映画になった海狼たち

1939年9月3日、第二次世界大戦の幕が切って落とされたその日…Uボート乗組員達の戦いもまたアイルランド沖から始まった。
その後、戦いの場は大西洋を中心に、北は北海、南はインド洋に至る。
1942年1~4月の間には、前年の12月に参戦した米国水域(フロリダ沖、カリブ海、メキシコ湾にまで及ぶ)で『太鼓の響き(Paukenschlag)作戦』を決行し、115万tの戦果もおさめた。
船団攻撃任務につく彼らの一回の航海期間は魚雷を撃ち尽くしたり、任務遂行に支障をきたす程の損傷の無い限り約60日、その後の修理・点検の間の約40日が休暇にあてられた。

映画『U・ボート(Das Boot)』の劇中…出港間もない艦上で、従軍記者の海軍少尉が乗組員たちの写真を撮っていると、艦長が彼に「帰港時の彼らを撮りたまえ…髭面になっている…」と語る場面↑がある。
二ヶ月間の航海中は貴重な水を無駄に出来ず、髭を剃ることもままならない(真水は一日一人5リットルが限度)…従って、皆一様に髭面になる…勿論、艦長とて例外ではない。
1942年を境に、大西洋でのUボートは苦しい戦いを強いられるようになる。
1943年のトータル戦果は240万トンと、その前年の半分にも達していないのにもかかわらず…
Uボートの損失は、前年の88艦から一気に3倍近くの245艦にまで増加していた。
これは連合軍側が船団護衛の改善・強化をしてきたことに加えて、長距離哨戒機の導入、またUボートが連合軍側のS波電探を探知出来ないこともそれに拍車をかけていた。
そのため、もはや大西洋にはUボートにとって安全な海域はなくなりつつあった。
1944年になっても状況は変わらず、それどころか悪化の一途を辿り…商船1隻を沈めるに2艦のUボートが沈む計算となる状況にまで追いやられているほどだった。
1939年に57艦から始まったUボート(大戦中に1,131艦建造)は、連合軍側に対し、682護衛船団に対する攻撃で1,736隻、単独航行による商船605隻など計2,785隻(約1,500万t)、戦艦3隻、空母3隻を含む263隻(計575,143t)の軍用艦艇を撃沈しているが…
その代償はUボート743艦(765艦とする資料もある)の損失と、何より将来のある若者たち27,435名にも及ぶ尊い人命であった。
死傷率は63%(捕虜も含めると73%)にも及び、数値的には全軍のなかで最も高い死亡率となる。
Uボートの乗組員は、その過酷な任務に耐え得る健康な肉体と…何より強い精神力・忍耐力を要求されるため、原則として志願者のみを採用していた。
しかし、1943年以降は損害の増大に伴ない兵員の補充が難しくなり、年端のいかない…訓練もそこそこの若者達が投入されることとなる。
映画『U・ボート』の先程の場面はこう台詞を続けている…
「英軍は新聞を見たら恥じ入るぞ…ケツの青いガキを敵にしているとな…私は老人になった気分だ…子供十字軍さ…」
ところで、劇中のUボートには下の写真のような“笑う鋸鱝”と呼ばれるマークが付いているが、これは第9潜隊のマークである。
この映画の“艦長”はじめモデルになったのは、ハインリッヒ・レーマン・ヴィーレンブロック海軍大尉(最終階級:海軍中佐)乗艦のVII C型“U-96”で…↓の劇中の艦もVII C型のようである。



ヴィーレンブロックは1940年9月14日付でU-96を就役、1942年4月1日までこの艦の艦長を務めた。
その就役中の1941年2月26日付で騎士鉄十字章を、同年12月31日付で全軍第51番目の柏葉章を受章している。
1942年4月から陸上勤務となり第9潜隊司令官(ブレスト)、1944年12月1日付で海軍中佐に昇進、第11潜隊司令官(ベルゲン)を歴任した。
U-8で0回(0日)、U-5で1回(16日)、U-96で8回(267日)、U-256で1回(44日)の出撃で、25隻撃沈(計179,125t)、2隻大破(計15,864t)の合計194,989tのスコアをあげている。
因みに、『Das Boot』の原作者のローター・ギュンター・ブーフハイムは大戦中、映画同様に、ヴィーレンブロックのU-96に海軍戦時特派員として乗艦していた。
U-96は、1945年2月15日をもって廃艦となり、ヴィルヘルムスハーフェンにおいて停泊中であったが、最後は…これも映画同様に、3月30日の米第8空軍による空爆で撃沈されている。

ヴィーレンブロックの乗艦したU-96の艦橋正面には“荒ぶる雄牛”と、その右隣に“笑う鋸鱝(Der lachende Sägefisch)”のマークが描かれているが…
後述するが、この“荒ぶる雄牛(Schnauben Stier)”は第7潜隊のマークとなっている。
既記した如く、“笑う鋸鱝”は第9潜隊のマークであるから、なぜ両潜隊のマークを付けているのかと疑問に思われるかもしれない。
この“笑う鋸鱝”は元々ヴィーレンブロックの個人マークであり、彼が第9潜隊司令官に任官したことで第9潜隊のマークとして採用されている。

↓の写真は、撮影時日時は不明だが、第9潜隊司令官(海軍少佐当時)のヴィーレンブロック(左)とヨハン・ハインリヒ・フェーラー海軍大尉(右)のツーショットである。
奇しくも、このフェーラーもまた映画『ラストUボート(The Last U-Boat )』をはじめ数々の著作などでも取り上げられるU-234(XB型)の艦長として、その名を知られている。


U-234は、1943年12月23日に進水。
これはフェーラーがU-234を就役して間もなくの1944年3月にキール港において撮られた。
連合国軍の空襲に備えて偽装を施しているらしい。
フェーラーは1944年3月2日付でU-234を就役。
1945年2月28日まで第5潜隊所管のもと試験運航などを行った後、3月1日付で第33潜隊に所属替となり、3月24日にキール港から日本に向けた輸送任務に就いている。
このU-234には、ドイツで潜水艦建造を学んでいた友永英夫海軍技術中佐、イタリア(降伏後の拠点はスウェーデン)でジェットエンジンについて学んでいた庄司元三海軍技術中佐の他、駐日ドイツ大使館附空軍武官として赴任するウルリッヒ・ケスラー空軍大将、海軍艦隊附軍法会議判事カイ・ニーシュリング、さらに電波兵器の専門家ハインツ・シュリッケ博士、Me262ジェット戦闘機技術者アウグスト・ブリンゲヴァルトといった面々も同乗し、分解済みMe 262ジェット戦闘機の部品・設計図、「U235」と記載された“酸化ウラン”560㎏など240tにも及ぶ重要な軍事機密も積載して日本に向け出航した。
※U235:広島に投下された原子爆弾にも用いられた”ウラン235”。

