幽霊師団、西へ西へ…

1939年9月1日、ドイツ軍はポーランド領内に侵攻を開始した。
その数日前の8月23日付で、エルヴィン・ロンメルは陸軍少将に昇進し、同日付で総統司令部管理部長に任官している。
開戦から半年…ロンメルはまだ実戦からは距離をおいた立場に就いたままだったが、この時期にヒトラーという大きな後ろ盾を得たことで、ロンメルの歯車は大きく動き出すこととなる。
旧体制の指揮官との違いをアピールすべく、前線部隊の将兵達と行動を共にすることを好んだヒトラーの警護責任者であったロンメルは、勿論のことヒトラーと行動を共にすることで、前線における新時代の戦術を実地に学ぶ機会を得た。
それまでロンメルのなかにもあった歩兵至上主義的考えが、既に時代にそぐわないことを実感すると、それまでの考えに固執することなく、柔軟な思考での発想の転換を実践すべく…
それまで歩兵畑一筋で戦車部隊の指揮など経験がないにも拘わらず、ヒトラーに働きかけて、戦車部隊の指揮官を切望し…1940年2月5日付で、ボンのバート・ノイェンアールに司令部を置く第7装甲師団の師団長に任官することとなる。
※第7装甲師団の前身である第2軽師団は、1938年11月10 日付で、軍事地区IXのゲーラ(テューリンゲン州)で設立し、ゲオルク・シュトゥンメ陸軍中将(当時)が師団長に任官。
南方軍集団/第10軍隷下の部隊としてポーランド戦役に参加した後、1939年10月18日付で第7装甲師団として再編成し、シュトゥンメがそのまま師団長に任官したが、1940年2月5日付でロンメルがその後を引き継いだ。
当然のことながら、陸軍としてはこの人事には難色を示したが、ヒトラーはそれを却下した。
そして迎ええた西方戦役において、戦車部隊の機動性を駆使した司令官としての才能を開花させ…後に北アフリカにおいて、“砂漠の狐”としてその名を馳せることとなる。
ロンメル率いる第7装甲師団は、ゲルト・フォン・ルントシュテット陸軍上級大将(当時)指揮のA軍集団/ギュンター・フォン・クルーゲ陸軍上級大将(当時)指揮の第4軍隷下のヘルマン・ホト歩兵科大将(当時)指揮の第15(自動車化)軍団に所属していた。
1940年5月9日午後1時45分、「黄色作戦(Fall Gelb)」の暗号名“ドルトムント”がロンメルに伝達され、同日午後10時30分、翌日の開戦決定を示す暗号「ダンツィヒ」受領。
同日午後11時40分に第7装甲師団は所定の位置に配備完了。
日付が変わり、10日午前5時35分に第7装甲師団は国境を超えてベルギー領へ侵攻を開始する。
ロンメルは、第7装甲師団を以下の五集団からなる陣形により進軍を開始した。
フリードリヒ=カール・フォン・シュテインケラー陸軍少佐指揮の第7オートバイ兵大隊を中心とした先鋒集団。
フリードリヒ・フュルスト陸軍大佐指揮の第7狙撃兵旅団を中心とした第二集団。
カール・ローテンブルク陸軍大佐指揮の第25戦車連隊を中心とした中核の第三集団。
ゲオルク・フォン・ビスマルク陸軍大佐指揮の第7狙撃兵連隊を中心とした第四集団。
ペートン陸軍大尉指揮のもと戦闘部隊を含まない兵站輸送、医療、野戦郵便などの後方支援部隊から構成された殿集団。
第7装甲師団の役割は、先鋒部隊として、エヴァルト・フォン・クライスト騎兵科大将(当時)指揮の“クライスト装甲集団”(ハインツ・グデーリアン装甲兵科大将(当時)指揮の第19装甲軍団、ゲオルグ・ハンス・ラインハルト陸軍中将(当時)指揮の第41装甲軍団から構成)に対する北側からの連合軍主力部隊の盾となり、アベビルまでの西進を援護するに止まっていたのだが…

5月13日、自らボートを漕いでマース川を渡河するロンメル。
13日、ディナンの橋頭堡を守備していたフランス第9軍/第11軍団による抵抗にあったものの、何とかマース川を渡河。
14日早朝、既に渡河を済ませた30輌程の戦車だけで西方約6km先のオナイユに向け進撃を開始した。
ロンメルにとっては珍しいことではなくなるのだが…この時、師団長自らIII号指揮戦車に搭乗している。
オナイユの手前に差し掛かった時、ロンメル搭乗の指揮戦車が対戦車砲の砲撃に合い横転…
顔にかすり傷を負ったものの、何とか無事に脱出…
駆けつけたカール・ローテンブルク陸軍大佐(当時)指揮の第25戦車連隊により救出されるという事態が発生した。
横転したIII号指揮戦車は走行不能のため、その後はローテンブルク搭乗のⅣ号戦車に同乗し指揮を続行。

