SS最後の戦死者
7月14日は何の日かと尋ねられれば…
1789年、パリ市民がバスティーユ監獄を襲撃・占領し多くの政治犯を解放したフランス革命の記念日というのがもっともポピュラーな答えなのかもしれないが…
1976年、スイスとの国境近くに位置するフランス東部…フランシュ=コンテ地域圏(Franche-Comte)、オート=ソーヌ県の(県庁所在)都市ブズール(Vesoul)の13㎞程西にあるトラーヴ(Traves)という小さな村で…“SS最後の戦死者”ともいわれる、ヨアヒム・パイパーSS大佐の亡くなった日でもある。

戦後の裁判において「アルデンヌ攻勢」時に起きた『マルメディの虐殺(捕虜になった米軍兵士86名を戦闘団が射殺したというもの)』の責任を追及され絞首刑を宣告された彼だが…
ただ、彼はその時その場にいなかったことは明白で…勿論、射殺命令を出したという事実などないのだが、部隊の行動は「指揮官の責任」と全責任を認め軍人らしく銃殺刑を希望する。
↓はその裁判における審問の際の様子であるが…
パイパー本人の生声も聞ける…私にとっては垂涎のお宝映像なのである。
戦後11年を経た1956年に減刑をもってランツベルク刑務所から釈放はされたものの、釈放後のドイツでの冷遇もまた耐え難いものであったようで…
翌1957年1月17日から、アルベルト・プリンツィング博士(※元(SD所属)SS大尉)の紹介で、シュトゥットガルトのポルシェ社の技術部門で働き始めたが、社内での有罪判決を受けた戦争犯罪者に対する風当たりは強く、1960年に解雇されることとなった。
その後、セールス・トレーナとしてフォルクスワーゲン社に入社。
1972年、退職を機に、彼は妻のシーグルトを説得し、家族と共に…以前、保養に訪れてから心の安らぎを感じていたトラーヴを終の栖と定め慎ましやかに隠棲生活をおくることを選択した。
トラーヴでは、ライナー・ブッシュマン(Rainer Buschmann)というペンネームで自動車雑誌の出版社(Motorbuch Verlag Stuttgart)から依頼された主に軍事史に関する書籍をドイツ語に翻訳するという仕事などで生計を立てていた。
周囲の者たちには彼のこの行為は理解出来ないものだったようだが、彼にとっては美しい森に囲まれたトラーヴでの生活は幸せな時間だったのだとか…

