“パウル・マイトラ”フィギュア化企画
2008年、先に紹介した“エストニア人SS義勇兵”の元コンテンツを当時のHPに掲載し…
これをご覧頂いたのを機に始まったエストニアの友人との交流は、現在も続いている。
コンテンツのブログへの移転にあたり…
新たに、第11SS義勇装甲擲弾兵師団“Nordland”の第45SS所属武装擲弾兵連隊/第I大隊指揮官のパウル・マイトラSS所属武装大尉などを紹介させて頂いたのだが…
これもご覧頂いたことで、今回また新たな思わぬ展開となった。
そのエストニアの友人には、現在もご存命の旧軍人の方達やその遺族の方達とのネットワークがあり…
パウル・マイトラの娘(カイ)さんとも親交があるとのことで…
今回、そのマイトラをフィギュア化してもらえないものか?との依頼を頂いた。



依頼に際し、事前にお教え頂いたマイトラの情報では…
瞳は青碧…
髪はブロンド…
眉毛は濃い目…
身長は172cm…因みに、当方とほぼ同じ…(^ ^;
ご尊顔を拝見するとお気づきのように…少々、御額が後退されているようで…
そこで、ヘッドを選択するにあたり…2010年に3Rからリリースされた“カール・デーニッツ独国大統領”しか思いつけなかった。
ただ、このヘッドは造形、塗装ともに、元々がなかなかによい出来なこともあり…
当方が手を加えることでその出来を損ねかねる可能性が大だったので…
必要最小限…濃い眉を入れ、瞳の色を青碧にリペイントするのみにとどめた。

衣装の制作に関しては、ここ最近の制作ペースやその他の問題を考慮すると、一から制作していたのでは、完成が何時になるかわからず…
あまりお待たせしてしまうのも心苦しいので…(多少、言い訳だが…)
そこで今回は、過去に『SS-Standartenführer』(画像①、画像②)として制作していたが…
現在は、素体にすら着せることなくしまわれっぱなしの状態になっていた上・下衣を再利用し…
縫込み式の肩章、襟章、鷲章、徽章、革物(ベルト、PPK用ホルスター)など…
また、SS少校用制帽は頭径に合わせなくてはならないこともあり…
そうした備品のみを新しく制作するのみにとどめ、とり急ぎ何とかでカタチにした次第である。
ただ、この上・下衣は、当時、それなりの思いを込めて制作したモノでもあり…
今回、こうしたカタチで再び日の目を見る機会が得られ、当方としては何とも嬉しい限りである。
因みに、この上衣に使用した生地は、実際のスーツに使われるくらいの上質なウール素材で…
また、下衣の生地も、同様に実際の乗馬ズボンにでも使用できるくらいのウール素材であり…
制作にあたり、質感、色目を重視して使ってみたものの…それが故に、逆に細部の処理などに苦労をしたものである。
まあ、何はともあれ…遠くエストニアの地に、とりあえずは無事に届いたとのことでホッとした。


◆ Vaivara Sinimägede muuseum
今回、事前にお送り頂いた資料のなかには、マイトラ本人着用の(勿論)実物の勤務服、乗馬ズボン、制帽、勲章類などの画像なども含まれていたのだが…
それらは、ロシアと国境を接するエストニア第3の都市で…1944年の“ナルヴァの戦い”として壮絶な戦闘の場ともなったナルヴァからも程近いヴァイヴァラ村のシニマエというところにあるヴァイヴァラ・シニマエ博物館に所蔵されているとのことである。

小さな博物館ではあるが、地域歴史研究に力が注がれている。
歴史が奪われてしまった彼らの思いのつまった博物館なのだそうである。

博物館脇の「擲弾兵の丘」には、当時SS義勇兵として戦い散っていった人々を悼む記念碑が建てられている。
※参考記事
博物館に所蔵されたパウル・マイトラの実際の制服、制帽


