将官三昧…三枚!

2018年末、海外の某軍装商から将官用襟章(残念ながら右側のみ)と胸鷲章の額装、それとプライベート写真を譲って頂いた。
額装された徽章類に関しては、同一人物の装着品かはわからないとのことであるが、以前にも紹介した“マックス・ヴィンクラー陸軍少将”所用の襟章、胸鷲章同様に当時の職人の高い技量レベルをもって、 丁寧に仕上げらた一品である。

そこで今回は、これら写真の人物たちの軍歴などを簡単に紹介させて頂こうと思う。
アルフレート・ティールマン以外の写真は、おそらくは“初見”ではないかと思われる。
先ずは、オットー・マッタァシュトックについて紹介していこうと思うのだが…
これまでマッタァシュトックの画像としては、襟元にズヴォニミール王冠勲章1級(クロアチア)を佩用しているこの一枚(陸軍中将当時)のみだったと思う。
今回掲載する写真の撮影時期は、1941年6月~1942年10月末までの、第716歩兵師団の師団長としてフランスに駐屯していた陸軍少将当時となる。
Generalleutnant Otto Matterstock

オットー・マッタァシュトック陸軍中将は、1889年10月19日、カールバッハ(現:バイエルン州・ウンターフランケン行政管区)に生まれている。
1909年7月19日付で士官候補生としてバイエルン王国陸軍の第17歩兵連隊“Orff”に配属。
1910年3月7日付で見習士官。
1911年12月15日付で陸軍少尉に昇進。
(1914年7月28日、第一次世界大戰が勃発)
1914年8月29日~9月4日、ロートリンゲン地方(現:仏ロレーヌ地域圏)デューズの病院にて関節リウマチの加療。
同年9月8日付で同連隊/行軍銃中隊の小隊指揮官に任官。
同年9月14日付で2級鉄十字章を受章。
同年10月15日~11月7日、同連隊/第I大隊副官代理に任官。
同年11月11日付で剣付き四級バイエルン王国軍事勲章を受章。
同年12月7日~1915年1月29日、ハンメルブルクでの一次・二次下士官教習を受講。
1915年2月18日~3月18日、エルンボルヌ(ベルギー、ワロン地域)練兵所での士官志願者講習を受講。
同年4月6日~11月6日、ロックシュテット(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州)練兵所に於る二次~四次士官志願者講習を受講。
1915年7月9日付で陸軍中尉に昇進。
同年11月21日付で同連隊/第I大隊副官に任官。
1916年2月7日付で同連隊/第I大隊/第8中隊指揮官に任官。
同年5月14日~7月20日、同連隊幕僚部付将校に任官。
同年6月8日付で1級鉄十字章を受章。
同年8月30日、ソンムの戦いにおいてマルタンピュイッシュ(オー=ド=フランス地域圏アラス郡)で英国軍の捕虜となる。
※同年11月28日、オーベルワイド・ホテル(スイス、ザンクト・ガレン)に収監。
1918年8月1日、捕虜交換により送還。
同年8月4日付で同連隊/第Ⅱ大隊に配属。
同年9月11日付で戦傷章黒章を受章。
同年9月15日付で第2バイエルン王国軍団/第1補充行軍銃中隊に転属し、18日付で同中隊指揮官に任官。
敗戦後もヴァイマル共和国陸軍に残留。
1919年5月1日付でハンメルブルク義勇中隊に配属。
同年6月20日付で第46歩兵連隊(バイエルン)/第4中隊に配属。
同年8月22日付で陸軍大尉に昇進。
1920年4月27日付で除隊し、その後、ニュルンベルクのバイエルン州警察に入署。
※1932年10月13日、イルセ・シュローダーと結婚。
1934年1月1日付で警察少佐に昇進。
同年年10月1日付でヴァイマル共和国軍に陸軍少佐として復隊、歩兵連隊“アンベルク”(前身は第20バイエルン歩兵連隊)/第II大隊の指揮官に任官。
※1935年3月16日、ヴェルサイユ条約軍備制限条項の破棄、再軍備宣言によりドイツ国防軍(Wehrmacht)に改名。
1935年6月1日付で陸軍中佐に昇進。
同年10月15日付で第41歩兵連隊(※改名)/第II大隊の指揮官に任官。
1937年1月1日付で陸軍大佐に昇進。
1938年6月1日付でヴュルツブルク(要塞)指揮官に任官。
1939年9月6日付で第73歩兵補充連隊(ヴュルツブルク)指揮官に任官。
同年12月1日付で新設の第183歩兵師団麾下の第330歩兵連隊指揮官に任官。
1941年5月3日付で新設の第716歩兵師団(※仏駐屯軍)の師団長に任官。
同年年5月?、ズヴォニミール王冠勲章1級(Red krune kralja Zvonimira I. stupnja)を受章。※バルカン半島(ユーゴスラビア)に展開した折の戦功によるものと思われる。
同年6月1日付で陸軍少将に昇進。
1942年11月1日付で陸軍中将に昇進。
1943年4月1日付で待命指揮官(Führerreserve)に編入。
同年9月17日付で第147予備師団の師団長に任官。
1944年1月10日付で待命指揮官に編入。
同年4月25日付で第12軍団(ヴィースバーデン)の副司令官に任官。
同年12月1日付で軍管区II/B線(第44要塞地帯/ヴァルタ川東岸)の要塞司令官に任官。
1945年1月29日付で待命指揮官に編入。
同年2月8日付で歩兵師団“マッタァシュトック”の師団長に任官。
中央軍集団/第4装甲軍/第40軍団に属し、オトヴァルカ連隊、テーァマン連隊、第533擲弾兵補充連隊で編成。
師団は、ドイツ-ポーランド-チェコの国境に跨るラウジッツ地域に送られ、グーベンでの激しい戦闘により壊滅。
1961年5月6日、ミュンヘンで亡くなっている。(享年71歳)
Generalmajor Alfred Weidemann