※【上左】1942年秋、ブレーメンにあったフォッケウルフ航空機製造株式会社を視察した際に撮られた庄司元三海軍技術中佐(右側の丸眼鏡の人物)の写真。
中央の人物がクルト・タンク(Kurt Waldemar Tank)、左側は吉川春夫海軍技術中佐。
庄司と吉川は“広海軍工廠”の頃からの仲であり、吉川はドイツの技術院に派遣されていた。
U-234は、1945年3月24日、キール軍港を出航。
3月29日、ノルウェーのホーテン沖で新型のシュノーケル装置の訓練中にU-1301と接触事故を起こし、燃料タンクなどを損傷。
その修理のためノルウェーのクリスチャンセンに向かうこととなった。
その修理に二週間程を要することとなり、この遅れが庄司、友永の運命の分れ目だったといえるのかもしれない。
…というのも、このクリスチャンセンの造船所にもレジスタンスの活動家たちが潜伏し、U-234の情報は勿論、ドイツ軍の情報は逐一英国側に報告されていた。
4月16日午後、U-234はようやく再度出航。
ヨーロッパの海域はすでに危険水域となっており、日中は潜航を続け、夜間になって漸く海上を航行し距離を稼ぐしかなかった。
潜行中も敵の電波探信儀に捕捉されないようにするため、航行速度は僅か3.7km/h程だったという。
ドイツから日本に向けての航海は…一旦ペナンに入港するにも約28,000kmの距離に100日以上を要し、慎重に行われたにも関わらず、その成功率は25%にも満たないものだった。
北大西洋を大きく迂回した航路を取ったU-234がカナダのニューファンドランド島東約900km沖に達した5月10日…
無電によりドイツが既に降伏したことを知らされた。
これにより、降伏したドイツ側乗組員たちと、まだ連合国側と戦争状態にある日本…庄司、友永らとの温度差が一気にひらき…
両名の行動は警戒をもって対処されることとなったが、艦の破壊活動などをしないことを条件に監禁は解かれた。
庄司、友永が携行していた機密書類や設計図などを海に破棄。
ケスラーは、南米の中立国アルゼンチンに向かうことを主張し、艦は一時、南米に向かった。
だが、多くの士官がこれに反対した。
デーニッツ(大統領)からの無電は、「降伏命令に従うこと及び無傷で艦を明け渡すこと」を命令した。
5月14日、北大西洋上の通称“フレミシュキャップ(Flemish Cap)”の東海上にて、拿捕命令を受けた米海軍の護衛駆逐艦サットンに停船を命じられ、フェーラーは乗組員たちの身の安全を優先し、米軍に降伏することを決心。
その頃、庄司、友永と同室だったフリッツ・フォン・ザンドラルト空軍中佐が、ベッドに横たわって眠る両名の異常に気付き、艦長、軍医に知らせる。
二人は捕虜となることを潔しとせず、ルミナール(バルピツール酸系催眠鎮静薬)の大量摂取により服薬自決を図った。
館長に宛てた遺書には、二人の遺骸は水葬に付して欲しい旨、日本に自分たちの死を速やかに報告して欲しい旨…
最後にこれまでの感謝と御礼、貴艦の幸運を祈るとの文面で閉じられていた。
(遺書の日付は5月11日…二人は、この時点で既に覚悟を決めた。)
米軍側に無用な嫌疑を与えぬよう夜間のうちに、ハンモックのキャンバス地に包まれた二人の遺体は、U-234乗組員たちの敬礼に見送られ、暗い海中へと消えていった。
5月15日、U234の乗組員たちは操船要員を除く全員が退艦し、米国ニューハンプシャー州のポーツマス海軍基地に向け回航。
U-234の最期は、標的艦として米潜水艦グリーンフィッシュからの雷撃により、1947年11月20日、ケープ・コッド沖北東およそ40海里の海上にて撃沈されている。

投降の際のU-234。
フェーラーがキャップ姿の人物(護衛駆逐艦サットン艦長?)と言葉を交わしている。
映画『ラストUボート』は、アメリカ・ドイツ・オーストリア・日本による共同制作の映画…というよりドキュメンタリー・ドラマ、いわゆるドキュドラとして、日本では1993年1月2日の正月特別企画としてNHKでオンエアされた35mmフィルム作品。
因みに、オリジナル版は英語での台詞となっているが、ドイツ語の吹き替え版『Das Letzte U-Boot』で見るとなお一層の雰囲気が味わえる。
ドキュドラということもあり、概ね既記した如くの史実に即したストーリーとなっている。
ただ劇中で、U-234を米海軍護衛駆逐艦サットンよりも先に捕捉したとされる英国海軍駆逐艦リバプール(※実艦は軽巡洋艦)を逆に撃沈するという作話的な展開となっているが、これに関しては“爆雷”“息詰まる潜行”そして“魚雷発射”という潜水艦映画の見せ場でもあるシーンを盛り込みたかったからなのか?どうかまではわからないが、史実とは異なる。
実艦のタウン級軽巡洋艦リバプールは、この時期スコットランドのロサイス英国海軍造船所において修理中であり、終戦間近に修理を終え、その後、地中海に展開している。
劇中では小林薫 演じる丸眼鏡の“巽中佐”が庄司元三…大橋吾郎 演じる“木村中佐”が友永英夫をイメージしていると思われる。
実際にU-234に乗艦した際…庄司は42歳、友永は36歳と、風采的にも両名とも納得のいくキャスティングではないだろうか。
何といっても、小林薫の“海軍第一種軍装…登場のシーンでは士官万套”姿が実に様になっており…また日本側の他の俳優陣では、海軍大将役の児玉清も相変わらず“海軍”軍装が様になっている。

さらにドイツ側の俳優陣では、“ゲルバー艦長”を演じているウルリッヒ・ミューエも当方的にはかなり好きな俳優である。
2003年公開の篠田正浩 監督の映画『スパイ・ゾルゲ』では、駐日ドイツ大使オイゲン・オット役を演じているのだが、ドイツ軍将校役…ましてや大柄なオットを演じるには少々小ぢんまりとし過ぎた点は否めないが…
その前年(2002年)に公開の映画『ホロコースト アドルフ・ヒトラーの洗礼(原題:Amen)』で、医師でありSS准将でもある狡い“ドクター”役を演じた際の黒服姿のミューエの風采、雰囲気を見た時に…ヨアヒム・パイパーを扱った映画などがあったならば、是非ともミューエにパイパー役を演じて頂きたい…などと思ってしまったくらいである!
また、これは未見なのだが…1989年の映画『Das Spinnennetz』でのテオドーア・ローゼ役の際の、帝政ドイツ軍の少尉という設定の軍帽姿(下右)に少し加工を施してみたうえで比べてみたりすると、より一層ご納得頂けるのではないだろうか。

