戦車兵人形制作の手引 ドイツ陸軍編
前記事とも絡め…また7月18日(海の日)に東京都立産業貿易センター台東館にて開催された「第81回ビクトリーショー」でも↓のようなカタチで展示させて頂いたこともあり、今回あらためて「陸軍の戦車搭乗員」についてまとめてみることにする。
戦車搭乗員たちは“戦車用黒特殊野戦服”、いわゆる戦車搭乗服…もう少し馴染み深い言葉で言えば“パンツァー・ヤッケ”に身を包み、『鋼鉄の棺』とも言われる…暗く・狭い戦車の車内で…先ずその恐怖と戦わなければならなかった。


この展示においては、以前にホビージャパンより2011年12月16日刊行のMOOK『Mil-FIG』において作例制作と記事の寄稿の依頼を頂き、その際に制作していた「ドイツ国防軍戦車兵 フランス 1940」のヘッドをHotToys社からリリースされた“Inglourious Basterds / Colonel Hans Landa”(2010) のものにすげ替えただけではある。



因みに、『Mil-FIG』の折にはDiD社の“HJ Kämpfer-Volkssturm Berlin April 1945 Captain Dan”を植毛加工したヘッドを使用した。

青木周太郎氏制作の「Ⅱ号戦車B型 フランス1940年」との記念写真

ビクトリーショーに出展するにあたり、ちょうどⅣ号戦車D型のキューポラ部のみのヴィネット台が手に入ったこともあり、ヘルベルト・ゴミレ陸軍大尉(当時)の写真のようなポーズをとらせてみたという次第である。

ヘルベルト・ゴミレ陸軍少佐は、1913年8月15日にフランスとの国境に程近いラインラント=プファルツ州クーゼル郡のヴァルトモアに生まれている。
西方戦役において二級鉄十字章(1939年9月29日付)、一級鉄十字章(1940年5月23日付)を受章。
その後、1941年4月1日付で陸軍大尉に昇進している。
1942年9月、第13装甲師団の第4戦車連隊/第II大隊指揮官として、第13歩兵師団の第13戦車猟兵大隊指揮官ヨアヒム・バルト陸軍大尉と共同し、ソ連軍の猛攻に対し3日間で敵戦車33輌を破壊するなどの戦果をあげたその指揮能力に対し、ゴミレは1942年10月25日付で、バルトは12月17日付でそれぞれ騎士鉄十字章を授与されている。
(10月21日付で受理、勲記の記載ではA.O.K.(軍司令部)において11月6日付で授与されたことになっている。)
因みに、第II大隊/第5中隊指揮官(陸軍大尉)任官時の同年2月24日付でドイツ十字章金章を受章し、4月14日付で第II大隊の指揮官に任官している。
その後は、1943年1月25日付で陸軍総司令部付待機司令官に編入され、2月1日付で陸軍少佐に昇進。
1943年5月5日付でヴュンスドルフ戦車兵学校の教官に任官…
1943年7月10日付で戦車連隊“Großdeutschland”/第Ⅲ大隊指揮官として現場復帰し…
1944年5月10日付で戦車兵監督官(Inspekteur der Panzertruppen)に任官している。

ここからは、先に紹介したホビージャパンより刊行のMOOK本2刊…
『Mil-FIG』および『戦車模型製作の教科書 ドイツ戦車編』に寄稿の記事とも重複するが、まだご覧になられていない方も多いことと思うので、とりあえず要点およびその際には触れなかった事などについても少々書かせて頂こうと思う。
1916年9月15日、英軍は32輌(当初、49輌をもって準備するも、途中17輌が脱落)の“巨大鋼鉄車輌”を密かに配備し、翌16日戦闘に投入する。
実際の戦闘にまで投入出来たのはさらに少なかったようであるが、その戦果はなかなかなものであった。
当時、初めての…いわゆる“戦車”による攻撃を受けたドイツ軍は、その威力に圧倒され大きな衝撃を受けている。
…にも拘わらず、その後の英仏による戦車攻撃にあってもドイツ軍最上層部の“戦車”に対する考えは以前否定的であった。
対戦車戦闘手段の絶対的必要性を認めるに至った頃には時既に遅く…
1918年8月8日、連合軍側が幅32㎞にわたる正面攻撃に550輌の戦車を投入した“アミアンの戦闘”での大敗北はドイツ軍にとって決定的なものとなり、その一週間後にドイツは和平交渉に入ることを余儀なくされることとなるり、1918年11月11日にパリ郊外のコンピエーニュの森に置かれた列車の車両内で休戦協定に署名が為され、第一次世界大戦における西部戦線での戦闘に終止符が打たれた。
“戦車”戦時代に乗り遅れたドイツではあったが、1916年から細々とではあったが開発を始めていた。
しかし結局は十分な戦闘に投入出来るまでには至らず、終戦時に25輌の戦車(A7V)と20輌の可動鹵獲戦車というのがドイツ陸軍の全てであった。
一方の連合軍は約5000輌の戦車を保有していた。
ヴェルサイユ条約第5部第171条により、敗戦国ドイツの軍備撤廃のうち、既に保有している戦車類破壊命令及び戦車類新造禁止が為された。
しかし、皮肉にもこれが後の戦車大国ドイツを生み出すきっかけともなるのである。
1925年、オスヴァルト・ルッツ陸軍中佐(のち装甲兵科大将)はベルリンのモアビット装甲兵科学校に「技術者教育課程」開設を提起。
後に「自動車‐教導本部」と改名され、その“戦車戦術教官”にハインツ・グデーリアン陸軍少佐(のち陸軍上級大将)が抜擢される。
このことがグデーリアンのみならずドイツ装甲軍にとっての転機となり…
この後、彼は自己の論理に基づき新生ドイツ装甲部隊創設の礎を築いていくこととなる。
また、1931年10月1日付で自動車部隊総監の参謀長に就任したことにより、その後のドイツ装甲部隊の開発はさらに進行していくことになる。
さらにヒトラー政権樹立後…ヒトラーの肝いりもあり、1934年10月1日付で自動車兵団司令部の参謀長に就任したことで、自動車化部隊は6個対戦車大隊と3個偵察大隊をもつ自動車化戦闘旅団2個および2個戦車連隊をもつ自動車化旅団1個が編成されるにまで至る。
グデーリアンと当時、自動車部隊監察部作戦課長として彼の部下となっていたヴァルター・ネーリング陸軍中佐(のち装甲兵科大将)は共同で「装甲部隊と他種兵器との協同」をテーマとした研究に入る。



