二人の“陸軍参謀大佐”
●Wolf von Kahlden
ヴォルフ・フォン・カールデン陸軍参謀大佐は、1901年9月2日にノイシュタット・バイ・ピンネ(現:ポーランド領ルブベク)に生まれている。
1913年、ケルン近郊ベンスベルクの幼年学校に進学。
1918年、ベルリンのグロス・リヒターフェルデ(現:リヒターフェルデ)の高級士官学校に入学。
1921年、コルベルク(ポーランド、西ポモージェ県の都市)の(ヴァイマル共和国軍)プロイセン第4歩兵連隊の士官候補に任じられる。
1922年~1923年、ミュンヘンの戦争学校で修学。
1923年~1924年、士官候補生としてコルベルクの第4歩兵連隊/第4(機関銃)中隊に配属。
1924年、オーアドルフの戦争学校で修学。
同年12月1日付で陸軍少尉に昇進。
同年5月1日付で第4歩兵連隊/第1中隊の情報小隊指揮官に任官。
1928年4月1日付で陸軍中尉に昇進。
同年、ユーターボークの通信学校で情報課程を修了。
1929年12月1日(~1932年)付で第4歩兵連隊/第I大隊の副官に任官。
1934年7月1日付で陸軍大尉に昇進。
1934年10月1日(~1936年)、ベルリンの戦争アカデミーにて参謀養成課程を修学。
1936年10月6日付でフランクフルト近郊ヴィースバーデンに置かれた第12軍団の作戦参謀(Ia)に任官。
1938年8月1日付で陸軍参謀少佐に昇進。
同年11月10日付でカッセルの第15歩兵連隊/第12(機関銃)中隊指揮官に任官。
1939年8月26日付で(独仏)国境警備隊“ザールプファルツ”の補給主任参謀(Ib)に任官。
同年12月1日付で陸軍総司令部参謀本部に転属。
1939年~1942年、陸軍総司令部人事局、参謀本部第一部第一課(Ia)に配属。
1941年8月1日付で陸軍参謀中佐に昇進。
陸軍総司令部(OKH)と第2装甲集団(グデーリアン)および第3装甲集団(ホト)との連絡将校に任じられている。
同年12月12日付で第2装甲軍最高司令部(PzAOK 2)作戦主任参謀(Ia)に任官。
1943年1月1日付で陸軍参謀大佐に昇進。
同年7月10日付で待命指揮官(Führerreserve)に編入。
同年9月1日付で陸軍の教育訓練機関の監査役に就任。
同年11月8日付で第40装甲軍団に転属。
同年12月5日付で第40装甲軍団参謀長に任官。
1944年9月10日付で第5装甲軍参謀長に任官。
同年11月6日付で第15軍参謀長に任官。
1945年3月10日付で待命指揮官に編入。
その後、バート・ヴィーゼでの高度軍隊組織管理に関する研修中に終戦をむかえる。
1947年9月まで捕虜収容所に収監。
1956年、ドイツ連邦軍の創設にあたり、陸軍大佐として再任官し、後進の指導に尽力。
1957年、陸軍准将に昇進し、ハノーファーの陸軍士官学校Ⅰ(HOS I)の校長に就任。
1961年、退官。
1979年10月27日、ミュンヘンにて亡くなっている。(享年78歳)

“陸軍参謀中佐フォン・カールデン 1941年8月”と鉛筆による裏書きのされた写真。
画像が不鮮明なのが残念ではあるが、襟章の感じ、下衣に薄らと見える側線などから、参謀科の中佐(ピプから)であると思われる。
↓は、ドイツ連邦軍の陸軍准将当時のポートレート。
面相から察すると、この写真の被写体はカールデンであると言って差し支えないと思われる。

◆Blutorden(血の勲章)
カールデンは、1919年にコルベルクのヒンデンブルク義勇軍のメンバーとなっている。
1923年11月8日~9日に起こした、“ミュンヘン一揆(ヒトラー・ルーデンドルフ一揆)”に同窓の士官候補生らと共に参加。
1934年、第1464番目の1923年11月9日名誉章(Ehrenzeichen vom 9. November 1923)が授与されている。

