Es Geschah am 20. Juli 1944

2013–07–20 (Sat) 12:42
Oberst im Generalstab. Claus Graf Schenk von Stauffenberg

Claus Graf Schenk von Stauffenberg_title

1944年7月18日、予備軍参謀長官であったクラウス・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク(伯爵)陸軍参謀大佐は、東プロイセンに新たに編成する2個師団についての概要報告を直接ヒトラーにするため東プロイセン・ラステンブルク郊外にある総統大本営(FHQ)…通称“狼の巣(Wolfschanze)”での会議に出席するよう予備軍司令官フリードリッヒ・フロム陸軍上級大将に命じられた。
その数日前の7月11日、15日にもシュタウフェンベルクはヒトラーとの接見を果たしてはいたのだが“暗殺”を実行するには至らなかった。
そして舞い込んできた三度目のチャンス…運命の日、1944年7月20日…“三度目の正直”となったのであろうか…

Stauffenberg am 15. Juli 1944 in der Wolfsschanze
1944年7月15日…暗殺計画実行の5日前に、同地“狼の巣”においてヒトラーと接見した際のシュタウフェンベルク(左端)
右端は国防軍最高司令部(OKW)総長のカイテル陸軍元帥
ヒトラーと握手を交わしている人物は国家元帥副官カール・ハインリッヒ・ボーデンシャッツ空軍大将で、奥の顔だけが覗いている人物は総統附海軍副官カール・イェスコ・フォン・プットカマー海軍少将


シュタウフェンベルクは1907年11月15日、ヴュルテンベルク公国の国王ヴィルヘルムⅡ世の侍従長の三男(双胎児として生まれるも兄のコンラートは翌日死亡)としてシュトゥットガルトに生まれている。
シュタウフェンベルク家も名門貴族の出で、母方の血縁はプロイセン陸軍兵站総監アウグスト・ヴィルヘルム・ナイートハルト・フォン・グナイゼナウの曾孫にあたる。
開戦後は参謀本部編成課長などを経て北アフリカ戦線チュニジア駐屯の第10装甲師団作戦参謀として任官するも、1943年4月7日に左眼球摘出、右手首と左手の薬指・小指を切断するという重傷を負い本国に送還される。
復帰後は国内予備軍司令部附参謀将校として陸軍参謀本部に転属。
そして1944年7月1日付で陸軍参謀大佐に昇進…予備軍参謀長官という願ってもない軍職に任官し、ヒトラーとの接見もし易い立場となっていた。

これまでにわかっているだけで42件にもおよぶ“ヒトラー暗殺未遂事件”…そのなかでも最も規模的に大きく、また一般的にも知られているのが通算41件目となるシュタウフェンベルク等を中心に行われた1944年7月20日のクーデター計画“ワルキューレ(Walküre)”であろう。
因みに、このシュタウフェンベルク等の暗殺計画以外にも実は1944年の7月だけでも他に3件の未遂事件があったという。
この時の模様は、これまでに数多くの書籍や映画、ドキュメンタリー番組等でも取り上げられており…記憶に新しいところでは、トム・クルーズ主演で話題となった2008年製作(米国)の映画『ワルキューレ(Valkyrie)』や、2004年にドイツ公共放送連盟(ARD)が製作したテレビ映画『オペレーション・ワルキューレ(原題:Stauffenberg)』などが公開(2009年)およびDVDのリリースをされており、ご存知の方もおられることと思う。
因みに、『オペレーション・ワルキューレ』ではセバスチャン・コッホがシュタウフェンベルク役を熱演している。

Stauffenberg_Sebastian Koch_Tom Cruise


Kragenspiegel und Schulterstücke für Offiziere im Generalstab

シュタウフェンベルクが所属した“参謀科”は独立した兵科ではあるが参謀科独自の部隊編成というものを構成しない特殊な兵科である。
戦争アカデミーにおける参謀幕僚養成課程を修了後、参謀本部が管理・運営する師団司令部以上の高等司令部において勤務することになる。
因みに、シュタウフェンベル クは1936~38年にこのベルリンでの戦争アカデミーにおいて、後に反ヒトラー活動を共にすることとなるアルブレヒト・メルツ・フォン・クヴィンハイム陸軍参謀大佐エーバーハルト・フィンク陸軍参謀大佐等と養成課程を修了している。