1972年頃のトラーヴでのパイパー&Timm
しかし、そんな幸せな時は長くは続かなかった。
1976年6月11日、ブズールで犬小屋用の材料を購入した際に、仏共産党員でもあるパウル・カシューという商店主に、そのドイツ語訛りのフランス語を疑われ、小切手の名前と住所から元SS隊員であることが露見してしまう。
6月21日にはトラーヴの村に、パイパーが“ナチスの戦争犯罪者”だと揶揄するビラが撒かれ、その翌日の党の機関紙“L'Humanité”にパイパーの記事が掲載されると、連日のように脅迫状が舞い込むようになった。
ブズールでは、「ペイパー、私たちはあなたに7月14日をご用意します!7月14日はフランスの祝日です」旨の犯行予告ともとれる落書きが壁にされていたとのこと。
フランス政府からも7月14日までに国外への退去を促され、シーグルトは何とか当日(13日)の早朝、一先ずバーゼル(スイス)の友人の元に避難させた。
近所に住む友人のエルヴィン・ケテルフートは、水車小屋に身を隠し、夜を過ごすことを提案したが、パイパーはそれを拒否した。
パイパーは、ケテルフートから借りた22口径のライフルと番犬たちと共に差し掛け屋根のテラスから、ソーヌ川を監視した。
ここから先に記す“パイパーの最期”に関しては、私自身…これまで大まかなことしか把握していなかったのだが、ドイツのサイトで以下の内容を目にした時、そのあまりに衝撃的な事象は俄かには信じ難い…というより、受け入れ難いという方がいいかもしれない。
実際、ここまで端的に語られているのを他で目にしたことがなかったのだが、敬愛するパイパーの最期が、このようなかたちで迎えざるを得なかったのかと思うと胸が苦しくなる。
それを踏まえたうえで、現段階で知り得た情報として、以下を書かせて頂く。
出来得れば、このような陰惨たる事象が悪趣味極まりない絵空事であってくれればとの思いも込めて…
1976年の“パリ祭”前夜…7月13日、午後11時30分頃。
2隻のボートに分乗した極左テロ集団と思しき複数名(12名?)は、ソーヌ川を渡り、土手の茂みをよじ登りパイパーの家に侵入した模様。
火炎瓶(ガソリンとモーターオイルの混合液)により火が付けられ、自宅は全焼した。
焼け跡からパイパー自身と彼の愛犬(Timm&Tamm)の遺体を発見…寝室の壁に背を向け、左側臥位で腕を胸に曲げた姿勢でベッドに横たわり、しかも片腕と両足は切断され僅か90㎝程のほぼ炭化した状態であったという。
その後、消防隊員により、行方不明の遺体の部分の捜索がソーヌ川を中心に行われている。(発見に至ったのかは明記されていない)
侵入から日付を跨ぎ、14日午前1時10分(彼のホイヤー社製の腕時計はこの時間で止まっていた)までの1時間半の間にどのような事が起こっていたのか…
彼の22口径のライフルとピストル(.38スペシャル)には、襲撃者と立ち向かったとみられる発射痕があり、戦中武勇を馳せた彼らしい壮絶な最期だったものと思われる。
因みに検死の結果は、死に至った直接的原因は銃創によるものではないと結論付けた。
猟奇的な犯行により、手足を切断され、身体を焼かれ…陰惨たる最期を迎えるにあたり、その最期の時まで意識はあったのか、何を思い死んでいったのかなど今となっては測る術はない。
警察の捜査は6ヶ程で打ち切られ、その間にブズールの共産主義者やレジスタンスのメンバーなどを尋問し、またトラーヴの村人たちからも事情聴取を行っているが、有力な情報は得られず終いだった。
たとえ犯人がトラーヴの村の者たちであっても、この村は1平方キロあたり僅か10人程という、住民同士がお互いについて全てを知っているような小さな村であり、彼らはそれを口外することはなかったのでは…という見方もある。
“Les Vengeurs(=ザ・アベンジャーズ:復讐者)”と名乗る組織がパリの新聞“L' Aurore”に犯行声明を出してきたが、捜査当局としては懐疑的で、愉快犯的な要素が濃く、結局は犯人の特定には至らなかった。
何れにせよ、どのような理由を付け正当性を語ろうが、このような陰惨で、酸鼻かつ猟奇的な殺人を実行するような者たちにその資格などは微塵もなく、常軌を逸っした酷薄でサイコパスな唾棄すべき集団としか言いようがない。
“ヨッヘン”・パイパーは現在、バイエルン州オーバーバイエルン行政管区のランツベルク・アム・レヒ郡にあるショーンドルフ・アム・アンマーゼーという町の教会墓地で父、母、兄弟、そして妻たちと共に静かに眠っている。(享年61歳)

以下の写真↓は、アルデンヌ攻勢においてパイパーの指揮車輛の無線通信士だったフリッツ・コスメルがシュトゥットガルトのパイパー宅を訪れた1960年7月に撮影されたもの。
コスメルは、その際に受けた傷がもとで失明。
パイパーとは最後まで友交を温めた。
妻のシーグルト、長男のハインリヒ、長女エルケ、そして友人に囲まれ、ご機嫌なパイパーを見ることができる。(45歳当時)
因みに、眉など目元は父親似、そして口元は母親似といったところであろうエルケ(20歳当時)嬢と私は、奇しくも誕生日(7月7日)が一緒…
そのうえ、ちょうど24歳…二廻り違いということで…
勿論、干支の風習などはないのだろうが…“辰”ということで、これまた同じなのである。
まぁ、ただそれだけのことなのだが…(^ ^;