館内では、それらを装着したマネキンとして観ることも出来る。


【 Die Schlacht um die Tannenbergstellung 】
1944年7月29日、タンネンベルク線の戦いにおいて、独軍はグレナダ山とトーリ山の西端に広がる丘陵部を包囲されるも、マイトラ率いる第45連隊第Ⅰ大隊により中央部のグレナダ山を奪い返した。
この戦功により、マイトラは1944年8月23日付で騎士鉄十字章を受章している。

予備勲記の書式としては以下のような感じになる。
Vorläufiges Besitzzeugnis
Der Führer
hat dem
SS-Hauptsturmführer Paul Maitla
Batl.-Führer I. / SS-Gren. Rgt. 45 (estn.)
(階級、氏名、所属部隊および職務)
DAS RITTERKREUZ DAS EISERNEN KREUZES (=騎士鉄十字章)
am 23. 8. 1944(受章年月日) verliehen
※総統閣下は、第45SS擲弾兵連隊(エストニア)/第Ⅰ大隊指揮官 SS大尉パウル・マイトラに1944年8月23日付で騎士鉄十字章を授与するものである。
H.Qu (Hauptquartier=本部)
OKH (Oberkommando des Heeres=陸軍総司令部)
8. Sept. 1944
※1944年9月8日、OKH本部にて授与。
OBERKOMMANDO DES HEERES
I.A. (im Auftrag=委任)
※陸軍総司令部の委任により当該部局 陸軍中将(未詳)が授与確認の署名をしている。
【 Postskriptum 】
♯ 1

エストニアの友人との思わぬは話の流れから、パウル・マイトラのフィギュア化の依頼を受け…
カタチにした今作例は、彼と彼らのコミュニティ…そして、マイトラの実娘カイさんにもご覧頂けるということで…遠くエストニアの地の友人たちに贈らせて頂いた。
これは、そのお礼として頂いた、彼らのコミュニティで製作したオリジナルのTシャツ。
“EESTI LEEGIONIS KEHASTUB KALEVIPOJA VAIM!”の訳としては…
「エストニア義勇兵としてカレヴィポエクの精神を継承せよ!」とでもなろうか?
“KALEVIPOJA=Kalevipoeg(カレヴィポエク)”とは…鷲の背に乗ってフィンランド湾を渡り、エストニアの王となった伝説の巨人カレフ王の継承者であるエストニアの英雄カレヴィポエク(“カレフの息子”の意) のこと。

ドイツ占領下に地下組織として設立されたエストニア共和国全国委員会。
当時、国家元首であるエストニア大統領のコンスタンティン・パッツが拘束されたため、ユーリ・ウルオツ首相が憲法上の大統領代行であった。
1944年2月、ソ連軍のレニングラード方面軍がナルヴァ近郊に到達し、ソ連の脅威が現実化すると…ウルオツは1944年2月7日、ラジオ放送通じて、ソ連に占領されることを阻止し、その暁にはエストニア再独立を勝ち取るため、今はドイツとともにソ連軍と戦うことを呼びかけた。
8月1日、エストニア国内委員会がエストニア最高権威であると宣言し、9月18日にウルオツはオットー・ティーフを首相に任命。
すぐさま組閣を行い戦前のエストニア共和国と法的な連続性を保ったエストニア共和国の独立回復を宣言した。
独軍の撤退とソ連軍の首都タリン進駐の間のわずか一週間ではあったが、エストニア独立を勝ち取るためにウルオツ、ティーフら率いるエストニア国内委員会は奔走した。
そうした彼らの行動は今尚、エストニアの人々には誇りなのだそうである。
…ということで、背面にはユーリ・ウルオツを称える言葉がエストニア語で綴られているらしい。

右袖にプリントされている“ELSK=Eesti Leegioni Sõprade Klubi(エストニア在郷軍人友の会?)”のロゴマーク。
中央にエストニアの頭文字“E”と“剣を持つ腕”をモチーフにした1stタイプのエンブレムと、それを囲む「Truuks jaame isamaale!=祖国に忠実なれ!」の文字があしらわれている。
♯ 2

