金髪の野獣 《P'log移転 作例 第三弾》


2009年末、3R(DiD)から『SS-Obergruppenführer Reinhard Heydrich 1904-1942』がリリースされたこともあり、そのなかなかに出来のよいヘッドを使い、以前に制作していた服などをリメイクして…“Die blonde Bestie(金髪の野獣)”などと蔑称?もされたラインハルト・ハイドリヒSS大将兼警察大将を組み直してみた。
因みに、修正箇所は…
ヘッドを交換したことで首径が若干変わったため襟の交換。
勿論、頭径も変わっているので、制帽も作り直した。
他は、素泰にも若干の体型補正(腰・臀部)を加えたことと、上衣に関しては、袖丈の微調整、およびボタン穴をライブにしてボタンによる前合わせに変更した程度の簡単なもので、リメイクというほどのことでもないのだが…
ただ、下衣の乗馬ズボンに関しては、以前に制作したものが…
色目的には、実際の陸軍将官用の生地色には近いものの、写真写り的にはどうしても青味が強く写ってしまい、LW色っぽくも見えてしまうことから、新たに作り直している。
因みに、素泰はVOLKSのNEO-GUYを使用している。
思い起こせば、2000年6月11日に東京ビッグサイトで開催されたCustom World 3での…今となっては夢幻となった12bombsの新素体(プロト・タイプ)お披露目展示『総統官邸』および、その素体のための商品サンプル(ハイドリヒ版)として制作したうちの一着であり、ちょうど10年を経て、ようやく“ハイドリヒ”として一応の完成型に組み終えたといえるのかもしれない。

ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒは、1904年3月7日(午前10時30分頃)、ドイツ・プロイセン王国の領邦ザクセン王国の都市ハレのマリエン通り21番地に生まれている。
父親は音楽家で、ハレ音楽学校創設者兼校長でもあったリヒャルト・ブルーノ・ハイドリヒ。
母親はドレスデンの宮殿で宮廷顧問官をしていた音楽研究者ゲオルク・オイゲン・クランツ教授の娘エリーザベト・マリア・アンナ・アマリア・クランツ。
その名の由来は、“ラインハルト”が父親の作曲したオペラ『アーメン』の主人公の名から…
“トリスタン”がリヒャルト・ワーグナーのオペラ『トリスタンとイゾルデ』の主人公の名から…
そして、“オイゲン”はエリーザベトの父親の名から、それぞれもらい受けたという。
愛称は「ライニ(Reini)」。
父親のブルーノは貧しい家具職人の息子で、元々は歌手としてデビューしていたが、ほとんど芽の出ることはなかった。
歌を歌う傍ら作曲も手掛けており、その作曲したオペラ『アーメン』が大きな成功を収め、さらにはエリーザベトと結婚したことで上流階級とのパイプもつながった。
1907年にはプロイセン王国皇帝ヴィルヘルムⅡ世の48歳の誕生日を祝うオペラ『フリーデン(Frieden=平和)』の作曲を依頼されるなど絶頂を極めていた。
勿論、ラインハルトも幼い頃より音楽を嗜み、実際にバイオリンの腕前もなかなかのものだったようである。
そんな父親のブルーノにはユダヤ人ではないかとの噂があった。
ブルーノの母親エルネスチーネが、グスタフ・ローベルト・ジースと再婚したことによるのだが…
つまり、“ジース(Suss)”という姓がユダヤ人に多いことによるのだが…実際には、グスタフはユダヤ人ではなかったとのことである。
それ以前に、ブルーノは母親の連れ子であるため血の繋がりはないのだがハイドリヒにも後々までこの噂がつきまとうことになる。
ヒムラーでさえ、ハイドリヒがユダヤ系ではないかと疑っていた節がある。
または、そうしておくことで吾身を優位にしておきたかったのかもしれないが…。
ヒムラーの専属マッサージ師だったフェリックス・ケルステンに語ったとされる言葉からもそれが窺える。
真実や如何に…?
あいつ(ハイドリヒ)はいつも苦しんでいる。
心の平安がない。
常に何かがあいつの心を乱しているのだ。
助けてやろうと思ってよく話をするんだがね。
自分の信念には反することなのだが、ドイツの良い血で純化してユダヤ的な要素を克服してはどうかとも言ったのだがね。
私のこんな助言にあいつも大いに感謝していたが、結局何の役にも立たなかった。
今作例にもしているハイドリヒのスタイルは、通常のSS服装規定によるものではない。
“詰襟制服”では通常禁止されている銀色(金色である可能性もあるとのこと…)のパイピングが施されている。
これはゼップ・ディートリヒよろしく、個人的な嗜好などによるものではなく、外交的立場の際にも対応する服装のスタイルとしての規定によるものらしい。
また制帽に関しても、これに倣うとすれば、SS用のフィールドグレイのものというよりも、外交官用のフィールドグレイのものにSSの記章類を着けている可能性もあるとのことである。
その場合、制帽のパイピングおよびチンコードも金色のタイプである可能性も…??
因みに、“鉢巻”部分は共に黒色ではあるが、SS将校以上の階級にみられるようなベルベット地ではなく、外交官用の場合はウール素材の生地となっている。
また外交官用のライヒスアドラーは、その大きさが若干大きいため、クラウン(帽子前面)部分も、それに合わせて高くなっているという特徴があるらしい。

