ヘルベルト・ヴァイス陸軍予備役少佐

先ずは、ウクライナから届いた上の写真(横5.8㎝×縦8.9㎝)をご覧頂きたい。
これは、ヘルベルト・ヴァイス(陸軍予備役大尉当時)の写真である。
撮影時期としては、おそらくは騎士鉄十字章受章後、受傷による入院治療・静養を終えた直後の撮影ではないかと思われる。
この写真で興味を惹かれるのは、銀モール刺繍による鷲帽章…
後載写真での、いわゆる一般的な陸軍型の銀モール刺繍による鷲帽章に比して、鷲章自体が翼長、縦長共に若干小ぶりとなっている。
ただ、金属製の鷲帽章ではないので判断し難いところもあるのだが…
これは極初期陸軍型(1934年型)の銀モール刺繍による帽鷲章ではないかと思われる。
士官以上になると、こうした徽章類の着用に関しては本人の嗜好性に依るところが大きいため一概には言えないが…古参とも言い難いヴァイスが、この時期(‘42年~‘43年)に何故あえて旧タイプを着用していたかはわからない。
後載写真の撮影年も1943年ということらしいので、時期的には然程の間隔もなく一般的的なタイプに戻したことになるが、これに関しては、単に昇進に伴う新調の際に既に旧タイプが手に入らなかっただけかもしれないが…
何れにしても、ヴァイスの画像は、これまで後載写真しか見ることがなかったが、これは、それ以前に撮られていた写真であり、興味深い一枚である。

ヘルベルト・ヴァイス陸軍予備役少佐は、1899年11月1日にドレスデンに生まれている。
ベルリン(ノイケルン区)の高等実科学校を卒業後、法定災害保険機関の管理職試補となる。
第一次世界大戦が勃発、1917年にプロイセン陸軍に17歳で志願。
第610歩兵連隊で基礎訓練を受けた後、1918年5月にライン第7区第69歩兵連隊に配属、西部戦線に赴く。
同年8月、榴弾の破片により頸部を負傷するも奮戦、その戦功により陸軍上等兵に昇級および二級鉄十字章が授与。
※同年11月、戦争の終結とドイツ革命(11月革命)。
1919年に軍を退役し、ワイマール共和国の社会保険機関の管理職に再就職。
1930年に上級公務員となる。
1938年、予備士官候補として第23歩兵師団/第68ブランデンブルク歩兵連隊で予備役将校となる教育を受け陸軍予備役少尉となる。
1939年、ベルリンの衛生福祉事業保険組合の副理事に就任。
その他、国家防空連盟(RLB)に所属、グループリーダーとして熱心に活動。
第二次世界大戦の勃発、召集により第257歩兵師団/第466歩兵連隊に配属され、ポーランド侵攻に参加。
陸軍予備役中尉に昇進および中隊指揮官に任官し、西方戦役に参加。
1940年10月、第123歩兵師団/第418歩兵連隊の中隊指揮官に任官。
※1941年6月22日のバルバロッサ作戦発動により所属師団はレニングラードに向け進撃。
同年7月21日、デューナブルク(現:ダウガフピルス/ラトビア)東部での戦闘で右大腿部銃創の重傷を負う。
1942年4月、イルメン湖南東で戦闘中の原隊に復帰。
先の戦功により一級鉄十字章を受章。
同年5月1日付で陸軍予備役大尉に昇進、同日付で同連隊/第Ⅱ大隊指揮官に任官。
同年9月25日、戦略的に重要な鉄道路線を死守すべく、2個小隊から為る部隊を編成し、遥に優勢な敵軍に対し急襲をかけ、これを押し戻した。
だが、この戦闘で再び左肩に重傷を負う。
この戦功に対し、入院先の病室において、1943年1月7日付で騎士鉄十字架章が授与。
(この受章に際し、労働大臣フランツ・ゼルテより直々に祝電も寄せられている。)
同年3月1日付で陸軍予備役少佐に昇進。
同年4月から1945年1月まで西プロイセン・トローン(現:トルン/ポーランド)の第Ⅳ陸軍歩兵科士官学校の指導教官兼検査官主任に就任。
1945年2月3日付で、ポツダムに新編成された第1243次世代指揮官擲弾兵連隊の連隊長に任官。
その10日後、同連隊は第1スキー猟兵師団と共にオーバーシュレージエン州ラーティボーア(現:ラチブシュ/ポーランド)に向け進軍。
オーデル川をめぐる攻防戦において、偵察および突撃作戦の陣頭に立ち奮戦。
同年2月19日、アイヒェンドルフミュール(現:ルドニク/ポーランド)にて戦死。(享年45歳)
同年3月3日、軍葬が執り行われ、ラーティボーアに埋葬された。
ドイツ=ポーランド国境条約(1990年11月14日署名)後の翌年、彼の遺体はラウラヒュッテ(現:シェミャノヴィツェ・シロンスキェ/ポーランド)のドイツ軍墓地に再埋葬されている。

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カテゴリ : 3R
テーマ : 第二次世界大戦【ドイツ】
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