フィギュアがまだお人形でよかった頃…其の壱
LSSAHは、それまでの編成に砲兵科部隊を増強して再編され、1940年5月10日に始まったフランス・オランダ侵攻…いわゆる西方戦役(Westfeldzug)に参戦している。
この時点では、ヨーゼフ・ゼップ・ディートリッヒSS大将を連隊長とした連隊規模であった。
西方戦役では、ベネルクス三国、フランス北部への侵攻作戦となる「Fall Gelb(=黄色事例)」に備え、オランダ国境に移動。
ロッテルダムでクルト・シュトゥデント空軍中将(当時)指揮下の第7航空師団、第22空挺師団の各降下猟兵部隊と提携し、自然的防衛線ともなっているアイセル川に架かる橋の占拠という任務を受け、オランダ侵攻の先鋒的な役割を担っていた。
そして、1940年5月10日午前5時30分…オランダ国境線の攻撃を開始。
その後ベルギー~フランス進攻、そしてパリ入城を経て、7月下旬に新たな部隊再編を行う。

1940年6月初旬、当時SS大尉であったパイパーが自動車化歩兵連隊“Leibstandarte SS Adolf Hitler” / 第11中隊指揮官として北フランスに進駐した際のスナップである。
パイパーは1940年6月6日付でSS大尉に昇進し、6月21日付でヒムラーの副官としての任務に復帰している。
その後、11月14日付で第一副官に任命された。
ヒムラーのお気に入りであった彼は、結局、1941年10月10日までSS長官幕僚部で副官任務に就いている。
因みに、最初の副官任官は1938年7月4日付で…カール·ヴォルフの指揮下におかれていた。
この様な陸軍タイプの舟型帽(Schiffchen)姿は、西方戦役中~副官任官時、その後も時折被っている写真などが見られる。
陸軍タイプの流用の際、舟型帽に限らず…徽章をSS型に変更せずに陸軍型のままにしている者もおり、パイパーも舟型帽のライヒス・アドラーは陸軍型帽章を着けている。
SS-Obersturmführer 《P'log移転 作例 第八弾》
上のパイパーの写真をモチーフに、極々初期頃…おそらく1999年だったか?…に作例を制作したのが今作例である。
従って、被服、階級(SS中尉)、勲・徽章等は、写真を忠実に再現してはいない。
DRAGONの「Barbarossa 1941/Wehrmacht Infantry Private(Schütze) “Klaus”」をそのまま使用したのが最初のヴァージョンとなる。
ヘッドの造形、塗装も勿論ではあるが、細部におけるスケールや作り込みといったことなども、まだまだ追求が緩く…
言うなれば、フィギュアがまだ人形でよかった過渡期の時代であった。
当方的にも、これを制作していた頃は、まだ縫製にミシンを使っておらず、全ての部分を手縫いで行っていた。
そのため、ステッチのピッチも若干不揃いで、長短入り乱れな観も否めないが…
当時は、これはこれで自分自身も満足していたし、何よりカタチに出来たことが嬉しかった。
マップケースなども、一応…革を使っての再現を試みた。
実物品は布、革製の物も、ソフビによる成形が当たり前だった当時にあって…布製の物は布地で、革製の物は革で制作してみるということ自体が画期的なことでもあった。
現在、見返すと、かなり恥ずかしいほどの出来ではあるが…リアル感は多少二の次にされたとしても、それはそれで満足だったように思う。
とにかく、無いモノが多かったこともあり…
無いモノを作りたいという意欲と熱意が溢れていたと言っても過言ではない。
現在では、素人が太刀打ち出来ない程の既製品が溢れてしまっているお陰で…
逆にカスタムへの想いは削がれて…結局はフィギュア自体への熱も冷め…市場も先細るという悪循環に見舞われてしまっているのが今の実情と言えるのではないだろうか。
●erste Version

左上段:2000年10月9日開催の「CUSTOM WORLD 4」における展示の模様。
この時は、フィギュアのバックに参考とした人物の写真をパネルにして、その対比をご覧頂くというカタチの展示を試みた。
中段&下段:同「CUSTOM WORLD 4」において、STEINER氏を中心として展示が為された『戦場に移動中のL.A.H』と題された大型展示…その撤収作業前に…その情景のなかで撮影をして頂いた画像。
因みにオートバイ兵は、DRAGONの「POLAND 1944/Wiking Division Panzer Offier(Obersturmführer) “Fritz”」のヘッドに植毛を施し…“Der schnelle Fritz”として生まれ変わらせてみた。
まだ自身でHP“PEIPER's CUSTOM”を開設する以前ということもあり…
また、今のように携帯にカメラなどが当たり前の時代ではなかったこともあり…
自作例を写真に収めておらず、これらの画像もSTEINER氏のHPから引用させて頂いた。
●zweite Version

