
HPなどを開設していると、国内は勿論だが、時として遠く離れた外国の方々と交流する機会が得られることもあり、何とも嬉しい限りである。
そんな交流のひとつに…
日本から1万キロ以上も離れた東欧の国…エストニアからメールを下さった方がおり…
そのうえ、その方の友人というのが騎士鉄十字章受章者でもある
ハラルド・ヌギセクスSS所属武装伍長なのだという。
奇しくもそうした関わりを持たせて頂く以前に、彼の
直筆サイン入りポートレートを入手していたことなどもあり、ヌギゼクス氏へのオマージュも込めた作例とさせて頂いた。
ただ、階級はSS所属武装軍曹に…また戦車撃破章(銀章)を受章させるなど若干変更を加えている。

この作例は、『
Spec FIGURES 3』への
掲載作例として制作したものなのだが、撮影の当日…それも一時間前になって、とりあえず何とか“カタチ”にはしたものの…
それでも当初描いていた“カタチ”に近づけるには、少々のモディファイが必要ということで…
C.F.E.2007への出展にあたり、このようなエストニアンな作例として改めて紹介させて頂いたという作例である。
●ヘッドについて
使用しているヘッドおよび素体はHotToys社(以下HT)からリリースされる『Prison Break / Inmate Michael Scofield』(2007)
“人形の命”とも言われる“顔(ヘッド)”…作例を制作するにあたってもヘッドが重要なファクターになるという方は多いのではないだろうか…
このヘッドの使用の経緯は、SF3用の掲載作例を依頼された折に、個人的な友人でもありHTのプロダクション・ディレクターとして“ムービー・マスターピース”シリーズなどの総指揮を執るホン氏、そしてHTのチーフ原型師のユーリ嬢とのコラボレーション…つまり、ユーリ嬢造形のヘッドをHTのマスターペインティングも手懸けるホン氏がペインティング…そして、僭越ながら当方が衣装、装備品などを制作するということが出来ないものかとホン氏に持ちかけたところ快諾を得て実現した次第である。
そこで、ユーリー嬢造形のヘッドのうち、独軍兵士としてのイメージを兼ね備えたモノということでスコフィールド役のウェントワース・ミラーを模したヘット&素体をご用意頂いたわけである。
さらに、ホン氏の計らいで独軍兵士然とするため髪や瞳の色、不精髭といった商品バージョンとは一味違うペインティングにもして頂いた。
ただ、今回は特定の人物や高級将校といったモチーフを再現するというのではなく、これまで手をつけることを躊躇していた感もある“官給品の野戦服(Feldbluse)”も…やはり独軍将兵をモチーフとして扱う以上、いつかは作っておかねばという想いもあり…
今作例の制作にあたってのメインコンセプトとしてヌギセクス氏はモチーフにとどめ、“名も無き一兵士”という作例にしている。
●M43-Feldmütze
1943年10月1日付で制定された
‘43年型規格帽は、前合わせの留めボタンの数(2個または1個)、鍔のつくり等のバリエーションに違いのある場合がある。
また、徽章の着け方にも…
例えば、この作例のように髑髏章のみを前部に着けたり、鷲章・髑髏章とも前部に着けたりしているケースもある。
また‘44年中期以降は、徽章類も簡素化が計られ図られ、鷲章と髑髏章の一体型などが登場する。
●Stahlhelm M42 für Waffen-SSM42ヘルメットは1942年4月20日付けで導入されている。
軍種を示すデカールとしては1943年88月28日付で廃止となっているが、完全に守られることはなかった。
ライナーとしては、1931年に採用されたものが終戦まで改良を加えられてはいるものの、ほぼそのまま使用され続けていた。

上にいくつか既製品およびカスタム品のヘルメットの比較を掲載してみた。
今作例では…今となっては入手は簡単ではないかもしれないが…一番上段のCotswold社製の旧タイプを使用している。
個人的に既製のヘルメットのなかでは、フォルム的、またサイズ的にも気に入っている。

