Die Blonde Bestie 《P'log移転 作例 第三弾》

2014–09–18 (Thu) 14:42
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2009年末、3R(DiD)から『SS-Obergruppenführer Reinhard Heydrich 1904-1942』がリリースされたこともあり、そのなかなかに出来のよいヘッドを使い、以前に制作していた服などをリメイクして…“Die blonde Bestie(金髪の野獣)”などと蔑称?もされたラインハルト・ハイドリヒSS大将兼警察大将を組み直してみた。
因みに、修正箇所は…
ヘッドを交換したことで首径が若干変わったため襟の交換。
勿論、頭径も変わっているので、制帽も作り直した。
他は、素泰にも若干の体型補正(腰・臀部)を加えたことと、上衣に関しては、袖丈の微調整、およびボタン穴をライブにしてボタンによる前合わせに変更した程度の簡単なもので、リメイクというほどのことでもないのだが…
ただ、下衣の乗馬ズボンに関しては、以前に制作したものが…
色目的には、実際の陸軍将官用の生地色には近いものの、写真写り的にはどうしても青味が強く写ってしまい、LW色っぽくも見えてしまうことから、新たに作り直している。
因みに、素泰はVOLKSのNEO-GUYを使用している。

思い起こせば、2000年6月11日に東京ビッグサイトで開催されたCustom World 3での…今となっては夢幻となった12bombsの新素体(プロト・タイプ)お披露目展示『総統官邸』および、その素体のための商品サンプル(ハイドリヒ版)として制作したうちの一着であり、ちょうど10年を経て、ようやく“ハイドリヒ”として一応の完成型に組み終えたといえるのかもしれない。

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ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒは1904年3月7日(午前10時30分頃)、ドイツ・プロイセン王国の領邦ザクセン王国の都市ハレのマリエン通り21番地に生まれている。
父親は音楽家で、ハレ音楽学校創設者兼校長でもあったリヒャルト・ブルーノ・ハイドリヒ。
母親はドレスデンの宮殿で宮廷顧問官をしていた音楽研究者ゲオルク・オイゲン・クランツ教授の娘エリーザベト・マリア・アンナ・アマリア・クランツ。
その名の由来は、“ラインハルト”が父親の作曲したオペラ『アーメン』の主人公の名から…
“トリスタン”がリヒャルト・ワーグナーのオペラ『トリスタンとイゾルデ』の主人公の名から…
そして、“オイゲン”はエリーザベトの父親の名から、それぞれもらい受けたという。
愛称は「ライニ(Reini)」。


父親のブルーノは貧しい家具職人の息子で、元々は歌手としてデビューしていたが、ほとんど芽の出ることはなかった。
歌を歌う傍ら作曲も手掛けており、その作曲したオペラ『アーメン』が大きな成功を収め、さらにはエリーザベトと結婚したことで上流階級とのパイプもつながった。
1907年にはプロイセン王国皇帝ヴィルヘルムⅡ世の48歳の誕生日を祝うオペラ『フリーデン(Frieden=平和)』の作曲を依頼されるなど絶頂を極めていた。
勿論、ラインハルトも幼い頃より音楽を嗜み、実際にバイオリンの腕前もなかなかのものだったようである。
そんな父親のブルーノにはユダヤ人ではないかとの噂があった。
ブルーノの母親エルネスチーネが、グスタフ・ローベルト・ジースと再婚したことによるのだが…
つまり、“ジース(Suss)”という姓がユダヤ人に多いことによるのだが…実際には、グスタフはユダヤ人ではなかったとのことである。
それ以前に、ブルーノは母親の連れ子であるため血の繋がりはないのだがハイドリヒにも後々までこの噂がつきまとうことになる。
ヒムラーでさえ、ハイドリヒがユダヤ系ではないかと疑っていた節がある。
または、そうしておくことで吾身を優位にしておきたかったのかもしれないが…。
ヒムラーの専属マッサージ師だったフェリックス・ケルステンに語ったとされる言葉からもそれが窺える。
真実や如何に…?