HP「PEIPER's CUSTOM」を開設し、コンテンツとして、この作例を紹介するにあたりヘッドをすげ替えた。
このヘッド、今となっては懐かしい…トイズ・マッコイ(OK玩具)の“Steven McCoy”を使用。

素体は、この時点ではまだDRAGON製であった。
●dritte Version

肩章を作り直し、リボンバーなどの徽章類を加えるなどして、多少のリアル化を図ってみた。
金属製ではないものの、スケール的に合わなかった騎士鉄十字章はBBi製に変更。
欲を言えば、今度は少し小さいか…(^ ^;

2003年のC.F.E.2003に出展した『Der Tod des Kameraden』という…墓標の前で戦友を偲び佇む兵士のビネット制作にあたり、BBi製の「DAK Motor Cycle Recon - Panzer Battalion / Oberfeldwebel JOHAN JERGENS」のヘッドに換えている。

素体は、BBi製のマッチョ感が好みでないこともあり、ボークス製のNEO-GUYに変更。
但し、手の部分のみ…当時としては、その造形的に気に入っていたSideshow Toys製のモノに交換して組み直している。

前記事で紹介させて頂いた、C.F.E.2003における金子氏辰也氏の作例『街角』のビネットをバックに撮影をさせて頂いた。
確かに、年齡を重ねるとともに…多少は、色々な引き出しが自分の中に増えてきて…
それは、それで良い反面…
ことフィギュアのカスタムに関して言えば…
作りたいという気持ちとは裏腹に…
行動する…作り始める前から、これにはコレがないからリアルに作るのは無理だとか…
そうするにはソレが障害になって作るのは無理だろう等というネガティヴな要因ばかりが思いつき…なかなか重い腰をあげるには至らなくなってしまっているように思う。
そうした自分に喝を入れる意味においても…
年に一度くらいの“刺激”は、きっと意義あるものなのだろう…
この時点では、ヨーゼフ・ゼップ・ディートリッヒSS大将を連隊長とした連隊規模であった。
西方戦役では、ベネルクス三国、フランス北部への侵攻作戦となる「Fall Gelb(=黄色事例)」に備え、オランダ国境に移動。
ロッテルダムでクルト・シュトゥデント空軍中将(当時)指揮下の第7航空師団、第22空挺師団の各降下猟兵部隊と提携し、自然的防衛線ともなっているアイセル川に架かる橋の占拠という任務を受け、オランダ侵攻の先鋒的な役割を担っていた。
そして、1940年5月10日午前5時30分…オランダ国境線の攻撃を開始。
その後ベルギー~フランス進攻、そしてパリ入城を経て、7月下旬に新たな部隊再編を行う。