指揮戦車のハッチ越しに確認事項のチェックなどをするロンメルとローテンブルク。
ローテンブルクは、このフランス侵攻における戦功により1940年6月3日付で騎士鉄十字章を受章。(※第一次世界大戦時、ロンメル同様にプール・ル・メリット勲章も受章している。)
その1年後、独ソ戦(バルバロッサ作戦)開戦直後の1941年6月28日にベラルーシのミンスク近郊にて戦死…死後、陸軍少将に特進。(享年47歳)
15日午前8時頃、フラヴィオンに燃料補給(待ち)のため集結していたフランス第1戦車師団を発見。
南端に展開していた第25、第28戦車大隊を強襲して損害を与えたものの、主力部隊は別の場所にいたため打撃を与えるまでには至らなかった。
ロンメルは深追いすることなく、午前11時頃には戦線を離脱し、再び西進を続けた。
因みに、マース川渡河でロンメルに先を越され、ようやくフラヴィオンにさしかかったマックス・フォン・ハルトリープ=ヴァルシュポルン陸軍中将率いる第5装甲師団/第31戦車連隊は…
こちらもようやく補給を終え、体制を立て直した第1戦車師団の主力4個大隊+1個独立大隊と相対する羽目に…
辛くもその日の夕刻までにはフランス軍を退けることに成功したものの、ロンメルとハルトリープとの確執が一層深刻化したのは言うまでもない。
一方、西進を続けるロンメルは…正午頃にはフィリップヴィルを通過…
結局、その後はベルギー領内のフランス軍による抵抗らしい抵抗を受けることなく…
逆に、フランス国内へと敗走するフランス軍を追走するカタチで…
午後8時頃には、フランスとの国境まで10km弱のフォアシャペルに達していた。
A軍集団司令部の判断としては、その段階で既に第7装甲師団が突出し過ぎており、補給部隊も追いつかなくなる可能性があるとして、進撃を一旦停止させるべきだと判断。
上部組織の第15装甲軍団のホトを通じて国境線手前での停止を命じている。
16日の午後になって、A軍集団司令部は翌17日午前内の進撃許可を通達しているが…
その頃には既に、ロンメルは国境手前のシヴリー=ランスからそのまま国境を目指していた。
午後6時頃、国境を跨ぐ街道沿いに展開するフランス軍の国境守備隊との交戦となる。
因みに、この辺りの国境線はマジノ線最北のロンウィーよりも100km以上北に位置しており、小規模な防衛線にすぎなかったようだが…
勿論、フランス側としても自国国境線に向けて進撃中のドイツ軍の動きを把握、警戒し、15日の段階で、国境線から10km程のアヴェーヌ周辺に第5自動車化歩兵師団、第18歩兵師団、および第1戦車師団の残存部隊を展開させる運びとなったが…
ロンメル師団を過小評価しており、その動きの速さにも対応できていなかった。
そのため、ロンメルが午後11時頃に国境線を突破した時点では、何と戦闘隊形を取ってないどころか…街道の両脇に車輌を停車した状態で休息中…ほとんど無防備状態であった。
そのためロンメルは、街道の真ん中を砲撃を加えつつ進撃を続け、いとも簡単にこれらを壊滅させ…日付を跨ぎ、17日午前3時頃にアヴェーヌに達している。
ロンメルは、そのまま止ることなくアヴェール郊外に展開していた第1戦車師団の残存戦車などからなる10数輌を撃破し、さらに西進。
30km程西のル・カトーに向けて進撃し、午前6時30分頃には、その手前にまで達した。
※地図A
余談だが…
ロンメルが国境を越え、50km程先のル・カトーの手前までに要した時間は約7時間…
進撃速度としては時速7kmを超える勢いである。
参考までに…フランスが第1戦車師団のフラヴィオンへの派兵の際に、自軍領内の約35kmの移動に5時間程の時間を要しており…
ロンメルは敵地において、これに匹敵もしくはそれ以上の速度で進撃していたことになる。
フランス側からすれば、いつの間にか忍び寄る…まさに“幽霊師団”と思えたことであろう。
ただ、この速さはロンメルの自軍からしても速過ぎの観があり…
第7装甲師団のほとんどの部隊がついて来れず…
ル・カトー手前に到達した時には、主力の戦車2個大隊と少数のオートバイ狙撃兵小隊のみで、他の砲兵、狙撃兵連隊、工兵大隊、もう一つの戦車大隊は後塵を拝していた。
狙撃兵連隊に至っては、まだベルギー領内に留まっていた程である。
ここに至って、はじめて後続がついてきていないことに気付いたロンメルは、最前線から取って返し、追いつくように叱咤激励に走る。
因みに、第7装甲師団の司令部は依然ベルギー領内のフォアシャペルにあり…(司令部自体は国境を越えていないという言い訳も立つ)
当然、師団長であるロンメルはそこにはいないわけである。
勿論、司令部とは逐次、無線を通して交信していたものの…
国境線手前での待機という(都合の悪い)命令に関しては、無線の不調で通信が途絶していたために受領出来ず、そのまま西進を継続した旨を事後報告している。
なんとも絶妙なタイミングでの無線機の不調なのである…(苦笑)

作戦参謀(Ia)のオットー・ハイドケンペル陸軍参謀少佐(当時)としては、遥か先を行くロンメルおよびローテンブルクらの安否すら把握できないことが度々あり、参謀将校として安易に進むに進めないという事情もあったものと思われるのだが…
お構いなしに前進していたロンメルにとっては、この行動が相当に歯痒かったようで、この時の模様を記した後日の手紙の中で…「私はできる限り早くハイドケンペルを追い出してやる。この若い参謀少佐は第一線から32kmも後方にいながら自分と参謀部員が危険な目に合うのではと恐れていた。」と綴ったとのことである。
(↑の写真は…1ヶ月後の6月19日、“シェルブール”第1海軍管区司令本部の中庭にて撮影)
Otto Heidkämper
ハイドケンペルは、1901年3月13日、ニーダーザクセン州シャウムブルク郡ラウエンハーゲンで生まれている。
1918年夏、士官候補生としてドイツ帝国陸軍に入隊、第10工兵補充大隊に配属。
1918年の夏の終わりに、第10ハノーファー工兵大隊第に転属。
戦後もヴァイマル共和国軍に残る。
1921年1月1日付で陸軍少尉に昇進し、第6プロイセン工兵大隊/第1中隊に配属。
1922年4月1日付で陸軍少尉に昇進。
1927年2月1日付で陸軍中尉に昇進。
同年11月1日付で第6プロイセン工兵大隊付副官に任官。
1932年10月1日付で第1集団司令部工兵監付副官に任官。
1933年秋から、戦争アカデミーにおける参謀幕僚養成課程に進む。
1934年4月1日付で陸軍大尉に昇進。
1935年(夏頃)から、新設された陸軍総司令部の陸軍参謀本部勤務となる。
1937年10月12日付で第19工兵大隊/第3中隊指揮官に任官。
1938年(夏頃)に参謀本部に戻り、8月1日付で陸軍参謀少佐に昇進、第9陸軍支所に勤務。
同年11月から、アイフェル国境警備隊の司令部勤務となる。
1939年5月1日付で第2軽師団の作戦参謀(Ia)に任官。
同年10月18日付で再編成された第7戦車師団でも、そのまま作戦参謀(Ia)として任官。
1940年11月1日付で陸軍参謀中佐に昇進。
同年11月15日付で第4装甲師団の作戦参謀(Ia)に任官。
1942年3月2日付(~4月3日)で、第4装甲師団の師団長ハインリヒ・エーバァバッハ陸軍少将(当時)負傷により指揮官を代行。
1942年3月7日付でドイツ十字章金章を受章。
※エーバァバッハは同年4月4日より職務復帰。
同年4月11日付で待命指揮官(Führerreserve)となる。
同年5月13日付で第24軍団の参謀長に任官。
同年6月1日付で陸軍参謀大佐に昇進。
同年6月21日付で第24軍団が第24装甲軍団に名称変更…そのまま参謀長に任官。
1943年1月20日、(前々任)第24装甲軍団司令官アルノ・ヤール陸軍中将がポドゴルノエ(露)で自殺…
引き継いだ(前任)カール・アイブル陸軍中将は、翌日の21日に伊軍の仕掛けた爆薬により誤って殺害されるという怪事が続き…同日付(~2月9日)で司令官を代行。
※後任司令官は、アフリカ戦線から左遷となったヴァルター・ネーリング装甲兵科大将。
同年2月8日付で騎士鉄十字章を受章。
同年3月、待命指揮官となる。
同年5月5日付で第3装甲軍の参謀長に任官。
同年11月1日付で陸軍少将に昇進。
1944年9月1日付で中央軍集団の参謀長に任官。
同年11月9日付で陸軍中将に昇進。
(現)北方軍集団がクールラント半島で孤立、包囲されたことにより、1945年1月25日付で(現)中央軍集団を(新)北方軍集団と改称。※A軍集団が(新)中央軍集団の名称を引き継ぐ。
1945年1月25日付で再び待命指揮官となる。
同年4月、エルツ山地地区司令官ヘルマン・ホト陸軍上級大将隷下のガイジング地区指揮官に任官。
同年4月27日付で第464師団の指揮官に任官。
終戦により米軍に投降。
1969年2月16日、ニーダーザクセン州シャウムブルク郡ビュッケブルクで亡くなっている。
(享年67歳)
因みに、ロンメルを支える第7装甲師団のブレーンとしては…
“参謀”を要とした、いわゆる“幕僚”たちであり、作戦参謀(Ia)のハイドケンペル以下…
兵站参謀(Ib)のヨアヒム・フォン・メッシュ陸軍参謀大尉
情報参謀(Ic)のヨアヒム・ツィーグラー陸軍少佐 ※後述
以上の3人が、参謀将校(Generalstabsoffizier)。
師団副官(IIb)のハンス=ヨアヒム・シュレプラー陸軍大尉
ロンメルの(個人)補佐官としてカール・アウグスト・ハンケ陸軍予備役少尉 ※後述
また、上記面々以外にも、衛生(軍医)部、経理部などの専門性の高い将校(もしくは相当官)も幕僚には含まれた。