アルフレート・ヴァイデマン陸軍少将は、1895年11月6日に(現)ポーランドのグニェズノ(独:グネーゼン)に生まれている。
1915年1月6日付で義勇兵としてドイツ帝国陸軍の第5徒歩砲兵連隊/補充大隊に入営。
同年3月11日付で第8砲兵中隊に配属され前線に赴く。
同年10月17日付で第14工兵大隊/第1中隊に転属。
同年11月20日~翌1916年1月20日まで将校訓練課程を受講。
1916年1月26日付で陸軍曹長に昇進。
同年3月10日~6月21日まで第3工兵査察部で養成課程を受講。
(※3月20日付で士官候補生となっている)
同年8月7日付で陸軍少尉に昇進。
1918年1月12日~4月30日まで第14工兵大隊副官に任官。
戦後、再びヴァイマル共和国陸軍に入隊し、1919年10月1日付で第313工兵大隊に配属。
1920年10月1日付で第14歩兵連隊に転属。
1924年3月1日付で陸軍中尉に昇進。
1925年3月1日付で歩兵学校の教官に任官。
1928年10月1日付で第14歩兵連隊の中隊指揮官に任官。
1929年2月1日付で陸軍大尉に昇進。
同年10月1日付で同連隊本部に配属。
1932年4月1日付で同連隊副官兼第13中隊指揮官に任官。
1935年6月1日付でドイツ国防軍、陸軍少佐に昇進。
同年10月1日付で第5軍団参謀部転属。
1938年1月1日付で陸軍中佐に昇進。
同年11月10日で陸軍総司令部(OKH)に転属、陸軍兵器局/課長補佐に任官。
1940年6月11日付で第683歩兵連隊の指揮官に任官。
同年12月1日付で陸軍大佐に昇進。
1943年8月26日付で待命指揮官に編入。
同年9月1日付で陸軍少将に昇進。
1944年2月10日付で軍管区司令部E部門長に任官。
1973年12月21日、ドイツ西部(ラインラント=プファルツ州)のコブレンツで亡くなっている。(享年78歳)
最後に紹介するアルフレート・ティールマンは、ドイツ十字章“金章”および“銀章”の両章を受章した全軍合わせて16人中の一人である。
※『Deutsche Kreuz : teil 2』参照
Generalleutnant Alfred Thielmann