あいつ(ハイドリヒ)はいつも苦しんでいる。
心の平安がない。
常に何かがあいつの心を乱しているのだ。
助けてやろうと思ってよく話をするんだがね。
自分の信念には反することなのだが、ドイツの良い血で純化してユダヤ的な要素を克服してはどうかとも言ったのだがね。
私のこんな助言にあいつも大いに感謝していたが、結局何の役にも立たなかった。



今作例にもしているハイドリヒのスタイルは、通常のSS服装規定によるものではない。
“詰襟制服”では通常禁止されている銀色(金色である可能性もあるとのこと…)のパイピングが施されている。
これはゼップ・ディートリヒよろしく、個人的な嗜好などによるものではなく、外交的立場の際にも対応する服装のスタイルとしての規定によるものらしい。
また制帽に関しても、これに倣うとすれば、SS用のフィールドグレイのものというよりも、外交官用のフィールドグレイのものにSSの記章類を着けている可能性もあるとのことである。
その場合、制帽のパイピングおよびチンコードも金色のタイプである可能性も…??
因みに、“鉢巻”部分は共に黒色ではあるが、SS将校以上の階級にみられるようなベルベット地ではなく、外交官用の場合はウール素材の生地となっている。
また外交官用のライヒスアドラーは、その大きさが若干大きいため、クラウン(帽子前面)部分も、それに合わせて高くなっているという特徴があるらしい。
Schirmmütze_sample

最初に作例として紹介した際には、制帽に関しては、金色のパイピングおよびチンコードという設定にしてみたが、今作例では通常のSSタイプのフィールドグレイ制帽という設定に変更している。

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上の写真はベーメン・メーレン(ボヘミア・モラビア)保護領副総督としてライヒ(中央政府)官僚級および外交的な立場にもあった際の服装であると思われる。
この写真を見ると、若干クラウン部分が高いと言えなくもないが、これが上記のような理由からなのか、単なる個人的嗜好によるものなのかは定かではない。

下の写真は、おそらく上の写真と同時期に撮られた…次期フランス・ベルギー総督に内定していたハイドリヒが1942年5月6日にその任地先となるフランスのパリを視察に訪れた際の様子であるが、この時には襟にパイピングは施されていない。
公的立場の別により着分けられていたことが窺える。

Heydrich on a visit to France in May of 1942


Paar Kragenspiegel für einen Obergruppenführer und General der Waffen-SS

因みに、襟章は1942年型(後期型)、肩章は警察大将も兼任しているため、警察・SDを表す警察緑色(Wiesengrun)の国防軍型肩章を着用しており、今作例でもこれを再現してみた。

Reinhard Heydrich_fig_insignia_襟章&肩章

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右袖にアルテケンプファー章(Ehrenwinkel für Altekampfer)、および左袖にSS本部長級プリオンカフ(Ärmelstreifen)を装用。
左胸にφ30.5mm金枠党員章(NSDAP Parteiabzeichen in Gold)を佩用。
国家スポーツ(体力検定)章(Reichssportabzeichen)、ドイツ馬術徽章(Deutsche Reiterabzeichen)などを佩用することもある。
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Reinhard Heydrich_medal_Badge

ハイドリヒの勲章類で注目する点は、一級・二級鉄十字章もさることながら昼間戦闘徽章銀章(Frontflugspange für Jäger / Tagjäger in Silber)※A、そしてパイロット兼観測員章(Gemeinsame Flugzeugführer und Beobachterabzeichen)※Bを佩用している点である。
彼は既にSS少将という階級にあった1939年9月12日に、ブルーノ・レールツァー空軍大将(のち上級大将)に頼み込み、空軍予備役大尉(のち少佐)として第55爆撃航空団(KG55)の銃座手という初の空軍任務に就いている。
その後もノルウェー戦線などでBf109による単独飛行を行ったり、Bf110での偵察任務なども行い、さらには1941年6月に対ソ連戦が始まった後も、6週間の期限付きながら空軍の支援任務に就き、単独飛行でソ連軍の対空砲を撃破するなどの戦功を挙げて一級鉄十字賞を受章している。
ヒムラーの再三にわたる“高官の戦闘行為におよぶ危険性”に関する提言も聞き入れようとはしなかったハイドリヒだったが、その後の出撃においてベレジナ川東方を航行中に被弾…緊急着陸するという事態を引き起こした。
彼はソ連軍に見つからぬよう洞窟に潜伏し、SDの救出部隊により身柄を保護され事無きを得たが、これを聞いたヒトラーにより彼には飛行禁止命令が出されることとなった。
当時の彼の立場からすれば容易ならざる行動であった事は言うまでもなく、致し方ないことであった。