薄化を図るため、内側などを削り、ピン穴、通気孔のための穴を開けている。
因みに、通気孔にはハトメを用いてみた。
その他、M31ライナー、チンストラップなども革などを用いて自作。
●Waffen-SS Kragenspiegel der "Estnische SS"1942年10月1日に“エストニアSS連隊”(~1943年5月5日)として編成された当時の(右側)襟章はブランクだったようである。
ただし、1943年3月頃には既にSSルーン襟章も着用はされていた。
独自の襟章は、“エストニアSS義勇旅団”(1943年5月5日~10月22日)から“第3エストニア義勇旅団”として再編成された頃に導入されている。

※エストニアの頭文字“E”と“剣を持つ腕”をモチーフにしたデザインの1stタイプ(エストニア製)

※2ndタイプ(エストニア製)

※2ndタイプ〈改〉(ドイツ製)
1944年1月24日に“第20エストニアSS義勇師団”(~5月26日)として再々々編成されたが、ナルヴァでの攻防で消耗した戦力を整えるべく“第20SS所属武装擲弾兵師団”(1944年5月26日~1945年5月8日)として再編成が為されることとなる。
義勇師団からSS所属の正式師団に格上げされたこともあってか?…SS長官命令により「SSルーンの襟章を着用し、独自の襟章廃止とする。」旨の通達が出されたようだが、数日後には師団側からの相次ぐ不満の声に、ヒムラーも師団独自のデザインに戻すことを容認したのだという。
そこで、1944年夏頃にドイツ製の2ndタイプ〈改〉となる襟章が正式採用されることとなったようだが、残念ながら当方はこのタイプの着用例を見たことがない。
結局、それまで通りに1stタイプ、エストニア製の2ndタイプ、そしてSSルーンなどを…各裁量により着用され続けた。

“第20SS所属武装擲弾兵師団”の師団マークともなっていたデザインによる3rdタイプとなる襟章(ドイツ製)も導入されたが、これもまた統一襟章とはならなかった。
このタイプのデザインでは、“剣を持つ腕”が省略されている。
●Ärmelschild der Estnischen Freiwilligen der Waffen-SS
義勇兵の部隊においては、各出身国を示すデザインの徽章類…“盾形袖章”なども着用され、エストニアは1881年にエストニア学生会のシンボルとして制定され、19世紀末に国旗としても取り入れられた青、黒、白のトリコロールカラーを基本デザインにしたいくつかのタイプのものを着用している。
上の画像の左から、“陸軍仕様”、“三匹のゴールドのライオンが冠された陸軍仕様”、“一般的なSS仕様”である。
因みに、青色は「中世エストニアの紋章の色で青空と自由」を、黒色は「かつて失われた独立と祖国への愛着」を、白色は「労働と明るい未来」を象徴するものなのだという。