アルフレート・ティールマン陸軍中将は、1892年7月20日にオーバーシュレージェン(当時)のクロイツブルク(現:ポーランド/クルチボルク)に生まれている。
1913年3月6日付で、グラウデンツ(現:ポーランド/グルジョンツ)に置かれたプロイセン王国陸軍の第2西プロイセン第23(要塞構築)工兵大隊に士官候補生として配属。
同年11月20日付で見習士官。
同年11月8日から翌1914年8月1日までポツダム戦争学校で修学。
(※在学中に第一次大戦勃発)
1914年8月2日付で陸軍少尉に昇進、同日付で同大隊/第4中隊の小隊指揮官として前線に赴任、同年、二級および一級鉄十字章を受章。
1915年9月25日の戦闘で負傷(※1918年に戦傷章黒章が授与)、仏軍の捕虜(1918年7月13日~1919年8月1日までスイスで収監)となる。
戦後、ヴァイマル共和国陸軍に復隊。
1919年8月3日付で、アレンシュタイン(現:ポーランド/オルシュティン)に置かれた第20工兵大隊に配属。
同年9月10日付で陸軍中尉に昇進。
同年9月23日付で警察中尉としてグライヴィッツ(現:ポーランド/グリヴィツェ)の治安警察に異動。
同年11月8日付でオペルン(現:ポーランド/オポーレ)の治安警察に警察百人隊指揮官(Hundertschaftsführer=中隊規模)兼独側副署長として任官。
1920年11月20日付で警察大尉に昇進。
※1922年6月20日、イルゼ・ゾンマァと結婚。
1924年5月24日付で校長兼教官としてフランケンシュタイン警察学校に赴任。
1928年5月1日付でグライヴィッツ(=グリヴィツェ)の警察本部に転属し、ヒンデンブルク(現:ポーランド/ザブジェ)警察署副署長に就任。
1933年4月1日付で警察少佐に昇進。
1933年8月1日付でブレスラウ(=ヴロツワフ)の“Südwest”(ドイツ領ポーランド南西地区)の州警察監察官室補佐官に就任。
※国防軍(Wehrmacht)発足により1935年5月21日付で(新)ドイツ兵役法が施行。
1935年7月1日付で工兵大隊“Glogau(グローガウ(=グウォグフ))”に配属。
同年8月1日付で陸軍少佐に移行。(※1934年7月1日に遡及して適用)
同年10月15日付で(改名後の)第18工兵大隊の中隊指揮官に任官。
1936年10月6日付でブライグ(現:ポーランド/ブジェク)に新設された第28工兵大隊の指揮官に任官。
1937年1月1日付で陸軍中佐に昇進。
1939年9月、ポーランド侵攻に第28歩兵師団の大隊指揮官として参加。
同年12月1日付で陸軍大佐に昇進。
1940年2月1日付でデッサウ=ロスラウ(ドイツ)の第2工兵学校に転属。
(将校養成課程の指導教官長ゲオルク・ライニッケ陸軍少佐(のち陸軍中将)の後任に就任)
同年5月1日付で待命指揮官に編入。
同年5月20日付で第678工兵連隊の指揮官に任官し、西方戦役に参加。
1941年初夏、第678特別編成工兵連隊本部を編成し、ロシア北部での攻勢に参加。
その後、第56軍団(自動車化)麾下の同連隊本部(自動車化)は東部戦線中央部に移動し、10月からのモスクワの戦いに参加。
1942年3月1日付で第3装甲軍の工兵隊司令官(A.Pi.Fü)に任官。
同年12月3日付でドイツ十字章“銀章”を受章。
1943年3月1日付で待命指揮官に編入。
同年4月1日付で陸軍少将に昇進。
(同年3月29日~4月22日、デーベリッツで行われた第3回師団指揮官養成課程を修学)
同年4月23日付で待命指揮官に編入。
同年5月15日付で第122歩兵師団指揮官(※m.F.b.)に任官。
※m.F.b.:mit der Führung beauftragt(指揮権代行)
同年6月27日付で第32歩兵師団の師団指揮官(m.F.b.)に任官。
同年8月16日付で第254歩兵師団の師団長に任官。
1944年6月1日付で陸軍中将に昇進。
同年11月8日付でドイツ十字章“金章”を受章。
同年12月19日付で待命指揮官に編入。
1945年1月21日付で西部戦線におけるG軍集団の工兵司令官に任官。
1945年5月8日、終戦に伴い米軍に投降、拘禁刑となるも、翌1946年5月18日に釈放。
1988年3月3日、ネッカーゲミュント(バーデン=ヴュルテンベルク州)で亡くなっている。(享年95歳)
【 Nachsatz 】
上記(額装)襟・鷲章セットの持ち主と思しき人物に関して、軍装商の方には人物特定をお願いしていたのだが…
その回答として、「おそらく、ルドルフ・シューベルトという将軍ではないかと思う」旨のメールが届いたので、その人物について追記する。

