オットー・エルンスト・レーマー陸軍大佐
Führerbegleitregiment Kommandeur / Oberst Otto Ernst Remer
シュタウフェンベルクらによる1944年7月20日の総統暗殺未遂事件の際の“功労者?”として異例の昇進を果たし…
事件後、総統警護連隊(FBB:Führerbegleitregiment )の指揮官として意気盛んだった頃のオットー・エルンスト・レーマー陸軍大佐を再現してみた。
ヘッドに関しては、レーマーそのものというモノがないこともあり…とりあえず今回はHotToys社からリリースされている『The Avengers / Agent Phil Coulson』(2013) で代用した。










オットー・エルンスト・レーマーは、1912年8月18日にドイツ北東部に位置するメクレンブルク=フォアポンメルン州メクレンブルギッシュ=ゼーンプラッテ郡に属する都市に生まれている。
1932年に陸軍に入隊を志願、翌年に士官候補生として陸軍第4歩兵連隊に配属となった。
1939年9月からのポーランド侵攻、バルカン半島の戦い、ソ連侵攻における戦闘では機械化歩兵中隊を指揮している。
歩兵連隊“Grosdeutschland”は、1942年に自動車化歩兵師団“Grosdeutschland”として再編成され、レーマー陸軍少佐(当時)の“Grosdeutschland”としての経歴は、その第1歩兵連隊“Grosdeutschland”/第Ⅳ(重装備)大隊の指揮官として始まった。
1943年2月中旬からの第三次ハリコフ攻防戦では、歩兵連隊第Ⅰ(装甲化)大隊を揮官し…
フリードリヒ・パウルス陸軍元帥の第6軍降伏後に包囲殲滅の窮地に立たされていたパウル・ハウサーSS大将(当時)率いるSS装甲軍団の脱出を援護し、その後のハリコフ奪還にも大きく貢献をした。
その戦功および指揮ぶりに対して1943年5月13日付で騎士鉄十字章が授与された。
クルスクにおけるツィタデレ作戦の失敗、遁走の際もクリヴォイ・ログ近郊の戦闘でのレーマーの大隊長としての指揮ぶりは評価を得て、その戦功により1943年11月2日付で全軍第325番目となる柏葉章を受章している。
1943年3月、ハラルド・クリーク陸軍少佐に後を任せ、ベルリンに戻り、ケルト・ゲールケ陸軍中佐から総統護衛大隊“Grosdeutschland”を引き継いだ。

レーマーが指揮していた総統警護大隊“Grosdeutschland”は、反ヒトラー・反ナチスの活動に加わっていた首都(ベルリン)防衛司令官パウル・フォン・ハーゼ陸軍中将の指揮下にあり、上官であるハーゼにより、官庁街の封鎖が命令され、その時点でのベルリンにいた内閣およびN.S.D.A.P.における最高位の幹部たるゲッベルスのいる国民啓蒙・宣伝省に踏み込み、その身柄を確保する手はずとなっていた。
その際、レーマーの補佐官として、ともに宣伝省に踏み込んだハンス・ヴィルヘルム・ハーゲン陸軍中尉(当時)は、かつて宣伝省管轄の機関誌で編集長も勤めていた経緯もあり、ヒトラーの死亡情報に関してゲッベルスに確認させるようにレーマーに提案している。

これによりゲッベルスは、総統大本営“ヴォルフスシャンツェ”との電話連絡を取り…その結果、ヒトラーの生存が明らかとなり、電話口で直接ヒトラーと話す機会を得たレーマーはクーデター鎮圧を直々に命じられ、事態は一気に急展開をする。
歴史にもしもはないが…この時に、宣伝省との関わりのあったハーゲンがレーマーに随行していなかったら、また事態は違った展開になっていたかもしれない。
鎮圧後、レーマーは二階級特進で陸軍大佐に昇進し、ハーゲンもこの功績により陸軍大尉に昇進をしている。
一方、ハーゼはクーデターが失敗に終わると、即日逮捕され、8月8日に人民法廷による裁判で死刑判決を受け、その日のうちにベルリン・プレッツェンゼー刑務所で絞首刑となっている。(享年59歳)