今作例では、ヌギセクスの着用にも見られる1stタイプの襟章にしている。
頭文字“E”および“剣を持つ腕”は、いつもの如くエポキシパテで作成している。

“盾形袖章”は、多少厚みを出すため別珍生地で…黒の盾枠パーツの内枠を切り取り、そこに同生地の青、白のパーツをはめ込んでみた。

階級を下士官クラスに設定するにあたっては、襟章・肩章を縁取る“トレッセ”を如何にするかということも要件になってくるところだが…
CVI(Connectiut Valley Insignia)製の『陸軍/SS下士官用トレッセ』が、なかなかに出来が良く…これを入手出来たことが、下士官クラスを制作するに至った理由の一つでもある。
因みに、SSのアドラーはCVI製のモノではなく、こちらは以前…オータ氏に頂いたSTEINER-OTTO-WERKのモノを使用した。
●Feldbluse431941年頃には武装SSにおいてもSS独自の被服工事や契約工場などが拡充され、それまでの陸軍野戦服の流用からほとんど独自ラインによる官給体制を整えるに至っていた。
ただし、戦局の悪化…物資困窮の深刻化に伴う野戦服の変遷に関しては、若干の違いはあるものの陸軍野戦服に準じた簡素化が施されることとなる。
今作例では、そうした変遷のうち 四つの貼付ポケット形式としては最後となる‘43年型野戦服(Feldbluse43)を制作してみることとした。
野戦服を制作するにあたっては、如何にウール生地様の生地質感で再現出来るかということが課題で…今回も、当初は別の生地での制作を考えていたのだが、やはり風合いを優先するとシルエットに妥協を余儀なくされることとなり断念。
そんな時、以前にDRAGONから発売された“SOLDAT 001”に付属のロングコートをバラしていたことを思い出し、染色し直して使用してみたのだが…ウール生地風の風合いも残しつつ、シルエットもさほど損ねることもなく使用できそうだったので、今回はこの生地を使い制作した。
’43年型野戦服の外観的な特徴の一つとして、貼り付けポケットのプリーツが省略されたことと、ポケットフラップが直線的な形状に変更されていることであろう。
左右前(腹腰)部にベルトフック金具を出すための各部2個づつの穴が設けられている。
陸軍用野戦服ではベルトフック穴は各部3個づつ設けられているが、武装SS用では1942年以降は各部2個づつに変更された。



使用した、このHot Toysの素体(
TrueType(旧):New Generation)は…ボディーとネック、ネックとヘッドにジョイントのある構造であることから、ヘッドとネックのつなぎ目が目立つため、インナーをハイネック・セーターにして、その部分を隠すことにした。
SF3の撮影時には、
↑のようにDRAGONのドイツ軍用セーターを着せていたが…
色目的に…グレーというよりは、かなり紫がかって見えて、しっくりとこないこともあり…
確か、やはりDRAGONのモノであったとは思うのだが…DAK用(?)のVネックセーターを解き、襟ぐり部分を加工したモノに変更している。
●M44 Erbsentarn Hoseまた下衣は、色調に多少の差をつけたとしても、上下共にフィールドグレーでは少々色どりに欠ける?ような気もして…そこで、やはりオータ氏より頂いてあったSTEINER-OTTO WERKの…通称、“M44ドット”こと“エンドウ豆迷彩図柄”がプリントされたシート状の生地が、そのまま手付かずのままになっていたことを思い出し、それを使用して…SF3の掲載作例としては… 1944年3月1日付で制定された’44年型迷彩ズボンを選択した次第である。
’44年型迷彩ズボン形状は、既に1942年7月1日付で制定されていたカイルホーゼ(Keilhose)と同様である。
※戦争中期頃よりジャックブーツから編上靴が多く用いられるようになったことにより、裾部を細くし、足首絞りを設けたスタイルのカイルホーゼが導入された。

●Schnürschuhe u. GamaschenM44アンクルブーツ&短ゲートルアンクルブーツ(Schnürschuhe=編み上が[短]靴)としては、戦前(’37年)から採用はされていたが、’44年になり本格採用されることとなる。
今作例では、『Desert Fox』同様に…英国の実際の靴職人により製作された…M44アンクルブーツを履かせている。
武装SSにおいては、1942年7月1日付でジャックブーツに替り逐次導入されたアンクルブーツと、1944年8月8日付で制定された短ゲートル(Gamaschen)を自作し、これらの組み合わせとしている。