ミュンヘン一揆参加者の顕彰のため、1934年3月15日付で制定。
1938年5月30日以降は“血の勲章(Blutorden)”と改名。

↑は、SS全国指導者ハインリヒ・ヒムラーに附与された“1923年11月9日名誉章”の勲記。(複製品)
書式としては以下のような感じになる。
Besitz-Zeugnis(所有証明書)
Inhaber Dieser Urkunde, SS-Reichsführer
(この証明書の所持者、階級(SS全国指導者))
Heinrich Himmler(氏名(ハインリヒ・ヒムラー)は…)
hat an der nationalen Erhebung in München am 8. und 9. Nobember 1923 teilgenommen.
(1923年11月8日と9日のミュンヘンでの愛国的蜂起に参加)
Ihm wurde anläßlich der Zehn-Jahres-Feier
Das Ehrenzeichen am Band verliehen.
(その10周年の祝賀に際し、リボン付勲章を授与する)
München im Nobember 1933
(1933年11月 ミュンヘンにて)

アドルフ・ヒトラー(印刷署名)


“血の勲章”リボンにボタン穴を加工して、右ポケットフラップのリボンとともにメダルを佩用する例もあるが、通常はポケットフラップのリボンのみ。

礼装時のユーリウス・フォン・ベルヌス(おそらく陸軍大尉当時)。
第2ボタン穴に“血の勲章”リボンを通し、さらにメダルも佩用している。

右ポケットフラップに“血の勲章”リボンを佩用している、陸軍総司令部(OKH)と南方軍集団の連絡将校(陸軍参謀大佐)当時のベルヌス。
因みに、左端の人物は、南方軍集団参謀長(当時)ゲオルク・フォン・ゾーデンシュテルン陸軍歩兵科大将。
●Julius Hans Camillo Friedrich Leo Ludwig von Bernuth
“血の勲章を授与された陸軍参謀大佐”繋がりということで、ベルヌスに関しても記しておく。
ユーリウス・フォン・ベルヌス陸軍参謀大佐(のち陸軍少将)は、1897年8月12日、フランスの北東部のメス(独:メツツ)に生まれている。
1914年8月10日、士官候補生(見習士官)として(帝政陸軍)第115歩兵連隊に配属。
同年9月10日〜11月27日、負傷により離隊。
(一級および二級鉄十字章、戦傷章黒章受章)
同年10月8日付で陸軍少尉に昇進。
同年11月27日~1915年2月3日、第70第33野戦補充大隊に配属。
1915年2月3日~3月18日、第254歩兵連隊に配属。
同年3月18日〜1917年2月28日、第115歩兵連隊の連隊長副官として任官。
1917年2月28日~4月13日、第115歩兵連隊の小隊指揮官として任官。
同年4月13日~1918年12月13日、第365歩兵連隊の大隊長副官として任官。
1918年12月13日~1919年3月4日、第115歩兵連隊の大隊副官として任官。
1919年3月4日~10月1日、第115歩兵連隊の小隊指揮官に任官(第115義勇軍に参加)。
同年10月1日~1920年6月1日、(共和国陸軍)第35回ライフル連隊に配属。
1920年6月1日~1921年1月1日、第22ライフル連隊に配属。
1921年1月1日〜1926年3月1日、第15歩兵連隊/第16中隊(マールブルク)、第11中隊(カッセル)に配属。
1925年4月1日付で陸軍中尉に昇進。
1926年3月1日~1931年8月29日、ドレスデン歩兵学校で修学。
(1928年10月1日~1930年10月1日、ミュンヘンの第7師団において指揮官補研修。
1930年10月1日〜1931年8月29日、ミュンスターの第6師団に配属。
1931年4月1日付で陸軍大尉に昇進。
同年8月29日~1932年3月7日、第II軍管区歩兵指導部に配属。
1932年3月7日~1934年10月1日、共和国軍省の教育・訓練課(T4)に配属。
1934年10月1日~1935年10月15日、歩兵連隊“München”の中隊指揮官に任官。
1935年10月15日〜1936年3月7日、第100山岳歩兵隊連隊の中隊指揮官に任官。
1936年1月1日付で陸軍少佐に昇進。
同年3月7日~1937年8月1日、第17歩兵師団の作戦主任参謀(Ia)に任官。
1937年8月1日~1939年9月1日、ポツダムの戦争アカデミーに戦術教官として就任。
1939年1月1日付で陸軍参謀中佐に昇進。
同年9月1日~10月15日、東プロイセン装甲部隊(臨時編成)の作戦主任参謀(Ia)に任官。
同年10月15日〜1940年3月15日、第26軍団の作戦主任参謀(Ia)に任官。
1940年3月15日~10月26日、第15(自動車化)軍団の参謀長に任官。
1940年5月22日のカンブレ・アラス戦域での戦闘を主導した功により、同年8月5日付で騎士鉄十字章を受章。
同年10月26日〜1941年3月6日、陸軍総司令部(OKH)参謀本部第四(教育・訓練)課長に就任。
同年12月1日付で陸軍参謀大佐に昇進。
1941年3月6日~1942年1月10日、OKHと南方軍集団の連絡将校に任官。
1942年1月10日〜4月27日、第4軍の参謀長に任官。
同年4月1日付で陸軍少将に昇進。
同年4月27日~7月12日、第4装甲軍の参謀長に任官。
1942年7月12日、午後3時30分頃、司令部を出発し、第40軍団に向け飛び立った後、乗機のFi-156シュトルヒが消息を絶った。
二日後の14日、墜落した機体がSsochkranaja(ウクライナ)近くで発見された。
その機体の傍にあったベルヌスとパイロットのリンケ空軍上級曹長の遺体には、両人とも頭部に近距離からの銃創があった。
おそらく被弾し、何とか不時着したものの赤軍パルチザンにより射殺されたものと思われる。
ベルヌスの遺体はFrolowskijの墓地に埋葬された。(享年44歳)