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※B
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1929年(初期型)といわれるSS中将の襟章を着用していることから、1941年9月24日以前…SS大将兼警察大将昇進以前に撮影された写真であるが、その後もハイドリヒはフェルトブルゼ着用時には点線内で示すような刺繍タイプの徽章を佩用しているのに対し、下の写真のようにアースグレーのディーンストロック着用時には金属タイプのもの佩用していたようである。
刺繍タイプの徽章だが、彼クラスともなると機械刺繍のような量産物ではなく、金・銀のモール糸による手刺繍の物を佩用しているのではないかと思われるが、点線内で囲んだ物はかなり鷲の羽その他のモールドが細く、金・銀糸もしくはかなり細いモール糸による職人技ともいえる素晴らしい出来の徽章だったのではないかと思われる。
因みに、作例では都合上…DRAGON製のものにより金属製勲章佩用を再現している。

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Das Attentat auf Heydrich

1942年5月27日午前10時25分、プラハ市内のKirchmeyer通り(現Zenklova)からKlein Holeschoweizer通り(現V Hoolesovickach)のヘアピンカーブで事件は起きた。
ロンドンのチェコ亡命政府の命を受けたヨーゼフ・ガブチック曹長とヤン・クビシュ曹長およびチェコ国内に潜むレジスタンス組織からの増援2名(カレル・ツィルダ、ヴィリアム・ゲリクル)の計4名は予てから計画通り、その朝、ハイドリヒを乗せた黒のメルセデスベンツ320カブリオレBを襲撃した。
ハイドリヒを乗せたベンツには護衛車輌はおろか短銃携帯のみのヨハネス・クラインSS曹長が運転手として同乗しているのみであった。

後日、この事実を知ったヒトラーは「装甲のないオープンカーで走ったりボディーガードも付けずプラハの通りを歩いたり、そのような英雄気取りはナンセンスであり、国家のためにならない。全くその必然性がないのに、ハイドリヒのように掛け替えのない人物が危険に身を曝すなどということは愚かであるか、恐ろしく鈍感であるかのどちらかだ。」と感情を顕に語ったという。

クビシュの投げた手榴弾で車は部分的に破損したが、ハイドリヒは車を飛び降りるとピストルを連射しながらクビシュらを追った…が、突然立ち止まり、臀部の右側に手をやったかと思うと、そのまま道路に崩れ落ちた。

ハイドリヒの腹部および肋骨付近にはスプリングや金具等の破片が食い込み、脾臓内からは座席の詰め物として使われていた馬の毛が検出された。
病状は9日間一進一退を繰り返したが、1942年6月4日 ハイドリヒは静かに息を引き取った。(享年38歳)

国葬は1942年6月9日ベルリンにおいて盛大に執り行われ、ヒトラーはその弔辞のなかで彼を“鋼鉄の心臓を持つ男”と称した。

暗殺現場模式図

ハイドリヒを乗せた車は、自宅のあったパネンスケー・ブリェージャニィ①の方向から総督府のおかれたフラッチャニ(プラハ)城②に向かって走行。
ホレショヴィチェ通りのヘアピンカーブを曲がった③で襲撃にあった。
④にはヤン・クビシュの逃走用と思われる自転車が置かれていた。
⑤は通りかかった二輌編成のトラム(路面電車)の停車位置。
⑥にはジャミングを起こし不発に終わった短機関銃ステン・マークⅡと、それを隠し持つために用意されたレインコートが放置されていた。
British Sten Submachine Gun_Mark II

Reinhard Heydrich_Mercedes Benz 320 Cabriolet B_SS-3_01
襲撃を受けた現場検証中のメルセデス・ベンツ320カブリオレB (W142)
ハイドリヒの車輌であることを示す“SS-3”のナンバープレートは既に外されている。

Reinhard Heydrich_Mercedes Benz 320 Cabriolet B_SS-3_02
プラハのチェコ軍事歴史博物館には、当初は襲撃直後の状態のまま展示されていたようだが、現在は修復されてしまっているとのことである。
手榴弾の被弾により開けられた穴から詰め物、スプリングなどが飛び出しているのがわかる。


Wer wird Heydrich Tod rächen?

