カイザーバラック

ドイツとベルギーの国境付近のサン・ヴィト(ザンクト・フィート)とマルメディ間を結ぶN62号線の分岐点のひとつである…“Kaiserbaracke(カイザーバラック)”…
その昔は「助手席で葉巻を咥える人物はアルデンヌでのパイパーだ!」などとまことしやかに言われたこともある↑の二枚の有名な写真が撮られた場所なのだが…
撮影されたのは1944年12月18日…
SS第1装甲偵察大隊指揮官のグスタフ・クニッテルSS少佐が率いる戦闘団“クニッテル”所属の…パイパー似?がオクスナーSS伍長…
後部座席から地図を指さしているのがペルズィンSS曹長、そしてドライバーのSS兵長(姓名は未特定)の三人であったことが現在では確認されている。
その彼らが乗車するのが車輌番号標“SS-929301”のシュヴィムワーゲン。
(※最初の三ケタは管轄地域を表わし、後半3ケタまたは4ケタが配備部隊における番号なのだとか。)
因みに、戦闘団“クニッテル”は、この写真の撮られた1944年12月18日付でパイパー戦闘団に増援部隊として合流している。

フランス侵攻(西方戦役)においてLSSAHオートバイ小隊指揮官として1940年6月13日付で二級鉄十字章を受章。
ウクライナの都市、ウーマニの戦いにおいてLSSAH偵察大隊/第4中隊指揮官として1941年9月14日付で一級鉄十字章を受章。
ソ連のベルジーチフ(ベルディチェフ)の防御戦においてSS第1装甲偵察大隊指揮官として1944年1月23日付でドイツ十字章金章を受章。
1944年4月、ソ連軍の春期攻勢により第一装甲軍全体がカメネツ・ポドルスキーで孤立。
第1SS装甲軍団“LSSAH”は、合流した第2SS装甲軍団の救援を受けて、ブチャッチ近郊での激しい脱出作戦の末、その包囲網を突破。
クニッテルのその間の戦功に対し、1944年6月4日付で騎士鉄十字章が授与された。
多大に消耗したLSSAHは休養のためにベルギーに移送となった。
再編されたSS第1装甲偵察大隊を率い、1944年12月14日付で戦闘団“クニッテル”を編成、18日付でパイパー戦闘団と合流。
12月31日、ベルギーのヴィエルサルム近くにあった指揮所が米軍機により爆撃される。
クニッテルは重傷を負い、戦線を離れ、ドイツ本国において療養病床に入院。

1944年12月18日に…これはベルギーのスタヴロに通じるラ・ヴォー・リシャールで撮影されたクニッテルとSS第1装甲偵察大隊/第2中隊指揮官ハンス・マルティーン・ライトライタァSS中尉 (※↓の映像の後半部分で数秒間ではあるが動画としても確認できる)

ハインリヒ“ハインツ”・ゴルツSS中尉がカイザーバラックの道路標識の前で位置情報の確認をしている様子も撮られている。
この時点で、道路標識の最上段には、「"202 ORD DEPOT FWD"(202兵器補給廠この先)」の標識があるが、自軍に不利益とみて剥ぎ取られている。
因みにゴルツは、フェルディナンド・オッタァSS中尉がネルファニッヒ(アーヘンから東に30km程にある町)において連合軍による空爆をうけ死亡したことにより中隊副官を引き継いでいる。

オクスナーSS伍長(右)とペルズィンSS曹長(左)
カイザーバラックでの一連の画像は、おそらくフィルムから起こされた写真のようで、その元画は↑の動画で確認が出来る。
アルデンヌでの写真、映像は現存数自体が少ないが…
そのほとんどがSS-KBやPKの演出による…まさに宣伝用に撮られた写真、映像といえる。
勿論、カイザーバラックでの この一連の写真も↑の動画からも分かるように完璧なヤラセなのだが…
これまでの、どんな名作“戦争映画”のワンシーンより…
印象深く、かつ格好いいシーンになっていると思うのは決して私だけではないと思う。
人選に配置、そして着こなし等…独軍フリークには堪らない…
まさに絶妙なバランスの構図なのである。

『P's カスタムのすすめ』の記事でも紹介させて頂いた2001年の展示の際に作成したカイザーバラックの道路標識。
自身ではなかなかこの場面を再現することもないであろうから…
1/6でスケールで、この場面を再現しているLizardKing1968、Spanish Freiwillige両氏の作例などを紹介させて頂こうと思う。
『Kaiserbarracke Dec.18 1944』 (LizardKing1968)

『Kaiserbarracke Ardennes 1944』 (Spanish Freiwillige)


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カテゴリ : 3R
テーマ : 第二次世界大戦【ドイツ】
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