最初に作例として紹介した際には、制帽に関しては、金色のパイピングおよびチンコードという設定にしてみたが、今作例では通常のSSタイプのフィールドグレイ制帽という設定に変更している。

上の写真はベーメン・メーレン(ボヘミア・モラビア)保護領副総督としてライヒ(中央政府)官僚級および外交的な立場にもあった際の服装であると思われる。
この写真を見ると、若干クラウン部分が高いと言えなくもないが、これが上記のような理由からなのか、単なる個人的嗜好によるものなのかは定かではない。
下の写真は、おそらく上の写真と同時期に撮られた…次期フランス・ベルギー総督に内定していたハイドリヒが1942年5月6日にその任地先となるフランスのパリを視察に訪れた際の様子であるが、この時には襟にパイピングは施されていない。
公的立場の別により着分けられていたことが窺える。



※襟章は1942年型(後期型)、肩章は警察・SDの台布色である警察緑色(Wiesengrun)の国防軍型を着用しており、今作例でもこれを再現している。

右袖にアルテケンプファー章(Ehrenwinkel für Altekampfer)、および左袖にSS本部長級プリオンカフ(Ärmelstreifen)を装用。
左胸にφ30.5mm金枠党員章(NSDAP Parteiabzeichen in Gold)を佩用。
※国家スポーツ(体力検定)章(Reichssportabzeichen)、ドイツ馬術徽章(Deutsche Reiterabzeichen)などを佩用することもある。


ハイドリヒの勲章類で注目する点は、一級・二級鉄十字章もさることながら昼間戦闘徽章銀章(Frontflugspange für Jäger / Tagjäger in Silber)※A、そしてパイロット兼観測員章(Gemeinsame Flugzeugführer und Beobachterabzeichen)※Bを佩用している点である。
彼は既にSS少将という階級にあった1939年9月12日に、ブルーノ・レールツァー空軍大将(のち上級大将)に頼み込み、空軍予備役大尉(のち少佐)として第55爆撃航空団(KG55)の銃座手という初の空軍任務に就いている。
その後もノルウェー戦線などでBf109による単独飛行を行ったり、Bf110での偵察任務なども行い、さらには1941年6月に対ソ連戦が始まった後も、6週間の期限付きながら空軍の支援任務に就き、単独飛行でソ連軍の対空砲を撃破するなどの戦功を挙げて一級鉄十字賞を受章している。
ヒムラーの再三にわたる“高官の戦闘行為におよぶ危険性”に関する提言も聞き入れようとはしなかったハイドリヒだったが、その後の出撃においてベレジナ川東方を航行中に被弾…緊急着陸するという事態を引き起こした。
彼はソ連軍に見つからぬよう洞窟に潜伏し、SDの救出部隊により身柄を保護され事無きを得たが、これを聞いたヒトラーにより彼には飛行禁止命令が出されることとなった。
当時の彼の立場からすれば容易ならざる行動であった事は言うまでもなく、致し方ないことであった。

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※B

1929年(初期型)といわれるSS中将の襟章を着用していることから、1941年9月24日以前…SS大将兼警察大将昇進以前に撮影された写真であるが、その後もハイドリヒはフェルトブルゼ着用時には点線内で示すような刺繍タイプの徽章を佩用しているのに対し、下の写真のようにアースグレーのディーンストロック着用時には金属タイプのもの佩用していたようである。
刺繍タイプの徽章だが、彼クラスともなると機械刺繍のような量産物ではなく、金・銀のモール糸による手刺繍の物を佩用しているのではないかと思われるが、点線内で囲んだ物はかなり鷲の羽その他のモールドが細く、金・銀糸もしくはかなり細いモール糸による職人技ともいえる素晴らしい出来の徽章だったのではないかと思われる。
因みに、作例では都合上…DRAGON製のものにより金属製勲章佩用を再現している。