↑は、特定はできないが…1940年6月5日にケノワ=シュル=エーレーヌ(アミアンから北西に約25km程)で撮られた、第7装甲師団付の陸軍軍医少佐(Oberstabsarzt)とされる人物の写真である。
第7装甲師団軍医部長は、ヴィルヘルム・バウマイスター陸軍軍医大佐(当時)であった。
バウマイスターは、1939年3月1日付で陸軍軍医大佐(Oberstarzt)に昇進、ポーランド戦役の際に、第7装甲師団の前身である第2軽師団の軍医部長に就任している。
1936年まで、民間で医業に携わっていたが、その評判と実績を請われ…49歳にして国防軍に服務することとなり、すぐに陸軍軍医中佐(Oberfeldarzt)に昇進。
1938年、第2軽師団軍医部長と第47医療部隊主任を兼務。
1941年2月15日付で第8軍団軍医部長に就任。
同年10月1日付で陸軍軍医少将(Generalarzt)に昇進。
オーストリアの第17軍管区軍医長に就任。
ヴァルター・ハイツ砲兵科大将の指揮する第8軍団は、南方軍集団隷下の第6軍に所属…
スターリングラードではソ連軍に包囲されるも、バウマイスターはからくも空路脱出。
一旦、ウィーンに戻った後、 1943年1月22日付(既にスターリングラードでの降伏前に…)で新編成の第8軍団司令本部において医療部隊の編成を担当。
1943年3月23日付で、新編成の第6軍軍医部長に就任。
話を戻し、ロンメルは最前線の防衛をローテンブルクに任せ…師団長自らが戦闘指揮装甲車を駆って逆走するという異例の行動を執った。
護衛には数輌の軽車輌とIII号戦車1輌がついただけだったが…そのIII号戦車もエンジンの不調で着いてこれなくなると、ロンメルはそのまま先を急いだ。
ル・カトーに達した先鋒部隊と本隊の間には、駆逐したとはいえ、フランス軍の残存部隊がまだいたわけで、当然、その直中を突っ切ることとなるが…
ロンメルたちは呆気に取られるフランス軍を尻目に堂々と走りぬけ…
そのうえ、フランス戦車部隊の指揮官を見つけるや、装甲車から飛び出し、独語で捲し立て…武装解除をさせている。
午後4時頃にロンメルがアヴェーヌに戻ってきた時には、降伏勧告を受け入れたフランス軍の鹵獲車輌40輌程が後続しているという異様な光景だったということである。
結局、この16日、17日の戦闘でフランス兵3500名程を捕虜(戦死、戦傷者は500名以上)としたが…ロンメル側の損害は、戦死35名、負傷59名と軽微なものであった。
この時点におけるフランス側の守備軍はアンドレ・ジョルジュ・コラー軍陸将指揮下の第9軍とシャルル・アンツィジェール軍陸将指揮下の第2軍が共同してスダン突破(Percée de Sedan)を戦う事になり、国境突出部の先のベルギー領内ディナンに展開していたが、第2軍と第9軍の境界線を突く形で電撃的な進撃をみせたドイツ軍のA軍集団の機甲部隊を押し留めることが出来ずスダンの保持は困難となった。
コラーは、マース戦線崩壊の責任を問われ司令官を解任・更迭され、15日付でアンリ・オノレ・ジロー軍陸将が引き継ぐこととなった。
しかし、司令部の置かれていたル・カトーがドイツ軍に占拠され…
辛くも脱出したジローも、19日にはル・カトーから南に10km程のヴァシニーの農家の納屋に隠れているところを発見され、ドレスデン郊外のケーニッヒシュタイン城に軟禁されている。
ドイツ軍の金床戦術にまんまと嵌ってしまったフランス軍の反撃はほぼ力尽き…
また、その後の対応も全くと言っていいほど取れず、剰え、その責任を現場の指揮官の所為とするその無能ぶりに業を煮やしたポール・レノー仏首相は、連合軍総司令官モーリス・ガムラン軍陸将を解任…マキシム・ウェイガン軍陸将をその後任に任命した。
15日、急遽パリを訪れたウィンストン・チャーチル英国首相とレノーは、現情報と今後の対応に関して協議しているが…この時点では、チャーチルも対応にはまだ時間的余裕があるとの見解だったようである。

5月17日、ランドルシーにて…フランス軍の捕虜から事情を聴くロンメル。
写真のキャプションでは、Capitaine(大尉)となっているが、おそらくCaporal-chef de première classe(先任上級伍長)かと思われる。

5月17日、ル・カトーのローテンブルクと合流。
ローテンブルク(右)から戦況報告を受けるロンメル(左)。
翌18日、小規模な戦闘の後、北西に12.5km程直進し、カンブレーに入ったところで進軍停止を命じられた。
一方、グデーリアンの第19装甲軍団も…上層部からの命令を無視し続けて西進し…
上官のクライストも、それまである程度は黙認していたものの、17日に発令された総統命令12号(A軍集団の進撃停止命令)すら無視して、武力偵察と称した進撃継続に対し、堪忍袋の緒が緩み…すぐさま前線のグデーリアンの元にFi156シュトルヒで飛び、これまでの独断専行を叱責した。
気短で気位の高いグデーリアンは、これに憤慨し…勢いに任せて…軍団長を辞任するという話にまで発展してしまう。
結局、最上官であるルントシュテットが、調停役としてヴィルヘルム・リスト陸軍上級大将(当時/第12軍司令官)を派遣し、何とか事を収めた。
英国陸軍参謀総長ウィリアム・エドムント・アイアンサイド陸軍大将(当時)は、その突出し過ぎているグデーリアンと後続の歩兵各師団にはまだ間隙が生じており、連合軍の背後を完全に遮断するには至っておらず、反撃、退却の余地はまだ残されていると考え…フランス軍司令部がA軍集団への反撃行動を起こさないことに業を煮やし、自ら作戦に介入することを決意。
英国海外派遣軍(BEF)司令官ジョン・ヴェレカー(6代ゴート子爵)陸軍大将(当時)と協議して、フランス第一軍集団司令官ガストン・アンリ・ギュスターヴ・ビョット軍陸将を説得し、英仏共同で南方面への反攻を行うことで同意に至った。
だが既に、B軍集団による北東方面からの激しい圧力を受けており、南方面に転進させるだけの余力がないのが現状であった。