2006年公開の『善き人のためのソナタ』では数々の男優賞を獲得。
その直後に胃癌を発症、ベルリンから西に120km程のヴァルベックで静養していたが、残念ながら2007年7月22日に急逝している。 (享年54歳)
2000年公開の映画『U-571』…公開当時、製作費120億円をかけたハリウッド版Uボート映画ということもあり…また、ジョン・ボン・ジョヴィが出演しているということもあり、多少話題となり、当方も映画館にまでわざわざ見に行ってしまった映画でもある。
ただ戦争映画としては、史実に添う部分もない奇抜なストーリー展開とあまりな御都合主義的な戦闘シーン、ハリウッド的なヒロイズム観、等々賛否のわかれる映画と言えよう。
劇中で使用された“U-571”はVII B型(VII C型とほぼ同型)をベースに製作された実物大のレプリカ(米軍側のS-33も)…このあたりは、さすがハリウッドなのかもしれない。
因みに、U-571艦長ギュンター・バスナー大尉役はトーマス・クレッチマンが演じている。

Uボートに関しては、その艦番号によりある程度その艦についての来歴を探ることが出来る。
U-571はヘルムート・メールマン海軍大尉(当時)が就役したVII C型の艦である。
メールマンは1933年4月1日付で士官候補生として海軍に入隊し、軽巡洋艦ニュルンベルク、魚雷艇ルクスに乗艦し哨戒任務に就いている。
1940年4月にUボート潜隊に移動となり、艦長としての予備演習として1940年12月9日付でU-143(IID型)、1941年5月20日付でU-52(VII B型)を就役している。
1941年4月1日付で海軍大尉に昇進、5月22日付でU-571を就役し、8回(344日)の出撃で7隻撃沈(計47,169t)、1隻大破(計11,394t)の合計58,563tのスコアをあげている。
これらの戦功により、1943年4月16日付で騎士鉄十字章を受章している。
1943年5月31日をもって艦を降り、6月1日付で潜水艦隊司令長官(BdU)附幕僚部に転属。
1944年9月16日付で海軍少佐に昇進し、12月17日付でノルウェーのナルヴィクで第14潜戦の司令官に任官している。

その後のU-571は、U-566の一等運航士として経験を積み、 指揮官(艦長)養成課程を修了したばかりのグスタフ・リュッソー海軍中尉が 1943年5月31日付で就役している。
3回(110日)の出撃をしているがスコアはあげられなかったようである。
1944年1月28日にアイスランド西方の北大西洋上でオーストラリア空軍の飛行艇…“指輪の幽鬼”ことショート サンダーランドにより撃沈され、艦長以下52名が戦死している。
決して、独海軍の駆逐艦に攻撃され、その結果、海底に没したということはなく…
ましてや、その駆逐艦を逆に撃沈したなどというような事実はないので、くれぐれも誤解のなきように…

ヴェルナー・ハルテンシュタイン海軍少佐は、1928年10月10日付で士官訓練生として海軍に入隊、軽巡洋艦カールスルーエや数艇の魚雷艇に乗艦し65回におよぶ哨戒任務に就くなか、1932年10月1日付で海軍少尉、1934年9月1日付で海軍中尉、そして1937年6月1日付で海軍大尉に昇進。
1941年3月にUボート潜隊に移動となり、1941年9月4日付でU-156(IX C型)を就役した。
1942年6月1日付で海軍少佐に昇進。
5回(294日)の出撃で、19隻撃沈(計97,489t)、4隻大破(計20,001t)の合計117,490tのスコアをあげている。
これらの戦功により、1942年2月2日付でドイツ十字章金章、9月17日付で騎士鉄十字章を受章している。

ハルテンシュタインが、戦功以上に一躍名を残すことになったのが“ラコニア号事件”であろう。
それはハルテンシュタインにとって四回目の出撃時…
1942年9月12日、南大西洋上アセンション島の北北東210km沖に(元)客船ラコニア号(19,695t)を捕捉。
午後8時10分、右舷に1本の魚雷を命中させ…9時11分にラコニア号は沈没。

英国の海運会社キュナード・ラインの保有する客船ラコニア号は、1939年9月4日に英国海軍に徴用され仮装巡洋艦となって大西洋で船団護衛に従事した。
その後、兵員輸送船に改装され、主に兵員輸送任務に従事。

当日のラコニア号には、乗員136名、ポーランド兵約160名、婦女子を含む一般乗客約80名、英軍関係者268名とイタリア人捕虜約1800名の計2450名程が乗船していた。
ハルテンシュタインは、海上に投げ出された生存者をできる限り自艦に救助(一説では283名)し、それぞれを連結した4艘の救命艇を曳航した。
その際、救助したイタリア兵から多数のイタリア兵捕虜が乗船していたことを知り、直ちに潜隊司令部に報告。
報告を受けたデーニッツは救助を決定し、これによりU-506、U-507、U-459およびイタリアの潜水艦コマンダンテ・カッペリーニ、ヴィシー政府の軽巡洋艦グロワール、駆逐艦アンナミト、植民地通報艦デュモン・デュルビユが救助活動、遭難者の捜索に加わった。
ハルテンシュタインは、タオルを縫い合わせた急拵えの赤十字旗を甲板に掲げさせ、同時にSOS信号を発信、救助した英国海軍士官には現在の状況と「ラコニア号の乗員・乗客の救助に来援する如何なる船舶に対し、当艦が攻撃された場合を除き、攻撃の意思なし」旨を英語の平文で打電させ、連合国側の救助も要請している。
9月17日、米軍爆撃機のB-24が飛来。
英国海軍士官により信号を送るも反応無く、一旦、航過したが再来し、2発の爆弾を投下。
幸い直撃は免れたものの、至近弾の破片によりU-156の搭乗員2名が負傷している。
ハルテンシュタインが、救命艇を繋いでいる曳き縄を解くよう命じているところに再々来し、爆弾1発が投下…此度は、艦橋間近に被弾するもU-157自体の損傷は軽微で済んだものの、救命艇の何艘かは顛覆した。
これにより、U-156の搭乗員以外に救命胴衣を着けさせ退鑑を命じ、潜行態勢に入り海域を離脱。
その後、洋上に取り残された遭難者たちもヴィシー政府の派遣した艦船によって、その多くが救助。
独伊4艦の潜水艦による救出者も合わせると1,083名(1,104名とも)が救助されているが…
この一連の事件では推定1,649名が命を落としている。
この事件を機に、デーニッツは、いわゆる「ラコニア指令(Laconia-Befehl)」といわれる概ね以下のような文言を発している。
1.撃沈した船舶からの救命艇(転覆救命艇の介助行動)、浮き輪、その他による漂流者への一切の救助努力、食料や水の供給は控えなくてはならない。
そもそも救助活動自体が、敵船と乗組員を破壊せんとする本来の戦争行動と矛盾するものである。
2.敵の艦長もしくは技師長の救助に関しては状況に応じて有効である。
3.遭難者救助はその陳述が艦にとって重要な場合に限る。
4.敵が、我が国の婦女子も暮らす都市の如何に拘らず爆撃行動を執っていることを忘れてはならない。
【 Unterseebootsflottille “Saltzwedel” 】
ハルテンシュタインの所属していた第2潜隊は、1917年12月2日に英国のワイト島沖で、機雷に触れ沈没したUB 81(UB III型)の艦長だったラインハルト・ザルツヴェーデル海軍中尉に因んで、“ザルツヴェーデル” 潜隊とも呼ばれていたことから、その頭文字である“S”とUボートをデザインしたものを潜隊マークとしている。
因みにザルツヴェーデルは、何と111隻撃沈(計172,824)、10隻大破(計17,131t)の合計189,955tのスコアをあげ、1917年8月20日付でプール・ル・メリット勲章(ブルー・マックス)を受章している。