1940年春、第15(自動車化)軍団の参謀長に就任直後…やはり、直下の第7戦車師団指揮官に就任直後のロンメルとモーゼル川流域の視察の際に撮られた写真。
因みに、この時は“血の勲章”リボンは佩用していない。
ヴォルフ・フォン・カールデン陸軍参謀大佐は、1901年9月2日にノイシュタット・バイ・ピンネ(現:ポーランド領ルブベク)に生まれている。
1913年、ケルン近郊ベンスベルクの幼年学校に進学。
1918年、ベルリンのグロス・リヒターフェルデ(現:リヒターフェルデ)の高級士官学校に入学。
1921年、コルベルク(ポーランド、西ポモージェ県の都市)の(ヴァイマル共和国軍)プロイセン第4歩兵連隊の士官候補に任じられる。
1922年~1923年、ミュンヘンの戦争学校で修学。
1923年~1924年、士官候補生としてコルベルクの第4歩兵連隊/第4(機関銃)中隊に配属。
1924年、オーアドルフの戦争学校で修学。
同年12月1日付で陸軍少尉に昇進。
同年5月1日付で第4歩兵連隊/第1中隊の情報小隊指揮官に任官。
1928年4月1日付で陸軍中尉に昇進。
同年、ユーターボークの通信学校で情報課程を修了。
1929年12月1日(~1932年)付で第4歩兵連隊/第I大隊の副官に任官。
1934年7月1日付で陸軍大尉に昇進。
1934年10月1日(~1936年)、ベルリンの戦争アカデミーにて参謀養成課程を修学。
1936年10月6日付でフランクフルト近郊ヴィースバーデンに置かれた第12軍団の作戦参謀(Ia)に任官。
1938年8月1日付で陸軍参謀少佐に昇進。
同年11月10日付でカッセルの第15歩兵連隊/第12(機関銃)中隊指揮官に任官。
1939年8月26日付で(独仏)国境警備隊“ザールプファルツ”の補給主任参謀(Ib)に任官。
同年12月1日付で陸軍総司令部参謀本部に転属。
1939年~1942年、陸軍総司令部人事局、参謀本部第一部第一課(Ia)に配属。
1941年8月1日付で陸軍参謀中佐に昇進。
陸軍総司令部(OKH)と第2装甲集団(グデーリアン)および第3装甲集団(ホト)との連絡将校に任じられている。
同年12月12日付で第2装甲軍最高司令部(PzAOK 2)作戦主任参謀(Ia)に任官。
1943年1月1日付で陸軍参謀大佐に昇進。
同年7月10日付で待命指揮官(Führerreserve)に編入。
同年9月1日付で陸軍の教育訓練機関の監査役に就任。
同年11月8日付で第40装甲軍団に転属。
同年12月5日付で第40装甲軍団参謀長に任官。
1944年9月10日付で第5装甲軍参謀長に任官。
同年11月6日付で第15軍参謀長に任官。
1945年3月10日付で待命指揮官に編入。
その後、バート・ヴィーゼでの高度軍隊組織管理に関する研修中に終戦をむかえる。
1947年9月まで捕虜収容所に収監。
1956年、ドイツ連邦軍の創設にあたり、陸軍大佐として再任官し、後進の指導に尽力。
1957年、陸軍准将に昇進し、ハノーファーの陸軍士官学校Ⅰ(HOS I)の校長に就任。
1961年、退官。
1979年10月27日、ミュンヘンにて亡くなっている。(享年78歳)