5月20日、ロンメルはアラスに向け進撃。
同日、グデーリアンは英仏海峡に面するアブヴィルに到達し、これによりベルギー、北フランスにいる連合軍主力は孤立。
この封鎖を破るため、翌21日、BEF司令官ヴェレカーは予備兵力として温存していた2個歩兵師団+1個戦車旅団+(仏)1個師団を派兵。
ところが事前の調整が間に合わず、投入されたのはBEFの第4&第7王立戦車連隊(第1陸軍戦車旅団)と第13歩兵旅団(第5歩兵師団)、第150&第151歩兵旅団(第50歩兵旅団)に加え、フランス軍の第3軽機甲師団からの若干数だけという兵力だった。
この時、ロンメルは5月16日付で第7装甲師団に配属されていたSS師団“Totenkopf”と共にアラス南西を北へ旋回して進軍していたが…予定では、第7装甲師団の北側は、犬猿…狐狸?の仲の、あのハルトリープの第5装甲師団が援護するはずだったが、進軍が遅れていたため、この戦闘から本格登用された16輌のマチルダII歩兵戦車を擁する英国軍に、その右側面を突かれるかたちとなってしまった。(※主力は58輌のマチルダI歩兵戦車)
因みに、テオドール・アイケSS中将(当時)率いるSS師団“Totenkopf”は、戦闘経験も乏しく、士官を含む300人以上が死傷するという大損害を被って敗走した。
チェコ製戦車は勿論のこと、III号戦車や短砲身型のIV号戦車…3.7cmPak36(対戦車砲)もマチルダIIの75mmの重装甲には歯が立たなかった。

アラス線区で水平射撃される8.8cm FlaK(Flugabwehrkanone)18
そこで、10.5cm-leFH18(軽榴弾砲)および8.8cm-FlaK18(高射砲)を水平射撃することで対戦車砲の如く使用してマチルダIIに対抗し、なんとか撃破した。
さらに、急降下爆撃機シュトゥーカによる空からの攻撃が加わり、ついに英仏連合軍は攻勢を諦め、戦闘はわずか半日で終結した。
ドイツ軍がIV号戦車3輌、38(t)戦車6輌を含めた計12輌を失ったのに対して、英仏連合軍は合わせて40輌以上が撃破された。
また、人員としては約700名が死傷、約400名が捕虜となったが、そのほとんどが“88(acht-acht)”を攻撃の要に登用する前の損害ということである。
ロンメルの日記によれば、この“アラスの戦い”における第7装甲師団の戦死者89名、負傷者116名、行方不明・捕虜173名とのことである。

“アラスの戦い”の戦闘後、放棄されたマチルダIIを調べているSS師団“Totenkopf”の将兵。

“アラスの戦い”で走行不能になったマチルダII…自軍により爆破。
おそらく、第7王立戦車連隊/G中隊の“Glanton”(手前)と“Gloucester”(後方)。
5月22日、第7および第5装甲師団はベテューヌに向けゆっくりながらも前進を開始。
第5装甲師団は、午後2時過ぎにスカルプ川を渡河し、モン・サン・テロワを占拠するも、すぐに第4竜騎兵連隊(自動車化)によって奪還された。
翌23日、第7装甲師団が鉱山地区のエルサンを抑えたことにより、第5戦車師団は再びモン・サン・テロワを占拠。
24日暁暗、ロンメルは運河(カナル・デール=Canal d’Aire)手前のキャンシーに入ったところで、進軍を停止した。
これは、カナール・リーニエ(運河線)を越えてはならぬとのクルーゲからの命令を受領したからである。
【 Schlacht um Dünkirchen 】
ルントシュテットなどの陸軍上層部は、深追いすることによる援護無き装甲部隊の損害を憂慮し、ダンケルクへの突入に批判的で、断固突入を主張するグデーリアンやラインハルトなどの現場サイドの指揮官とは意見を異にしていた。
既記した如く、グデーリアンとクライストの騒動などもあり、軍の秩序保持と、指揮系統の統制を図るべく、ルントシュテットらがヒトラーに進言。
ヒトラーも、歩兵、火力が追いつくまで進軍を停止すべきとの判断を妥当として、24日に全装甲師団に対して進軍停止という総統命令を発した。
ルントシュテットら陸軍サイドとしては、その間は空軍による空からの攻撃を優先すべきとの、ある意味、責任回避的な思惑もあったようにも思われるが…
ゲーリングはその要請に対して、まんまと乗せられたカタチで「空軍の爆撃で連合国軍は撃破可能」と安請け合いしたのだが、24日からの独軍停止に伴いダンケルク防衛の配備を急いだ英仏陸軍、RAFの守勢に遭い効果をあげるには至らなかった。
その結果、26日から6月3日の9日間で、331,226名(英国軍192,226名、仏軍139,000名)もの将兵をダンケルクから対岸のドーバーへ撤退を許すこととなる。
このダンケルク大撤退(Dunkirk evacuation)…“ダイナモ作戦”の計画責任者となったのが、当時ドーバー司令官であったバートラム・ラムゼイ海軍中将(のち海軍大将)である。
連合国側…こと英国では“ダンケルクの奇跡”というように美談として語られ…
2017年には、クリストファー・ノーラン監督・脚本による映画『ダンケルク(Dunkirk)』も話題をよんだ。
公開前から、豪華キャストや撮影技法など様々な面で注目を集めたこの映画は、“ダンケルクの奇跡”を題材とした史実に基づく“物語”ということなのだが…
実在の人物などは登場せず…“ダンケルク”を俯瞰で捉えるのではなく、登場人物たちの視野を通しての緊迫、恐怖、葛藤などを捉えているので、“ダンケルク”に至るまでの状況、背景などを知らぬままに観た者にとっては、ダンケルクに特化している意味合いを理解しにくかったのではないだろうか。
劇中、防波堤で撤退作戦の指揮を執るボルトン海軍中佐なる登場人物は…
推測ではあるが、BEF隷下の第1師団指揮官だったハロルド・アレクサンダー陸軍少将(当時)をモチーフにしているのかもしれない。
アレクサンダーは、仏軍2個師団と共に殿部隊として撤退を援護し、独軍の進撃阻止に奔走…ドーバーへの最後の船が出航する前に、モーターボートで海岸線を視察し、乗船し遅れた者がいないか確認したということである。
因みに、第1師団の残余、仏軍2個師団の大部分は撤退出来ず、独軍に投降している。
ボルトン役を演じたケネス・ブラナーは、2008年に公開された映画『ワルキューレ(Valkyrie)』でヘニング・フォン・トレスコウ陸軍少将役を…また、2001年に米英共同制作のTV映画『謀議(Conspiracy)/アウシュビッツの黒幕 』ではラインハルト・ハイドリヒSS大将役を演じている。
5月26日夕刻、仏軍第7フュージリア連隊が運河北岸に進撃を再開。
ロンメルも、英仏軍主力へのダンケルク包囲網の一翼を担うべくリールへ向けて北進開始。
執拗な抵抗を受けるも、ロンメルはなんとか押し進み、翌27日正午頃には仏軍を降伏させた。
因みに、同日、ヒトラーは進軍停止命令を解除。
ロンメルは、そのままラ・バセを占拠…リール郊外のロムまで進撃し、リール~エンヌティエール間の道路を抑え、仏第1軍を包囲。
第25戦車連隊による夜襲も功を奏し、28日までに仏軍をほぼ撃退。
仏第1軍の半数以上の将兵が投降…リールは31日に陥落し、仏第1軍は降伏した。
実際には、その前日にはほぼ決着はついていたようである。
ロンメルは、ヒトラー自らの推挙により5月26日付で騎士鉄十字章を受章。
西方戦役において騎士鉄十字章を授与された初の師団長クラスの将官であった。
6月2日、ヒトラーは、A軍集団の司令本部の置かれたシャルルヴィルに軍、軍団司令官などを召集。
師団長クラスではあったがロンメルも召集された。
ロンメルは、カンブレ近郊のエピノワの飛行場からシャルルヴィルに向けて飛び立った。