このラコニア号の顛末を描いたのが、2011年にBBC Twoで放映された英独合作のTV映画『Uボート156 海狼たちの決断(THE SINKING OF THE LACONIA)』である。
ドラマとしての展開上、当然フィクションも盛り込まれてはいるのだが、概ね史実に基づいてのストーリーのためブレもない。
このドラマのキーワード「Vergiß nicht, daß du ein Deutscher(常にドイツ人であれ)」の如く…英国向けにも拘らず、連合国側以上にハルテンシュタインおよびU-156の乗組員たちが好意的かつ紳士的に描かれている。
“潜水艦モノにハズレ無し”とよく言われるが…
勿論、潜水艦モノ特有の手に汗握るシーンも見所ではあるのだが…
この映画では、通常は乗り込むことのない部外者…男性は勿論、婦女子たち…
その彼ら彼女らとU-156の乗組員との交流、彼ら彼女ら同士の交流という…
こうした映画には希なハートフルなストーリー展開も相まって、長尺(171分)さを感じさせることなく最後まで楽しめる映画となっているではないだろうか。
劇中の使用言語も、ドイツ側は独語、英米側は英語と、使い分けがされているところが嬉しい。

因みに、ドイツ軍関連映画ではお馴染みとなったトーマス・クレッチマンが、自身最高位となるデーニッツ提督(海軍大将)を演じている。
デーニッツの描き方も好意的であるのだが…クレッチマンが演じていることで少々格好良過ぎの観も否めない。
【 7.unterseebootsflottille des Stiers 】

第7潜隊のマークである“荒ぶる雄牛”…
このマークを使用したUボートは、以下の22艦が確認されている。
U-46、U-47、U-75、U-98、U-103、U-135、U-213、U-227、U-266、U-358、U-359、U-382、U-390、U-442、U-567、U-578、U-590、U-593、U-607、U-618、U-714、U-976

エンゲルベルト・エンドラス海軍大尉は、商船員を経て、1934年4月8日付で海軍に入隊。
装甲艦ドイッチュラントおよび何艦かの護衛艦などに乗艦し哨戒任務に就いている。
1937年4月1日付で海軍少尉に昇進。
1937年10月にUボート潜隊に移動となる。
1938年10月からギュンター・プリーン海軍中尉(当時)の就役するU-47に一等運航士として乗艦し、スカパ・フローの攻撃にも参加している。
1939年4月20日付で海軍中尉に昇進。
1939年12月までU-47に乗艦、その後は艦長としての予備課程を経て、1940年5月22日付(~1941年9月24日)で、先代艦長のヘルベルト・ゾーラー海軍中尉(のち海軍少佐/第7潜隊司令官(1940年5月~1942年9月))からU-46(VII B型)を継艦。
1940年9月5日付で騎士鉄十字章、1941年5月1日付で海軍大尉に昇進し、6月10日付で全軍第14番目の柏葉章を受章している。
1941年5月1日付で海軍大尉に昇進。
1941年7月18日付で、ダイヤモンド付Uボート戦闘徽章を受章。
1941年10月15日付でU-567(VII C型)を就役したが、2ヶ月後の12月21日、ポルトガル領アゾレス諸島沖北方海域にて英海軍戦列艦デプトフォード号の爆雷により撃沈され戦死。
(享年30歳)
1941年10月8日公開の第579回『ドイツ週間ニュース』 では、エンドラスの艦…U-46が紹介されている。
U-46で8回(195日)、U-567で2回(37日)の出撃で、22隻撃沈(計118,528t)、4隻大破(計25,491t)の合計144,019tのスコアをあげている。

エンドラスが、U-567を就役したことで、この艦も第3潜隊から第7潜隊に所属替となった。
U-567の艦橋に、第7潜隊のマークである“荒ぶる雄牛”をマスキングによって描き込んでいる様子である。
第7潜隊のマークである“荒ぶる雄牛”には基画となる“雄牛”があり…その“雄牛”を個人マークとして使用していたのがギュンター・プリーン海軍少佐である。
ただ、第7潜隊のエンブレムでは脇腹に3本の筋が加筆されているくらいで、両画にはほとんど違いは無い。

プリーンは、1923年、15歳の夏にヴァイマル共和国海軍の商船員として全装帆船ハンブルクの給仕係として、その船乗り人生を始めている。
1932年1月には船長試験に合格したものの、折からの世界恐慌で船舶輸送業界も勿論のこと大打撃を受け、仕事に就くことが出来なかった。
そんな先行きの見えないなか、3月にN.S.D.A.Pに入党、8月には国家労働奉仕団(RAD)に入団している。
1933年1月16日付で士官候補生として海軍に入隊、軽巡洋艦ケルンに乗艦し哨戒任務に就いている。
1935年4月1日付で海軍少尉に昇進。
同年10月にUボート潜隊に移動となり、ヴェルナー・ハルトマン海軍大尉(当時)の就役するU-26の当直士官として、スペイン内戦に揺れるスペイン海域の哨戒任務などで経験を積む。
1937年1月1日付で海軍中尉に昇進。
指揮官(艦長)養成課程を修了し、1938年12月17日付でU-47(VII B型)を就役している。
1939年2月1日付で海軍大尉に昇進。
1939年10月14日、潜水艦隊司令官(FdU)カール・デーニッツ海軍少将(当時)の作戦命令により、プリーンが指揮するU-47は英軍港”スカパ・フロー” の港内深く潜入し、碇泊中の英戦艦ロイヤル・オークを撃沈した。
この功績により、1939年10月18日付で、Uボートの艦長として初めて騎士鉄十字章を受章。
”スカパ・フロー” は、英国艦隊の拠点であり、またドイツにとっては第一次大戦敗戦後の因縁の場所でもあった。
そこに敵戦艦を沈めことでドイツ国民は歓喜した。
この作戦成功を喜んだヒトラーは全乗組員をベルリンに招き、一人一人に勲章を授与するほどであった。
それに因んで、プリーンは「スカパ・フローの雄牛(Stier von Scapa Flow)」の異名を得る。
そのプリーンが愛艦のU-47艦橋側面に個人マークとして描いたのが、この“スカパ・フローの雄牛”で…これが第7潜隊のなかで広まっていったという経緯がある。