1940年6月初旬、当時SS大尉であったパイパーが自動車化歩兵連隊“Leibstandarte SS Adolf Hitler” / 第11中隊指揮官として北フランスに進駐した際のスナップである。
パイパーは1940年6月6日付でSS大尉に昇進し、6月21日付でヒムラーの副官としての任務に復帰している。
その後、11月14日付で第一副官に任命された。
ヒムラーのお気に入りであった彼は、結局、1941年10月10日までSS長官幕僚部で副官任務に就いている。
因みに、最初の副官任官は1938年7月4日付で…カール·ヴォルフの指揮下におかれていた。
この様な陸軍タイプの舟型帽(Schiffchen)姿は、西方戦役中~副官任官時、その後も時折被っている写真などが見られる。
陸軍タイプの流用の際、舟型帽に限らず…徽章をSS型に変更せずに陸軍型のままにしている者もおり、パイパーも舟型帽のライヒス・アドラーは陸軍型帽章を着けている。
SS-Obersturmführer 《P'log移転 作例 第八弾》
上のパイパーの写真をモチーフに、極々初期頃…おそらく1999年だったか?…に作例を制作したのが今作例である。
従って、被服、階級(SS中尉)、勲・徽章等は、写真を忠実に再現してはいない。
DRAGONの「Barbarossa 1941/Wehrmacht Infantry Private(Schütze) “Klaus”」をそのまま使用したのが最初のヴァージョンとなる。
ヘッドの造形、塗装も勿論ではあるが、細部におけるスケールや作り込みといったことなども、まだまだ追求が緩く…
言うなれば、フィギュアがまだ人形でよかった過渡期の時代であった。
当方的にも、これを制作していた頃は、まだ縫製にミシンを使っておらず、全ての部分を手縫いで行っていた。
そのため、ステッチのピッチも若干不揃いで、長短入り乱れな観も否めないが…
当時は、これはこれで自分自身も満足していたし、何よりカタチに出来たことが嬉しかった。
マップケースなども、一応…革を使っての再現を試みた。
実物品は布、革製の物も、ソフビによる成形が当たり前だった当時にあって…布製の物は布地で、革製の物は革で制作してみるということ自体が画期的なことでもあった。
現在、見返すと、かなり恥ずかしいほどの出来ではあるが…リアル感は多少二の次にされたとしても、それはそれで満足だったように思う。
とにかく、無いモノが多かったこともあり…
無いモノを作りたいという意欲と熱意が溢れていたと言っても過言ではない。
現在では、素人が太刀打ち出来ない程の既製品が溢れてしまっているお陰で…
逆にカスタムへの想いは削がれて…結局はフィギュア自体への熱も冷め…市場も先細るという悪循環に見舞われてしまっているのが今の実情と言えるのではないだろうか。
●erste Version

左上段:2000年10月9日開催の「CUSTOM WORLD 4」における展示の模様。
この時は、フィギュアのバックに参考とした人物の写真をパネルにして、その対比をご覧頂くというカタチの展示を試みた。
中段&下段:同「CUSTOM WORLD 4」において、STEINER氏を中心として展示が為された『戦場に移動中のL.A.H』と題された大型展示…その撤収作業前に…その情景のなかで撮影をして頂いた画像。
因みにオートバイ兵は、DRAGONの「POLAND 1944/Wiking Division Panzer Offier(Obersturmführer) “Fritz”」のヘッドに植毛を施し…“Der schnelle Fritz”として生まれ変わらせてみた。
まだ自身でHP“PEIPER's CUSTOM”を開設する以前ということもあり…
また、今のように携帯にカメラなどが当たり前の時代ではなかったこともあり…
自作例を写真に収めておらず、これらの画像もSTEINER氏のHPから引用させて頂いた。
●zweite Version

HP「PEIPER's CUSTOM」を開設し、コンテンツとして、この作例を紹介するにあたりヘッドをすげ替えた。
このヘッド、今となっては懐かしい…トイズ・マッコイ(OK玩具)の“Steven McCoy”を使用。

素体は、この時点ではまだDRAGON製であった。
●dritte Version

肩章を作り直し、リボンバーなどの徽章類を加えるなどして、多少のリアル化を図ってみた。
金属製ではないものの、スケール的に合わなかった騎士鉄十字章はBBi製に変更。
欲を言えば、今度は少し小さいか…(^ ^;

2003年のC.F.E.2003に出展した『Der Tod des Kameraden』という…墓標の前で戦友を偲び佇む兵士のビネット制作にあたり、BBi製の「DAK Motor Cycle Recon - Panzer Battalion / Oberfeldwebel JOHAN JERGENS」のヘッドに換えている。

素体は、BBi製のマッチョ感が好みでないこともあり、ボークス製のNEO-GUYに変更。
但し、手の部分のみ…当時としては、その造形的に気に入っていたSideshow Toys製のモノに交換して組み直している。

前記事で紹介させて頂いた、C.F.E.2003における金子氏辰也氏の作例『街角』のビネットをバックに撮影をさせて頂いた。
確かに、年齡を重ねるとともに…多少は、色々な引き出しが自分の中に増えてきて…
それは、それで良い反面…
ことフィギュアのカスタムに関して言えば…
作りたいという気持ちとは裏腹に…
行動する…作り始める前から、これにはコレがないからリアルに作るのは無理だとか…
そうするにはソレが障害になって作るのは無理だろう等というネガティヴな要因ばかりが思いつき…なかなか重い腰をあげるには至らなくなってしまっているように思う。
そうした自分に喝を入れる意味においても…
年に一度くらいの“刺激”は、きっと意義あるものなのだろう…

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カテゴリ : Mil-FIG
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