Tragödie von Lidice

ただ話はここで終わらず、このあと凄惨な報復劇が始まることになる。
ダリューゲは、ハイドリヒ暗殺の報復としてボヘミアでリディツェ村やレジャーキ村の虐殺をおこなった。
この事件に関わったとして1万人程が逮捕され、なかでも襲撃班の潜伏先と思われたリディツェ(Lidice)村は徹底的に破壊され、消滅した。
村内の男性は全員射殺されるなど…この報復劇による犠牲者は1,300人を下らない。
上の写真は1942年6月10日、15歳以上の男性176人が納屋に集められ、10人づつ壁の前に並べられて銃殺された直後の様子である。
マットレスは銃弾の跳ね返りを防ぐために立て掛けられたものらしい。

カレル・ツィルダとヴィリアム・ゲリルクは身の実安全および500万チェコ・クローネと引き替えに襲撃グループの潜伏先が聖キュリロス・メトディオス教会であることを供述。
それをもとに1942年6月18日18日早朝、カール・フォン・トルエンフェルトSS少将指揮のもと、ハインツ・パンウィッツSS大尉率いるSS部隊および警察部隊の750人が教会を包囲。
数時間におよぶ戦闘の末、襲撃グループ側の14人が死亡し、21人が重軽傷を負い終息。
手榴弾を投げ込んだクビシュは教会のバルコニーで負傷し、病院に搬送されたが死亡した。
ハイドリヒにステンガンを向けたカブチックは教会の地下室で自決した。
密告をしたツィルダとゲリルクの両名は、1947年4月29日に絞首刑となった。

襲撃班


Kurt Max Franz Daluege_Karl Hermann Frank
ハイドリヒが襲撃を受け 死の淵に立っている間、クルト・マックス・フランツ・ダリューゲSS上級大将兼警察上級大将が6月4日付で後任の副総督となり、ハイドリヒ襲撃の報復として、上記の如き虐殺の指揮を執るなど、ベーメン・メーレン保護領における実権拡大に躍起となった。
ところが翌年、持病の心筋梗塞が悪化し、1943年7月31日付で全職務を辞すこととなる。
その後、保護領の実権を掌握したのが、8月20日付けで新設されたベーメン・メーレン保護領担当国務相(大臣待遇)となったカール・ヘルマン・フランクSS大将兼警察中将(当時)である。
戦争終結によりフランクは1940年5月9日にプルゼニで米軍に投降したが、その身柄はチェコスロヴァキアに引き渡され、その後、プラハの人民法廷にいかけられ死刑判決を宣告された。
1946年5月22日、パンクラーツ刑務所の中庭において絞首刑に処せられた。(享年48歳)
その様子を一目見ようと中庭には約5,000人もの見物人が集まったという。

Aufhängen_Karl Hermann Frank
絞首刑直後のフランクを窓越しに笑顔の女性たちが見つめているが、これはこれでまた奇妙な光景でもある。


一方、ダリューゲは終戦までバルト海に面する北ドイツの都市リューベックで療養していたが、そこで英軍により逮捕され、ニュルンベルクに拘禁されることとなったが、1946年9月には身柄をチェコスロヴァキアに引き渡され、10月23日に人民法廷において死刑判決が宣告された。
そして、翌24日に刑の執行が決定した。
ダリューゲは刑の執行直前に割ったグラスで手首を切っての自殺を図ったが失敗。
やはりパンクラーツ刑務所内の中庭において処刑された。(享年49歳)

Aufhängen_Kurt Max Franz Daluege
刑の執行直前のダリューゲ…天を仰ぎ見て祈るようなその姿にかつての面影はない。


Ergänzung

#1 Meredes-Benz 320(W142) Cabriolet B

1937年から戦時中の1942年頃まで生産された320は、1933年にデビューのアッパーミドルモデル290の後継モデルとして、エンジンを3.2リットルに拡大し、より流線型を帯びたボディと組み合わせたモデルである。
フロントに水冷直列6気筒サイドバルブ3.2リットル、78psのエンジンを搭載、後輪で駆動。
また後期モデルはエンジンが3.4リットルに拡大されている。
ボディについては当時のメルセデスのセオリーに従ってフォーマルなリムジーネの他に、トップの形状やシートレイアウトなどがそれぞれ異なるA~D4種のカブリオレがラインナップされた。
当時、世界最高のパーソナルカーと呼ばれた540K、受注生産状態の770(通称:グローサー)など、ごく一部の富裕層やナチス高級幹部たちのために生産された超高級モデルは別格ともいうべき存在であったから、当時のメルセデスのラインナップのなかでも、320は一般顧客向けとしては充分高級なモデルであった。