1939年10月18日、ベルリンの総統官邸でアドルフ・ヒトラーがギュンター・プリーンとU-47の乗組員たちと接見した際の写真。
プリーンがヒトラーの脇に立ち、各乗組員たちの紹介などをしている。
(左端はエーリヒ・レーダー大提督)

因みに、デーニッツは1936年1月1日付で潜水艦隊司令官(Führer der Unterseeboote:FdU)に任官しているが、この作戦指揮の功により1939年9月19日付で潜水艦隊司令長官(Befehlshaber der Unterseeboote:BdU) に格上げされている。
つまり、これはデーニッツ個人のみならず…全軍における潜水艦隊(群)という組織のその後の重要度・優先度が上がったことを意味している。
その“スカパ・フロー”の英雄…プリーンを伝記的に描いたのが1958年製作の映画『U47 – Kapitänleutnant Prien(邦題:U47出撃せよ)』である。
‘50年代に製作されたこの手の映画にありがちな、ヒロイックで清廉潔白な人物像を強調した描き方ではあるものの…1951年製作の『砂漠の鬼将軍』でのロンメルの描き方もそうであったように…“反ヒトラー”思想の知人に共感しつつも、“軍人”という立場として苦悩するという体…
戦後間もないこの年代の映画は、戦中を知る俳優陣の所作などからも、その名残を垣間見ることもでき、また実物品なども使用可能な時代でもあり、CGやVFXなどといった技工で精巧に描く現代の戦争映画にはない雰囲気を感じることができる。
劇中に登場するUボートも、撮影用のセットやミニチュアなどではなく、映画撮影に際し、戦中にスペイン海軍に譲渡された実存艦(U-573:VII C型)を借り受けたのだとか!
プリーンは、10回の出撃(計238日)で、31隻撃沈(計191,919t)、8隻大破(計62,751t)の合計254,670tのスコアをあげて…1940年10月20日付で全軍5番目(海軍からは初)となる柏葉章も受章している。

1941年2月20日、出航前のU-47の艦橋に立つプリーンを撮らえた写真であるが、在りし日のプリーン最後の一枚となってしまった。
この半月後の3月6日に、U-47は北大西洋上にOB293船団を発見し、船団を追跡。
U-47からの報告を受けた近海を航行中の3艦(U-99、U-70、U-A)が加わり、夜半~翌7日にかけて攻撃を開始した。
その最中、公式の記録はないが(英軍側による撃沈の報告もない)…45名の乗組員を乗せたU-47は消息を絶った。
※英戦艦ウォルヴァリンに撃沈されたと記載された資料もあるが、英国側の報告によるとU-A(WWI型)を撃沈したものと認識しているようである。
プリーンの死は、その後しばらく伏せられていたが、長期不在がいらぬ憶測を招き、5月24日刊の国防軍軍報(Wehrmachtbericht)よって公表されるに至った。 (享年33歳)
【 Schirmmütze für Offiziere, Weisser Deckel 】

艦長の“白帽”は公認されたものではなかったようだが、暗い艦内で居場所を目立たせる意味もあったということである。

鍔部の表面は濃紺色ラシャ生地製で、尉官クラスの場合は縁どりに沿って金モール糸による波状模様が刺繍されている。
(佐官クラスは左右単列、将官クラスは左右二列から為る柏葉模様の刺繍が施される)
鉢巻部は濃紺モヘア織生地製。

“白帽”を被り、髭面になったアルブレヒト・ブランディ海軍大尉(最終階級:海軍中佐)の帰港時のスナップである。
ブランディは、1935年4月5日付で士官候補生としてドイツ海軍に入隊。
軽巡洋艦カールスルーエでの半年間の訓練の後、1936年6月~翌年3月までフレンスブルクのミュルヴィク海軍兵学校に入学。
1938年4月1日付で海軍少尉に昇進。
1939年9月のポーランド戦役の際には、ヴェステルプラッテ要塞をはじめ、ポーランド軍陣地砲撃任務にあたる戦艦シュレスヴィヒ・ホルシュタインの掃海のため、第1掃海隊群所属のM1級掃海艇で運航士として参加している。
1939年10月1日付で海軍中尉に昇進。
Uボート潜隊への移動を申し出るも許可されず、1940年5月にM1級掃海艇の指揮官に任官。
1941年4月に、再びUボート潜隊への移動を申請。
今回は受理され…ノイシュタット・イン・ホルシュタインでの訓練の後、フランスのサン・ナゼールで研修を受けている。
その後、実地の艦長研修(1941年末~1942年4月)としてエーリヒ・トップ海軍大尉(※後述)の指揮するU-552に乗艦。
そして、ついに1942年4月9日(~1943年9月12日)付でU-617(VII C型)を就役。
同年10月1日付で海軍大尉に昇進。
1943年1月21日付で騎士鉄十字章、4月11日付で全軍第224番目の柏葉章を受章。
1943年9月12日、ハント級護衛駆逐艦パッカリッジ号を沈めた直後、スペインのモロッコ沖で英軍機の爆撃を受けU-617は大破。
ブランディと乗組員たちは艦を放棄し、ゴムボートでの脱出を図ったが、スペイン軍により一旦拘留されたものの脱出し、フランスの南東部のトゥーロン海軍基地まで辿り着く。
1943年12月?日(~1944年3月11日)付でU-380(VII C型)を就役。
しかし、3月14日の米軍機によるトゥーロン海軍基地への空爆により艦が大破したため、代替艦として4月?日(~7月1日)付でU-967(VII C型)を就役。
1944年5月9日付で全軍第66番目の剣付き柏葉章を受章。
同年6月8日付で海軍少佐に昇進。
その直後の…U-967での二度目の出撃の途中で体調を崩し、急遽帰港…
7月2日付で、艦はそのままハインツ・オイゲン・エーヴァバッハ海軍中尉に引き継がれた。
7月?付で、ダイヤモンド付Uボート戦闘徽章が授与されている。
U-617で7回(187日)、U-380で1回(33日)、U-967で1回(37日)の出撃で12隻を撃沈し、合計31,689tのスコアをあげている。
その後は陸上勤務となり、フィンランドのヘルシンキに司令部を置く東バルト海域の潜水艦隊司令官に任官。
1944年11月24日付で全軍第22番目の宝剣付き柏葉章を受章。
因みに、宝剣付き柏葉章は海軍ではブランディとヴォルフガング・リュート海軍大佐(※後述)の二人しか受章していない。
同年12月18日付で海軍中佐に昇進。
【 Ergänzung 】
ともするとドイツ全軍の中で、ドイツ海軍(Kriegsmarine:KM)はあまり目立たないと言っても過言ではない。
ドイツという国自体、その国土のほとんどが海には面しておらず…
海に開けた北部(北海、バルト海)海岸線の大半ですら内海のように浅く、大型艦の航行には不向きであった。
また、陸続きの長い国境線を守るためには自ずと海軍力よりも陸・空軍力の増強が優先されて然るべきでもあった。
そこで、ドイツ海軍は潜水艦(Uボート)を主力とした通商破壊戦に特化し、物資・人材面に打撃を与えることで、戦局の打開を図る道を選択する。
Uボートによる戦果スコアは、対戦車戦の一輌、対戦闘機戦の一機という数え方…〇隻という捉え方ではなく、一隻あたりの“排水量”(厳密な測度では総容積)でカウントされる。
その戦果は、単なる一隻を沈めたということに留まらず、戦局に少なからずの影響を与えることもあり得た。
そのため灰色の海狼たちは、チャーチルをして英国への最大の脅威と言わしめたのである。
艦長以下数十名にも及ぶ乗組員たちと過酷な日々を共に乗り切り、あげた戦果…
以下は、そんなUボート・エースたちのなかのトップ3の艦長たちである。


