ギュンター・ダルカン
1942年6月28日…ヒトラーは『青』作戦を発動、クルスクとハリコフを結ぶ前線からソ連南部に向け南方軍集団を進撃させた。
7月9日には南方軍集団はA、B軍集団の二手に分かれ…A軍集団はカフカース深く侵入、B軍集団はスターリングラードを目指した。
当初の戦況に気を良くしたヒトラーは、ここでその後の判断を見誤ることとなる。
その結果、1942年末からのソ連軍の冬期攻勢により、スターリングラードの第6軍は孤立し…包囲され、フリードリッヒ・パウルス陸軍元帥は降伏を余儀なくされる。
そして痩せ衰え、憔悴しきった残存の9万将兵に投降を命じることとなる。
さらにソ連軍はカフカースに侵入しているドイツ軍をも一掃する勢いをみせる。
既にドイツ軍は、一進一退というよりも一留一退を繰り返すのが精一杯であった。
さらにヨシフ・スターリンはソ連軍を西に進め、主要目標の一つとしていたソ連第四の工業都市ハリコフ(Charkow)に迫る。
これに対しヒトラーは、1943年2月13日…ハリコフを守らせていた第2SS装甲軍団のパウル・ハウサーSS大将に直々にハリコフ死守を命じる。
しかし、もはや面子を重んじ、むやみに犠牲を出すことは無意味であり…
何よりもスターリングラードの二の舞は避けるべきと考えたハウサーは、2月15日…ハリコフの放棄・脱出を断行する。
この貴重な兵力を得られたこともあり、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン陸軍元帥は後に『後手の一撃』として評価の高い反撃作戦に打って出る。
ドイツ軍はソ連軍を押し戻し、3月11日には“LSSAH”、“Das Reich”両装甲師団がハリコフに突入する。
戦後、多くの兵士が東部戦線における最悪の戦場として「ハリコフ」の名を挙げる程、ハリコフ市街戦は壮絶なものだった。
そして3月14日にハリコフは奪還され、同時に戦区全域での反撃は一応の成功を収め、東部戦線南翼の最大危機が回避されることとなった。
※『後手の一撃』…先ず敵に陣内深く攻め込ませておいて、その突進力が鈍ったところで、一転反撃し戦線を押し戻すとともに、その突出した側面も叩くというものであった。

この写真は上記の様な背景のもと、ドイツ軍による三度目(初度は1941年10月、二度目は1942年5月)のハリコフ制圧後(3月16日)に同市内で撮影されたものである。
『SSガイドブック』『制服の帝国』の著者でもあるKLAUSEの山下英一郎氏によると…
写真の主は、『クルト・エッガース連隊』(陸軍のPK(Propaganda Kompanie)=宣伝中隊にあたる武装親衛隊の報道部隊…因みに陸軍以外はKB(Kreigsberichter Kompanie=従軍記者中隊)の指揮官であったギュンター・ダルカン(Gunter d'Alquen)予備役SS少佐だとのことであるが…?
ここで、疑問に思う方もいるかもしれない。
写真の主の襟元を見てみると、襟廻りにはトレッセがつき、襟章もピプが二つなので、SS曹長階級の野戦服を着用しているようであり…‘43年当時のダルカンの階級とは明らかに異なる。
煙草に火を付けようと、マッチを擦らんと俯向き加減のため顔がはっきりとは分からないが…
確かに、下に紹介するダルカン本人の顔立ちに似ているようにも思える。
なぜこうした別階級の野戦服を着用をしているのかについては、推測の域を脱することは出来ないので、ここでは言及を避けさせて頂く。
カイザーバラックでのパイパー?と誤認された有名な写真の件などもあることですので…
SS-Sturmbannführer d.R. Gunter d'Alquen
ギュンター・ダルカンは、カトリック教徒で実業家、予備役将校…またフリーメーソンの会員でもあったカール・ダルカンの息子として、1910年10月24日にエッセン(ドイツの西部に位置するノルトラインウェストファーレン州のルール工業地帯の中心都市)に生まれている。
レアルギムナジウムに進学し、1925年にヒットラーユーゲントに入団。
1926年にSA(突撃隊)に入隊。
17歳となった1927年にNSDAPに入党している。(NSDAP党員番号:66689)
国家社会主義者ドイツ学生連盟(Nationalsozialistischer Deutscher Studentenbund=NSDStB)の活動に傾倒。
1931年4月10日にSS(親衛隊)に入隊。(SS番号:8452)
歴史学と文献学を専攻していたダルカンは、その後ジャーナリストとしてのキャリアを始め、1932年から、主に民衆の動向を把握するための政治記者としての仕事に従事。
ハインリヒ・ヒムラーの目に留まり、1935年3月からSSの機関誌『Das schwarze Korps』の編集長に就任している。
1940年1月にSS従軍記者中隊が編成され…新聞記者、編集者、作家、ジャーナリストなどに資格(階級)を与えて、武器SSの各戦闘部隊に割り当てられた。
その後、戦線の拡大などにより、従軍記者も増員が求められ、1941年8月にはSS従軍記者大隊に拡充された。
1943年8月に東部戦線で戦死したドイツの作家、詩人、脚本家、作詞家であり、NSDAPとも密接でもあった従軍記者のクルト・エっガースの名誉称号を授与された“武装SS戦争宣伝連隊『クルト・エッガース』”(※)として1943年10月31日付で再編され、その指揮官としてダルカンが任官した。
※Der Propagandakrieg der Waffen-SS und die SS-Standarte “Kurt Eggers”
1943年時点では141名の人員だったが、1944年には1,180名に増員されているが、これは戦局の悪化に伴い、都合の良い宣伝材料をみつけ…報道とは名ばかりの、単に国民扇動目的の宣伝活動を行う必要に逆に迫られての増員であったと思われる。
ダルカンは、1998年5月15日…メンヒェングラートバッハ(Mönchengladbach:エッセンから電車で40分程のところに位置)において亡くなっている。(享年87歳)