【 Schwarzer Rock der Panzersonderbekleidung 】
こうして部隊編成が進み、部隊員達のためのユニフォーム導入も1934年11月12日付「陸軍通達34年 第85号」により規定される。
当初これは戦車搭乗の際にのみその着用が許可されていたが、勤務時間外・休暇帰省中など日常的に着用する者も多く、この規制は1942年に廃止されることとなる。
また1940年2月2日付「陸軍通達40年 第166号」では、戦車・装甲車輌の搭乗員にのみ支給されるものとなっているが、装甲部隊とは何ら関係ない者の着用なども見られたようである。
戦車搭乗服には「戦車兵用黒特殊野戦服第1号(1934年型)」と「同~第2号(1936年型)」のデザインが公には規定されている。
これらの差異としては、第1号では飾りに過ぎなかった下襟を、第2号では右側胸部から肩にかけて三つの釦と襟元にフックを加えることで下襟を首・胸部前面で固定出来るようにした点である。
(寒さ対策にも一役買っていたようである。)
戦車搭乗服は黒いウールを素材とし、合わせはダブル、着丈は腰が隠れる程度で、狭い車内で様々な物に引っかけたりしないように極力 釦やポケットなどを省いた形のデザインとなっている。
規定外なものも存在しているが、襟などの形を替えるくらいであまり規定を逸するようなものはなかったようである。
支給品においても製造元の違いで、襟先が丸かったり、上下間の襟の付く角度小さかったり等の差異もしばしばみられている。
当初、第1号、第2号ともに上襟にはローズピンクのウール(1937年頃から人絹(レーヨン)のものに変更されていく)の縁取りが施されていたが、1942年末からは材料の節約や作業時間の短縮などに伴ない正式に廃止されることとなる。
但し、それ以前に生産されていたものに関してはその後も配給し続けられ、さらには部隊単位・個人単位の選択により着用し続けられることも多かった。
因みに、搭乗服の場合は(上)襟における下士官トレッセは付けない。
例外的ではあるが、機甲偵察部隊(ゴールデンイエロー、ローズピンク、コパーブラウン)、機甲工兵部隊(黒と白(または銀)の撚紐)、機甲通信部隊(レモンイエロー)、装甲列車部隊(ローズピンク)、機甲宣伝中隊員(ローズピンク)などにおいても戦車搭乗服の着用例が見受けられることがある。

戦車兵用黒特殊野戦服第1号(1934年型)

戦車兵用黒特殊野戦服第2号(1936年型)
【 Feldhose 】
上衣同様の黒いウール地の搭乗ズボンは左右に斜めの蓋付ポケットがつき、蓋中央の釦一つでとめられる。
(武装SSの搭乗ズボンは蓋の両端に付く釦二つでとめられる)
また、右側の腰ポケット脇には懐中時計用のポケットが設けられている。
ズボンの固定方法は内装式の綿織布ベルトにより上のように正面で絞って固定するものや、サスペンダーやベルト通しを備え革ベルトで固定するもの、両腰の布製のベルトで固定する…等々の幾つかのタイプがみられる。
【 Panzerschutzmütze, Schiffchen und Einheitsfeldmütze 】
戦車兵用ベレー保護帽(①上段)は、戦車搭乗服の導入に伴ない当初に用意されたものであったが“被り心地が悪いうえに大きくてかさばる、格好が悪い、ヘッドホーンが付けにくい”等の理由から搭乗員達の間では不評で、その代わりに従来のフィールドグレーの陸軍M34略帽を被るようになる。
使用禁止にも拘らず、搭乗員達はこれを被り続けた。
そこで1940年3月27日付「陸軍通達40年 第429号」により、フィールドグレーの略帽と同型の黒の略帽が導入されることとなった。(②)
導入当初は生産が追いつかず、自費で購入する者や優先的に支給を受けられる将校、または下士官などの着用が多く、西方戦役の1940年頃はまだベレー保護帽と略帽の混在、さらにはフィールドグレーと黒の略帽の混在も見られた。

結局、ベレー保護帽は1941年1月14日付「陸軍通達41年 第64号」により廃止となった。
その後、1943年6月1日付で導入されたのが、山岳帽に類似の形状で…戦車部隊では勿論、フィールドグレーではなく、黒地の1943年型戦車搭乗用規格帽で…
下士官および兵用に装用された帽章は、鷲章およびコカルデ章(のみ)一体型のBevoタイプで、それを“三角型”もしくは“T型”に整形して装用するのが一般的である。(③)
①Panzerschutzmütze

硬化処理の施された革製の枠組みと、頭周りの衝撃を和らげるためのフェルト素材またはゴムスポンジの芯を黒地のフェルト地で覆った内帽に、さらに伸縮性バンド付きの黒地のフェルト製ベレーを被せるという二重構造となっている。
また、内帽には等間隔に6個のゴム製ハトメによる通気孔が設けられている。

戦車ベレーには既出の如く一般的には、鷲章、柏葉冠/コカルデ章ともにBevo製帽章類が装用されるが…
この第7偵察大隊(第7歩兵師団)所属の偵察兵は、鷲章を着けずに、銀モール製の柏葉冠/金属製のコカルデ章を装用している。
因みに、戦車搭乗服の肩章上にはゴシック文字の“A”と大隊番号“7”、肩章、襟章、上襟の縁どりの兵科色は騎兵の色であるゴールデンイエローかと思われる。