オットー・クレッチマー海軍中佐は、1930年4月1日付で士官候補生として海軍に入隊。
軽巡洋艦ケルンに乗艦し哨戒任務に就いている。
1934年10月1日付で海軍少尉に昇進。
1936年1月にUボート潜隊に移動となり、1936年6月1日付で海軍中尉に昇進。
翌年の1937年7月31日(~8月15日)付で艦長としての予備演習として最初の艦となるU-35(VII A型)を就役している。
1937年10月1日(~1940年4月1日)付でU-23(II B型)を就役。
1939年6月1日付で海軍大尉に昇進。
1940年4月18日付でU-99(VII B型)を就役。
1940年8月4日付で騎士鉄十字章を、その3ヵ月後の11月4日付で全軍第6番目の柏葉章を受章している。
1941年3月1日付で海軍少佐に昇進。
同年3月17日、大西洋上(北緯61度、西経12度)において英海軍駆逐艦ウォーカーの爆雷を受け、航行不能となり、午前3時43分に艦を自沈。
クレッチマー以下43名の乗組員のうち40名は大破した艦から何とか脱出し、英海軍の捕虜となった。
その後、ボーマンビル(カナダ/オンタリオ州)の第30収容所に送られ、終戦を向かえ、1947年12月にドイツに帰国するまでその地で捕虜生活を送っている。
ただ、その間もドイツ海軍潜水艦隊司令部との連絡を取り合えていたようで…
1941年12月26日付で全軍第5番目(海軍初)となる剣付柏葉章が追贈されている。
(↑のポストカードは、その剣付柏葉章に画像修正されている)
また、1944年9月1日付で海軍中佐への昇進も為されている。
1939年10月4日にあげた初戦果から、捕虜になる前日にあげた6隻という最後の戦果までの約1年半という短期間のみにも拘らず、U-35で0回(0日)、U-23で8回(97日)、U-99で8回(127日)の出撃で、47隻撃沈(計274,418t)、5隻航行不能(計37,965t)の合計312,383tのトップとなるスコアをあげている。
(※56隻撃沈で計313,611tとする資料もある)


ボルフガング・リュート海軍大佐は、1933年4月1日付で士官候補生として海軍に入隊。
練習船ゴルヒ・フォックでの訓練を経て、軽巡洋艦カールスルーエ、軽巡洋艦ケーニヒスベルクなどに乗艦し哨戒任務に就いている。
1936年10月1日付で海軍少尉に昇進。
1937年2月にUボート潜隊に移動となり、1938年6月1日付で海軍中尉に昇進し、翌年の1939年12月16日(~28日)付で艦長としての予備演習として最初の艦となるU-13(II B型)を就役している。
1939年12月30日(~1940年6月10日)付でU-9(II B型)、1940年6月27日(~10月20日)付でU-138(II D型)、1940年10月21日(~1942年4月11日)付でU-43(IX型)などを就役。
1940年10月24日付で騎士鉄十字章を(U-138艦長として)受章。
1941年1月1日付で海軍大尉に昇進。
1942年5月9日(~1943年10月31日)付で、従来のUボートに比し航続距離の長いU-181(IX D/2型)を就役。
その特性を活かし、インド洋~南アフリカ沖の海域での連合国船籍の商船などを攻撃する任に就く。
この任務中に、リュートと乗組員たちは205日続航という、その時点での世界記録を成し遂げ、この功績により1942年11月13日付で全軍第142番目の柏葉章を受章している。
(この記録は、1943年10月23日に225日続航という快挙を成し遂げたアイテル・フリードリヒ・ケントラクト海軍少佐の就役するU-196(IX D/2型)により破られる)
1943年1月26日付で、ダイヤモンド付Uボート戦闘徽章を受章。
1943年4月1日付で海軍少佐に昇進、4月15日付で全軍第29番目となる剣付柏葉章を受章し、さらに8月11日付で全軍7番目(海軍初)となる宝剣付柏葉章を受章している。
U-13で0回(0日)、U-9で6回(72日)、U-138で2回(29日)、U-43で5回(204日)、U-181で2回(335日)の出撃で、47隻撃沈(計225,756t)、2隻航行不能(計17,343t)の合計243,099tのスコアをあげている。
その後は艦を降り、1944年1月からゴーテンハーフェンの第22潜隊司令官に任官。
同年年8月1日付で海軍中佐に昇進し、その後は(英雄を死なせてはならぬとの配慮から…)艦を降り、7月からはフレンスブルクのミュルヴィク海軍兵学校(第一学部)の教官に異動。
同年9月1日付で海軍最年少で海軍大佐に昇進し、最年少でのミュルヴィク海軍兵学校校長に就任をしている。
降伏条件受諾後のドイツは、大戦中に強制連行されてきた外国人労働者が解放された挙句に、其処此処で略奪・強奪が横行する事態となった。
占領軍当局はこれに対し、ドイツ側に警備を命じ、歩哨の軽武装と、警備に際しては予め定められた合言葉に返答無き者に対しての発砲も許可した。
1945年5月14日の晩、真相は不明だが…リュートは、そうした歩哨に撃たれ即死している。 (享年31歳)
歩哨の証言では…哨所に近づく人物に対し、誰何したにも拘らず尚も近づいてきたため、威嚇射撃をしたところ、弾が偶然に頭部に命中したということである。
次代ドイツ海軍期待のエースの若すぎる突然の死であった。
デーニッツは、リュートを大いに重用し、自身の次期後継者にと考えていた程であっただけに、その死を深く悲しみ、第三帝国としての最後の国葬として葬儀を執り行っている。
海軍兵学校の講堂に設けられた祭壇に安置されたリュートの柩に向かい、デーニッツは弔辞を述べている。