“参謀科”の将校は、階級表記においては“参謀(im Generalstab)”が付記される。
従って、和訳の際には既記の如く“参謀大佐”とする方が望ましい。
また将官以外でズボンに側線(左右4㎝幅+中央線)入れることを許されるなど、他の兵科とは差別化が図られていた。

“参謀科”の兵科色(Waffenfarbe)は“Karmesinrot”で、 和訳の説明では「深紅色」などと称されるが、日本の伝統色名で言えば「臙脂色」や「茜色」等々に近い感じの鮮明な色目で…肩章・襟章(礼装用等)の台布やズボンの側線がこの兵科色となる。
“獣医部”の兵科色も“Karmesinrot”とされており、肩章では区別の付き難い場合もあるが、襟章の場合は“参謀科”は下に示すように、他科の将校用襟章とは少々趣の異なる刺繍模様となっているので区別がつく。
その特徴的な形状からか他科のように兵科色のリッツェン(Litzen)は入らない。

Kragenspiegel_karmesinrot_Generalstab / Veterinärwesen
(A)及び(B)が“参謀科”将校用の襟章で、通常勤務の際は(A)のような台布が濃緑色のものを装用する。
(B)は光沢のあるアルミニウム糸により刺繍されたタイプで、主に礼装時などに装用された。
(C)及び(D)は兵科色である“深紅色”のリッツェンが入った“獣医部”の一般的な将校用襟章。
※(C):=矢羽根模様状の紐によるリッツェン、(D):撚り紐状のリッツェン
これらは“参謀科”将校用の襟章として販売されていることがある…(^ ^;
特に(C)のようなタイプは、実しやかに“参謀科”将校用襟章とされることも多々ある。

Schulterstücke_Generalstab

通常の佐官クラスの肩章は、二本の銀角紐(白もしくは灰色で光沢無し)を五連に編んだものとなっている。
“参謀科”の佐官クラスにおいても、台布色の違いこそあれ、このタイプを装用する。
↑の肩章は上段、下段ともに“参謀大佐”用の肩章であるが、上段の物はマットで灰白色の紡ぎ紐で編まれたタイプで、襟章同様に、通常勤務の際はこのような肩章を装用することが多い。
下段の物は、光沢のあるアルミニウム糸による紡ぎ紐で編まれたタイプで、このタイプは主に礼装時などに装用される。
因みに、先の襟章(B)とこの肩章は同一人物による(おそらく礼装時)装用品となる。


獣医部の肩章の場合は“職務徽章”が装用されていたことで、その痕跡(通し穴)の有無などから判別が可能な場合もある。
因みに、軍医・衛生官などの衛生部の徽章は「蛇の巻き付いた杖」なのに対し、獣医の徽章は「蛇のみ」。
医療系の象徴として用いられる“蛇”のデザインは、ギリシア神話に登場する…優れた医術の技で死者すら蘇らせ、後に神の座についたとされる医神アスクレーピオスの持っていた杖に蛇(クスシヘビ)が巻きついていたということに由来する。


Schirmmütze für Offiziere im Generalstab

Schirmmütze für Offiziere des Generalstab

Schirmmütze für Offiziere des Generalstab

Schirmmütze für Offiziere des Generalstab

Schirmmütze für Offiziere des Generalstab




Attentatsversuch : Was geschah wirklich am 20. Juli 1944?