説明不要…なかなかにお茶目な写真である!
因みに、上衣は第1号の搭乗服のようである。
後ろに見えるのはI号戦車B型(Pz.Kpfw. I Ausf. B)ではないかと思われる。
②Schiffchen zur schwarzen Panzeruniform
●für Mannschaften

当初、略帽においては、戦車部隊のみならず、所属兵科を示すため(平)打紐による兵科色の山形(soutache=ソウタッシェ)をコカルデ章の周りに装用していたが、1942年7月10日付「陸軍通達42年 第597号」の規定により兵科色の打紐は廃止となり、それ以降に生産された全ての帽子に兵科色の打紐は標準装用はされていない。
そのうえ、廃止以前に生産されていた、打紐付きの帽子を支給された場合は、各自で取り除くこととされていたようであるが、従うものはほとんどいなかった。

下士官もしくは兵用の略帽と思われるが、帽子前面部分のみならず、折り返しの縁の全周にわたって兵科色であるローズピンクの(丸)打紐による縁取りが施されている。
Bevo製の鷲章/コカルデ章は、戦車兵用の黒の台布ではなく、陸軍標準タイプのグリーンの物を装用している。
ただ戦時中は、正式な黒の台布の物が不足していたこともあり、こうしたケースも希ではない。
もしくは、特注により縁取りを施す程の拘りのある者の帽子であることから、グリーンの台布も単なる好みの問題なのかも知れない。
●für Offiziere

将校用の略帽には、帽子前面の折り返し部分の縁と頭頂部の縫い線に沿ってアルミニウム銀糸の縁取りが施されている。
因みに、将官用の場合にはアルミニウム金糸の縁取りを施す。
鷲章は、将校用の銀糸によるBevoタイプであるが、コカルデ章はモール糸による手刺繍製のものではなく、下士官や兵用でもある人絹糸による機械刺繍製の物を装用している。

鷲章は、↑同様に将校用の銀糸によるBevoタイプであるが、こちらのコカルデ章は金属製の物を装用している。
③Einheitsfeldmütze zur schwarzen Panzeruniform

一体型の鷲章/コカルデ章を装用し、折り返し部はフィールドグレーに塗装された2個の…直径12mmの金属製プレス成形ボタンで留められている。

この搭乗兵の規格帽は、鷲章/コカルデ章が別々の…略帽章が装用されている。
また、折り返し部を留める2個のボタンは金属製の物でなく、木製もしくはベークライト製の物と思われる。

1944年9月のロレーヌ(独名:ロートリンゲン) において、IV号戦車J型の指揮戦車仕様“508号車”の砲塔に立つ、第111戦車旅団麾下の第2111戦車大隊/本部中隊指揮官(陸軍大尉)を撮影した有名な写真である。
将校用の規格帽には、通常はこの様に頭頂部の縫い線に沿ってアルミニウム銀糸の縁取りが施される。
因みに、将官用の場合には、略帽同様にアルミニウム金糸の縁取りが施される。
搭乗服は第2号タイプで、上襟に兵科色のパイピングが施されているが…
ある文献では、この大尉の兵科色を機甲偵察部隊を表すレモンイエローとしている。

フランツ・ベーケ陸軍予備役中佐(当時)のポートレート葉書であるが、着用の規格帽は、頭頂部の縫い線に沿ったアルミニウム銀糸の縁取りだけでなく、帽子前面の折り返し部分にも縁取りが施された物を被っている。
別の写真などから、鷲章/コカルデ章が別々の…Bevo製の略帽章も装用しているようである。
折り返し部分など、スキー帽にも近いの形状のようでもあり…おそらくはオーダーメイドによる物であろう。
因みに、上衣は第1号タイプ…といっても、下襟ははじめから合わせを想定せず、単なる飾りとしたオーダーメイドであろう。
1898年2月28日にフランクフルトから東に約50km程に位置するシュバルツエンフェルスにベーケは生まれている。
1915年5月に帝政ドイツ陸軍に入隊し、(第2)東プロイセン第3義勇擲弾兵連隊“フリードリヒ・ヴィルヘルムⅠ世”に配属となっている。
第一次大戦中の西部戦線で二級鉄十字章を受章。
終戦後も、第7ヴェストファーレン歩砲兵連隊に士官候補生として残留したが、1919年1月に退役。
その後、エップ義勇軍に参加する一方で、ヴュルツブルクで歯科学を履修し、1923年に博士号を取得、デュッセルドルフ近郊のハーゲンに歯科診療所を開院。
1933年3月1日付でSAに入隊し、ハーゲンの第69SA旅団69/第132SA連隊に配属となっている。
因みに、ベーケのSAにおける最終階級はSA大佐(連隊指導者)、1944年8月20日付で昇進している。
1937年4月1日付で予備役として召集され、第6偵察大隊において勤務演習の後、同年12月1日付で陸軍予備役少尉に昇進。
1939年8月1日付で、第65対戦車大隊の小隊指揮官に任官。
第二次大戦が始まりポーランド侵攻に参加。
1940年1月1日付で陸軍予備役中尉に昇進し、翌1941年4月末まで中隊指揮官を任官。
この間に幾度もの負傷を繰り返し、戦傷章金章を受章。
1941年5月1日付で陸軍予備役大尉に昇進。
第6装甲師団の第11装甲連隊に転属。
1942年7月14日付で第11装甲連隊/第Ⅱ大隊指揮官に任官、8月1日付で陸軍予備役少佐に昇進。
同年12月の“冬の嵐作戦”に参加。
第6軍を中心とした約33万人にもおよぶB軍集団の枢軸軍救出を試みるも作戦継続は断念、ハリコフまで撤退。
この際の戦功に対し、1943年1月11日付で騎士鉄十字章を受章。
1943年7月4日からのクルスクの戦い(正式作戦名「ツィタデレ(城塞)作戦」)に参加し、ドネツ川流域のベルゴロド付近で激しい戦闘を繰り返す。
7月17日付で、3輌の敵戦車単独撃破によって戦車撃破章銀章を3個受章。
(※戦車突撃章100回も受章している。)
これらの戦功に対し、1943年8月1日付で全軍第262番目となる柏葉章が授与された。
1943年11月1日付で陸軍予備役中佐に昇進、同日付で第11装甲連隊指揮官に任官。
巧みな戦闘指揮によりソ連軍の攻撃を幾度となく食い止めるに至ったその功績から、1944年2月21日付で全軍第49番目となる剣付き柏葉章が授与された。
1944年5月1日付で陸軍予備役大佐に昇進。
同年7月13日から翌年の1945年1月12日まで第106装甲旅団"Feldherrnhalle(以下:FHH)"の指揮官として西部戦線に参加。
2月28日付で予備役から正規将校に復任。
3月10日付で、再編成された装甲師団“FHH”第2の指揮官に任官、師団はハンガリーに移送される。
4月20日付で陸軍少将に昇進。
5月8日に米軍に投降。
戦後は、2年間の捕虜生活後にドイツに戻り、ハーゲンで再び歯科診療所を開院。
1978年12月12日、自宅のあるハーゲンから程近いボーフムで交通事故より死亡。
(享年80歳)
【 Kragenspiegel rose paspeliert, Metalltotenkopf 】