謁見した際、ヒトラーは「君が攻撃している間、君が無事かどうかずっと心配だった」とロンメルに声をかけたのだとか…ヒトラーのロンメルに対する御執心ぶりが伺える逸話である。
※地図B
※地図C
6月4日、ダンケルクからの撤退が終了。

6月5日、ロンメル帰隊。
Fi-156“シュトルヒ”でケノワ=シュル=エーレーヌに降り立ったロンメル。
後を歩くのは副官のハンス=ヨアヒム・シュレプラー陸軍大尉(後述)
進軍停止中、ロンメルの師団はアミアン近郊のソンムで損害の回復や補給、将兵の休息などに当てていたが、5日、ソンム川沿いを北進、アブヴィルを経て進軍を再開した。
ダンケルク撤退以後、連合軍は至るところで崩壊…ロンメルは、海岸線に至る地域を防衛していた仏第10軍からの抵抗もほとんど受けることなく順調に進軍を続けた。

6月5日、進軍の合間に簡単な軽食を取るロンメル。

6月5日、アブヴィルに向け進軍する第7装甲師団の車列。
ソンム川を渡り、河畔に連なる渓谷への迂回路を進む様子を、写真好きで有名なロンメル自身が撮影した写真。
※使用機種:ライカF(III型)

西方戦役の期間中には、カメラを斜め掛けしている姿を度々目にする。
因みに、この写真が撮られたのも5日だと思われる。

エルンスト・ライツ(II世)は、特別な製造番号のカメラを科学者、探検家、政治家、写真家などの著名人らに贈っている。
1942年には、製造番号No.375000のライカIIIc型がロンメルにも贈られている。

6月7日朝、エプレシエのロンメルを訪れたホト。
7日午前10時頃にティユロワ=ラ=ヴィルの南丘を通過し、ルーアンに向け進軍。
8日、ルーアンの郊外に達し、セーヌ川を渡河しようとしたものの、一足遅く仏軍によりセーヌ川に架かる全ての橋が爆破された後だった。
川沿いを南下しエルブフ対岸まで達したが、そこはセーヌ川に囲まれたポケット状の突端地域であり、留まることは危険であると判断し、一時撤退となった。
9日、ようやく第5装甲師団がルーアンに到着。
※地図D
10日、急遽、「サン=バレリ=アン=コーを占領し、BEF第51歩兵師団(ハイランド師団:第152および第153歩兵旅団)の英国本土への撤退を阻止すべし」との任務が与えられ、ロンメルの師団は編成を立て直し、ルーアンからイヴトを経て、英仏海峡に向け北上…レ・プティット・ダルで海岸線に出た。
これにより、ヴレット=シュル=メール~ディエップ間の包囲圏を確保。
数日前には既にディエップの港は使用不可となっていたため、英仏軍が本土撤退のためにはサン=ヴァレリ=アン=コーに退くほかはなくなった。

6月10日、レ・プティット・ダルの海岸にて。
英仏海峡を見るのも初めてという将兵たちも多く、暫し海岸線を楽しんだ。
ロンメルも波打ち際まで足を踏み入れ、ご満悦だったようである。
11日、サン=バレリ=アン=コー郊外に進軍し、包囲。
仏軍当方面守備隊およびハイランド師団に対し、同日21時までに武装解除すべき旨を通達。
大半の仏軍部隊は投降したものの、一部の仏軍部隊と英国軍部隊は勧告を拒否。
やむを得ずロンメルは、21時をもって同市北部および港に向け砲撃を開始。
加えて、ドイツ空軍による急降下爆撃も並行して行われた。
翌12日、英仏軍部隊は次々と投降し、ついに降伏した。
この戦闘により、8,000人の英国軍将兵を含む12,000人(うち将官12名)を捕虜とし…
戦車:58輌、大砲56門、対空砲:17門、対戦車砲:22門、トラック:1,133輌、機関銃:368挺、ライフル銃:3,550挺などを戦利品として得ている。

6月12日、午前8時過ぎに仏軍第9軍団司令官マルセル・イーラー軍団陸将が投降してきた際の市庁舎前広場での写真。
ロンメルが「貴官はどの師団の指揮官か?」との問いに対し、イーラーは拙い独語で「師団ではなく、第9軍団である」と返答し、「我が軍団は、降伏を受け入れる意思がある」旨も伝えた。

6月12日、午前11時、ハイランド師団指揮官ヴィクター・フォーチューン少将もまた、これ以上の抵抗は無駄な血を流すだけと判断し、降伏。
配下の中尉に今後の対応などを指示するフォーチューンたちを見つめるロンメル。
フォーチューンは気位が高く、しかもそれが自分よりも8歳下の少将に降伏せざるを得なかったことに屈辱を感じ、わざと尊大に振舞うところも見受けられたようであるが、ロンメルに対しては概ね好意的だったとのこと。
「お若いの、貴君はあまりに速すぎました…私たちは貴方師団を幽霊師団と呼んでいたのだ」などと声をかけたとか…。

6月12日、情報参謀(Ic)のヨアヒム・ツィーグラー陸軍少佐(当時)から報告を受けるロンメル。
副官のハンス=ヨアヒム・シュレプラー陸軍大尉?とする資料もあるが、左胸に佩用のコンドル軍団戦車部隊記章と、別写真の肩章などからツィーグラーだと思われる。
この後、SS少将として第11SS義勇装甲擲弾兵師団“Nordland”の指揮官に任官するという興味深い軍歴の人物でもあるので、少し詳しく紹介しておく。
Joachim Ziegler