事件後の関係者等による聴取・証言などから概ねわかっている運命の日、1944年7月20日の出来事を時系列的にご覧頂こうと思う。
多少の時間的誤差、脚色等もあるものとは思うが、その点は何卒ご理解頂きたい。

Wolfsschanze_attentat vom 20. Juli 1944

05:00 シュタウフェンベルク起床
07:30 霧による視界不良の影響で予定時刻より少し遅れて、ヴェルナー・フォン・ハエフテ ン予備役陸軍中尉を伴いベルリン郊外のラングスドルフ空港を離陸。
10:15 ラステスブルク飛行場に到着。
11:30 “狼の巣”に到着。
11:40 ブーレ陸軍大将、タッデン陸軍中将、レスラー陸軍中佐とともに兵舎に入りカイテル陸軍元帥と打ち合わせを行なう。
その際、作戦会議開始が当初予定の13:00から12:30に早まったことを聞かされる。
…第一の不運であった。

準備の時間は当初1時間以上 はあるものと想定していた。
12:12 そこでシュタウフェンベルクは「この(不自由な)身体なので、汗をかいたのでシャツを着替えたい」と申し出て、総司令部作戦室に向かう一行を待たせて補佐官のヨーン陸軍少佐の部屋を借り爆弾のセットに取り掛かる。
シュタウフェンベルクは、この計画のために1個につき900gの爆薬が入った英国製の爆弾2個を用意していた。
酸の入ったアンプルを割ると、その酸が安全装置であるワイヤーを徐々に溶かし、10~20分後にはワイヤーが完全に溶けて撃針を作動させ発火させるという仕組みの信管であった。
シュタウフェンベルクが一個 目の爆弾のアンプルを工具で割り、補佐官のハエフテンに間違いなく酸が滲み出てきているかの確認を求めたその時…突然ドアがノックされ、「総統がお見えになります…お急ぎ下さい!」と伝令がわずかにドアを開け、声を掛けてきた。
とっさに爆弾を隠したが2人は動揺し、二個目の爆弾のセットを諦めた。
ここでシュタウフェンベルク等は、その極度の緊張状態からか平時ではあり得ないような大きな過ちを犯してしまう。
たとえ二個目の爆弾をセット出来なかったとしても、それもそのまま一緒に鞄に入れておけば、セットが為された爆弾と相俟って…少なくとも一個だけの場合よりは爆発の威力が増したものと思われる。
しかし、シュタウフェンベルクはセットが済んだ一個のみを鞄に入れ、未セット分はハエフテンに預けたままにしてしまう。
…第二の不運であった。
fig_Zünder

更なる不運は会議室の場所である。
当初、地下の掩蔽壕で行なう予定であったが、地下の工事と重なったことに加え、当日の蒸し暑さから空調の不備な地下よりも窓のある兵舎の方がよいであろうという理由で地上の会議室に急遽変更となった。
結果的に、窓が…それも全てが開け放たれていたことで爆発のエネルギーは外に逃げ威力は激減してしまったのである。
…第三の不運であった。

12:15 ヒトラーが自室を出たと告げられ、作戦室外に待機していた将官・将校たちが会議室への入室を始める。
12:30 作戦室内にはピリピリとした重苦しい空気が張り詰め会議が始まった。
「ルーマニアの状況は?」… ヒトラーが切り出し、陸軍参謀本部作戦部長兼陸軍参謀本部諸部代理のアドルフ・ホイジンガー陸軍中将が戦況の報告を始めた。
12:35 シュタウフェンベルクが作戦室に入る。
シュタウフェンベルクはカイテルの補佐官に鞄を渡す際に「片側の耳が聞こえ難いので総統のそばにして欲しい」と申し出る。
そしてヒトラーの右側から3人目…ギュンター・コルテン空軍大将(空軍参謀総長)とハインツ・ブラント陸軍参謀大佐(第一参謀本部附・ホイジンガー代理)の間に通され、また当初その鞄もヒトラー側の机の脚元に置かれた。(下図参照)
既に時間的にはにいつ爆発してもおかしくない状態になっていた。
12:40 シュタウフェンベルクは漸くエーリッヒ・フェルギーベル陸軍通信科大将からの緊急の電話が入ったとして呼び出され、何とか建物から離れることが出来た。
12:41 補佐官がシュタウフェンベルクを探しに出ている。
それと時を同じくしてブラントが机の下の鞄につまずいてしまう。
ブラントはそれを元の位置には戻さず、ヒトラーと反対側の机の脚元に移動させてしまった。
…第四の不運であった。
12:42 「今、ペイプス湖から軍を引けば最悪の事態を招くことになります…」
この議事録に記された最後の 言葉をホイジンガーが発した直後に爆発したものと思われる。