そして、Tシャツの他にもう一点…マイトラのフォトパネルも頂いた。
1/6フィギュアと比較すると、このサイズとなる。
これをご覧頂いたのを機に始まったエストニアの友人との交流は、現在も続いている。
コンテンツのブログへの移転にあたり…
新たに、第11SS義勇装甲擲弾兵師団“Nordland”の第45SS所属武装擲弾兵連隊/第I大隊指揮官のパウル・マイトラSS所属武装大尉などを紹介させて頂いたのだが…
これもご覧頂いたことで、今回また新たな思わぬ展開となった。
そのエストニアの友人には、現在もご存命の旧軍人の方達やその遺族の方達とのネットワークがあり…
パウル・マイトラの娘(カイ)さんとも親交があるとのことで…
今回、そのマイトラをフィギュア化してもらえないものか?との依頼を頂いた。



依頼に際し、事前にお教え頂いたマイトラの情報では…
瞳は青碧…
髪はブロンド…
眉毛は濃い目…
身長は172cm…因みに、当方とほぼ同じ…(^ ^;
ご尊顔を拝見するとお気づきのように…少々、御額が後退されているようで…
そこで、ヘッドを選択するにあたり…2010年に3Rからリリースされた“カール・デーニッツ独国大統領”しか思いつけなかった。
ただ、このヘッドは造形、塗装ともに、元々がなかなかによい出来なこともあり…
当方が手を加えることでその出来を損ねかねる可能性が大だったので…
必要最小限…濃い眉を入れ、瞳の色を青碧にリペイントするのみにとどめた。

衣装の制作に関しては、ここ最近の制作ペースやその他の問題を考慮すると、一から制作していたのでは、完成が何時になるかわからず…
あまりお待たせしてしまうのも心苦しいので…(多少、言い訳だが…)
そこで今回は、過去に『SS-Standartenführer』(画像①、画像②)として制作していたが…
現在は、素体にすら着せることなくしまわれっぱなしの状態になっていた上・下衣を再利用し…
縫込み式の肩章、襟章、鷲章、徽章、革物(ベルト、PPK用ホルスター)など…
また、SS少校用制帽は頭径に合わせなくてはならないこともあり…
そうした備品のみを新しく制作するのみにとどめ、とり急ぎ何とかでカタチにした次第である。
ただ、この上・下衣は、当時、それなりの思いを込めて制作したモノでもあり…
今回、こうしたカタチで再び日の目を見る機会が得られ、当方としては何とも嬉しい限りである。
因みに、この上衣に使用した生地は、実際のスーツに使われるくらいの上質なウール素材で…
また、下衣の生地も、同様に実際の乗馬ズボンにでも使用できるくらいのウール素材であり…
制作にあたり、質感、色目を重視して使ってみたものの…それが故に、逆に細部の処理などに苦労をしたものである。
まあ、何はともあれ…遠くエストニアの地に、とりあえずは無事に届いたとのことでホッとした。


◆ Vaivara Sinimägede muuseum
今回、事前にお送り頂いた資料のなかには、マイトラ本人着用の(勿論)実物の勤務服、乗馬ズボン、制帽、勲章類などの画像なども含まれていたのだが…
それらは、ロシアと国境を接するエストニア第3の都市で…1944年の“ナルヴァの戦い”として壮絶な戦闘の場ともなったナルヴァからも程近いヴァイヴァラ村のシニマエというところにあるヴァイヴァラ・シニマエ博物館に所蔵されているとのことである。

小さな博物館ではあるが、地域歴史研究に力が注がれている。
歴史が奪われてしまった彼らの思いのつまった博物館なのだそうである。

博物館脇の「擲弾兵の丘」には、当時SS義勇兵として戦い散っていった人々を悼む記念碑が建てられている。
※参考記事
博物館に所蔵されたパウル・マイトラの実際の制服、制帽


館内では、それらを装着したマネキンとして観ることも出来る。


【 Die Schlacht um die Tannenbergstellung 】
1944年7月29日、タンネンベルク線の戦いにおいて、独軍はグレナダ山とトーリ山の西端に広がる丘陵部を包囲されるも、マイトラ率いる第45連隊第Ⅰ大隊により中央部のグレナダ山を奪い返した。
この戦功により、マイトラは1944年8月23日付で騎士鉄十字章を受章している。