1960年、エルケが20歳当時に撮られた父母とのスナップ…眉など目元は父親似、そして口元は母親似といったところであろうか?
1789年、パリ市民がバスティーユ監獄を襲撃・占領し多くの政治犯を解放したフランス革命の記念日というのがもっともポピュラーな答えなのかもしれないが…
1976年、スイスとの国境近くに位置するフランス東部…フランシュ=コンテ地域圏(Franche-Comte)、オート=ソーヌ県の(県庁所在)都市ブズール(Vesoul)の13㎞程西にあるトラーヴ(Traves)という小さな村で…“SS最後の戦死者”ともいわれる、ヨアヒム・パイパーSS大佐の亡くなった日でもある。

戦後の裁判において「アルデンヌ攻勢」時に起きた『マルメディの虐殺(捕虜になった米軍兵士86名を戦闘団が射殺したというもの)』の責任を追及され絞首刑を宣告された彼だが…
ただ、彼はその時その場にいなかったことは明白で…勿論、射殺命令を出したという事実などないのだが、部隊の行動は「指揮官の責任」と全責任を認め軍人らしく銃殺刑を希望する。
↓はその裁判における審問の際の様子であるが…
パイパー本人の生声も聞ける…私にとっては垂涎のお宝映像なのである。
戦後11年を経た1956年に減刑をもってランツベルク刑務所から釈放はされたものの、釈放後のドイツでの冷遇もまた耐え難いものであったようで…
翌1957年1月17日から、アルベルト・プリンツィング博士(※元(SD所属)SS大尉)の紹介で、シュトゥットガルトのポルシェ社の技術部門で働き始めたが、社内での有罪判決を受けた戦争犯罪者に対する風当たりは強く、1960年に解雇されることとなった。
その後、セールス・トレーナとしてフォルクスワーゲン社に入社。
1972年、退職を機に、彼は妻のシーグルトを説得し、家族と共に…以前、保養に訪れてから心の安らぎを感じていたトラーヴを終の栖と定め慎ましやかに隠棲生活をおくることを選択した。
トラーヴでは、ライナー・ブッシュマン(Rainer Buschmann)というペンネームで自動車雑誌の出版社(Motorbuch Verlag Stuttgart)から依頼された主に軍事史に関する書籍をドイツ語に翻訳するという仕事などで生計を立てていた。
周囲の者たちには彼のこの行為は理解出来ないものだったようだが、彼にとっては美しい森に囲まれたトラーヴでの生活は幸せな時間だったのだとか…