◆
Zubehörteil

●Brotbeutel 31’31年型雑嚢(中期型)一応、SP3掲載作例用にも間に合わせて的に制作してみたのだが、時間的にも、出来栄え的にも納得がいくまでには至らず…
実は、こうした目立ちにくい備品・小物などのアイテムの制作にこそ時間をかけ、しっかり作り込むことが、ひいては全体の見え方にも影響をしてくるということもあり…
C.F.E.2007の出展にあたり、あらためて制作し直してみた。
因みに、独語のBrotbeutelは、直訳すれば「携帯食料袋」。
●Meldekartentasche 35’35年型マップケースバックルの形状なので、前・後期型に分別されるが…これは、その後期型にあたる。
因みに、独語のMeldekartentascheは、直訳すれば「報告書類用鞄」。
●Feldflasche 31 u. Trinkbecher’31年型コップ付0.8ℓ水筒コップ部分はDRAGON製のパーツを使用し、取っ手部分などを真鍮線・真鍮板で作成。
またフェルト・カバー、キャリングストラップなども自作。
コップ部分のの塗装は、1941年4月からは、それまでの黒色からオリーブグリーンに変更されているのであろうが…
●P-08 PistolentascheルガーP-08用ホルスターいわゆるハードシェル・タイプといわれる前期型を制作。
蓋の裏側にはマガジン・ローダー兼分解工具を収納するポケットが付加されている。
因みに、左に小さく見える黒い“物”がそのローダーのつもりである。
このローダーは真鍮板で制作。
※撮影時の光量、光源、露出などの影響で色味に違いがあるが、濃茶色の革を使用して制作している。
●Magazinetasche für MP38/40MP38/40マガジンポーチ1942年にDリング・ストラップの位置に変更が加えられた…いわゆる後期型といわれるMP38/40用のマガジンポーチ。
そのマガジン・ローダーを入れるための小袋が付加されている“左用”を制作。
因みに、DRAGON製のマガジンのサイズで制作している。





◆
SS-Oberscharführer Harald Nugiseks
ハラルド・ヌギセクスは、1921年10月22日、(現)エストニア共和国のイェルヴァ県サレヴェレに生まれている。
1941年6月22日、ソ連とドイツの戦争状態突入により、エストニアのなかにはドイツの進攻がソ連からの解放と捉える機運もあり、ヌギセクスはソ連軍からの招集を受けるも拒否し、1941年8月にドイツ国防軍に志願した。
同年10月2日には第185エストニア保安隊(185. Eesti julgestusgrupi)に配属となり、翌1942年12月をもって除隊をし、発足したばかりのエストニSS連隊に志願した。
1943年5月~9月までラウエンブルクのSS下士官学校において下士官教育を受け、SS所属武装伍長に任官し、エストニアSS義勇旅団に配属。
エストニア義勇旅団の一部は、第5SS装甲師団“Wiking”に配属され、他は第45SSおよび46SS義勇擲弾兵連隊として第3エストニアSS義勇旅団を構成した。
ヌギセクスは、第46SS擲弾兵連隊/第1大隊に配属され、1943年12月にロシアのプスコフ州南部のネヴェリ近くの戦闘に参加、12月21日に負傷し戦傷章(黒章)と歩兵突撃章を受章。
1944年2月…北部軍集団に配置された第3SS装甲軍団の守るナルヴァ橋頭堡は、迫り来るソ連軍の脅威にさらされつつあった。
東側面は第11SS義勇装甲擲弾兵師団“Nordland”のオランダ人からなる大隊が苦戦を強いられ、西側面にも大規模な攻撃が繰り返され攻防が続いていた。
また北側面も苦戦が強いられており、この戦区が包囲される危機的状況に晒されていた。
この状況に際して稼働可能な部隊を総動員するべく、1944年1月24日付で改編された第20エストニアSS義勇旅団もエストニア最東部の都市ナルヴァにおける戦闘に投入された。
2月15日~28日にかけての戦闘において、ヌヌギゼクス所属の第20SSエストニア義勇師団/ 46SS擲弾兵連隊/第1大隊・第1中隊は、激戦のなか士官クラス以上が戦死したため、下士官だったヌギセクスが事実上中隊の指揮を執ることとなった。
ヌギセクスは、地雷原を越えての敵の塹壕への突撃を敢行し、Vopskula橋頭堡を北側面から攻撃…ついに、この戦区からソ連軍を後退させるに至った。
これらの戦功により、2月27日付で二級鉄十字章、3月7日付で一級鉄十字章。
さらに、第1大隊の大隊長エルヴィン・メリSS中佐の推薦により 騎士鉄十字章を4月9日付で受章している。