↑は、“ヒトラー暗殺未遂事件”における反乱鎮圧の殊勲を讃える閲兵式典でのレーマー陸軍大佐とその部下たちが紹介されている、1944年8月3日発表の『ドイツ週間ニュース 第726回(Die Deutsche Wochenschau Nr. 726)』での一場面であるが…
この時のレーマーの将校然とした姿は、何度見ても“様”になっている。
※以下がこの時のレーマーの演説内容である。
我々は、今日、軍人としてここにいる。
政治的かつ当然の使命として...我々の生活圏を守り、祖国を防衛し、国家社会主義の理念を守ることは、我々の義務である。
そして、我々は最終的な勝利を手にするまでその義務を果たし続けようではないか。
因みに、この回は…
その“ヒトラー暗殺未遂事件”で命を落としたギュンター・コルテン空軍(航空兵)大将の葬儀の模様に始まり…
また、その際に負傷した者たちを犒うため、ヒトラー自らが病室に赴くシーン…
身の潔白を誇示するかのような諸高官たちのヒトラー詣でのシーン…
更に、オットー・カリウスやミハエル・ヴィットマンなども登場するシーン…
戦車フリークも楽しめるパンターやティーガーの映像なども見ることの出来る、なかなか見応えのある回となっている。
1944年9月1日付で総統警護大隊“Großdeutschland”の上部組織となる総統擲弾兵連隊(FGR:Führergrenadierregiment)に連隊長としての転属が内定していたレーマーだったのだが、急遽、総統の肝煎で新たなポストが設けられ…
9月初旬に、総統護衛連隊(FBR)に戦車連隊“Grosdeutschland”/第2大隊を加えての再編が行われ、11月に新編成された総統護衛旅団(FBB)の旅団長に任官することとなった。
第5装甲軍麾下の第XLVII装甲軍団に配属され、12月18日にはバストーニュにおいて米軍の第101空挺師団と対峙することとなる。
結果はあまり芳しいものとは言えなかったようで…
旅団の兵員における野戦訓練および実戦経験の不足もさることながら…
上級指揮官としてのレーマー自身の指揮能力・経験の不足も相まって、いたずらに損害ばかりが増加してしまったという見方もある。

FBBは、年が明けた1945年1月26日付で…実質的な戦力の増強はなく名目上の昇格をして総統護衛師団(FBD)となった。
そしてレーマーも、1月31日付でドイツ国防軍における最年少(32歳)での陸軍少将に昇進、同日付でFBDの師団長に任官している。
その後、オーデル川東岸~西岸における戦闘を経て、4月16日からのソ連軍最後の大攻勢の時点には第4戦車軍の予備部隊としてコトブスの南約20kmのシュプレンベルク東に布陣。
ラウバン奪還作戦に参加するも、4月19日にはエルベ川東方で包囲されることとなる。
FBDは、同時に包囲されていた第344歩兵師団の一部、第10SS装甲師団“Frundsberg”とともにエルヴィン・ヨラッセ陸軍中将を指揮官としたヨラッセ戦闘団を組織してゼンフテンベルク(ドレスデンの北西約50km)を目標に南西方向への脱出を決行するも、障害物のない開けた地形での無謀な脱出戦により、戦車、車輌などの重装備全てを失い、兵士のみならず一緒に疎開した一般市民が一方的にソ連軍の猛砲撃にさらされ多数が犠牲になった。
レーマーも僅かな部下たちとともに私服に着替え命からがら徒歩で脱出し、5月3日にようやくドレスデンまで辿り着き、その後アメリカ軍の捕虜となり終戦を向かえた。
戦後は、ホロコースト否認、西ドイツ社会におけるドイツ民族の尊厳再建活動に傾倒し、修正主義的文献の出版等により刑事訴追されている。
そのために、1994年2月にスペインに亡命し、1997年10月4日に地中海のコスタ・デル・ソルに面したスペインのマルベーリャで亡くなっている。(享年85歳)

1971年に西ドイツのバイエルンスタジオ有限会社(当時)が制作をした、ドラマとインタビューを融合したドキュメンタリー・ドラマ…いわゆる“ドキュドラ”の先駆的な長編(二部構成)TV映画「Operation Walküre」。
そのドラマの撮影現場を訪れた際のレーマー(59歳当時)。
左から作家のヘルムート・ピッゲ、レーマー(本人)、レーマー少佐役を演じたカール・ハインツ・フォン・ハッセル、監督のフランツ・ぺーター・ヴィルト。
因みに、主役のシュタウフェンベルク参謀大佐はヨアヒム・ハンセンが演じている。
シュタウフェンベルクらによる1944年7月20日の総統暗殺未遂事件の際の“功労者?”として異例の昇進を果たし…
事件後、総統警護連隊(FBB:Führerbegleitregiment )の指揮官として意気盛んだった頃のオットー・エルンスト・レーマー陸軍大佐を再現してみた。
ヘッドに関しては、レーマーそのものというモノがないこともあり…とりあえず今回はHotToys社からリリースされている『The Avengers / Agent Phil Coulson』(2013) で代用した。