ツィーグラーは、1936年に勃発したスペイン内戦において、コンドル軍団の陸軍部隊である…ヴィルヘルム・フォン・トーマ陸軍中佐(当時)の指揮するイムカー戦闘団(Kampfgruppe "Imker")に参加、1939年5月31日付で剣付スペイン十字章金章を受章。
その後、レオ・ガイヤー・フォン・シュヴェッペンブルク陸軍中将(当時)率いる第3装甲師団/第3装甲旅団の指揮官ホルスト・シュタンプ陸軍少将(当時)の副官に陸軍大尉として任官。
1939年9月23日付で二級鉄十字勲章を受章。
1940年2月、ロンメル新体制となった第7装甲師団の情報参謀(Ic)に陸軍少佐として任官。
1940年6月28日付で一級鉄十字勲章を受章。
1940年10月、第20歩兵師団(自動車化)“Hamburg”の補給主任参謀(Ib)に任官。
1941年1月6日付で同師団の作戦参謀(Ia)に昇格。
1941年4月に東プロイセンに移送されるまで、フランスに留まった。
その後、 ポーランド北東部のビャウィストク、ベラルーシのミンスク、レニングラードなどの戦闘に作戦参謀(Ia)として参加。
1942年5月、第56装甲軍団の参謀長代理に任官し、再編成の任に当たった。
再編準備が整い、コーカサス戦区に転送。
1942年9月29日付で第39装甲軍団の参謀長に任官。
東部戦線の正面戦区…モスクワから西に210km程にあるルジェフに転送。
1943年3月14日付でドイツ十字章金章を受章、同日付で陸軍大佐に昇進。
1943年6月20日付で第3SS装甲軍団に転属、SS准将として参謀長に任官。
(SS番号:491,403)
上官であるフェリックス・シュタイナーSS中将(当時)のもと手腕を発揮。
第3SS装甲軍団隷下の第11SS義勇装甲擲弾兵師団“Nordland”の指揮官フリッツ・フォン・シュルツSS中将が、ナルヴァ戦区における戦闘中に砲撃弾により受傷。
その翌日の1944年7月28日に死亡したため、ツィーグラーの1944年8月1日付でのSS少将昇進と同日付での後任指揮官に任官という急展開となった。
1944年9月5日付で騎士鉄十字章を受章。
1945年4月16日、“Nordland”師団は首都ベルリンの東部防衛線へ転送。
4月24日、グスタフ・クルケンベルクSS少将の指揮する第33SS所属武装擲弾兵師団“Charlemagne”解散後の残余300名程によるフランスSS突撃大隊が“Nordland”師団と合流。
経緯は不明だが、ベルリン防衛軍司令官ヘルムート・オットー・ルートヴィヒ・ヴァイトリング陸軍砲兵科大将は、アンハルター駅周辺を防衛するベルリン防衛戦区“C”の指揮権をツィーグラーからクルッケンベルクに移譲…事実上の解任。
幕僚としては優秀であり、ある程度、戦略の練られるような状況下ならまだしも、もはやそんな悠長な状況ではなくなっている市街戦の指揮を執るには…それまで指揮官としての経験のないまま、いきなり“師団長”にまでなってしまったツィーグラーは、ヴァイトリングからすれば使い物にならぬと判断したのかもしれない。
4月28日付で第848番目の柏葉章が授与。
4月30日午後3時半過ぎにヒトラーが自殺。
5月2日未明、ソ連軍の包囲から逃走を図るも、ゲズントブルンネン駅近くで激しい砲撃により負傷…もはや逃走は無理と考え、自決。(享年40歳)
Karl August Hanke
さて、↑の写真には、中央奥にもう一人興味深い人物が写っている。
カール・アウグスト・ハンケ陸軍予備役少尉(当時)は、西部戦役において、第7装甲師団/第25戦車連隊に所属し、ロンメルの補佐官を兼務していた。

IV号戦車D型のキューポラに立つハンケのこの宣伝写真は、1940年の『Signal』誌にも掲載されている。
ハンケは1928年11月1日に国家社会主義ドイツ労働者(N.S.D.A.P.)に入党。
(党員番号:102,606)
党内で頭角を現し、1932年4月1日からベルリン大管区指導者ヨーゼフ・ゲッベルス(当時)の私設秘書官となった。
同年11月6日に行われたドイツ議会議員選挙では、ポツダムから出馬し、当選…国会議員となっている。
同年、N.S.D.A.P.帝国宣伝指導部(Reichspropagandaleitung)の本部長(Hauptamtsleiter)に昇級。
1933年3月13日に宣伝省が設立されると、ゲッベルスの個人秘書官となる。
1937年からは宣伝省の次席次官(Staatssekretär II)に就任。
そんな折、ゲッベルスと女優リダ・バーロヴァとの不倫関係に悩んでいた妻マクダ・ゲッベルスの相談にのるうちに、恋愛関係に発展…
結局、ゲッベルスとリダの関係は、ヒトラーの仲裁によりなんとか元鞘となったが、ゲッベルスとハンケの関係は険悪となり、ハンケは宣伝省を退職している。
ハンケは義勇兵として国防軍に参加、装甲教導連隊での訓練の後…1939年6月からレオ・ディートリヒ・フランツ・ガイァ・フォン・シュヴェッペンベルク(男爵)陸軍中将(当時)の率いる第3装甲師団に配属、予備役少尉としてポーランド戦役に参加。
1940年5月からはロンメルの補佐官としても重用されている。
ロンメルは、西部戦役においてハンケを戦車部隊の指揮官に抜擢した。
その期待に応え、まともな軍事訓練を受けていないにも拘わらず、積極的かつ有能な指揮官ぶりを発揮した。
ロンメルは、ハンケの騎士鉄十字章受章を推薦するほどだったのだが、その後、ロンメルとの間に確執が生じたとも言われ…
結局、ハンケは1941年に陸軍予備役中尉として軍籍を離れている。

戦車突撃章銀章、一級鉄十字章などを佩用していることから、西方戦役以降に撮られた写真。
襟章から“大管区指導者”以前の“本部長(Hauptamtsleiter)”時代。
ゲッベルス、ロンメルとは反りが合わなくなっていたものの、ボルマン、ヒムラー…何よりヒトラーに気に入られていたこともあり、その後も重用されていく。
1934年2月15日付で見習い隊員(SS-Anwärter)として親衛隊に入隊。
(SS番号:203,103)
同年7月1日付でSS少佐に昇進。
1935年4月20日付でSS中佐、同年9月15日付でSS大佐に昇進。
1937年4月20日付でSS准将に昇進。
1941年1月30日付でSS少将兼警察少将に昇進。
同年2月9日付でニーダーシュレージエン大管区指導者および総監に任命。
※マルティン・ボルマン副総統個人秘書兼官房長(当時)の画策により、シュレージェン大管区指導者ヨーゼフ・ヴァーグナーが1941年1月9日付で罷免され…シュレージェン大管区は、ニーダーシュレージェン大管区とオーバーシュレージェン大管区に分割、大管区都はそれぞれヴロツワフとカトヴィツェに置かれた。
政治力に長けたハンケは、その地位を活かし、地元ヴロツワフの経済界、農業界との繋がりを深め、その権勢を増していく。
同年4月20日付でSS中将兼警察中将に昇進。
1942年1月30日付で…なぜか、この時期に陸軍予備役大尉に昇進している。
同年11月16日付でニーダーシュレージエン大管区国家防衛委員(Reichsverteidigungskommissar)に就任。
1942年11月16日付でニーダーシュレージエン大管区国家防衛委員(Reichsverteidigungskommissar)に任命。
※大管区都のあったヴロツワフ(独:ブレスラウ)での4年間におよぶ在任期間中に、少なくとも1,000人以上の処刑に関わる執行命令に署名…“ブレスラウの死刑執行人(Henker von Breslau)”の異名を取る。
1943年12月、交際していた地元の大地主でありベルリン大学教授(男爵)の娘フレダ・フォン・フィルクスとの間に一女をもうけ、翌年の1944年11月25日にフレダと結婚。
1945年1月12日、スターリンは弱体化する中央軍集団に対し猛攻を開始。
中央軍集団は17日までには、ほぼ壊滅状態となっていた。
2月14日、ヴロツワフもイワン・コーネフ元帥率いる第1ウクライナ戦線の第6軍により完全に包囲された。
前年、ヒトラーはヴロツワフを要塞都市に宣言…如何なる犠牲を払っても守らなければならないことをハンケに命じており…その命令を遂行すべく、“戦闘指導者(Kampfkommandant)”として、77日間、狂信的に抵抗を続けさせた。
因みに、2月2日付で任官したヴロツワフ防衛司令官ハンス・フォン・アールフェン陸軍少将とは防衛に関する理念の違いから衝突し、解任している。
後任は、3月5日付で任官したヘルマン・ニーホフ陸軍歩兵科大将。
ハンケは、この要塞都市防衛が評価され、4月12日付でN.S.D.A.P.における最高位の勲章である剣付きドイツ勲章(1級)を授与されている。
ハンケは、5月5日までヒムラーの裏切りにより、既に自身が4月28日付で親衛隊全国指導者兼ドイツ警察長官に任命されたことも、ヒトラーの死も知る由もなかった。
5月6日、要塞都市ヴロツワフはついに降伏。
ハンケはブレスラウ陥落直前にヴロツワフを空路脱出、一旦、フェルディナント・シェールナー陸軍元帥のいるヒルシュベルクに辿り着いた。
その後、陸路でプラハに向かい、第18SS義勇機甲擲弾兵師団“Horst Wessel”の残余部隊に合流、陸路国境を目指したが、6日、ホムトフ~ノヴァー・ヴェス付近でチェコのパルチザンに捕らえられ、ノイドルフの捕虜収容所に送られた。
意外なことに、1ヵ月近くハンケの身元は割れることはなかったようである。
6月8日早朝、ハンケは逃走を図るも、警備兵に背後から射殺された。(享年40歳)
Hans-Joachim Schräpler
ロンメルの副官ハンス=ヨアヒム・シュレプラー陸軍大尉(当時)についても、少し触れておく。
シュレプラーは一見、背格好からヨアヒム・ツィーグラー(…しかも二人とも“Joachim”名を持つこともあり)と混同される。
残念ながら、ポートレートなどのような詳細な顔写真などは無いのだが……HEIMDAL社刊行の『AFRIKAKORPS 1941-1943 - La Campagne De Libye-Egypte : The Libya-Egypt Campaign)』中で“Personal album of DAK Adjutant, Major Hans Joachim Schraepler”として紹介されている。

