に昇進する4月20日時点でも、まだ騎士鉄十字章が手元にないというのも確かに遅いような観も無きにしも非ずだが…
とにかく、興味深いが、よくわからない写真である。

後日、左右シンメトリーなSS大佐用襟章に、真新しい騎士鉄十字章を佩用し、これまた仕立ての良い制服を着用しての記念写真も撮られている。

ヘッドは、以前も紹介したDML(Dragon Models)から2004年にリリースされた『降下猟兵 将校“
ハインリヒ・ツィム”/アルデンヌ1944』のヘッドを、リペイントマイスターの
boot-25氏に塗装して頂いたものを使用。

確か、展示としてはC.F.E.2009、2010’新春ブラックホールには出展したが、これまで自身のHP、掲示板(SALON)等でも画像の掲載等をしていなかったと思う。

ハインツ・ハーメルSS少将は、1906年6月29日、マクデブルクの(ドイツ帝国陸軍)第67歩兵連隊所属の軍医将校の子息としてメス(ドイツ帝国領当時:現フランス)に生まれている。
1926年にヴァイマル共和国陸軍に志願し、ラッツェブルクの第6歩兵連隊/第15中隊に入隊。
しかし、ヴェルサイユ条約による軍備制限により、予備役として勤続し上級曹長まで昇進。
1935年2月10日付でSS曹長として、陸軍を退役し、武装親衛隊(Waffen-SS)の前身である親衛隊特務部隊(SS-VT)に入隊。
(SS番号:278 276)
ハンブルグのSS連隊“Germania”/第1中隊に配属。
1937年1月30日付でSS少尉に昇進、ミュンヘンのSS連隊“Deutschland”/第7中隊の小隊指揮官に任官。
1938年1月30日付でSS中尉に昇進。
オーストリア併合(同年3月)後、クラーゲンフルトのSS連隊“Der Führer”/第9中隊指揮官に任官。
1939年1月30日付でSS大尉に昇進。
西方戦役にて歩兵突撃章銅章(1940年4月12日付)、二級鉄十字章(1940年5月30日付)、一級鉄十字章(1940年6月1日付)を受章。
(※SS-VTは1940年12月3日付でSS師団“Deutschland”に再編成。
1941年1月28日付でSS師団“Reich”に再々編成。)
1941年4月12日付でSS連隊“Der Führer”/第2大隊の指揮官に任官。
同年4月20日付でSS少佐に昇進。
バルバロッサ作戦の発動で東部戦線に投入。
1941年11月29日付でドイツ十字章金章を受章。
1942年6月18日付でSS擲弾兵連隊“Deutschland”の指揮官に任官、翌19日付でSS中佐に昇進。
(※1942年11月10日付でSS装甲擲弾兵師団“Das Reich”に再編成。
師団はウクライナに展開し、第三次ハリコフ攻防戦などで奮戦。)
1943年3月21日付で戦傷章黒章を受章。
同年3月31日付で騎士鉄十字章および戦車撃破章銀章を受章。
同年4月20日付でSS大佐に昇進。
ウクライナ東部の採炭地域として重要な拠点であるドンバス戦略攻勢(1943年7月~9月)における戦功に対し、同年9月7日付で全軍第296番目の柏葉章および9月10日付で白兵戦章銀章を受章。

※左から:ハーメルSS大佐(当時)、オットー・バウムSS中佐(当時)、ヒトラー、ヒムラー
1944年3月から1ヶ月程、ヒルシュベルクのおいて師団指揮官のための研修に参加。
テルノーピリ(ウクライナ)での戦闘で負傷した
カール・フォン・トロイエンフェルトSS中将の後任として、同年4月27日付で第10SS装甲師団“Frundsberg”の指揮官に任官。
同年5月18日付でSS准将に昇進。
連合国によるノルマンディー上陸の後、師団はフランスに移動。
同年7月16日刊の国防軍軍報(Wehrmachtbericht)に掲載。
ファレーズ包囲戦(1944年8月12日~21日)から辛くも脱出し、ベルギーに転進。
その後、第9SS装甲師団“Hohenstaufen”とともにナイメーヘン~アルンヘムの防衛に当たるためオランダに移動。

1944年8月末、前線視察に訪れた西方軍総司令官(兼B軍集団司令官)ヴァルター・モーデル陸軍元帥に戦況報告をするハーメルSS准将(当時)
1944年9月7日付でSS少将に昇進。
同年9月17日に開始された連合軍の「マーケット・ガーデン作戦」阻止の一助となる。
その後、カール大帝戴冠の街であり、ヒトラーの言うところの“第一帝国”の故地であるアーヘンを巡る戦闘に投入された。
第246国民擲弾兵師団指揮官(アーヘン都市防衛司令官)
ゲアハルト・ヴィルック陸軍大佐は、1944年10月21日12時5分をもって米第9軍司令官
ウィリアム・フッド・シンプソン中将に降伏した。
因みに、アーヘンが大戦中ドイツ本土で初めて連合国軍によって占拠された都市となった。

同年12月15日付で全軍第116番目の剣付き柏葉章を受章。
年が明けた1945年1月、ヒムラーの指揮するオーバーライン軍集団に編入。
アルザス=ロレーヌ地方の重要拠点コルマールの橋頭堡防衛に投入された。
米第7軍と仏第1軍により、
ジークフリート・ラスプ陸軍中将指揮の第19軍団は敗走。
2月9日、連合国軍はライン川を渡ることに成功し、ドイツ本土への本格侵攻を開始した。
すぐさま、今度はヒムラーが司令官として新任したヴァイクセル軍集団に編入され、ポーランドとの国境ポンメルン(=ポメラニア)地域に移動。
当然、ヒムラーには司令官としての能力も器もなく、3月20日付で早々に解任。
ゴットハルト・ハインリツィ陸軍上級大将がその後を継いだ。
それに伴い、“Frundsberg”師団は中央軍集団に移管された。
4月下旬、
イワン・コーネフ元帥率いる第1ウクライナ戦線への反攻を命じられるも、現状では無謀過ぎるとしてこれを拒否した。
中央軍集団司令官の
フェルディナント・シェルナー陸軍元帥に呼び出されたハーメルは、4月28日をもって“Frundsberg”師団長の任を解かれた。
ハーメルはグラーツ(オーストリア)のSS士官学校長に就任、そこでSS士官学校生、第24SS所属武装山岳師団“Karstjäger”の残存、およびその他の部隊の残存兵で戦闘部隊を組織。
オーストリアとスロベニア国境沿いの山道を確保し、ユーゴスラビア方面からのドイツ軍の後退を支援した。
“Der Alte”(おやじ)と親しみと敬意をもって呼ばれたハーメルから、若い部下たちへの最後の命令は「生きて降伏せよ」。
5月9日、オーストリア駐屯のイギリス軍に投降。

2000年9月2日、ハーメルはノルトライン=ヴェストファーレン州のクレーフェルトで亡くなっている。(享年94歳)
翌年の2001年に亡くなった妻のイルムガルト(享年86歳)と共にバーデン=ヴュルテンベルク州のフライブルクにある聖ゲオルゲン墓地に永眠している。