因みに、この後の戦闘により重傷を負い、4月13日から南チロルの陸軍病院において長期の療養を余儀なくされ、騎士鉄十字章も4月20日に病床において授与されている。
半年ほどの療養後、1944年10月にポーランドのスビエトシュフ(ノイハマー・アム・クァイス)で原隊復帰。
1945年5月7日、チェコのパルチザンによって捕捉され、捕虜収容所に送られた。
三度脱走を試みるもいずれも失敗し、まもなく身柄をソ連に引き渡され、12月にはシベリアのラーゲリ(強制収容所)へ送られる。
そして、10年におよぶ抑留生活(恩赦により1953年9月17日に解放)と5年間の国外追放を経て、1958年にエストニアへの帰国を果たした。
エストニア国防軍のアレクサンダー・アインゼルン少将は、1994年2月21日付けでヌギセクスに
エストニア退役大尉の名誉階級を授与。
その後、ヌギセクスには
エストニア市民功労勲章(Eesti Rahva Tänumedal)の他、
数々の功労章、名誉章なども贈られ、祖国解放を願い闘った彼の精神と武勇を讃えている。
(※
晩年のヌギセクス氏)
残念なことに、ヌギセクス氏は2014年1月2日にお亡くなりになられ、多くの人が彼を見送り、その死を悼んだ。(享年92歳)
【
Ergänzung 】

左からアルフォンス・レバネ、ハラルド・ヌギセクス、ハラルト・リーパル
レバネ、ヌギセクスともに1stタイプの襟章を着用していることがわかる。
また、ヌギセクスは一般的なSS仕様の盾章を着用している。

アルフォンス・レバネSS所属武装少佐(1944年9月8日撮影)(※
reverse)
3rdタイプの襟章と陸軍仕様(ライオン無)の盾章を着用していることがわかる。
エストニア第1といえば…“エストニアのロンメル”と異名をとるこのレバネのプレスフォトもほぼ同時期に入手していたりと、当時は“エストニア”に何気に感情移入をしていたりもした。
第3エストニア義勇旅団に陸軍所属のエストニア諸連隊を編入し、エストニア第1の前身である第20エストニアSS義勇師団として1944年1月24日付で再編成することとなるのだが、レバネはそのなかの
陸軍第658エストニア連隊指揮官であり、その任官時期…1944年2月23日付で、エストニア人として初となる騎士鉄十字章を受章している。
同年11月9日付でSS所属武装中佐に昇進。
また終戦後の1945年5月9日付でSS所属武装大佐に昇進および柏葉章を受章している。
5月9日以降の昇進、授章は敗戦後の処遇が優遇されるようにというデーニッツ政権下の措置でもある。

ハラルト・リーパルSS所属武装中佐(1944年9月4日撮影)
1944年7月14日~25日のナルヴァ戦区におけるソ連軍の攻勢に対して、これを逆襲し包囲の危機を防いだ功績に対して8月23日付で騎士鉄十字章を授与されている。
2ndタイプ(エストニア製)の襟章を着用している。

これは1944年9月4日に…第Ⅲ.SS装甲軍団を構成する師団のなかから、先の8月23日付で騎士鉄十字勲章を受章した四名に対し、その授章式典が行われた際の写真である。
軍団長であるフェリックス・シュタイナーSS大将がリーパルの首に騎士鉄十字勲章を授与している。
シュタイナー自身による授与は、第11SS義勇装甲擲弾兵師団“Nordland”の第11SS戦車大隊“Hermann von Salza”の指揮官パウル=アルベルト・カウシュSS少佐から始まって…第4SS義勇装甲擲弾兵旅団“Nederland”の第54SS砲兵連隊指揮官のヴィルヘルム・シュリュターSS少佐、同旅団の第49SS義勇装甲擲弾兵連隊“De Ruyter”の副官カール=ハインツ・エアテルSS大尉…最後にリーパルへと続いた。
因みに、奥に見えているのがエアテルで…後ろ手に組み、右端に立っているのは第4SS義勇装甲擲弾兵旅団の第54SS砲兵連隊副官のクリスティアン・シュテーホルト・シュートSS少佐である。