北アフリカ着任後間もない時期に撮影されたと思われるロンメルとのツーショット。

1941年秋に撮られたロンメルとのツーショット。

第15装甲師団/第15オートバイ兵大隊指揮官グスタフ=ゲオルク・クナーベ陸軍中佐と。
(1941年11月7日撮影)
シュレプラーは1903年10月13日、ザクセン=アンハルト州アルトマルク・ザルツヴェーデル郡のベエッツェンドルフに生まれている。
1922年にヴァイマル共和国陸軍に志願。
プロイセン第5軽歩兵連隊に配属。
1927年2月1日付で陸軍少尉に昇進。
1930年3月1日付で陸軍中尉に昇進。
1935年5月1日付で陸軍大尉に昇進。
1938年から陸軍総司令部(OKH)勤務となる。
1939年9月1日に始まったポーランド戦役では、第2軽師団/第7騎兵科狙撃兵連隊/第4中隊指揮官として参加し、1級・2級鉄十字章を受章。
※第7騎兵科狙撃兵連隊は、改編後も第7装甲師団に所属。
1940年2月28日付で第7狙撃兵連隊に改名。
ロンメル赴任に伴い、第7装甲師団(師団)副官(IIb)に任官。
※おそらく、第7狙撃兵連隊指揮官ゲオルク・フォン・ビスマルク陸軍大佐(当時)からの推挙による人事ではなかろうか。
1941年2月12日、ロンメルとともに北アフリカに着任。
同年2月14日付で陸軍少佐に昇進、同日付でリビア駐屯ドイツ軍部隊副官(IIa)に任官。
同年12月9日、頭部に受けた傷がもとで戦死。
死後、陸軍中佐に特進。
(享年38歳)

これはシュレプラーの生前最後の写真。
1941年12月初め…撤退の最中に頭部を負傷し、その傷がもとで死に至ったということだが…この写真を見る限りでは、受傷自体は、それほど重篤なものではなかったよである。
おそらくは、この後、破傷風に感染し重症化したものと思われる。

同日没の第15装甲師団指揮官のノイマン=ズィルコゥ陸軍少将、翌10日没の第90軽アフリカ師団(のち第90軽歩兵師団)指揮官マックス・ズュマァマン陸軍少将とともにトブルクから北西に100km程のリビアの都市デルナに埋葬された。
因みに、シュレプラーは、ノイマンの姪のエリカと結婚している。

話は大分、横道に逸れたが…
ロンメルは海岸線を西進し、14日、港湾都市ル・アーブルを制圧。
これは1940年6月15日に、そのル・アーブルにて撮影された写真。

6月14日、その数日前の6月10日に既に無防備都市を宣言していたパリは、午前8時頃にはクルト・フォン・ブリーゼン陸軍中将率いる第30歩兵師団により無血開城が為され…
午前9時45分、エトワール凱旋門にドイツ国旗が翻った。
第30歩兵師団は北方面からパリに接近していたが、当初はパリを迂回して、南方に撤退している仏軍部隊の掃討が目的だった。
ブリーゼンは、パリが無防備都市を宣言した、その真偽の程を確かめるべく、パリ周辺に部隊を派遣し、パリに抵抗および軍事力のないことを確認し、パリ入城を果たす。
↓がその際、満面の微笑みで、行進する将兵たちに敬礼する馬上のブリーゼンを撮した有名な映像である。

第30歩兵師団がパリ入城を果たしたことを受けて、直上の第6軍が所属するB軍集団の幹部たちを迎えてのパレードがコンコルド広場(Place de la Concorde)で行われた。
ただ、なぜかこの場に第6軍司令官ヴァルター・フォン・ライヒェナウ陸軍上級大将(当時)の姿がない。
パリが陥落したことで、フランスの敗北は決定的となり、各地の抵抗も一気に終息していった。
16日、主戦派のレノー首相は、フィリップ・ペタン副首相ら休戦派に押し切られ内閣を総辞職。
ペタンは後任の首相に任命され、21日、ペタン内閣はドイツに休戦を要請。
1940年6月22日、独仏休戦協定調印の場所としてヒトラーが指定したのは、前大戦における屈辱の降伏調印をさせられた象徴的な地…仏国オワーズ県の“コンピエーニュの森”であった。
さらに、調印場所となったアルミスティス号(2419号食堂車)を全く同じ場所へと引き出した。
午後3時、ヒトラーなどドイツ側首脳が到着…午後3時35分、シャルル・アンツィジェール軍陸将らフランス代表団も到着した。
ヒトラーが休戦の条件を一方的に読み上げて退出した後、休戦協定の調印が行われた。
フランス代表団は、仏側にとって厳しい協定内容の緩和を申し出るも、国防軍最高司令部(OKW)総長ヴィルヘルム・カイテル陸軍上級大将(当時)は、条項をそのまま受け入れるか、さもなければ拒絶するかの二つに一であると繰り返した。
アンツィジェールには独側が提示した条項に応じる以外の選択肢しか残っていなかった。
午後6時50分、独仏休戦協定が正式に締結。
これにより、英仏海峡全域および大西洋に開けた港湾を含む北フランスのドイツによる統治が確定。(※それ以外の地域は、仏新政府の“自由統治”に委ねられた)
さて、ロンメルに再び話を戻すと…
ルーアンに一旦戻り、部隊を立て直すと…16日、仏軍の戦意が喪失した現時点では、ほとんど抵抗もあるまいと判断したロンメルは、全速力で進軍できる縦列の陣形に戻し、シェルブール占領に向けて再びセーヌ川を越え西進を開始した。
フレールという街に入り、小休止をしていた時…
市民の一人がロンメルの車輌に近付くと、矢庭に拳銃を構えた。
咄嗟に傍にいたフランス兵の捕虜が、この男性を取り押さえたとのことである。
独側からの報復を危惧しての行動だったようだが、お蔭でロンメルは命拾いをした。
フレールを出発し、クータンスを経て、そこから北上…
17日真夜中にはラ・アイユ=デュ=ピュイ達した。
英仏海峡に臨む港湾都市のシェルブールは、東西両側に海食崖を有し、さらに3712mに亘る長堤やオマ防波堤があり、その地の利を活かした天然の要塞で、仏海軍の重要基地がある。
そのシェルブールには、未だ敗北を認めない仏軍の守備隊が徹底交戦の構えをみせ布陣していた。