計画では、信号部隊司令官および国防軍最高司令部通信部門長官であったフェルギーベル陸軍大将がヒトラーの死亡を確認し次第、作戦成功をベルリンで待つ同志に伝え、その後FHQの通信網を遮断して孤立無縁な状態にし、その連絡を受け取ったベルリンでは全管区に宛て「ヒトラーは死んだ、国家の支配権は軍が掌握した」との声明を出すとともに、“ヴァルキューレ作戦(Operation Walküre)”を発動する手筈になっていた。
シュタウフェンベルクは、この爆発の状況から察し、当然ヒトラーの暗殺に成功したものと確信、フェルギーベルに後を任せラステスブルクからベルリンへ急ぎ飛んだ。

因みにヴァルキューレ作戦とは、戦時における一般市民、強制収容所の収容者および捕虜の暴動鎮圧に対処するため1941年12月に立案され、そのための国内予備軍の結集と動員に関する作戦命令となっている。
国内予備軍がベルリンおよび他の主要都市、重要な軍管区において武装占拠行動を取れるものとしており、またそのために必要な使用可能な全ての軍の部隊、武器・弾薬等を数時間以内に準備・調達が出来るものとしている。
このヴァルキューレ作戦をクーデターに利用できると考えたシュタウフェンベルクら反ヒトラー派は、命令立案・修正に携われる立場にあった予備軍参謀長官のシュタウフェンベルクを中心に事前にクーデターに利用し易いよう適宜修正を加え、その発動に向け準備を重ねていた。
但し、発動権者は国内予備軍司令官にのみあった。

話を7月20日の時系列にもどして…
この時、作戦室内には24名がいたが、11名が受傷…うち4名は数日以内に死亡している。
しかし、ヒトラーは一時的に収縮期血圧が72mmHgにまで低下するショック状態を呈し、右腕にかなりの腫脹がみられ、肢にはテーブルの破片が突き刺さり、額が切れ、右の鼓膜が破れていたとはいうものの、奇跡とも思える生還により高揚気味で、自身の強運を再認識したことで一層活力を取り戻したかのようであったと側近は語っている。
ヒトラーが軽症だった要因としてブラントによる頑丈な机の脚の反対側への鞄(爆弾)の移動もあるが、爆発時の彼の姿勢もその要因だったのではとの指摘もされている。
つまり、地図の中央を覗き込 むように前屈みになったことで爆風に飛ばされたテーブルが皮肉にもヒトラーに激突するどころか爆風から保護する役割を果たす結果になったとみられる。
…これが第五の不運であった。
fig_Baracke.jpg
HAdolf Hitler/Führer
2:Adolf Heusinger, Generalleutnant/Chef der Operationsabteilung des Generalstabes des Heeres und Stellvertreter des Chefs des Generalstabes des Heeres
3:Günther Korten, General der Flieger/Chef des Generalstabes der Luftwaffe
4:Heinz Brandt, Oberst im Generalstab/Erster Generalstabsoffizier; Heusingers Stellvertreter
5:Karl-Heinrich Bodenschatz, General der Flieger/Verbindungsoffizier des Oberbefehlshabers der Luftwaffe im FHQ
6:Heinz Waizenegger, Oberstleutnant im Generalstab/Oberstleutnant d.G. Heinz Waizenegger: Adjutant Keitels
7:Rudolf Schmundt, Generalleutnant/Chefadjutant der Wehrmacht bei Hitler und Chef des Heerespersonalamtes und Adjutant des Oberbefehlshaber des Heeres
8:Heinrich Borgmann, Oberstleutnant/Adjutant Hitlers
9:Walther Buhle, General der Infanterie/Chef des Heeresstabes beim OKW
10:Karl-Jesco von Puttkammer, Konteradmiral/Marineadjutant Hitlers
11:Heinrich Berger/Stenograf
12:Heinz Aßmann, Kapitän zur See/Admiralstabsoffizier im Wehrmachtführungsstab
13:Ernst John von Freyend, Oberstleutnant im Generalstab/Adjutant Keitels
14:Walter Scherff, Generalmajor/Sonderbeauftragter Hitlers für die militarische Geschichtsschreibung
15:Otto Günsche, SS-Hauptsturmführer/Adjutant Hitlers
16:Hans-Erich Konteradmiral Voß, Konteradmiral/Vertreter des Oberbefehlshabers der Kriegsmarine im FHQ
17:Nicolaus von Below, Oberst im Generalstab/Luftwaffenadjutant Hitlers
18:Heinz Buchholz oder Kurt Hagen oder Fritz-Ernst Hagen?/Stenograf(※氏名不確定)
19:Hermann Fegelein, SS-Gruppenführer/Vertreter der Waffen-SS im FHQ
20:Herbert. Büchs, Generalmajor/Adjutant Jodls
21:Franz Edler von Sonnleithner/Vertreter des Auswartigen Amtes im FHQ
22:Walter Warlimont, General der Artillerie/Chef der Abteilung Landesverteidigung im Wehrmachtführungsstabe
23:Alfred Jodl, Generaloberst/Chef des Wehrmachtführungsstabes im OKW
24:Wilhelm Keitel, Generalfeldmarschall/Chef des OKW
SClaus Graf Schenk von Stauffenberg/Chef des Stabes beim Befehlshaber des Ersatzheeres