Das Attentat auf Heydrich
1942年5月27日午前10時25分、プラハ市内のKirchmeyer通り(現Zenklova)からKlein Holeschoweizer通り(現V Hoolesovickach)のヘアピンカーブで事件は起きた。
ロンドンのチェコスロバキア共和国駐英亡命政府の命を受けたヨーゼフ・ガブチック曹長とヤン・クビシュ曹長と、チェコ国内に潜むレジスタンス組織からの増援…カレル・ツィルダ、ヴィリアム・ゲリクルの計4名は予てから計画通り、その朝、ハイドリヒを乗せた黒のメルセデスベンツ320カブリオレBを襲撃した。
ハイドリヒを乗せたベンツには護衛車輌はおろか短銃携帯のみのヨハネス・クラインSS曹長が運転手として同乗しているのみであった。
後日、この事実を知ったヒトラーは「装甲のないオープンカーで走ったりボディーガードも付けずプラハの通りを歩いたり、そのような英雄気取りはナンセンスであり、国家のためにならない。全くその必然性がないのに、ハイドリヒのように掛け替えのない人物が危険に身を曝すなどということは愚かであるか、恐ろしく鈍感であるかのどちらかだ。」と感情を顕に語ったという。
クビシュの投げた手榴弾で車は部分的に破損したが、ハイドリヒは車を飛び降りるとピストルを連射しながらクビシュらを追った…が、突然立ち止まり、臀部の右側に手をやったかと思うと、そのまま道路に崩れ落ちた。
ハイドリヒの腹部および肋骨付近にはスプリングや金具等の破片が食い込み、脾臓内からは座席の詰め物として使われていた馬の毛が検出された。
病状は8日間一進一退を繰り返したが、6月4日午前4時30分過ぎ…
身長191㎝の長身で“理想の親衛隊(Idealer SS-Mann)”“金髪の野獣(Blonde Bestie)”といわれたラインハルト・ハイドリヒは静かに息を引き取った。(享年38歳)
国葬は1942年6月9日ベルリンにおいて盛大に執り行われ、ヒトラーはその弔辞のなかで彼を“鋼鉄の心臓を持つ男”と称した。

ハイドリヒを乗せた車は、自宅のあったパネンスケー・ブリェージャニィ①の方向から総督府のおかれたフラッチャニ(プラハ)城②に向かって走行。
ホレショヴィチェ通りのヘアピンカーブを曲がった③で襲撃にあった。
④にはヤン・クビシュの逃走用と思われる自転車が置かれていた。
⑤は通りかかった二輌編成のトラム(路面電車)の停車位置。
⑥にはジャミングを起こし不発に終わった短機関銃ステン・マークⅡと、それを隠し持つために用意されたレインコートが放置されていた。


襲撃を受けた現場検証中のメルセデス・ベンツ320カブリオレB (W142)
ハイドリヒの車輌であることを示す“SS-3”のナンバープレートは既に外されている。

プラハのチェコ軍事歴史博物館には、当初は襲撃直後の状態のまま展示されていたようだが、現在は修復されてしまっているとのことである。
手榴弾の被弾により開けられた穴から詰め物、スプリングなどが飛び出しているのがわかる。
Wer wird Heydrich Tod rächen?

ベーメン・メーレン保護領副総督クルト・ダリューゲSS上級大将と保護領親衛隊及び警察高級指導者カール・ヘルマン・フランクSS中将
事件後、ハイドリヒの代行としてプラハに入り、調査の陣頭指揮にあたったクルト・ダリューゲSS上級大将兼警察上級大将は、6月4日付で後任の副総督となり、襲撃および暗殺の報復としてボヘミアのリディツェ(Lidice)村やレジャーキ村の虐殺を下達した。
この事件に関わったとして1万人程が逮捕され、なかでも襲撃班の潜伏先と思われたリディツェ村は徹底的に破壊され、消滅した。
村内の男性は全員射殺されるなど…この報復劇による犠牲者は1,300人を下らない。

この写真は1942年6月10日、15歳以上の男性176人が納屋に集められ、10人づつ壁の前に並べられて銃殺された直後の様子である。
マットレスは銃弾の跳ね返りを防ぐために立て掛けられたものらしい。
カレル・ツィルダとヴィリアム・ゲリルクは身の実安全および500万チェコ・クローネと引き替えに襲撃グループの潜伏先が聖キュリロス・メトディオス教会であることを供述。
それをもとに1942年6月18日18日早朝、カール・フォン・トルエンフェルトSS少将指揮のもと、ハインツ・パンウィッツSS大尉率いるSS部隊および警察部隊の750人が教会を包囲。
数時間におよぶ戦闘の末、襲撃グループ側の14人が死亡し、21人が重軽傷を負い終息。
手榴弾を投げ込んだクビシュは教会のバルコニーで負傷し、病院に搬送されたが死亡した。
ハイドリヒにステンガンを向けたカブチックは教会の地下室で自決した。