部隊編成が本格化していくうえで、それまでの旧国防軍自動車大隊が小規模であったことから編成要員の補充を行なう必要があった。
そこで騎兵連隊から兵員が抽出されることとなる。
この騎兵連隊のなかには伝統的に髑髏マークを使用する部隊もあったことから、戦車搭乗服の襟章に使用される髑髏マークの最終的デザインの基礎となったようである。
ローズピンク(Rosa)の兵科色(Waffenfarbe)を使用するのは戦車部隊の他、対戦車、戦車猟兵、戦車駆逐および装甲列車部隊、機甲宣伝中隊員(少なくとも指揮車、装甲車搭乗員が戦車搭乗服の着用時はローズピンク)等が使用し、この兵科色で縁取られた髑髏章を付けた襟章を使用するケースもある。
この襟章は兵から佐官クラスまでは同様のものを付けることとし、将官クラスが戦車搭乗服を着用する場合はこの限りではなく、本人の好みによりこのタイプではなく将官用の襟章を付けることもあった。(*)

戦車搭乗服の導入により、その襟章も、一般の勤務服、野戦服の襟章とは違う独特の襟章が装用されることとなる。
平行四辺形の黒色のウール地の台布は、一応は30mm×65mmというサイズが標準とされている。
その縁を、φ3mm(~φ1.5mm)程の綿もしくはレーヨンの芯を囲み縫いした…当初は人絹(のちウールなど)平紐をミシン留めしていた。
その後、資源と労力の節約のため、打紐を襟章の周りに直接縫い付けるという方法もとられている。
そのため、兵科色の打紐として使用されていた物を転用する必要に迫られたこともあり、既記の「陸軍通達42年 第597号」の規定が発令されたという経緯があるようである。
勿論、在庫品が手に入る限り従来品も装用され続けた。
また、従来の手法による襟章が全く作られなかったわけでもない。
搭乗服用の襟章に限らず、襟章の台布のサイズは、製造元や、勿論、装用者の好みなどにもより、そのサイズは様々である。

この髑髏マークは“ダンツィヒ型”といわれるものを基にして製造されているのだが、製造時期・製造元などにより基本原料(真鍮、アルミ、亜鉛製など)、製造法、仕上げなどに多少の違いがみられるようである。
(*)将官の襟章装着例
“パンツァー・バロン”ことハッソ・フォン・マントイッフェル装甲兵科大将(上段)は髑髏章の襟章を装用している。
一方、“パンツァー・シュルツ”ことアダルベルト・シュルツ陸軍少将(下段)は通常の将官用襟章を装用している。
ただ、シュルツは髑髏章の襟章を装用しているケースも多々見受けられる。


【 Ergänzung 】

戦地へ赴く父を見送りに来たのか…そのシチュエーションは定かではないが、客車のタラップ前で撮られた何ともほのぼのとした写真である。
息子を抱き抱える父親…おそらく、肩章の感じから、戦車部隊の陸軍少佐?かと思われる人物は、若干分かりにくいが、襟元にフックらしき物が見えるので、第2号の搭乗服を着用しているものと思われる。
この写真からだけでは何とも言えないが…下襟部に佩用されている二級鉄十字章のリボンの付け方が?である。
ボタンホールの位置もさる事ながら、真横に向いているというのも、よくわからない。
旧式野戦帽(Feldmütze alter Art)、いわゆるクラッシュキャップを被っている。
さて、抱き抱えられている子供もまた“(第1号)搭乗服”様の上下衣を着用している。
父に憧れる息子のためにオーダーメイドで誂えたといったところであろう。
上襟には兵科色の縁取りも施されている。
ベルト/バックルは…写真からでは判別がつきにくいが…HJ用?かもしれない。
肩章も特注らしく…子供サイズに小さく作られているようである。
階級まではわからないが、ピプが1個づつ着いているようにも見えるので…可愛い“中尉”さんかもしれない。
襟章の台布は、搭乗服用の縦長の平行四辺形というよりは…若干、第3SSの襟章のようにも見えなくもないが…
SS型の髑髏章ではなく、ちゃんとダンツィヒ型の髑髏章が装着されている。
ただ、息子の髑髏章の方が、父親のそれよりも大きいタイプの物が装着されているようである。
略帽も、ここまで来るとオーダーメイドなのか…54cmなどといった小さいサイズの物もあるので既製品かは不明だが、アルミニウム銀糸の縁取り、山形、鷲章/コカルデ章とも完璧である。
そして、また上質な革製の手袋、編み上げブーツが何とも素晴らしいのである!
戦車搭乗員たちは“戦車用黒特殊野戦服”、いわゆる戦車搭乗服…もう少し馴染み深い言葉で言えば“パンツァー・ヤッケ”に身を包み、『鋼鉄の棺』とも言われる…暗く・狭い戦車の車内で…先ずその恐怖と戦わなければならなかった。