ハイドリヒ暗殺乗車時のベンツと同タイプの320カブリオレB
Mercedes Benz 320 Cabriolet B_sample


#2 Silke

ハイドリヒと妻リナは、1931年12月24日はプロテスタント式の挙式をしている。
その後、1933年6月17日に長男クラウス、1934年12月28日に次男ハイデル、1939年4月9日に長女ジルケ、1942年6月23日に次女マルテ(ハイドリヒの死後)の四人の子供を儲けている。
(※クラウスは1943年10月24日に交通事故により亡くなっている。)
今回ご紹介したいのは、下の美しい女性であるが…
これは、60年代…20代の頃の長女ジルケで、この頃、彼女は歌や演奏、演技…そして、この美貌を活かしモデルとしても活躍していたようである。
また父親に関するドキュメンタリー番組などにも何度か出演もしているとのことである。
その後、ヨハニスベルク(Johannisberg)の農場主と結婚し、5人の子供を儲け、その長男には“ラインハルト”と名付けたとのことである。

Silke


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帝国陸軍工兵中佐 吉原 矩 《P'log移転 作例 第二弾》

2014–09–03 (Wed) 10:14
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Imperial Japanese Army Lieutenant Colonel ( Pioneer )
Kane Yoshihara

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今回は“故”あって独軍将兵以外の作品を紹介させて頂く。
それが『第四師団参謀 吉原 矩 陸軍工兵中佐』である。
“故”とは…今回の対象となる人物が“縁”的に近しいのではないかと思われたことと…
一度は大日本帝国期の制服姿を再現してみたかったということもあり制作するに至った。
それも“昭五式”といわれる将校用軍衣に“短袴(いわゆる乗馬ズボン)”姿を…
“昭五式”軍衣は昭和5年4月10日付の勅令第七十四号「陸軍服制中改正」により制定された服制である。
そこで、今回の設定時期にあたっては階級等を考慮するとともに、制服の様式が“昭五式”から昭和13年5月31日付の勅令第三九二号「陸軍服制改正」により“九八式”といわれる立折襟の制服に切り替わるまでの間…
及び、その間で吉原が参謀勤務に就いていた時期…
更には、“陸大卒業徽章”…いわゆる「天保銭」の佩用禁止となる昭和11年5月までの間…
つまり設定期間は、昭和10年3月から昭和11年5月までとした。

素体は今回もメディコム・トイのRAH301改 NAKEDを使用しており、前制作の“ロンメル”同様(実はこちらの方が先に試してみたのだが…)に腹部にシリコン素材の肉襦袢を装着して体系補正?をしている。
ヘッドはbbiからリリースされたELITE FORCEシリーズの 『大日本帝国陸軍将校 “中川三郎” ~WWII Japanese Army Officer』を使用している。
リペイントも考えたが…C.F.E.2005まで間がなかったこともあり(‘05当時)…また、そのままでもそう悪くはなかったことなどもあり既製品のままとした。
ただ、bbiのヘッドは頭部と頚部にジョイントを設ける構造のためその部分が目立つので、今回は頭頚部を一体成形…繋ぎ目がないようにパテで整形している。

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さて実際の吉原 矩(よしはら かね)は、明治26年10月27日に吉原文平の次男として茨城県に生まれている。
明治38年9月1日、13歳になった吉原はプロイセンに範をとって設立された、幼年時から陸軍将校候補を育成するための教育機関である陸軍幼年学校…仙台陸軍(地方)幼年学校を受験し合格者50名という難関の中11番という成績で入校を果たしている。
明治41年7月に卒業し、同年9月1日に中央陸軍幼年学校本科(東京)に入校(卒業時50名中24番)している。
陸軍幼年学校は一般的には“陸軍の(旧制)中学校”版と捉えられていたようだが…
陸軍部内では文部省傘下の既存の(旧制)中学校において自由教育を受けてきた人材は信用ならないという因習的な観念があり、陸軍内の出世においては陸軍大学校卒業であるか否か以上に幼年学校卒業かどうかが重要視される観があったといわれている。
大正2年12月1日、陸軍士官学校(第27期生)に入校、大正4年5月に33番で卒業後、同年12月に陸軍工兵少尉として鉄道連隊々付開始。
明治20年以前は士官学校の修学期間は3年弱で、教育様式はフランス式であったが、明治20年にフランス式からドイツ式の士官候補生制度に転換され修学期間も1年半となる。
その後も修学期間は、明治26年に1年7ヶ月に改正されたものの、明治29年には1年4ヶ月、明治31年には1年、明治39年には1年半にと改正が続く。
昭和13年には1年8ヶ月となるも、時局に鑑み、昭和16年には1年に短縮される。
しかし昭和20年6月に少尉任官として卒業した58期生を最後に陸軍士官学校はその歴史に幕を下ろすことになる。