“陸軍参謀中佐フォン・カールデン 1941年8月”と鉛筆による裏書きのされた写真。
画像が不鮮明なのが残念ではあるが、襟章の感じ、下衣に薄らと見える側線などから、参謀科の中佐(ピプから)であると思われる。
↓は、ドイツ連邦軍の陸軍准将当時のポートレート。
面相から察すると、この写真の被写体はカールデンであると言って差し支えないと思われる。

◆Blutorden(血の勲章)
カールデンは、1919年にコルベルクのヒンデンブルク義勇軍のメンバーとなっている。
1923年11月8日~9日に起こした、“ミュンヘン一揆(ヒトラー・ルーデンドルフ一揆)”に同窓の士官候補生らと共に参加。
1934年、第1464番目の1923年11月9日名誉章(Ehrenzeichen vom 9. November 1923)が授与されている。

ミュンヘン一揆参加者の顕彰のため、1934年3月15日付で制定。
1938年5月30日以降は“血の勲章(Blutorden)”と改名。

↑は、SS全国指導者ハインリヒ・ヒムラーに附与された“1923年11月9日名誉章”の勲記。(複製品)
書式としては以下のような感じになる。
Besitz-Zeugnis(所有証明書)
Inhaber Dieser Urkunde, SS-Reichsführer
(この証明書の所持者、階級(SS全国指導者))
Heinrich Himmler(氏名(ハインリヒ・ヒムラー)は…)
hat an der nationalen Erhebung in München am 8. und 9. Nobember 1923 teilgenommen.
(1923年11月8日と9日のミュンヘンでの愛国的蜂起に参加)
Ihm wurde anläßlich der Zehn-Jahres-Feier
Das Ehrenzeichen am Band verliehen.
(その10周年の祝賀に際し、リボン付勲章を授与する)
München im Nobember 1933
(1933年11月 ミュンヘンにて)

アドルフ・ヒトラー(印刷署名)