この日の式典における四人の受章者(左から):リーパル、カウシュ、シュリュター、エアテル
因みに、第11SS義勇装甲擲弾兵師団“Nordland”の第45SS所属武装擲弾兵連隊/第I大隊指揮官のパウル・マイトラSS所属武装大尉と、第4SS義勇装甲擲弾兵旅団の第54SS戦車猟兵大隊/第1中隊所属の
デルク=エルスコ・ブラインスSS兵長(最終階級:SS曹長)なども1944年8月23日付で騎士鉄十字章を受章しているのであるが…
この両名が、9月4日の式典の一連の報道の場になぜ同席していないのか…などについてはわからない。
ただ、マイトラの騎士鉄十字章・予備勲記によれば後日(9月8日)に陸軍総司令部の本部にて授与されたこととなっている。
(エストニアの首都タリンから南180kmにある南エストニアの中心都市…タルトゥにおける戦闘で負傷し、加療中であったために式典には出られなかったとのことである。)


予備勲記の書式としては以下のような感じになる。
Vorläufiges Besitzzeugnis (=予備勲記)
Der Führer
hat dem(階級、氏名、所属部隊および職務)
DAS RITTERKREUZ DES EISERNEN KREUZES (=騎士鉄十字章)
am (日付)
verliehen ※総統は(第45SS所属擲弾兵連隊(エストニア)/第Ⅰ大隊 指揮官 SS大尉 パウル・マイトラ) に騎士鉄十字章を(1944年8月23日)付で授与する
(階級の表記は“SS所属武装大尉(Waffen-Hauptsturmführer der SS)”でなく、単に“SS大尉(SS-Hauptsturmführer)”となっている)
H.Qu (Hauptquartier=本部)
OKH (Oberkommando des Heeres=陸軍総司令部)
(授与された日付)
※1944年9月8日 陸軍総司令部 本部にて
OBERKOMMANDO DES HEERES
I.A.(im Auftrag=委任)
※陸軍総司令部の委任により当該部局 陸軍中将(未詳)が授与確認の署名をしている。

これが何時撮られた写真であるかに関しては言及はできないものの…何れにしても9月4日の式典とそう日を違えない時期ではあるものと思われる…上機嫌なシュタイナーとブラインスのツーショットである。
おそらくは、シュタイナーから直接に騎士鉄十字章を授与された後での記念撮影的な写真なのではないだろうか?

この写真はエストニアSSの3人の兵士を撮らえた有名(?)な写真であるが…
3人とも違った襟章を着用しているのも興味深い。
一番奥のSS所属武装上等兵は2ndタイプ(エストニア製)の襟章を着用。
盾章は陸軍仕様のようで、佩用位置も…左袖の上腕部に三角章(エルメルヴィンケル)を着用しているためか、前腕部に着用されている。
またM43規格帽には金属製の髑髏章を着けている。
中央のSS所属武装伍長は1stタイプ(エストニア製)の襟章を着用。
略帽の前部には徽章が着けられていないようにも見える。

1stタイプの襟章を着用するSS所属武装少尉
一般的なSS仕様の盾章を着用。

1stタイプの襟章を着用するSS所属武装曹長
一般的なSS仕様の盾章を着用。

3rdタイプの襟章を着用するSS所属武装伍長
盾章は一般的なSS仕様を着用をしている。
ザッテルホルムの制帽に着けられている金属製アドラーは陸軍型の“鷲”のようである。
【
Postskriptum 】

C.F.E.2007、そしてPEIPER’s CUSTOMでのコンテンツ化の後に…
先の記事で紹介をさせて頂いたような変遷を経て…
2015’新春ブラックホールでは、maru氏より植毛・リペイントを施したSoldierStoryの『FBI HRT』に付属の
マット・デイモン似(?)のヘッドをお譲り頂いたこともあり、今回このようなカタチで改めて紹介をさせて頂いた次第である。
ヘッド造形・塗装の進化は…ここに来て少々頭打な観も無きにしも非ずではあるが…
元々の出来が良いだけに、このように植毛などを施すことによって、よりリアルな表情ともなる。

今回のBHの搬出の際に、maru氏が出展していた作例「
Waffen-SS officer」で使用してた
ジェイソン・ステイサム似(?)のヘッド(メーカー不明)にも挿げ替えさせて頂いたので、こちらも合わせて紹介させて頂きたい。