明治22年5月31日付けで陸軍砲工学校が設立されると、士官学校卒業時に1/3程度を選抜し、彼らに1年間の高等教育を施すようになった。
吉原も大正7年11月に陸軍砲工学校を卒業し、翌8年4月陸軍工兵中尉に昇進している。
大正9年11月に陸軍大学校(第35期生)に入校、大正12年11月に13番で卒業し、12月には鉄道第一連隊中隊長に任官している。

35期生といえば…小笠原方面最高指揮官(小笠原兵団長兼第109師団長)として“硫黄島の戦い”における陸海軍硫黄島守備隊の指揮を執った栗林忠道陸軍大将が同期となる。
栗林は、成績優等の(次席)卒業により恩賜の軍刀を授与されている。
因みに、首席は藤室良輔陸軍中将なる人物らしいが、ほとんど知られていない。


【その後の吉原 矩の経歴】

大正13年3月、陸軍工兵大尉昇進。
大正13年12月、陸軍省軍務局課員。
大正14年9月、工兵監部々員。
昭和3年1月、陸軍大学校兵学教員。
昭和5年8月、陸軍工兵少佐昇進。
昭和7年3月、フランス出向。
昭和7年10月、陸軍省整備局課員。
昭和8年7月、陸軍省軍務(兵務)局課員。
昭和9年8月、陸軍工兵中佐昇進。
昭和10年3月、第4師団参謀任官。
昭和11年8月1日、工兵監部々員。
昭和12年9月10日、第13師団参謀任官。
昭和12年11月1日、陸軍工兵大佐昇進。
昭和13年3月1日、第13師団参謀長任官。
昭和13年12月10日、北支那方面軍参謀(作戦主任)任官。
昭和14年6月30日、北支那方面軍作戦課長任官。
昭和14年9月11日、工兵監部々員。
昭和15年12月2日、工兵監部付陸軍少将昇進。
昭和16年11月6日、第一工兵隊指揮官任官。
昭和17年7月4日、第二(豪北)方面軍参謀長任官。
昭和17年11月9日、第18軍参謀長任官。
昭和19年3月1日、陸軍中将昇進。
昭和21年2月、復員。
昭和23年1月、BC級戦犯として逮捕。
昭和25年3月、釈放。
昭和59年8月8日、死去 (享年90歳)

吉原 矩 陸軍中将
※襟元に功三級金鵄勲章を佩用。(受章年月日等未確認)



襟章“鍬型”と“三八式肩章”

陸軍_工兵科(鳶色)襟章_中佐肩章

兵科を表す襟章は通称“鍬型(くわがた)”とも呼ばれる。
デザインの由来は古代の盾を左右に分割したものとも言われているが定かではない。
“昭五式”から“九八式”に服制が変更され襟部の兵科章も階級章に変更されたのに伴なって、右胸に山型の定色(兵科色のこと)を着けることになるが、これも昭和15年9月13日の改訂によりに各兵科区分が廃止されたのに伴ない廃止される。
吉原は工兵科歩兵科のであり、工兵科の定色は“鳶色”である。
“鳶色”と一口に言ってもなかなか厄介であり…
既製の染料には丁度良い色目がないのでこの色を出すのには苦労した。
※参照『帝国陸軍の服装』『陸軍定色生地見本
上掲載画像では、これを基に工兵科中佐の制服を画像再現してみた。