規定に沿ったタキシード型の第一礼装(白の蝶タイ、白ベスト、飾緒、夜会徽章)姿のダルカンと彼の妻。
1937年1月30日付で、一般SSの親衛隊連隊指揮官(=SS大佐)に昇級している。

SS従軍記者大隊(予備役SS大尉)時代のダルカンと専属運転手のSS伍長…その左袖には、はっきりはしないが“SS-Kriegsberichter”のカフタイトルが着用されているようである。
また、ダルカンの肩章には“LAH”のモノグラムが装着されており、彼がLSSAHに専属していたことが分かる。

ゼップ・ディートリヒSS大将(当時)とその後妻のウルズラ・モニンガーとの間に写っているのがダルカン(予備役SS少佐)である。
因みに、ウルズラはカール=ハインリヒ・ブレンナーSS中将兼警察中将と結婚していたが、ゼップとの間に男子(ヴォルフ=ディーター・ディートリヒ)を妊娠してしまい、結局1942年1月19日にゼップとウルズラはお互い再婚同士で結婚している。

武装SSにおいての最終階級は予備役SS少佐。
【 Feldmütze für SS-Unterführer 】
上の写真でダルカンが被っているような“布鍔野戦帽”は、SS指令(1938年2月25日付)では『下士官用』とされている。
その後のSS長官命令(1939年12月12日付)では、“革鍔野戦帽”と同様に、その着用を控えていくようにするべき旨の通達が出される。
当初は革製のチンストラップが付けられていたようであるが、次第に革製チンストラップを付ける者は稀になる。
1940年代に入り、下士官だけではなく、兵…そして将校等も着用するようになると、わざわざ将校用のチンストラップ(ひねり紐)をつけるという者はいた。
布鍔野戦帽もまた、‘40年型下士官兵用略帽の導入に伴い、その生産は中止されることとなるが、御多分に漏れず特注で作らせる者もいたようである。
当時、布鍔野戦帽は鍔付タイプ(制帽も含め)のなかでは安価ではあったのだが、革鍔野戦帽に比べると、さほど人気はなかったようである。
当時からその数自体も多いとは言えないうえに、取り扱い自体も雑になりがちだった野戦帽は残存数も少なく、現在では逆に希少価値が高まり…特に、布鍔タイプが高騰するという皮肉な現象が起きている。