“血の勲章”リボンにボタン穴を加工して、右ポケットフラップのリボンとともにメダルを佩用する例もあるが、通常はポケットフラップのリボンのみ。

礼装時のユーリウス・フォン・ベルヌス(おそらく陸軍大尉当時)。
第2ボタン穴に“血の勲章”リボンを通し、さらにメダルも佩用している。

右ポケットフラップに“血の勲章”リボンを佩用している、陸軍総司令部(OKH)と南方軍集団の連絡将校(陸軍参謀大佐)当時のベルヌス。
因みに、左端の人物は、南方軍集団参謀長(当時)ゲオルク・フォン・ゾーデンシュテルン陸軍歩兵科大将。
●Julius Hans Camillo Friedrich Leo Ludwig von Bernuth
“血の勲章を授与された陸軍参謀大佐”繋がりということで、ベルヌスに関しても記しておく。
ユーリウス・フォン・ベルヌス陸軍参謀大佐(のち陸軍少将)は、1897年8月12日、フランスの北東部のメス(独:メツツ)に生まれている。
1914年8月10日、士官候補生(見習士官)として(帝政陸軍)第115歩兵連隊に配属。
同年9月10日〜11月27日、負傷により離隊。
(一級および二級鉄十字章、戦傷章黒章受章)
同年10月8日付で陸軍少尉に昇進。
同年11月27日~1915年2月3日、第70第33野戦補充大隊に配属。
1915年2月3日~3月18日、第254歩兵連隊に配属。
同年3月18日〜1917年2月28日、第115歩兵連隊の連隊長副官として任官。
1917年2月28日~4月13日、第115歩兵連隊の小隊指揮官として任官。
同年4月13日~1918年12月13日、第365歩兵連隊の大隊長副官として任官。
1918年12月13日~1919年3月4日、第115歩兵連隊の大隊副官として任官。
1919年3月4日~10月1日、第115歩兵連隊の小隊指揮官に任官(第115義勇軍に参加)。
同年10月1日~1920年6月1日、(共和国陸軍)第35回ライフル連隊に配属。
1920年6月1日~1921年1月1日、第22ライフル連隊に配属。
1921年1月1日〜1926年3月1日、第15歩兵連隊/第16中隊(マールブルク)、第11中隊(カッセル)に配属。
1925年4月1日付で陸軍中尉に昇進。
1926年3月1日~1931年8月29日、ドレスデン歩兵学校で修学。
(1928年10月1日~1930年10月1日、ミュンヘンの第7師団において指揮官補研修。
1930年10月1日〜1931年8月29日、ミュンスターの第6師団に配属。
1931年4月1日付で陸軍大尉に昇進。
同年8月29日~1932年3月7日、第II軍管区歩兵指導部に配属。
1932年3月7日~1934年10月1日、共和国軍省の教育・訓練課(T4)に配属。
1934年10月1日~1935年10月15日、歩兵連隊“München”の中隊指揮官に任官。
1935年10月15日〜1936年3月7日、第100山岳歩兵隊連隊の中隊指揮官に任官。
1936年1月1日付で陸軍少佐に昇進。
同年3月7日~1937年8月1日、第17歩兵師団の作戦主任参謀(Ia)に任官。
1937年8月1日~1939年9月1日、ポツダムの戦争アカデミーに戦術教官として就任。
1939年1月1日付で陸軍参謀中佐に昇進。
同年9月1日~10月15日、東プロイセン装甲部隊(臨時編成)の作戦主任参謀(Ia)に任官。
同年10月15日〜1940年3月15日、第26軍団の作戦主任参謀(Ia)に任官。
1940年3月15日~10月26日、第15(自動車化)軍団の参謀長に任官。
1940年5月22日のカンブレ・アラス戦域での戦闘を主導した功により、同年8月5日付で騎士鉄十字章を受章。
同年10月26日〜1941年3月6日、陸軍総司令部(OKH)参謀本部第四(教育・訓練)課長に就任。
同年12月1日付で陸軍参謀大佐に昇進。
1941年3月6日~1942年1月10日、OKHと南方軍集団の連絡将校に任官。
1942年1月10日〜4月27日、第4軍の参謀長に任官。
同年4月1日付で陸軍少将に昇進。
同年4月27日~7月12日、第4装甲軍の参謀長に任官。
1942年7月12日、午後3時30分頃、司令部を出発し、第40軍団に向け飛び立った後、乗機のFi-156シュトルヒが消息を絶った。
二日後の14日、墜落した機体がSsochkranaja(ウクライナ)近くで発見された。
その機体の傍にあったベルヌスとパイロットのリンケ空軍上級曹長の遺体には、両人とも頭部に近距離からの銃創があった。
おそらく被弾し、何とか不時着したものの赤軍パルチザンにより射殺されたものと思われる。
ベルヌスの遺体はFrolowskijの墓地に埋葬された。(享年44歳)

1940年春、第15(自動車化)軍団の参謀長に就任直後…やはり、直下の第7戦車師団指揮官に就任直後のロンメルとモーゼル川流域の視察の際に撮られた写真。
因みに、この時は“血の勲章”リボンは佩用していない。

スポンサーサイト
カテゴリ : 3R
テーマ : 第二次世界大戦【ドイツ】
ジャンル : ブログ