“九八式”服制への変更により階級は“九八式襟章”にて表示されることとなるが、それ以前は明治38年7月21日付の『勅令第一九六号・陸軍戦時服服制』により十九年制軍衣から、その後の立襟型軍衣の原型ともなる“三八式”服制に変更されたことに伴ない採用された“三八式肩章”により表示されていた。
肩章の台布は緋色。
その両端には縄目と呼ばれる金色のモール縒紐。
中間には佐官クラスを表す二本の金色の平織金属モール部。
今回の吉原は中佐階級ということで“中佐”を表す2つの星章が配される。

Kane Yoshihara_fig_襟章_肩章


四五式軍帽

明治38年7月11日付の『明治三十八年・勅令第百九十六号・陸軍戦時服服制』により“第ニ種帽”として制定された。
その後、明治41年3月24日付の『明治四十一年・勅令第四十七号・陸軍軍服服制中改正』によりシルエットに変更が加えられた。
(※天井径(真上から見た帽の直径)と襠(まち、鉢巻より上の部分)の高さが縮小)
さらに明治45年2月24日付の『明治四十五年・勅令第十号・陸軍服制』により、左右襠に2個づつの鳩目(通気孔)が付加されることとなる。
これがこの“四五式軍帽”といわれるものである。
被服同様に、大正9年5月28日付の『陸達第三十八号・被服用茶褐布ノ色相』によって天辺部の色合いが“帯赤茶褐色”から“帯青茶褐色”に変更されたが、やはりオーダーメイドの場合は個々の好みにより作られることがあった。
そのシルエットもクラウン部(前面)を高くする“チェッコ式”と呼ばれるタイプが流行っていたようである。(※露式とするテーラーなどもあったという)
作例では、流行の“チェッコ式”というタイプではなく…ドイツで言えば“テラーホルム(皿型)”といわれるオーソドックスなタイプにしてみた。
また色目も“帯赤茶褐色”タイプにしている。

四五式軍帽_01

四五式軍帽_02

因みに、独軍と違い…鉢巻部やパイピング部(喰出(はみだし)というらしい)が”緋”色になっているのは定色(兵科色)を表しているわけではなく、法務官(白)以外の全ての兵科は“緋”色となっている。


陸軍大学校卒業生徽章

陸軍大学校卒業生徽章

陸大卒業生には胸に菊花と星を模った卒業生徽章が授与された。
補職や昇進でも優遇され、昭和時代には陸大卒業者が陸軍の主要ポストを独占しており陸大入校試験は実質的に陸軍高級将校の選抜試験としての意味合いが強くなっていた。
この徽章は江戸・天保期の百文銭に似ているということから、卒業生達は“天保銭組”と呼ばれ陸大卒業生以外からは羨望の的となった反面…
卒業生以外の将校を“天保銭組”ではないという意味の“無天”と蔑み、その横柄な態度に対し両者の対立が表面化したことなどを鑑み、昭和11年5月に軍服への佩用が禁止された。
ただ陸軍の慣例として“無天”では、席次・能力の優劣にかかわらず、余程の勲功などがない限り、その殆どは軍人としての生涯を部隊勤務で終え、将官クラスへの昇進率は極めて低く、なかには予備役の大尉階級としてその軍歴を終えた者もいたとのことである。


参謀用飾緒

飾緒(しょくちょ、しょくしょ)は一般に軍服(勤務服)の前部から片肩にかけて吊るされる飾り紐のことで、礼装着用の際などにも帯紐する。
通常は参謀および副官などが帯紐する。
その起源として、ナポレオンの参謀(幕僚)が測量用のロープを肩に巻いていたことに由来するという説…
また当時貴重であった鉛筆をなくさないように紐を付けて肩からかけていたことに由来すると言われており、地図に書き込みをすることのある参謀や、メモを頻繁に取る必要のある伝令などのために筆記具を吊るしておく為のものだったという説がある。
その名残とされているのが胸前部に垂らされた石筆(ペンシル)と呼ばれる飾り金具で、旧代の飾緒では実際にこの部分が鉛筆になっているものもあるとのことである。
それ以外にも馬の手綱、あるいはマスケット銃の火皿の火薬滓をかき出すための金具が起源という説などもあるがはっきりしたことは分かっていないようである。