1944年11月中旬に撮影されたアロイス・シュナウベルトSS伍長(後にSS曹長)。
上記したように布(革)鍔製野戦帽は、公には製造が中止された以降も個人的にオーダーすることで被り続けられていたが、彼の帽子も正にそうしたものだったのではないだろうか。
通常、“鉢巻”と言われる部分は陸軍タイプのもので巾4cm強~5cm弱、SSタイプのものでは4cmが一般的である。
これは帽章の大きさによるもので、陸軍タイプの場合はコカルデ(Reichs Kokarde)とそれを取り囲む葉冠が、金属タイプで縦約4.5cm、モール刺繍にあってはその縁の部分を入れると5cmとなるものもあり、SSの金属製髑髏章(メーカーにもよるが、縦3cm前後)に比して大きいため鉢巻部分の巾が広くなっている。
ここで写真を見てみると、彼の鉢巻はSS髑髏章より若干広い…少なくとも4cmよりも明らかに巾を狭くしているようであり、彼がテーラーに頼んでそうしてもらったのではないだろうか?
また、鍔の長さなども好みによりまちまちで、特に布製の場合は若干長め(↓など…)に作る者もいたようである。

【 Wendetarnparka und Wendetarnhose 】
武装SSにおいては、1940年12月1日付の武装SS規定で「寒冷地における特殊被服」としてフード付き毛皮内装防寒服と毛皮ベストが制定されてはいたのだが、この時点ではまだ防寒服に対する認識が薄く、その生産も一般軍装品の生産が優先されるという状態であった。
ところが‘41~‘42年の冬期東部戦線を教訓として、その考えは一変され、国防軍は‘42年後期になって新式の防寒服導入に踏み切る。
これはフィールドグレー(陸軍)またはブルーグレー(空軍)のウール、コットンまたはレーヨン地の面と雪中迷彩用の白色無地のコットン地の面とのリバーシブルで…中に綿の保温材が入れられたフード付きの防寒服と同様の防寒ズボンのセットというものであった。
(エスキモーが着用する、こうしたフード付き防寒服を『パルカ(Parka)』という)
その後、フィールドグレーの面を陸軍タイプの迷彩図柄等に変更したものも作られる。
武装SSでは当初、陸軍型のパルカをそのまま導入する一方…武装SS独自の‘42年型フード付き防寒服も導入している。
保温性は陸軍型のものより高かったものの、重く、毛皮部分が損傷し易く、またリバーシブルでないなど…総合的にみて陸軍型の方が機能的であった。
ただ、この時点ではまだ原材料の調達、生産ラインの確保等が十分でなかったため、武装SSのための陸軍型パルカは供給出来なかったのである。
※‘43年10月1日付の武装SS規定において、武装SSは念願の「SS型防寒服」を制定するに至り…因みに、その変更点は…
①SS迷彩図柄(「柏の葉」、「縁取り」、「エンドウ豆」)に変更
②ポケットフラップの形状(直線状→アーチ状)変更…等、多少変更点を加えているが、基本的には陸軍型に準ずる。
‘43年後期~‘44年初期には‘42年型防寒服の改良型なども作られている。
einer kurzen Pause in Charkow
SS-Hauptscharführer / Marz 1943
《P'log移転 作例 第七弾》

パルカを着用したダルカンと思しき人物については、かなり以前に作例として紹介させて頂いていた。
作例ではSS上級曹長に変更しているが…
当初は、素体、ヘッドともDRAGON製の“Klaus”のを使用していたという…そんな初期の頃の作例だった。
その後、ヘッドのみを…今回紹介させて頂いているモノに変更している。
このヘッドが何の製品に付属のモノ(おそらく独軍モノではない)だったのかを失念してしまったのだが…当時としては、これでもかなりリアルな造形になったと感激したものである。
ただ、まだ当時はヘッドの塗装も既製品ではベタ塗りにちかく…
boot25氏をはじめとした、いわゆる“カスタム・ペインター”たちの素晴らしいリペイントに触発されて…まだ自身でもペイントなどをしてみようと思える時代でもあった。
そうは言ってもペイント作業には疎いため、リアルに見せるには“バーリンデン塗り”よろしく…皺、溝、くぼみなどにオレンジまたはブラウン系をおいて陰影を強調するようにすれば…の単純な発想での…恥ずかしながらのペイントですので…あしからず…(^ ^;
現在では、当時のリペイントの達人たちをも凌ぐ程にペイントされたヘッドが量産品で実現してしまっており…
自身でリペイントなどということは夢にも思わない良い時代?…
ただ、悪い言い方をすれば、つまらない時代になってしまったのかもしれない。


リバーシブルである陸軍型パルカのフィールドグレーの面を表にした状態。
写真を模すに当たり、欠くことの出来ない小物…それはマッチとタバコであろう。
フィギュア自体…タバコをくわえさせるだけでも、その雰囲気、表情は違って見えてくる。
Boxの付属品としてタバコなどは定番ともなっていたりもするが…
若干、太すぎたり、灰の部分に物足りなさを感じるモノも多いので…
自身でも簡単に作れるアイテムでもあるのでトライしてみては如何だろうか…
因みに、唇の部分にカッターナイフ等で切り込みを入れ、バリなどを取り除き…さらにサンドなどをかけてやるなどして、咥えタバコが自然に見えるように加工したりれば完璧です!