この展示においては、以前にホビージャパンより2011年12月16日刊行のMOOK『Mil-FIG』において作例制作と記事の寄稿の依頼を頂き、その際に制作していた「ドイツ国防軍戦車兵 フランス 1940」のヘッドをHotToys社からリリースされた“Inglourious Basterds / Colonel Hans Landa”(2010) のものにすげ替えただけではある。



因みに、『Mil-FIG』の折にはDiD社の“HJ Kämpfer-Volkssturm Berlin April 1945 Captain Dan”を植毛加工したヘッドを使用した。

青木周太郎氏制作の「Ⅱ号戦車B型 フランス1940年」との記念写真

ビクトリーショーに出展するにあたり、ちょうどⅣ号戦車D型のキューポラ部のみのヴィネット台が手に入ったこともあり、ヘルベルト・ゴミレ陸軍大尉(当時)の写真のようなポーズをとらせてみたという次第である。

ヘルベルト・ゴミレ陸軍少佐は、1913年8月15日にフランスとの国境に程近いラインラント=プファルツ州クーゼル郡のヴァルトモアに生まれている。
西方戦役において二級鉄十字章(1939年9月29日付)、一級鉄十字章(1940年5月23日付)を受章。
その後、1941年4月1日付で陸軍大尉に昇進している。
1942年9月、第13装甲師団の第4戦車連隊/第II大隊指揮官として、第13歩兵師団の第13戦車猟兵大隊指揮官ヨアヒム・バルト陸軍大尉と共同し、ソ連軍の猛攻に対し3日間で敵戦車33輌を破壊するなどの戦果をあげたその指揮能力に対し、ゴミレは1942年10月25日付で、バルトは12月17日付でそれぞれ騎士鉄十字章を授与されている。
(10月21日付で受理、勲記の記載ではA.O.K.(軍司令部)において11月6日付で授与されたことになっている。)
因みに、第II大隊/第5中隊指揮官(陸軍大尉)任官時の同年2月24日付でドイツ十字章金章を受章し、4月14日付で第II大隊の指揮官に任官している。
その後は、1943年1月25日付で陸軍総司令部付待機司令官に編入され、2月1日付で陸軍少佐に昇進。
1943年5月5日付でヴュンスドルフ戦車兵学校の教官に任官…
1943年7月10日付で戦車連隊“Großdeutschland”/第Ⅲ大隊指揮官として現場復帰し…
1944年5月10日付で戦車兵監督官(Inspekteur der Panzertruppen)に任官している。

ここからは、先に紹介したホビージャパンより刊行のMOOK本2刊…
『Mil-FIG』および『戦車模型製作の教科書 ドイツ戦車編』に寄稿の記事とも重複するが、まだご覧になられていない方も多いことと思うので、とりあえず要点およびその際には触れなかった事などについても少々書かせて頂こうと思う。
1916年9月15日、英軍は32輌(当初、49輌をもって準備するも、途中17輌が脱落)の“巨大鋼鉄車輌”を密かに配備し、翌16日戦闘に投入する。
実際の戦闘にまで投入出来たのはさらに少なかったようであるが、その戦果はなかなかなものであった。
当時、初めての…いわゆる“戦車”による攻撃を受けたドイツ軍は、その威力に圧倒され大きな衝撃を受けている。
…にも拘わらず、その後の英仏による戦車攻撃にあってもドイツ軍最上層部の“戦車”に対する考えは以前否定的であった。
対戦車戦闘手段の絶対的必要性を認めるに至った頃には時既に遅く…
1918年8月8日、連合軍側が幅32㎞にわたる正面攻撃に550輌の戦車を投入した“アミアンの戦闘”での大敗北はドイツ軍にとって決定的なものとなり、その一週間後にドイツは和平交渉に入ることを余儀なくされることとなるり、1918年11月11日にパリ郊外のコンピエーニュの森に置かれた列車の車両内で休戦協定に署名が為され、第一次世界大戦における西部戦線での戦闘に終止符が打たれた。
“戦車”戦時代に乗り遅れたドイツではあったが、1916年から細々とではあったが開発を始めていた。
しかし結局は十分な戦闘に投入出来るまでには至らず、終戦時に25輌の戦車(A7V)と20輌の可動鹵獲戦車というのがドイツ陸軍の全てであった。
一方の連合軍は約5000輌の戦車を保有していた。
ヴェルサイユ条約第5部第171条により、敗戦国ドイツの軍備撤廃のうち、既に保有している戦車類破壊命令及び戦車類新造禁止が為された。
しかし、皮肉にもこれが後の戦車大国ドイツを生み出すきっかけともなるのである。
1925年、オスヴァルト・ルッツ陸軍中佐(のち装甲兵科大将)はベルリンのモアビット装甲兵科学校に「技術者教育課程」開設を提起。
後に「自動車‐教導本部」と改名され、その“戦車戦術教官”にハインツ・グデーリアン陸軍少佐(のち陸軍上級大将)が抜擢される。
このことがグデーリアンのみならずドイツ装甲軍にとっての転機となり…
この後、彼は自己の論理に基づき新生ドイツ装甲部隊創設の礎を築いていくこととなる。
また、1931年10月1日付で自動車部隊総監の参謀長に就任したことにより、その後のドイツ装甲部隊の開発はさらに進行していくことになる。
さらにヒトラー政権樹立後…ヒトラーの肝いりもあり、1934年10月1日付で自動車兵団司令部の参謀長に就任したことで、自動車化部隊は6個対戦車大隊と3個偵察大隊をもつ自動車化戦闘旅団2個および2個戦車連隊をもつ自動車化旅団1個が編成されるにまで至る。
グデーリアンと当時、自動車部隊監察部作戦課長として彼の部下となっていたヴァルター・ネーリング陸軍中佐(のち装甲兵科大将)は共同で「装甲部隊と他種兵器との協同」をテーマとした研究に入る。