予備勲記の書式としては以下のような感じになる。
Vorläufiges Besitzzeugnis
Der Führer
hat dem
SS-Hauptsturmführer Paul Maitla
Batl.-Führer I. / SS-Gren. Rgt. 45 (estn.)
(階級、氏名、所属部隊および職務)
DAS RITTERKREUZ DAS EISERNEN KREUZES (=騎士鉄十字章)
am 23. 8. 1944(受章年月日) verliehen
※総統閣下は、第45SS擲弾兵連隊(エストニア)/第Ⅰ大隊指揮官 SS大尉パウル・マイトラに1944年8月23日付で騎士鉄十字章を授与するものである。
H.Qu (Hauptquartier=本部)
OKH (Oberkommando des Heeres=陸軍総司令部)
8. Sept. 1944
※1944年9月8日、OKH本部にて授与。
OBERKOMMANDO DES HEERES
I.A. (im Auftrag=委任)
※陸軍総司令部の委任により当該部局 陸軍中将(未詳)が授与確認の署名をしている。
【 Postskriptum 】
♯ 1

エストニアの友人との思わぬは話の流れから、パウル・マイトラのフィギュア化の依頼を受け…
カタチにした今作例は、彼と彼らのコミュニティ…そして、マイトラの実娘カイさんにもご覧頂けるということで…遠くエストニアの地の友人たちに贈らせて頂いた。
これは、そのお礼として頂いた、彼らのコミュニティで製作したオリジナルのTシャツ。
“EESTI LEEGIONIS KEHASTUB KALEVIPOJA VAIM!”の訳としては…
「エストニア義勇兵としてカレヴィポエクの精神を継承せよ!」とでもなろうか?
“KALEVIPOJA=Kalevipoeg(カレヴィポエク)”とは…鷲の背に乗ってフィンランド湾を渡り、エストニアの王となった伝説の巨人カレフ王の継承者であるエストニアの英雄カレヴィポエク(“カレフの息子”の意) のこと。

ドイツ占領下に地下組織として設立されたエストニア共和国全国委員会。
当時、国家元首であるエストニア大統領のコンスタンティン・パッツが拘束されたため、ユーリ・ウルオツ首相が憲法上の大統領代行であった。
1944年2月、ソ連軍のレニングラード方面軍がナルヴァ近郊に到達し、ソ連の脅威が現実化すると…ウルオツは1944年2月7日、ラジオ放送通じて、ソ連に占領されることを阻止し、その暁にはエストニア再独立を勝ち取るため、今はドイツとともにソ連軍と戦うことを呼びかけた。
8月1日、エストニア国内委員会がエストニア最高権威であると宣言し、9月18日にウルオツはオットー・ティーフを首相に任命。
すぐさま組閣を行い戦前のエストニア共和国と法的な連続性を保ったエストニア共和国の独立回復を宣言した。
独軍の撤退とソ連軍の首都タリン進駐の間のわずか一週間ではあったが、エストニア独立を勝ち取るためにウルオツ、ティーフら率いるエストニア国内委員会は奔走した。
そうした彼らの行動は今尚、エストニアの人々には誇りなのだそうである。
…ということで、背面にはユーリ・ウルオツを称える言葉がエストニア語で綴られているらしい。

右袖にプリントされている“ELSK=Eesti Leegioni Sõprade Klubi(エストニア在郷軍人友の会?)”のロゴマーク。
中央にエストニアの頭文字“E”と“剣を持つ腕”をモチーフにした1stタイプのエンブレムと、それを囲む「Truuks jaame isamaale!=祖国に忠実なれ!」の文字があしらわれている。
♯ 2

そして、Tシャツの他にもう一点…マイトラのフォトパネルも頂いた。
1/6フィギュアと比較すると、このサイズとなる。

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カテゴリ : Mil-FIG
テーマ : WWIIミリタリーフィギュア
ジャンル : ブログ