1972年頃のトラーヴでのパイパー&Timm
しかし、そんな幸せな時は長くは続かなかった。
1976年6月11日、ブズールで犬小屋用の材料を購入した際に、仏共産党員でもあるパウル・カシューという商店主に、そのドイツ語訛りのフランス語を疑われ、小切手の名前と住所から元SS隊員であることが露見してしまう。
6月21日にはトラーヴの村に、パイパーが“ナチスの戦争犯罪者”だと揶揄するビラが撒かれ、その翌日の党の機関紙“L'Humanité”にパイパーの記事が掲載されると、連日のように脅迫状が舞い込むようになった。
ブズールでは、「ペイパー、私たちはあなたに7月14日をご用意します!7月14日はフランスの祝日です」旨の犯行予告ともとれる落書きが壁にされていたとのこと。
フランス政府からも7月14日までに国外への退去を促され、シーグルトは何とか当日(13日)の早朝、一先ずバーゼル(スイス)の友人の元に避難させた。
近所に住む友人のエルヴィン・ケテルフートは、水車小屋に身を隠し、夜を過ごすことを提案したが、パイパーはそれを拒否した。
パイパーは、ケテルフートから借りた22口径のライフルと番犬たちと共に差し掛け屋根のテラスから、ソーヌ川を監視した。
ここから先に記す“パイパーの最期”に関しては、私自身…これまで大まかなことしか把握していなかったのだが、ドイツのサイトで以下の内容を目にした時、そのあまりに衝撃的な事象は俄かには信じ難い…というより、受け入れ難いという方がいいかもしれない。
実際、ここまで端的に語られているのを他で目にしたことがなかったのだが、敬愛するパイパーの最期が、このようなかたちで迎えざるを得なかったのかと思うと胸が苦しくなる。
それを踏まえたうえで、現段階で知り得た情報として、以下を書かせて頂く。
出来得れば、このような陰惨たる事象が悪趣味極まりない絵空事であってくれればとの思いも込めて…
1976年の“パリ祭”前夜…7月13日、午後11時30分頃。
2隻のボートに分乗した極左テロ集団と思しき複数名(12名?)は、ソーヌ川を渡り、土手の茂みをよじ登りパイパーの家に侵入した模様。
火炎瓶(ガソリンとモーターオイルの混合液)により火が付けられ、自宅は全焼した。
焼け跡からパイパー自身と彼の愛犬(Timm&Tamm)の遺体を発見…寝室の壁に背を向け、左側臥位で腕を胸に曲げた姿勢でベッドに横たわり、しかも片腕と両足は切断され僅か90㎝程のほぼ炭化した状態であったという。
その後、消防隊員により、行方不明の遺体の部分の捜索がソーヌ川を中心に行われている。(発見に至ったのかは明記されていない)
侵入から日付を跨ぎ、14日午前1時10分(彼のホイヤー社製の腕時計はこの時間で止まっていた)までの1時間半の間にどのような事が起こっていたのか…
彼の22口径のライフルとピストル(.38スペシャル)には、襲撃者と立ち向かったとみられる発射痕があり、戦中武勇を馳せた彼らしい壮絶な最期だったものと思われる。
因みに検死の結果は、死に至った直接的原因は銃創によるものではないと結論付けた。
猟奇的な犯行により、手足を切断され、身体を焼かれ…陰惨たる最期を迎えるにあたり、その最期の時まで意識はあったのか、何を思い死んでいったのかなど今となっては測る術はない。
警察の捜査は6ヶ程で打ち切られ、その間にブズールの共産主義者やレジスタンスのメンバーなどを尋問し、またトラーヴの村人たちからも事情聴取を行っているが、有力な情報は得られず終いだった。
たとえ犯人がトラーヴの村の者たちであっても、この村は1平方キロあたり僅か10人程という、住民同士がお互いについて全てを知っているような小さな村であり、彼らはそれを口外することはなかったのでは…という見方もある。
“Les Vengeurs(=ザ・アベンジャーズ:復讐者)”と名乗る組織がパリの新聞“L' Aurore”に犯行声明を出してきたが、捜査当局としては懐疑的で、愉快犯的な要素が濃く、結局は犯人の特定には至らなかった。
何れにせよ、どのような理由を付け正当性を語ろうが、このような陰惨で、酸鼻かつ猟奇的な殺人を実行するような者たちにその資格などは微塵もなく、常軌を逸っした酷薄でサイコパスな唾棄すべき集団としか言いようがない。
“ヨッヘン”・パイパーは現在、バイエルン州オーバーバイエルン行政管区のランツベルク・アム・レヒ郡にあるショーンドルフ・アム・アンマーゼーという町の教会墓地で父、母、兄弟、そして妻たちと共に静かに眠っている。(享年61歳)

以下の写真↓は、アルデンヌ攻勢においてパイパーの指揮車輛の無線通信士だったフリッツ・コスメルがシュトゥットガルトのパイパー宅を訪れた1960年7月に撮影されたもの。
コスメルは、その際に受けた傷がもとで失明。
パイパーとは最後まで友交を温めた。
妻のシーグルト、長男のハインリヒ、長女エルケ、そして友人に囲まれ、ご機嫌なパイパーを見ることができる。(45歳当時)
因みに、眉など目元は父親似、そして口元は母親似といったところであろうエルケ(20歳当時)嬢と私は、奇しくも誕生日(7月7日)が一緒…
そのうえ、ちょうど24歳…二廻り違いということで…
勿論、干支の風習などはないのだろうが…“辰”ということで、これまた同じなのである。
まぁ、ただそれだけのことなのだが…(^ ^;


1960年、エルケが20歳当時に撮られた父母とのスナップ…眉など目元は父親似、そして口元は母親似といったところであろうか?

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カテゴリ : 3R
テーマ : 第二次世界大戦【ドイツ】
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