【 Schwarzer Rock der Panzersonderbekleidung 】
こうして部隊編成が進み、部隊員達のためのユニフォーム導入も1934年11月12日付「陸軍通達34年 第85号」により規定される。
当初これは戦車搭乗の際にのみその着用が許可されていたが、勤務時間外・休暇帰省中など日常的に着用する者も多く、この規制は1942年に廃止されることとなる。
また1940年2月2日付「陸軍通達40年 第166号」では、戦車・装甲車輌の搭乗員にのみ支給されるものとなっているが、装甲部隊とは何ら関係ない者の着用なども見られたようである。
戦車搭乗服には「戦車兵用黒特殊野戦服第1号(1934年型)」と「同~第2号(1936年型)」のデザインが公には規定されている。
これらの差異としては、第1号では飾りに過ぎなかった下襟を、第2号では右側胸部から肩にかけて三つの釦と襟元にフックを加えることで下襟を首・胸部前面で固定出来るようにした点である。
(寒さ対策にも一役買っていたようである。)
戦車搭乗服は黒いウールを素材とし、合わせはダブル、着丈は腰が隠れる程度で、狭い車内で様々な物に引っかけたりしないように極力 釦やポケットなどを省いた形のデザインとなっている。
規定外なものも存在しているが、襟などの形を替えるくらいであまり規定を逸するようなものはなかったようである。
支給品においても製造元の違いで、襟先が丸かったり、上下間の襟の付く角度小さかったり等の差異もしばしばみられている。
当初、第1号、第2号ともに上襟にはローズピンクのウール(1937年頃から人絹(レーヨン)のものに変更されていく)の縁取りが施されていたが、1942年末からは材料の節約や作業時間の短縮などに伴ない正式に廃止されることとなる。
但し、それ以前に生産されていたものに関してはその後も配給し続けられ、さらには部隊単位・個人単位の選択により着用し続けられることも多かった。
因みに、搭乗服の場合は(上)襟における下士官トレッセは付けない。
例外的ではあるが、機甲偵察部隊(ゴールデンイエロー、ローズピンク、コパーブラウン)、機甲工兵部隊(黒と白(または銀)の撚紐)、機甲通信部隊(レモンイエロー)、装甲列車部隊(ローズピンク)、機甲宣伝中隊員(ローズピンク)などにおいても戦車搭乗服の着用例が見受けられることがある。

戦車兵用黒特殊野戦服第1号(1934年型)

戦車兵用黒特殊野戦服第2号(1936年型)
【 Feldhose 】
上衣同様の黒いウール地の搭乗ズボンは左右に斜めの蓋付ポケットがつき、蓋中央の釦一つでとめられる。
(武装SSの搭乗ズボンは蓋の両端に付く釦二つでとめられる)
また、右側の腰ポケット脇には懐中時計用のポケットが設けられている。
ズボンの固定方法は内装式の綿織布ベルトにより上のように正面で絞って固定するものや、サスペンダーやベルト通しを備え革ベルトで固定するもの、両腰の布製のベルトで固定する…等々の幾つかのタイプがみられる。
【 Panzerschutzmütze, Schiffchen und Einheitsfeldmütze 】
戦車兵用ベレー保護帽(①上段)は、戦車搭乗服の導入に伴ない当初に用意されたものであったが“被り心地が悪いうえに大きくてかさばる、格好が悪い、ヘッドホーンが付けにくい”等の理由から搭乗員達の間では不評で、その代わりに従来のフィールドグレーの陸軍M34略帽を被るようになる。
使用禁止にも拘らず、搭乗員達はこれを被り続けた。
そこで1940年3月27日付「陸軍通達40年 第429号」により、フィールドグレーの略帽と同型の黒の略帽が導入されることとなった。(②)
導入当初は生産が追いつかず、自費で購入する者や優先的に支給を受けられる将校、または下士官などの着用が多く、西方戦役の1940年頃はまだベレー保護帽と略帽の混在、さらにはフィールドグレーと黒の略帽の混在も見られた。

結局、ベレー保護帽は1941年1月14日付「陸軍通達41年 第64号」により廃止となった。
その後、1943年6月1日付で導入されたのが、山岳帽に類似の形状で…戦車部隊では勿論、フィールドグレーではなく、黒地の1943年型戦車搭乗用規格帽で…
下士官および兵用に装用された帽章は、鷲章およびコカルデ章(のみ)一体型のBevoタイプで、それを“三角型”もしくは“T型”に整形して装用するのが一般的である。(③)
①Panzerschutzmütze

硬化処理の施された革製の枠組みと、頭周りの衝撃を和らげるためのフェルト素材またはゴムスポンジの芯を黒地のフェルト地で覆った内帽に、さらに伸縮性バンド付きの黒地のフェルト製ベレーを被せるという二重構造となっている。
また、内帽には等間隔に6個のゴム製ハトメによる通気孔が設けられている。

戦車ベレーには既出の如く一般的には、鷲章、柏葉冠/コカルデ章ともにBevo製帽章類が装用されるが…
この第7偵察大隊(第7歩兵師団)所属の偵察兵は、鷲章を着けずに、銀モール製の柏葉冠/金属製のコカルデ章を装用している。
因みに、戦車搭乗服の肩章上にはゴシック文字の“A”と大隊番号“7”、肩章、襟章、上襟の縁どりの兵科色は騎兵の色であるゴールデンイエローかと思われる。