エーリヒ・トップ海軍中佐は、1934年4月8日付で士官候補生として海軍に入隊。
1937年4月1日付で海軍少尉に昇進。
1937年10月から半年間、軽巡洋艦カールスルーエで乗艦し哨戒任務に就いている。
1938年にUボート潜隊に移動となり、ヘルベルト・ゾーラー海軍大尉(当時)の就役するU-46に運航士として乗艦している。
1939年4月1日付で海軍中尉に昇進。
U-46での4回の出撃を経て、1940年6月5日(~9月15日)付で前任のクラウス・コルス海軍大尉(当時)からU-57(II C型)を継艦。
この艦での3回目の出撃の際…9月3日にノルウェー船ロナと衝突し、U-57は沈没。
1940年12月4日(~1942年9月8日)付で…後に“Der Rote Teufel(赤い悪魔)” と異名を取るU-552(VII C型)を就役。
1941年6月20日付で騎士鉄十字章を受章。
1941年9月1日付で海軍大尉に昇進。
1942年4月11日付で全軍第87番目の柏葉章を受章、同日付でダイヤモンド付Uボート戦闘徽章も受章している。
1942年8月17日付で海軍少佐に昇進し、同日付で全軍第17番目の剣付柏葉章を受章。
1942年10月付で、その実績と経験を買われ後進育成のためゴーテンハーフェン(グディニャ/ポーランド)に司令部をおく第27潜隊(訓練部隊)の司令官に任官。
1944年12月1日付で海軍中佐に昇進。
従来型潜水艦の劣勢を挽回すべく開発された水中高速型潜水艦のXX I型の配備に向け尽力し、1945年3月9日(~4月26日)付でU-3010、4月27日(~5月9日)付でU-2513の両艦を就役…現場(艦長)に復帰している。
ただし、この両艦は試験航行のため出撃はない。
トップは夜間雷撃の名人といわれ、U-57で3回(49日)、U-552で10回(311日)の出撃で、36隻撃沈(計198,650)、4隻航行不能(計32,317)の合計230,967t…そのスコアの大部分を北大西洋と米国沿岸であげている。
残念ながら、名前は“トップ”でも戦果スコアではついに“トップ”にはなれなかった…。

1941年4月7日にサン・ナゼールを出航する際のU-552の艦橋に立つ“白帽”姿のトップ。
その艦橋正面には、対面する“赤い悪魔”の個人マークを誇らかに冠している。
これは、U-57の前任艦長だったコルスが元々は使用していたマークだったようである。
この写真が撮られた頃は、多少ディテールなどが描き込まれているが…後にシルエットのみの“赤い悪魔”に変更されていく。
【 U-boots Kriegsabzeichen 】

Uボート戦闘徽章は潜水艦隊司令長官(BdU)カール・デーニッツ海軍少将(当時)の名の下に1939年10月13日付で制定され、Uボートの艦長(396名)および乗組員の合わせて9,536名に対して授与された。
因みに、ドイツ海軍が独自に制定した最初の勲章でもある。
Uボート戦闘徽章には、ドイツ帝国海軍時代の1918年型があり、皇帝ヴィルヘルム2世により1918年2月1日付で制定されている。
1939年型は、画家でデザイナーのパウル・カスベルクが原型をデザインし、1939年11月1日にベルリンのC.シュヴェリーン親子商会(C. Schwerin und Sohn)に試作品製作を依頼。
ウィーンのルドルフ・ズヴァル(Rudolf Souval)社、シュトゥットガルトのフランク&ライフ(Frank & Reif)社、リューデンシャイトのヴェーガーホフ兄弟商会(“G.W.L”=Gebrüder Wegerhoff, Lüdenscheid)なども製造している。
金属製の勲章による接触音は、潜水艦では致命傷ともなりかねず、そのため艦内での佩用に際し、刺繍タイプも製造されている。
徽章のサイズは横幅48mmx縦幅39mm。
授与基準は、以下の何れかの条件に該当する者。
・2回以上の作戦航海に参加
・作戦任務の達成
・作戦任務中の受傷者

書式としては以下のような感じになる。
Verleihungs-Urkunde (授与証明書)
Auf Grund der Ermächtigung Oberbefehlshabers
der Kriegsmarine verleihe ich dem
(海軍総司令官の承認に基づき本官が授与する)
Dienstgrad (階級) Name (氏名)
Mechanikerobergefreiten Kurt Helber
(二等整備兵曹 クルト・ヘルバー)
das
Ubootskriegsabzeichen 1939 (Uボート戦闘徽章 1939)
Ort und Datum(場所と日付)
Im Westen , den 6. Januar 1944
(1944年1月6日、西部(司令部)において授与)
Unterschrift(署名)
“Rösing” (Hans-Rudolf Rösing)
“レーズィング” (ハンス=ルドルフ・レーズィング)
Dienstgrad und Dienststellung(階級と職務)
Kapitän zur See und Führer der Unterseeboote West
(海軍大佐 兼 西部潜水艦隊司令官)
因みに、ロルフ・トムセン海軍大尉の…1回目の出撃後時点(1945年1月3日付)で授与されたという例もある。
トムセンは、1936年4月6日付で士官候補生として海軍に入隊し、SMS(皇帝陛下の艦艇)シュレースヴィヒ・ホルシュタイン、掃海艇M-89での訓練およびフレンスブルクのミュルヴィク海軍兵学校に入学の後、1938年10月1日付で海軍少尉に昇進。
同時に3年半程、航空魚雷を配備した唯一の部隊であった第26爆撃航空団に転属している。
(空軍前線飛行章:1941年4月25日付で銀章、1942年3月26日付で金章が授与された。)
1940年10月1日付で海軍中尉に昇進。
1943年3月1日付での海軍大尉への昇進を機に海軍に復属し、4月にUボート潜隊に移動。
1944年1月27日(~1945年5月9日)付でU-1202(VII C型)を就役している。
同年12月10日に米商船ダン・ビアード(7,176t)を撃沈し、その戦功により1945年1月4日付で騎士鉄十字章を受章している。
また、二回目の出撃後の1945年4月29日付で柏葉章も受章している。
さらにダイヤモンド付Uボート戦闘徽章も同日付で受章している。(戦後の追贈)
最終的に、二回(118日)の出撃であげた戦果は上記の一隻のみであり、これも、ある意味…優遇?…例外的なケースといえなくもない。