オットー・エルンスト・レーマーは、1912年8月18日にドイツ北東部に位置するメクレンブルク=フォアポンメルン州メクレンブルギッシュ=ゼーンプラッテ郡に属する都市に生まれている。
1932年に陸軍に入隊を志願、翌年に士官候補生として陸軍第4歩兵連隊に配属となった。
1939年9月からのポーランド侵攻、バルカン半島の戦い、ソ連侵攻における戦闘では機械化歩兵中隊を指揮している。
歩兵連隊“Grosdeutschland”は、1942年に自動車化歩兵師団“Grosdeutschland”として再編成され、レーマー陸軍少佐(当時)の“Grosdeutschland”としての経歴は、その第1歩兵連隊“Grosdeutschland”/第Ⅳ(重装備)大隊の指揮官として始まった。
1943年2月中旬からの第三次ハリコフ攻防戦では、歩兵連隊第Ⅰ(装甲化)大隊を揮官し…
フリードリヒ・パウルス陸軍元帥の第6軍降伏後に包囲殲滅の窮地に立たされていたパウル・ハウサーSS大将(当時)率いるSS装甲軍団の脱出を援護し、その後のハリコフ奪還にも大きく貢献をした。
その戦功および指揮ぶりに対して1943年5月13日付で騎士鉄十字章が授与された。
クルスクにおけるツィタデレ作戦の失敗、遁走の際もクリヴォイ・ログ近郊の戦闘でのレーマーの大隊長としての指揮ぶりは評価を得て、その戦功により1943年11月2日付で全軍第325番目となる柏葉章を受章している。
1943年3月、ハラルド・クリーク陸軍少佐に後を任せ、ベルリンに戻り、ケルト・ゲールケ陸軍中佐から総統護衛大隊“Grosdeutschland”を引き継いだ。

レーマーが指揮していた総統警護大隊“Grosdeutschland”は、反ヒトラー・反ナチスの活動に加わっていた首都(ベルリン)防衛司令官パウル・フォン・ハーゼ陸軍中将の指揮下にあり、上官であるハーゼにより、官庁街の封鎖が命令され、その時点でのベルリンにいた内閣およびN.S.D.A.P.における最高位の幹部たるゲッベルスのいる国民啓蒙・宣伝省に踏み込み、その身柄を確保する手はずとなっていた。
その際、レーマーの補佐官として、ともに宣伝省に踏み込んだハンス・ヴィルヘルム・ハーゲン陸軍中尉(当時)は、かつて宣伝省管轄の機関誌で編集長も勤めていた経緯もあり、ヒトラーの死亡情報に関してゲッベルスに確認させるようにレーマーに提案している。

これによりゲッベルスは、総統大本営“ヴォルフスシャンツェ”との電話連絡を取り…その結果、ヒトラーの生存が明らかとなり、電話口で直接ヒトラーと話す機会を得たレーマーはクーデター鎮圧を直々に命じられ、事態は一気に急展開をする。
歴史にもしもはないが…この時に、宣伝省との関わりのあったハーゲンがレーマーに随行していなかったら、また事態は違った展開になっていたかもしれない。
鎮圧後、レーマーは二階級特進で陸軍大佐に昇進し、ハーゲンもこの功績により陸軍大尉に昇進をしている。
一方、ハーゼはクーデターが失敗に終わると、即日逮捕され、8月8日に人民法廷による裁判で死刑判決を受け、その日のうちにベルリン・プレッツェンゼー刑務所で絞首刑となっている。(享年59歳)