マッチ棒は…これは別に細い棒状に加工できる物であれば何でもいいのでしょうが…今回は、実際のマッチ棒の柄の部分を細い棒状に、ナイフなどで削ぎ切り、パテで作ったマッチの頭をつけて…赤などに塗ってやれば簡単に、それなりに見えるものです。

【 Ergänzung 】

「Master Modelers」という模型雑誌の誌面において、数回だけではあったが…金子辰也氏が“魅惑の1/6フィギュアの世界”というコーナーをもたれていた。
(残念ながら、2010年11月22日発行のVol.89号をもって休刊となっている。)
それを目にして、いてもたってもいられなくなった私は…何とか金子氏とコンタクトを取り…
2002年、初回となるC.F.E.2002では、その誌面において紹介された二作例を展示参加して頂ける運びともなった。
確か、その第1回目の掲載作例であった『焚き火』というビネットをお借りした際に…
勿論、ちゃっかりフィギュアを拙作に換えて撮らせても頂いた。
さらに金子氏には、翌年に開催されたC.F.E.2003にも作例『街角』をご出展頂ける運びともなった。

C.F.E.(=CUSTOM FIGURE EXHIBITION) 2004でも展示をさせて頂いた。
因みに、2002年の金子氏とのご縁がもとで、2004年のC.F.E.では、平野義高氏、嘉瀬翔氏というスケールモデル界における両匠にも出展参加を頂けることとなった。
おそらく、三匠が1/6スケールの作例を手掛けたのはC.F.E.の折のみと思われ…何とも貴重で、贅沢な時間を共有させて頂けたことに、あらためて感謝の意を表したい。
7月9日には南方軍集団はA、B軍集団の二手に分かれ…A軍集団はカフカース深く侵入、B軍集団はスターリングラードを目指した。
当初の戦況に気を良くしたヒトラーは、ここでその後の判断を見誤ることとなる。
その結果、1942年末からのソ連軍の冬期攻勢により、スターリングラードの第6軍は孤立し…包囲され、フリードリッヒ・パウルス陸軍元帥は降伏を余儀なくされる。
そして痩せ衰え、憔悴しきった残存の9万将兵に投降を命じることとなる。
さらにソ連軍はカフカースに侵入しているドイツ軍をも一掃する勢いをみせる。
既にドイツ軍は、一進一退というよりも一留一退を繰り返すのが精一杯であった。
さらにヨシフ・スターリンはソ連軍を西に進め、主要目標の一つとしていたソ連第四の工業都市ハリコフ(Charkow)に迫る。
これに対しヒトラーは、1943年2月13日…ハリコフを守らせていた第2SS装甲軍団のパウル・ハウサーSS大将に直々にハリコフ死守を命じる。
しかし、もはや面子を重んじ、むやみに犠牲を出すことは無意味であり…
何よりもスターリングラードの二の舞は避けるべきと考えたハウサーは、2月15日…ハリコフの放棄・脱出を断行する。
この貴重な兵力を得られたこともあり、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン陸軍元帥は後に『後手の一撃』として評価の高い反撃作戦に打って出る。
ドイツ軍はソ連軍を押し戻し、3月11日には“LSSAH”、“Das Reich”両装甲師団がハリコフに突入する。
戦後、多くの兵士が東部戦線における最悪の戦場として「ハリコフ」の名を挙げる程、ハリコフ市街戦は壮絶なものだった。
そして3月14日にハリコフは奪還され、同時に戦区全域での反撃は一応の成功を収め、東部戦線南翼の最大危機が回避されることとなった。
※『後手の一撃』…先ず敵に陣内深く攻め込ませておいて、その突進力が鈍ったところで、一転反撃し戦線を押し戻すとともに、その突出した側面も叩くというものであった。