18日朝、ロンメルはシェルブールへの攻撃を開始。
後退する敵軍に対し、午前8時頃にはシェルブール市内への突入を試みた。
だが、午後1時頃、市の南西4.8km程のところに構築された堡塁砲台および沖合に碇泊中の英海軍艦艇からの激しい砲撃を受け、ロンメルはシェルブール攻略の再考を迫られた。
また厄介なことに、市内には、ノルマンディ地方に見られる…潮風を作物に直接当てないようにするための生垣(ボカージュ)が網の目のように巡らされており、戦車の機動力も十分に活かせないという難点もあった。
そんな折、ロンメルは要塞の詳細な地図などを入手し、弱点と死角の検討を急いだ。
西側面が手薄と判断…シェルブール北西5.8km程のケルクヴィル南部の高地を占拠。
午後5時頃、歩兵連隊と二個装甲中隊を要塞の西側から突入させた。
翌19日朝、砲兵連隊により要塞および海軍ドックを砲撃。
午前中は、双方砲撃の応酬が行われ、膠着状態が続いていたが…
第77急降下爆撃航空団(StG77)のJu87“シュトゥーカ“による要塞への急降下爆撃により、ついに要塞中央部の沈黙に成功。

ロンメルは、繰り返し降伏の勧告を行い…正午過ぎ、まず市議会議員と警察幹部が砲撃中止と休戦交渉の仲介を申し出てきた。


午後1時15分、ロンメルのもとに仏海軍少佐らが降伏交渉に訪れた。
その結果、降伏勧告を受け入れ、要塞は武装解除、約3万の仏軍将兵が投降した。
因みに、以前にも記したが、西方戦役を通して、この時はじめてロンメルが“Mk.II.”を制帽に装着している写真を目にする。
これに関しては、『Desert Fox』をご覧頂ければと思う。




午後5時、シェルブール第1海軍管区司令本部に、ロンメル以下師団幹部が入る。
長官のジュール・ル・ビゴ海軍上級中将(中央)が、降伏文書に署名。
沈痛な面持ちの部下たちに対し「武器、弾薬がまだあったなら、私はここを降伏させなかった」と負け惜しみを述べた。
※地図E

この後、ロンメルは南進に転じ…20日、ブルターニュ地域圏に達し、21日にレンヌを占拠。
22日~24日、ナント、ラ・ロシェル、ロシュフォール、ボルドー、さらにスペインとの国境線付近まで進軍しバイヨンヌを占拠した。
但し、既に各所での戦闘はなく、占拠の既成事実化のための進軍であった。
25日、停戦が発効し、これを以て、西方戦役における“幽霊師団”の任務は終了となった。
西方戦役での第7装甲師団の人的損害は、戦死者682名(うち将校48名)、負傷者1,646名(うち将校108名)、行方不明者266名(うち将校3名)。
(因みに、西方戦役での独軍全体の戦死・行方不明者は約49,000名であり、一個師団平均に換算すると363名程になる。)
戦車の損害は、I号戦車3輌、II号戦車5輌、III号戦車&38(t)戦車26輌、IV号戦車8輌と、総台数218輌中2割弱程度に治った。
その代償として得られた戦果は、捕虜:97,468名(うち約1万名が英軍兵)、鹵獲兵器:戦車・装甲車458輌、各種砲277門、対戦車砲64門、トラック4000台以上、乗用車1,500台以上、馬車1,500輌以上、オートバイ約400台などとなっている。
また敵航空機を52機撃墜、うち12機を地上で鹵獲している。
ただ、進軍を優先したため、正確な数を把握しないままに移動したこともあり、実際の数よりも少なめの報告になっているものと思われる。
いわゆるキャリアではなかったロンメルにとって、この機会を活かし、功を上げ名を馳せることは第一義であり、「脇目も振らず突進せよ!」という方針は、自身を鼓舞する意味合いも過分にあったものと推測する。
これにより、ロンメルがドレスデンの歩兵学校で掲げていた「血ではなく、汗を流せ!」というモットーとは相反したとはいえ、結果的に当時の常識では考え得ない程の素早さで駆け抜け、対する敵を如何に無力化し戦意を挫くかというロンメル流の勝利の方程式を実証してみせた。
ロンメルの評価は軍部からは必ずしも良いものではなかった。
そのなかで、直属の上官であったヘルマン・ホトは、ロンメルに対して以下のような的確な評価を残している。
「ロンメルは、装甲師団の指揮において、新たな道を切り開いた。
特に、常に前線に立とうとする意欲と、テンポの速い戦闘でも決定的なポイントを察知する彼の天性の素質は称賛に値する。
その反面、ロンメルは衝動的な行動をとりがちで、自分が勝利を得た戦いで他の者が果たした功績を認める度量の広さを持たない。
もしロンメルが今後、より大きな経験を積み、より優れた判断力を身につけたならば、その時は彼を軍団長にしてもよいであろう。」
ホトも、まさか軍団長以上に昇り詰めるとは思ってもいなかったのだろう…
だが…当時の体制、そしてヒトラー…何より時代はロンメルを捨ておくことを許さなかった。
宣伝省は媒体を通じてロンメルの活躍を報道し、その知名度は一挙に広まっていく。
次第に“時代の寵児”に祭り上げられていくロンメルは、自身ではもはやコントロール出来ない程にカリスマ化していくこととなる。
【 Ergänzung 】

ヘルメット姿のロンメルとシュレプラー(右)
↑は、“6月末、パリでの勝利の行進の際のロンメル”として流布されている写真なのだが…
実はパリではなく、1940年7月1日※、ホト臨場のもと、ボルドーの中心にあるカンコンス広場(Place des Quinconces)で行われた第7装甲師団のパレードの際に撮られたものである。
X'mas休暇から帰隊したロンメルが、1941年1月6日付けで妻ルーシーに宛て「春まで、師団はマルティニャ=シュル=ジャル(Martignas-sur-Jalle)の軍事基地(camp de Sougè)で快適とはいえない環境で冬を過ごさねばならない」旨の手紙を送っている。
西方戦役後は、暫くボルドーに駐屯し、スペインとの国境警備などに当たっていたようである。
Siegesfeier Parade am 1. Juli 1940 in Bordeaux
※開催日を1940年6月29日とする資料もある。

観兵する第15軍団司令官ヘルマン・ホト陸軍歩兵科大将とロンメル。
ガロンヌ川沿いのルイ17世通りを、第7偵察大隊の装甲車輌を先頭にパレードは始まった。

このスナップショットでは、ロンメルは階段(下段)手前に移動している。


第78砲兵連隊の車列(10.5cm leFH18を牽引するSd.Kfz.6)。
※地図F

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カテゴリ : 3R
テーマ : 第二次世界大戦【ドイツ】
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