説明不要…なかなかにお茶目な写真である!
因みに、上衣は第1号の搭乗服のようである。
後ろに見えるのはI号戦車B型(Pz.Kpfw. I Ausf. B)ではないかと思われる。
②Schiffchen zur schwarzen Panzeruniform
●für Mannschaften

当初、略帽においては、戦車部隊のみならず、所属兵科を示すため(平)打紐による兵科色の山形(soutache=ソウタッシェ)をコカルデ章の周りに装用していたが、1942年7月10日付「陸軍通達42年 第597号」の規定により兵科色の打紐は廃止となり、それ以降に生産された全ての帽子に兵科色の打紐は標準装用はされていない。
そのうえ、廃止以前に生産されていた、打紐付きの帽子を支給された場合は、各自で取り除くこととされていたようであるが、従うものはほとんどいなかった。

下士官もしくは兵用の略帽と思われるが、帽子前面部分のみならず、折り返しの縁の全周にわたって兵科色であるローズピンクの(丸)打紐による縁取りが施されている。
Bevo製の鷲章/コカルデ章は、戦車兵用の黒の台布ではなく、陸軍標準タイプのグリーンの物を装用している。
ただ戦時中は、正式な黒の台布の物が不足していたこともあり、こうしたケースも希ではない。
もしくは、特注により縁取りを施す程の拘りのある者の帽子であることから、グリーンの台布も単なる好みの問題なのかも知れない。
●für Offiziere

将校用の略帽には、帽子前面の折り返し部分の縁と頭頂部の縫い線に沿ってアルミニウム銀糸の縁取りが施されている。
因みに、将官用の場合にはアルミニウム金糸の縁取りを施す。
鷲章は、将校用の銀糸によるBevoタイプであるが、コカルデ章はモール糸による手刺繍製のものではなく、下士官や兵用でもある人絹糸による機械刺繍製の物を装用している。

鷲章は、↑同様に将校用の銀糸によるBevoタイプであるが、こちらのコカルデ章は金属製の物を装用している。
③Einheitsfeldmütze zur schwarzen Panzeruniform

一体型の鷲章/コカルデ章を装用し、折り返し部はフィールドグレーに塗装された2個の…直径12mmの金属製プレス成形ボタンで留められている。

この搭乗兵の規格帽は、鷲章/コカルデ章が別々の…略帽章が装用されている。
また、折り返し部を留める2個のボタンは金属製の物でなく、木製もしくはベークライト製の物と思われる。

1944年9月のロレーヌ(独名:ロートリンゲン) において、IV号戦車J型の指揮戦車仕様“508号車”の砲塔に立つ、第111戦車旅団麾下の第2111戦車大隊/本部中隊指揮官(陸軍大尉)を撮影した有名な写真である。
将校用の規格帽には、通常はこの様に頭頂部の縫い線に沿ってアルミニウム銀糸の縁取りが施される。
因みに、将官用の場合には、略帽同様にアルミニウム金糸の縁取りが施される。
搭乗服は第2号タイプで、上襟に兵科色のパイピングが施されているが…
ある文献では、この大尉の兵科色を機甲偵察部隊を表すレモンイエローとしている。

フランツ・ベーケ陸軍予備役中佐(当時)のポートレート葉書であるが、着用の規格帽は、頭頂部の縫い線に沿ったアルミニウム銀糸の縁取りだけでなく、帽子前面の折り返し部分にも縁取りが施された物を被っている。
別の写真などから、鷲章/コカルデ章が別々の…Bevo製の略帽章も装用しているようである。
折り返し部分など、スキー帽にも近いの形状のようでもあり…おそらくはオーダーメイドによる物であろう。
因みに、上衣は第1号タイプ…といっても、下襟ははじめから合わせを想定せず、単なる飾りとしたオーダーメイドであろう。
1898年2月28日にフランクフルトから東に約50km程に位置するシュバルツエンフェルスにベーケは生まれている。
1915年5月に帝政ドイツ陸軍に入隊し、(第2)東プロイセン第3義勇擲弾兵連隊“フリードリヒ・ヴィルヘルムⅠ世”に配属となっている。
第一次大戦中の西部戦線で二級鉄十字章を受章。
終戦後も、第7ヴェストファーレン歩砲兵連隊に士官候補生として残留したが、1919年1月に退役。
その後、エップ義勇軍に参加する一方で、ヴュルツブルクで歯科学を履修し、1923年に博士号を取得、デュッセルドルフ近郊のハーゲンに歯科診療所を開院。
1933年3月1日付でSAに入隊し、ハーゲンの第69SA旅団69/第132SA連隊に配属となっている。
因みに、ベーケのSAにおける最終階級はSA大佐(連隊指導者)、1944年8月20日付で昇進している。
1937年4月1日付で予備役として召集され、第6偵察大隊において勤務演習の後、同年12月1日付で陸軍予備役少尉に昇進。
1939年8月1日付で、第65対戦車大隊の小隊指揮官に任官。
第二次大戦が始まりポーランド侵攻に参加。
1940年1月1日付で陸軍予備役中尉に昇進し、翌1941年4月末まで中隊指揮官を任官。
この間に幾度もの負傷を繰り返し、戦傷章金章を受章。
1941年5月1日付で陸軍予備役大尉に昇進。
第6装甲師団の第11装甲連隊に転属。
1942年7月14日付で第11装甲連隊/第Ⅱ大隊指揮官に任官、8月1日付で陸軍予備役少佐に昇進。
同年12月の“冬の嵐作戦”に参加。
第6軍を中心とした約33万人にもおよぶB軍集団の枢軸軍救出を試みるも作戦継続は断念、ハリコフまで撤退。
この際の戦功に対し、1943年1月11日付で騎士鉄十字章を受章。
1943年7月4日からのクルスクの戦い(正式作戦名「ツィタデレ(城塞)作戦」)に参加し、ドネツ川流域のベルゴロド付近で激しい戦闘を繰り返す。
7月17日付で、3輌の敵戦車単独撃破によって戦車撃破章銀章を3個受章。
(※戦車突撃章100回も受章している。)
これらの戦功に対し、1943年8月1日付で全軍第262番目となる柏葉章が授与された。
1943年11月1日付で陸軍予備役中佐に昇進、同日付で第11装甲連隊指揮官に任官。
巧みな戦闘指揮によりソ連軍の攻撃を幾度となく食い止めるに至ったその功績から、1944年2月21日付で全軍第49番目となる剣付き柏葉章が授与された。
1944年5月1日付で陸軍予備役大佐に昇進。
同年7月13日から翌年の1945年1月12日まで第106装甲旅団"Feldherrnhalle(以下:FHH)"の指揮官として西部戦線に参加。
2月28日付で予備役から正規将校に復任。
3月10日付で、再編成された装甲師団“FHH”第2の指揮官に任官、師団はハンガリーに移送される。
4月20日付で陸軍少将に昇進。
5月8日に米軍に投降。
戦後は、2年間の捕虜生活後にドイツに戻り、ハーゲンで再び歯科診療所を開院。
1978年12月12日、自宅のあるハーゲンから程近いボーフムで交通事故より死亡。
(享年80歳)
【 Kragenspiegel rose paspeliert, Metalltotenkopf 】