左袖には、1940年4月9日~6月8日に行われたナルヴィクの戦いに参加した者に授与されたナルヴィク盾章を佩用している。
陸・空軍用の盾の色が、銀色なのに対し、海軍用のみ金色…
トムセンは空軍転属時期での受章だが、元籍での受章ということで金のタイプを佩用。
さらに、1945年1月27日付で授与されたUボート前線徽章・銅章を左の胸元に佩用している。
このポートレートが撮られた時期は、おそらくこの徽章の受章後間もなくかと思われ…柏葉章の受章前であったため、後の加筆となっている。
【 U-boots Kriegsabzeichen mit Brillanten 】

柏葉章を受章した29名には、“鉤十字”部分に9個のダイヤモンドを埋め込んだダイヤモンド付Uボート戦闘徽章が追贈された。
因みに、デーニッツにはさらに“葉冠”部分にも少し大き目の9個のダイヤモンドを埋め込んだ特別版のダイヤモンド付Uボート戦闘徽章が追贈された。
Adalbert Schnee (U-6 U-60 U-121 U-201 U-2511) 1942
Albrecht Brandi (U-380 U-617 U-967) Juli 1944
Carl Emmermann (U-172) 1. Oktober 1943
Engelbert Endraß (U-46) 18. Juli 1941
Erich Topp (U-46 U-522) 11. April 1942
Friedrich Guggenberger(U-28 U-81 U-847 U-513) 1943
Georg Lassen (U-29 U-166) 22. Oktober 1944
Günther Prien (U-47) 1941
Hans-Günther Lange (U-711) 29. April 1945(nach dem Zweiten Weltkrieg)
Heinrich Bleichrodt (U-48 U-67 U-109) Oktober 1942
Heinrich Lehmann-Willenbrock (U-96) 1942
Heinrich Liebe(U-38) 1941
Herbert Schultze (U-2 U-48) 15. Juli 1941
Joachim Schepke (U-3 U-100) 1941
Johann Mohr (U-124) 13. Januar 1943
Karl-Friedrich Merten (U-68) 30. Januar 1943
Klaus Scholtz (U-108) 1942/1943
Otto Kretschmer (U-47 U-99 U-110) 1941
Otto von Bülow (U-3 U-404 U-967) Mai 1943
Reinhard Hardegen (U-123 U-147) 7. Mai 1942
Reinhard Suhren (U-564) März 1942
Robert Gysae (U-98 U-177) 1943/1944
Rolf Mützelburg (U-203) posthum(Verleihung fraglich)
Rolf Thomsen (U-1202) 29. April 1945 (nach dem Zweiten Weltkrieg)
Viktor Schütze (U-103) 1941
Werner Hartmann (U-26 U-37 U-198) 1943/1944
Werner Henke (U-124 U-515) 1943/1944
Wolfgang Lüth (U-9 U-13 U-43 U-138 U-181) 26. Januar 1943
Karl Dönitz
【 U-boots Frontspange 】

Uボート前線徽章には銅章、銀章、(金章)の等級があり、銅章は1944年5月15日付、銀章は1944年11月24日付で海軍総司令官カール・デーニッツ海軍元帥により制定。
授与にあたっては、“遭敵海域における作戦任務”に銅章:15日、銀章:25日、金章:40日の規定日数参加が一応の授与基準とされた。
尚、授与対象者は既にUボート戦闘章を受けている必要があった。
その後、60日間の航海でUボート戦闘徽章、90日間の航海で銅章、120日間の航海で銀章という授与基準に緩和されたようである。
銅章は464名、銀章は196名に授与されている。
※金章に関しては授与履歴など詳細は現時点では不明。
設計元は、銅章、銀章ともベルリンのヴィルヘルム・エルンスト・ペーク(FEC.W.E.PEEKHAUS)社。
(※『Nahkampfspange des Heeres』参照)
製造元は、銅章、銀章ともベルリンのシュヴェリーン(C. Schwerin und Sohn)社。
徽章のサイズは横幅76mmx縦幅24mm。

書式としては以下のような感じになる。
Verleihungs-Urkunde (授与証明書)
Auf Grund der Ermächtigung Oberbefehlshabers
der Kriegsmarine verleihe ich dem
(海軍総司令官の承認に基づき本官が授与する)
Dienstgrad (階級) Name (氏名)
Mechanikerobergefreiten Kurt Helber
(二等整備兵曹 クルト・ヘルバー)
※既掲のUボート戦闘徽章の勲記と同一の受章者
die
U-Boots-Frontspange in Bronze (Uボート前線徽章・銅章)
Ort und Datum(場所と日付)
Plön / Holst. , den 9. Nov. 1944
(1944年11月9日、プレーン/ホルシュタイン(海軍総司令部(OKM)の所在地)において授与)
Unterschrift(署名)
“A Schmidt” (Albrecht Schmidt)
“A シュミット” (アルブレヒト・シュミット)
Dienstgrad und Dienststellung(階級と職務)
Kapitän zu See und Höherer Kommandeur der Unterseebootsausbildung
(海軍大佐 兼 潜水学校長)
【 Der Alte 】
ココ的には、やはり最後に白帽、髭面の艦長を再現した作例も紹介させて頂きたい!
そんな“髭面”はやはり植毛で再現したい…といことで、PEIPER”s CUSTOMのHP掲載時にはドラゴンの“Hermann”を使ってUボートの艦長を作製していたのだが、やはり、かなり以前ということもあり…
今となってはドラゴンの、それもごく初期のヘッドでは?な観は否めないことから…
今掲載では、DiDから2009年にリリースされた「German Fallschirmjäger from Victory to Defeat 1942-1945 "Dirk Kluge"」のヘッドを髭面に加工したものにすげ替えている。

海軍の革コートには…水兵用のシングルフロントの、いわゆるUボート・ジャケットと、将校用に用意されていたダブルフロントのものがあった。
どちらもWW2中の革の色は、黒ではなくグレーが規定色であった。
(※WW2以前のものは黒)
将校用も結構、人気があったようではあるが、水兵用のシングル・フロントのものを好んで着ている将校も見受けられる。
当時、たまたま色・質感・薄さの丁度良い“革のはぎれ”が手に入ったこともあり、それならば…ということで、ダブルフロント・スタイルの革コートを作製した。
そのため革はぎれがパンツ分まで間に合わず、やむなく別の革で作ったのだが、色目的には、かえってコントラストが出来て…これはこれで、良かったのでは…とは思っているのだが…
実際の場合でも、パンツの方が消耗しやすく…必ずしも上下色が揃っていないというケースも見られるということで、あしからず…(^ ^;

HPにおける作例のタイトルは『Der Alte』としたのだが…
因みに、『Der Alte』とは、独語で“おやじ”…Uボート乗組員達は信頼と親しみを込めて、彼らの艦長をこう呼ぶもの達もいたことから、タイトルとした次第である。

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