戦後、密告をしたチュルダとゲリルクの両名はチェコスロバキア政府により逮捕され、人民裁判で戦時反逆罪により有罪となり、1947年4月29日、パンクラク刑務所で午前11時45分にまずゲリルク、その12分後にツィルダの(絞首)刑が執行された。
(カレル・チュルダ:享年35歳、ヴィリアム・ゲリルク:享年26歳)

ハイドリヒ亡き後のベーメン・メーレン保護領における実権拡大に躍起となったダリューゲだが、翌年には持病の心筋梗塞が悪化し、1943年7月31日付で全職務を辞すこととなる。
その後、保護領の実権を掌握したのが、8月20日付けで新設されたベーメン・メーレン保護領担当国務相(大臣待遇)となったカール・ヘルマン・フランクSS大将兼警察中将(当時)である。

戦争終結によりフランクは1945年5月9日にプルゼニで米軍に投降したが、その身柄はチェコスロバキアに引き渡され、その後、プラハの人民法廷にいかけられ死刑判決を宣告された。
1946年5月22日、パンクラーツ刑務所の中庭において絞首刑に処せられた。(享年48歳)

その様子を一目見ようと中庭には約5,000人もの見物人が集まったという。
絞首刑直後のフランクを窓越しに笑顔の女性たちが見つめているが、これはこれでまた奇妙な光景でもある。
一方、ダリューゲは終戦までバルト海に面する北ドイツの都市リューベックで療養していたが、そこで英軍により逮捕され、ニュルンベルクに拘禁されることとなったが、1946年9月には身柄をチェコスロバキアに引き渡され、10月23日に人民法廷において死刑判決が宣告された。
そして、翌24日に刑の執行が決定した。
ダリューゲは刑の執行直前に割ったグラスで手首を切っての自殺を図ったが失敗。
やはりパンクラーツ刑務所内の中庭において処刑された。(享年49歳)

刑の執行直前のダリューゲ…天を仰ぎ見て祈るようなその姿にかつての面影はない。
【 Ergänzung 】
#1 Meredes-Benz 320(W142) Cabriolet B
1937年から戦時中の1942年頃まで生産された320は、1933年にデビューのアッパーミドルモデル290の後継モデルとして、エンジンを3.2リットルに拡大し、より流線型を帯びたボディと組み合わせたモデルである。
フロントに水冷直列6気筒サイドバルブ3.2リットル、78psのエンジンを搭載、後輪で駆動。
また後期モデルはエンジンが3.4リットルに拡大されている。
ボディについては当時のメルセデスのセオリーに従ってフォーマルなリムジーネの他に、トップの形状やシートレイアウトなどがそれぞれ異なるA~D4種のカブリオレがラインナップされた。
当時、世界最高のパーソナルカーと呼ばれた540K、受注生産状態の770(通称:グローサー)など、ごく一部の富裕層やナチス高級幹部たちのために生産された超高級モデルは別格ともいうべき存在であったから、当時のメルセデスのラインナップのなかでも、320は一般顧客向けとしては充分高級なモデルであった。
ハイドリヒ暗殺乗車時のベンツと同タイプの320カブリオレB

#2 Silke

ハイドリヒと妻リナは、1931年12月24日はプロテスタント式の挙式をしている。
その後、1933年6月17日に長男クラウス、1934年12月28日に次男ハイデル、1939年4月9日に長女ジルケ、1942年6月23日に次女マルテ(ハイドリヒの死後)の四人の子供を儲けている。
(※クラウスは1943年10月24日に交通事故により亡くなっている。)

可愛らしい長女ジルケを抱きかかえ、愛しそうに見つめるハイドリヒ。
そのジルケが、美しく成長し…
↓は’60年代…20代の頃のジルケが歌や演奏、演技…そして、この美貌を活かしモデルとしても活躍していた頃の写真である。
また父親に関するドキュメンタリー番組などにも何度か出演もしている。
その後、ヨハニスベルク(Johannisberg)の農場主と結婚し、5人の子供を儲け、その長男には“ラインハルト”と名付けたとのことである。


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カテゴリ : Mil-FIG
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