この写真は上記の様な背景のもと、ドイツ軍による三度目(初度は1941年10月、二度目は1942年5月)のハリコフ制圧後(3月16日)に同市内で撮影されたものである。
『SSガイドブック』『制服の帝国』の著者でもあるKLAUSEの山下英一郎氏によると…
写真の主は、『クルト・エッガース連隊』(陸軍のPK(Propaganda Kompanie)=宣伝中隊にあたる武装親衛隊の報道部隊…因みに陸軍以外はKB(Kreigsberichter Kompanie=従軍記者中隊)の指揮官であったギュンター・ダルカン(Gunter d'Alquen)予備役SS少佐だとのことであるが…?
ここで、疑問に思う方もいるかもしれない。
写真の主の襟元を見てみると、襟廻りにはトレッセがつき、襟章もピプが二つなので、SS曹長階級の野戦服を着用しているようであり…‘43年当時のダルカンの階級とは明らかに異なる。
煙草に火を付けようと、マッチを擦らんと俯向き加減のため顔がはっきりとは分からないが…
確かに、下に紹介するダルカン本人の顔立ちに似ているようにも思える。
なぜこうした別階級の野戦服を着用をしているのかについては、推測の域を脱することは出来ないので、ここでは言及を避けさせて頂く。
カイザーバラックでのパイパー?と誤認された有名な写真の件などもあることですので…
SS-Sturmbannführer d.R. Gunter d'Alquen
ギュンター・ダルカンは、カトリック教徒で実業家、予備役将校…またフリーメーソンの会員でもあったカール・ダルカンの息子として、1910年10月24日にエッセン(ドイツの西部に位置するノルトラインウェストファーレン州のルール工業地帯の中心都市)に生まれている。
レアルギムナジウムに進学し、1925年にヒットラーユーゲントに入団。
1926年にSA(突撃隊)に入隊。
17歳となった1927年にNSDAPに入党している。(NSDAP党員番号:66689)
国家社会主義者ドイツ学生連盟(Nationalsozialistischer Deutscher Studentenbund=NSDStB)の活動に傾倒。
1931年4月10日にSS(親衛隊)に入隊。(SS番号:8452)
歴史学と文献学を専攻していたダルカンは、その後ジャーナリストとしてのキャリアを始め、1932年から、主に民衆の動向を把握するための政治記者としての仕事に従事。
ハインリヒ・ヒムラーの目に留まり、1935年3月からSSの機関誌『Das schwarze Korps』の編集長に就任している。
1940年1月にSS従軍記者中隊が編成され…新聞記者、編集者、作家、ジャーナリストなどに資格(階級)を与えて、武器SSの各戦闘部隊に割り当てられた。
その後、戦線の拡大などにより、従軍記者も増員が求められ、1941年8月にはSS従軍記者大隊に拡充された。
1943年8月に東部戦線で戦死したドイツの作家、詩人、脚本家、作詞家であり、NSDAPとも密接でもあった従軍記者のクルト・エっガースの名誉称号を授与された“武装SS戦争宣伝連隊『クルト・エッガース』”(※)として1943年10月31日付で再編され、その指揮官としてダルカンが任官した。
※Der Propagandakrieg der Waffen-SS und die SS-Standarte “Kurt Eggers”
1943年時点では141名の人員だったが、1944年には1,180名に増員されているが、これは戦局の悪化に伴い、都合の良い宣伝材料をみつけ…報道とは名ばかりの、単に国民扇動目的の宣伝活動を行う必要に逆に迫られての増員であったと思われる。
ダルカンは、1998年5月15日…メンヒェングラートバッハ(Mönchengladbach:エッセンから電車で40分程のところに位置)において亡くなっている。(享年87歳)

規定に沿ったタキシード型の第一礼装(白の蝶タイ、白ベスト、飾緒、夜会徽章)姿のダルカンと彼の妻。
1937年1月30日付で、一般SSの親衛隊連隊指揮官(=SS大佐)に昇級している。

SS従軍記者大隊(予備役SS大尉)時代のダルカンと専属運転手のSS伍長…その左袖には、はっきりはしないが“SS-Kriegsberichter”のカフタイトルが着用されているようである。
また、ダルカンの肩章には“LAH”のモノグラムが装着されており、彼がLSSAHに専属していたことが分かる。