帝国陸海軍では、明治28年(1895年)9月28日付の勅令一三六号により飾緒の制式が改正された。 (この勅令により伝令使の飾緒は廃止)
明治32年8月10日付の勅令第三六九号では副官の飾緒が設けられる。
大正4年11月1日付の勅令第一九一号(同年11月5日施行)では皇族付武官(侍従武官 及び 王公族付)にも飾緒が設けられた。
飾緒の色は銀色。
昭和17年10月30日付の勅令第六九九号(11月1日施行)では参謀及び副官用の略式飾緒が制定される。
副官用飾緒もまた銀色である。
ただし、陸軍では副官は高等官衙副官懸章を肩掛けされ飾緒は帯紐しない。

将官においては正装および礼装時には将官用の金色の飾緒が帯紐される。
また参謀将校は常に参謀用の飾緒を帯紐し、将官用に類似し金色となっている。

Kane Yoshihara_fig_01


軍刀

作例における軍刀は、これもbbiの『大日本帝国陸軍将校 “中川三郎” ~WWII Japanese Army Officer』に付属の物を使用した。
ただ、この軍刀は<昭和十三年制定陸軍制式軍刀>…通称、“九八式”といわれるもので…
昭和13年(1938年)5月に“九四式”の第二佩鐶を廃止した軍刀外装制式となったものだ。
これは昭和12年に勃発した支那事変に伴い、戦時非常時体制となったことにより、翌13年の服制改正で正装・礼装が事実上停止されたことによる。
実質は“九四式”と変わるところはない。

今回の時期設定ならば“九四式”といわれる<昭和九年制定陸軍制式軍刀>としなければならないところではあるのだが…当時の洒落者青年将校達のなかには、略刀帯に軍刀を佩くために“九四式”の第二佩鐶を外したりする者もいることから、今作例ではご容赦頂きたい…(苦笑)
この“九四式”軍刀は昭和7年制定の<三十二年式軍刀改>を昭和9年(1934年)2月15日付(陸軍記念日の3月10日施行)で古来の太刀を模範とした新軍刀外装として制定されたもので、二佩鐶を持つ完全太刀型軍刀である。

昭和九年制定陸軍制式軍刀 (通称:九四式軍刀)

九四式軍刀_01

九四式軍刀_02
※着脱式第二佩鐶を外した状態


昭和十三年制定陸軍制式軍刀 (通称:九八式軍刀)

九八式軍刀
※野戦用革覆い装着の状態


陸軍刀緒

陸軍刀緒

上記“九四式”軍刀の制式改正に伴い“刀緒”も制定された。
刀緒は官階の表示、抜刀した際の柄握りの補強(右手首に巻き付ける)等…装飾的・実用的な役割を果たす。

平織(高麗織)された緒の表面は【茶褐色】で裏面において階級(官階)による色分けがなされている。

●将官クラス…裏面【赤】(表裏に金糸による破線状の刺繍あり)/房糸:金房
●佐官クラス…裏面【赤】/房糸:茶と赤の混房
●尉官クラス…裏面【紺】/房糸:茶と紺の混房


軍刀と略刀帯
Kane Yoshihara_fig_SB


前述したが、大正9年5月28日付の『陸達第三十八号・被服用茶褐布ノ色相』によって被服の色合いが“帯赤茶褐色”から“帯青茶褐色”に変更されたが…物資逼迫の戦時下ではなかった時期においては伊達者将校達には好み・流行のお洒落を楽しむ余裕もあり、またテーラー側も技術やセンスを競っていたようである。
そのためオーダーメイドの場合は、ドイツなどと同様に生地の質や・色目なども個人の好みにより様々であったようである。
今作例では、軍帽だけでなく軍衣・袴も、当方のなかでのイメージに近い“帯赤茶褐色”の色目に生地を染めてみた。

Kane Yoshihara_fig_03
Kane Yoshihara_fig_04

“昭五式”までは建軍以来伝統の立襟を採用しているが、“昭五式”の服制では将校用軍衣の襟の高さまでは言及されておらず…
前形式である大正11年9月26日付の『勅令第四百十五号・陸軍服制中改正』により制定の“改四五式”における襟の高さ(一寸五分)の準用が暗黙の了解とされたが、これはあくまでも目安であり…
この点に関しても着用者の好みで高くする者、低くする者など様々であった。
当時の青年将校たちの間では高めの襟が流行だったのだそうである。

Kane Yoshihara_fig_05
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