↑は、“ヒトラー暗殺未遂事件”における反乱鎮圧の殊勲を讃える閲兵式典でのレーマー陸軍大佐とその部下たちが紹介されている、1944年8月3日発表の『ドイツ週間ニュース 第726回(Die Deutsche Wochenschau Nr. 726)』での一場面であるが…
この時のレーマーの将校然とした姿は、何度見ても“様”になっている。
※以下がこの時のレーマーの演説内容である。
我々は、今日、軍人としてここにいる。
政治的かつ当然の使命として...我々の生活圏を守り、祖国を防衛し、国家社会主義の理念を守ることは、我々の義務である。
そして、我々は最終的な勝利を手にするまでその義務を果たし続けようではないか。
因みに、この回は…
その“ヒトラー暗殺未遂事件”で命を落としたギュンター・コルテン空軍(航空兵)大将の葬儀の模様に始まり…
また、その際に負傷した者たちを犒うため、ヒトラー自らが病室に赴くシーン…
身の潔白を誇示するかのような諸高官たちのヒトラー詣でのシーン…
更に、オットー・カリウスやミハエル・ヴィットマンなども登場するシーン…
戦車フリークも楽しめるパンターやティーガーの映像なども見ることの出来る、なかなか見応えのある回となっている。
1944年9月1日付で総統警護大隊“Großdeutschland”の上部組織となる総統擲弾兵連隊(FGR:Führergrenadierregiment)に連隊長としての転属が内定していたレーマーだったのだが、急遽、総統の肝煎で新たなポストが設けられ…
9月初旬に、総統護衛連隊(FBR)に戦車連隊“Grosdeutschland”/第2大隊を加えての再編が行われ、11月に新編成された総統護衛旅団(FBB)の旅団長に任官することとなった。
第5装甲軍麾下の第XLVII装甲軍団に配属され、12月18日にはバストーニュにおいて米軍の第101空挺師団と対峙することとなる。
結果はあまり芳しいものとは言えなかったようで…
旅団の兵員における野戦訓練および実戦経験の不足もさることながら…
上級指揮官としてのレーマー自身の指揮能力・経験の不足も相まって、いたずらに損害ばかりが増加してしまったという見方もある。

FBBは、年が明けた1945年1月26日付で…実質的な戦力の増強はなく名目上の昇格をして総統護衛師団(FBD)となった。
そしてレーマーも、1月31日付でドイツ国防軍における最年少(32歳)での陸軍少将に昇進、同日付でFBDの師団長に任官している。
その後、オーデル川東岸~西岸における戦闘を経て、4月16日からのソ連軍最後の大攻勢の時点には第4戦車軍の予備部隊としてコトブスの南約20kmのシュプレンベルク東に布陣。
ラウバン奪還作戦に参加するも、4月19日にはエルベ川東方で包囲されることとなる。
FBDは、同時に包囲されていた第344歩兵師団の一部、第10SS装甲師団“Frundsberg”とともにエルヴィン・ヨラッセ陸軍中将を指揮官としたヨラッセ戦闘団を組織してゼンフテンベルク(ドレスデンの北西約50km)を目標に南西方向への脱出を決行するも、障害物のない開けた地形での無謀な脱出戦により、戦車、車輌などの重装備全てを失い、兵士のみならず一緒に疎開した一般市民が一方的にソ連軍の猛砲撃にさらされ多数が犠牲になった。
レーマーも僅かな部下たちとともに私服に着替え命からがら徒歩で脱出し、5月3日にようやくドレスデンまで辿り着き、その後アメリカ軍の捕虜となり終戦を向かえた。
戦後は、ホロコースト否認、西ドイツ社会におけるドイツ民族の尊厳再建活動に傾倒し、修正主義的文献の出版等により刑事訴追されている。
そのために、1994年2月にスペインに亡命し、1997年10月4日に地中海のコスタ・デル・ソルに面したスペインのマルベーリャで亡くなっている。(享年85歳)

1971年に西ドイツのバイエルンスタジオ有限会社(当時)が制作をした、ドラマとインタビューを融合したドキュメンタリー・ドラマ…いわゆる“ドキュドラ”の先駆的な長編(二部構成)TV映画「Operation Walküre」。
そのドラマの撮影現場を訪れた際のレーマー(59歳当時)。
左から作家のヘルムート・ピッゲ、レーマー(本人)、レーマー少佐役を演じたカール・ハインツ・フォン・ハッセル、監督のフランツ・ぺーター・ヴィルト。
因みに、主役のシュタウフェンベルク参謀大佐はヨアヒム・ハンセンが演じている。

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カテゴリ : Mil-FIG
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