ルドルフ・シューベルト陸軍中将は、1890年9月27日にテューリンゲン州エアフルトに生まれている。
(※クルト・シューベルト陸軍中将は実弟)
1910年3月1日付で士官候補生。
同年3月15日付で、ベルリン(トレプトウ区)に置かれたプロイセン王国陸軍の第1通信大隊に配属。
同年11月16日付で見習士官。
戦争学校で修学の後、1911年8月18日付(※辞令は20日付)で陸軍少尉に昇進。
同年9月22日付で同大隊/第4中隊指揮官に任官。
1914年8月2日付で第3騎兵師団付簡易通信局の指揮官に任官。
1915年8月18日付で陸軍中尉に昇進。
1916年7月23日付で第17通信隊の指揮官に任官。
1916年9月、第51通信隊の指揮官に任官。
1917年1月4日付で陸軍第3通信司令部の指揮官に任官。
1918年8月18日付で陸軍大尉に昇進、ザクセンの第24予備師団付第424通信隊の指揮官に任官。
※同年11月、戦争の終結とドイツ革命(11月革命)。
ヴェルサイユ条約に基づき“10万人(将校:1400人)陸軍”などの人員制限による大量解雇のなか、敗戦後もヴァイマル共和国軍(Reichswehr)に残留。
同年12月、国境警備の第127義勇旅団通信隊の指揮官に任官。
1919年10月1日付で陸軍大尉として第5旅団/第5通信大隊に配属。
同年12月16日にエリカ・シュルツェ=ザンダーと結婚。
1920年10月1日付でポツダムの第3プロイセン通信大隊/第2中隊指揮官に任官。
1923年10月1日付で第1集団司令部通信幕僚に任官。
1924年4月1日付でフュルステンヴァルデの第9プロイセン騎兵連隊通信幕僚に任官。
その後、ベルリンの国軍省(RWM=Reichswehrministerium)に出向。(※In7:通信部隊の監査)
1925年2月1日付でヴロツワフ(現ポーランド)の第2騎兵師団通信幕僚に任官。
1931年4月1日付でシュトゥットガルト - カンシュタットの第5通信大隊に通信参謀として任官。
同年10月1日付で陸軍少佐に昇進。
1934年4月1日付でユーターボークに置かれた通信教導実験大隊の指揮官に任官。
同年10月1日付で陸軍中佐に昇進。
※1935年3月16日付で国防軍(Wehrmacht)に改称。
同年10月15日付でケーニヒスベルクに新設された第Ⅰ信号部隊の指揮官に任官。
1937年4月1日付で陸軍大佐に昇進。
1938年4月1日付でウィーンに新設された第XVII信号部隊の指揮官に任官。
1939年8月26日付で(第14軍付)第521通信連隊の指揮官に任官。
同年9月29日付で1939年版二級鉄十字章を受章。
同年10月13日付で第12軍通信幕僚に任官。
同年11月1日付で第12軍通信参謀に任官。
1940年6月11日付で1939年版一級鉄十字章を受章。
同年9月1日付でルドルフ・シュレーダー陸軍少将(当時)の後任としてハレ・アン・デア・ザーレの陸軍通信学校校長に就任。
1941年4月1日付で陸軍少将に昇進。
1942年3月5日、シュレージエン地方グラッツ(現ポーランド/クウォツコ)に通信学校の新設に伴い、同学校が第Ⅰ陸軍通信学校に改名、校長職継続。
同年5月5日付でA軍集団通信参謀に任官。
1943年4月1日付で陸軍中将に昇進。
1944年1月26日付でドイツ十字章銀章を受章。
同年4月5日付で南ウクライナ軍集団通信参謀に任官。
1944年7月5日付で待命指揮官に編入。
1945年2月5日付で国民啓蒙・宣伝省に出向。
1945年4月19日付でヴァイクセル軍集団通信幕僚に任官。
1945年5月2日に投降、ハンブルクの東80km程のガーデブッシュの英軍捕虜施設に収監。
(PW NO: 560342 身長:176.5㎝ 体重:66kg)
1948年5月12日に釈放。
1962年1月28日ベルリンで亡くなっている。(享年71歳)

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カテゴリ : 3R
テーマ : 第二次世界大戦【ドイツ】
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