ゼップ・ディートリヒSS大将(当時)とその後妻のウルズラ・モニンガーとの間に写っているのがダルカン(予備役SS少佐)である。
因みに、ウルズラはカール=ハインリヒ・ブレンナーSS中将兼警察中将と結婚していたが、ゼップとの間に男子(ヴォルフ=ディーター・ディートリヒ)を妊娠してしまい、結局1942年1月19日にゼップとウルズラはお互い再婚同士で結婚している。

武装SSにおいての最終階級は予備役SS少佐。
【 Feldmütze für SS-Unterführer 】
上の写真でダルカンが被っているような“布鍔野戦帽”は、SS指令(1938年2月25日付)では『下士官用』とされている。
その後のSS長官命令(1939年12月12日付)では、“革鍔野戦帽”と同様に、その着用を控えていくようにするべき旨の通達が出される。
当初は革製のチンストラップが付けられていたようであるが、次第に革製チンストラップを付ける者は稀になる。
1940年代に入り、下士官だけではなく、兵…そして将校等も着用するようになると、わざわざ将校用のチンストラップ(ひねり紐)をつけるという者はいた。
布鍔野戦帽もまた、‘40年型下士官兵用略帽の導入に伴い、その生産は中止されることとなるが、御多分に漏れず特注で作らせる者もいたようである。
当時、布鍔野戦帽は鍔付タイプ(制帽も含め)のなかでは安価ではあったのだが、革鍔野戦帽に比べると、さほど人気はなかったようである。
当時からその数自体も多いとは言えないうえに、取り扱い自体も雑になりがちだった野戦帽は残存数も少なく、現在では逆に希少価値が高まり…特に、布鍔タイプが高騰するという皮肉な現象が起きている。

1944年11月中旬に撮影されたアロイス・シュナウベルトSS伍長(後にSS曹長)。
上記したように布(革)鍔製野戦帽は、公には製造が中止された以降も個人的にオーダーすることで被り続けられていたが、彼の帽子も正にそうしたものだったのではないだろうか。
通常、“鉢巻”と言われる部分は陸軍タイプのもので巾4cm強~5cm弱、SSタイプのものでは4cmが一般的である。
これは帽章の大きさによるもので、陸軍タイプの場合はコカルデ(Reichs Kokarde)とそれを取り囲む葉冠が、金属タイプで縦約4.5cm、モール刺繍にあってはその縁の部分を入れると5cmとなるものもあり、SSの金属製髑髏章(メーカーにもよるが、縦3cm前後)に比して大きいため鉢巻部分の巾が広くなっている。
ここで写真を見てみると、彼の鉢巻はSS髑髏章より若干広い…少なくとも4cmよりも明らかに巾を狭くしているようであり、彼がテーラーに頼んでそうしてもらったのではないだろうか?
また、鍔の長さなども好みによりまちまちで、特に布製の場合は若干長め(↓など…)に作る者もいたようである。

【 Wendetarnparka und Wendetarnhose 】
武装SSにおいては、1940年12月1日付の武装SS規定で「寒冷地における特殊被服」としてフード付き毛皮内装防寒服と毛皮ベストが制定されてはいたのだが、この時点ではまだ防寒服に対する認識が薄く、その生産も一般軍装品の生産が優先されるという状態であった。
ところが‘41~‘42年の冬期東部戦線を教訓として、その考えは一変され、国防軍は‘42年後期になって新式の防寒服導入に踏み切る。
これはフィールドグレー(陸軍)またはブルーグレー(空軍)のウール、コットンまたはレーヨン地の面と雪中迷彩用の白色無地のコットン地の面とのリバーシブルで…中に綿の保温材が入れられたフード付きの防寒服と同様の防寒ズボンのセットというものであった。
(エスキモーが着用する、こうしたフード付き防寒服を『パルカ(Parka)』という)
その後、フィールドグレーの面を陸軍タイプの迷彩図柄等に変更したものも作られる。
武装SSでは当初、陸軍型のパルカをそのまま導入する一方…武装SS独自の‘42年型フード付き防寒服も導入している。
保温性は陸軍型のものより高かったものの、重く、毛皮部分が損傷し易く、またリバーシブルでないなど…総合的にみて陸軍型の方が機能的であった。
ただ、この時点ではまだ原材料の調達、生産ラインの確保等が十分でなかったため、武装SSのための陸軍型パルカは供給出来なかったのである。
※‘43年10月1日付の武装SS規定において、武装SSは念願の「SS型防寒服」を制定するに至り…因みに、その変更点は…
①SS迷彩図柄(「柏の葉」、「縁取り」、「エンドウ豆」)に変更
②ポケットフラップの形状(直線状→アーチ状)変更…等、多少変更点を加えているが、基本的には陸軍型に準ずる。
‘43年後期~‘44年初期には‘42年型防寒服の改良型なども作られている。
einer kurzen Pause in Charkow
SS-Hauptscharführer / Marz 1943
《P'log移転 作例 第七弾》