部隊編成が本格化していくうえで、それまでの旧国防軍自動車大隊が小規模であったことから編成要員の補充を行なう必要があった。
そこで騎兵連隊から兵員が抽出されることとなる。
この騎兵連隊のなかには伝統的に髑髏マークを使用する部隊もあったことから、戦車搭乗服の襟章に使用される髑髏マークの最終的デザインの基礎となったようである。
ローズピンク(Rosa)の兵科色(Waffenfarbe)を使用するのは戦車部隊の他、対戦車、戦車猟兵、戦車駆逐および装甲列車部隊、機甲宣伝中隊員(少なくとも指揮車、装甲車搭乗員が戦車搭乗服の着用時はローズピンク)等が使用し、この兵科色で縁取られた髑髏章を付けた襟章を使用するケースもある。
この襟章は兵から佐官クラスまでは同様のものを付けることとし、将官クラスが戦車搭乗服を着用する場合はこの限りではなく、本人の好みによりこのタイプではなく将官用の襟章を付けることもあった。(*)

戦車搭乗服の導入により、その襟章も、一般の勤務服、野戦服の襟章とは違う独特の襟章が装用されることとなる。
平行四辺形の黒色のウール地の台布は、一応は30mm×65mmというサイズが標準とされている。
その縁を、φ3mm(~φ1.5mm)程の綿もしくはレーヨンの芯を囲み縫いした…当初は人絹(のちウールなど)平紐をミシン留めしていた。
その後、資源と労力の節約のため、打紐を襟章の周りに直接縫い付けるという方法もとられている。
そのため、兵科色の打紐として使用されていた物を転用する必要に迫られたこともあり、既記の「陸軍通達42年 第597号」の規定が発令されたという経緯があるようである。
勿論、在庫品が手に入る限り従来品も装用され続けた。
また、従来の手法による襟章が全く作られなかったわけでもない。
搭乗服用の襟章に限らず、襟章の台布のサイズは、製造元や、勿論、装用者の好みなどにもより、そのサイズは様々である。

この髑髏マークは“ダンツィヒ型”といわれるものを基にして製造されているのだが、製造時期・製造元などにより基本原料(真鍮、アルミ、亜鉛製など)、製造法、仕上げなどに多少の違いがみられるようである。
(*)将官の襟章装着例
“パンツァー・バロン”ことハッソ・フォン・マントイッフェル装甲兵科大将(上段)は髑髏章の襟章を装用している。
一方、“パンツァー・シュルツ”ことアダルベルト・シュルツ陸軍少将(下段)は通常の将官用襟章を装用している。
ただ、シュルツは髑髏章の襟章を装用しているケースも多々見受けられる。


【 Ergänzung 】

戦地へ赴く父を見送りに来たのか…そのシチュエーションは定かではないが、客車のタラップ前で撮られた何ともほのぼのとした写真である。
息子を抱き抱える父親…おそらく、肩章の感じから、戦車部隊の陸軍少佐?かと思われる人物は、若干分かりにくいが、襟元にフックらしき物が見えるので、第2号の搭乗服を着用しているものと思われる。
この写真からだけでは何とも言えないが…下襟部に佩用されている二級鉄十字章のリボンの付け方が?である。
ボタンホールの位置もさる事ながら、真横に向いているというのも、よくわからない。
旧式野戦帽(Feldmütze alter Art)、いわゆるクラッシュキャップを被っている。
さて、抱き抱えられている子供もまた“(第1号)搭乗服”様の上下衣を着用している。
父に憧れる息子のためにオーダーメイドで誂えたといったところであろう。
上襟には兵科色の縁取りも施されている。
ベルト/バックルは…写真からでは判別がつきにくいが…HJ用?かもしれない。
肩章も特注らしく…子供サイズに小さく作られているようである。
階級まではわからないが、ピプが1個づつ着いているようにも見えるので…可愛い“中尉”さんかもしれない。
襟章の台布は、搭乗服用の縦長の平行四辺形というよりは…若干、第3SSの襟章のようにも見えなくもないが…
SS型の髑髏章ではなく、ちゃんとダンツィヒ型の髑髏章が装着されている。
ただ、息子の髑髏章の方が、父親のそれよりも大きいタイプの物が装着されているようである。
略帽も、ここまで来るとオーダーメイドなのか…54cmなどといった小さいサイズの物もあるので既製品かは不明だが、アルミニウム銀糸の縁取り、山形、鷲章/コカルデ章とも完璧である。
そして、また上質な革製の手袋、編み上げブーツが何とも素晴らしいのである!

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