パルカを着用したダルカンと思しき人物については、かなり以前に作例として紹介させて頂いていた。
作例ではSS上級曹長に変更しているが…
当初は、素体、ヘッドともDRAGON製の“Klaus”のを使用していたという…そんな初期の頃の作例だった。
その後、ヘッドのみを…今回紹介させて頂いているモノに変更している。
このヘッドが何の製品に付属のモノ(おそらく独軍モノではない)だったのかを失念してしまったのだが…当時としては、これでもかなりリアルな造形になったと感激したものである。
ただ、まだ当時はヘッドの塗装も既製品ではベタ塗りにちかく…
boot25氏をはじめとした、いわゆる“カスタム・ペインター”たちの素晴らしいリペイントに触発されて…まだ自身でもペイントなどをしてみようと思える時代でもあった。
そうは言ってもペイント作業には疎いため、リアルに見せるには“バーリンデン塗り”よろしく…皺、溝、くぼみなどにオレンジまたはブラウン系をおいて陰影を強調するようにすれば…の単純な発想での…恥ずかしながらのペイントですので…あしからず…(^ ^;
現在では、当時のリペイントの達人たちをも凌ぐ程にペイントされたヘッドが量産品で実現してしまっており…
自身でリペイントなどということは夢にも思わない良い時代?…
ただ、悪い言い方をすれば、つまらない時代になってしまったのかもしれない。


リバーシブルである陸軍型パルカのフィールドグレーの面を表にした状態。
写真を模すに当たり、欠くことの出来ない小物…それはマッチとタバコであろう。
フィギュア自体…タバコをくわえさせるだけでも、その雰囲気、表情は違って見えてくる。
Boxの付属品としてタバコなどは定番ともなっていたりもするが…
若干、太すぎたり、灰の部分に物足りなさを感じるモノも多いので…
自身でも簡単に作れるアイテムでもあるのでトライしてみては如何だろうか…
因みに、唇の部分にカッターナイフ等で切り込みを入れ、バリなどを取り除き…さらにサンドなどをかけてやるなどして、咥えタバコが自然に見えるように加工したりれば完璧です!

マッチ棒は…これは別に細い棒状に加工できる物であれば何でもいいのでしょうが…今回は、実際のマッチ棒の柄の部分を細い棒状に、ナイフなどで削ぎ切り、パテで作ったマッチの頭をつけて…赤などに塗ってやれば簡単に、それなりに見えるものです。

【 Ergänzung 】

「Master Modelers」という模型雑誌の誌面において、数回だけではあったが…金子辰也氏が“魅惑の1/6フィギュアの世界”というコーナーをもたれていた。
(残念ながら、2010年11月22日発行のVol.89号をもって休刊となっている。)
それを目にして、いてもたってもいられなくなった私は…何とか金子氏とコンタクトを取り…
2002年、初回となるC.F.E.2002では、その誌面において紹介された二作例を展示参加して頂ける運びともなった。
確か、その第1回目の掲載作例であった『焚き火』というビネットをお借りした際に…
勿論、ちゃっかりフィギュアを拙作に換えて撮らせても頂いた。
さらに金子氏には、翌年に開催されたC.F.E.2003にも作例『街角』をご出展頂ける運びともなった。

C.F.E.(=CUSTOM FIGURE EXHIBITION) 2004でも展示をさせて頂いた。
因みに、2002年の金子氏とのご縁がもとで、2004年のC.F.E.では、平野義高氏、嘉瀬翔氏というスケールモデル界における両匠にも出展参加を頂けることとなった。
おそらく、三匠が1/6スケールの作例を手掛けたのはC.F.E.の折のみと思われ…何とも貴重で、贅沢な時間を共有させて頂けたことに、あらためて感謝の意を表したい。

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