赤字は死亡者、青字は重傷者、緑字は受傷者

(注)
FHQ:Führerhauptquartier(総統大本営)
OKW:Oberkommando der Wehrmacht(国防軍最高司令部)


13:00 フェルギーベルはヒトラーの生存を確認すると慌てふためき、匿名で交換手に「大変なことが起きた」とだけ伝言を残している。
ベルリンではその伝言の出所に確証がもてず混乱し、シュタウフェンベルクの到着を待つという何ともお粗末な行動をとってしまう。
この後手後手も失敗を助長する要因となった。
例えヒトラーが存命だったとしても、事前の計画通りに迅速に対処することで、このクーデターを切っ掛けにした大規模な反乱を起こせたかもしれない。

13:30 ヒトラーは平静を取り戻し、この後の予定を当初の予定通りに行なうように命じる。
この段階では犯行についての詳細は判明しておらず、その炎の色から英国の爆弾が使われたことが分っている程度で、英国の諜報部員による仕業説、英軍機による爆弾の投下説などが浮上していた。
13:45 ヒトラー、カイテルからの中間報告を受ける。
ここに至って1名の行方不明者…シュタウフェンベルクの存在が注目されている。
15:00 ヒトラー、ムッソリーニとの会談準備に取り掛かる。 

15:40 シュタウフェンベルクがラングスドルフ空港に到着。
16:30 シュタウフェンベルク、ベルリン・ベンドラー街の陸軍参謀本部に到着。
16:40 ルートヴィヒ・ベック(陸軍上級大将・陸軍参謀本部総長)がここに至って漸く“ヴァルキューレ作戦”発令。

17:30 ヒトラーはムッソリーニとの会談を無事済ませ上機嫌で、反ヒトラー派が出した声明文を見てもなお不気味なほどに冷静であったという。
↓はムッソリーニとのこの日の会談前後の様子をとらえた映像である。
因みに、これが“ドゥーチェ”“フューラー”最後の顔合せとなった。


18:00 臨時政府軍、ベルリンとパリに戒厳令発令
18:35 ベルリン警護大隊“Großdeutschland”のエルンスト・オットー・レー マー陸軍少佐が宣伝省施設とゲッベルス宣伝相宅の確保および逮捕に向かう。
しかしゲッベルス宅の電話線 が切断されていなかったためゲッベルスはFHQに電話することが出来、レーマーに電話口に出たヒトラーと話をさせる。
ヒトラーは「私は無事だ…国防軍最高司令官として君にベルリンの秩序回復を命じる…手段は君に任せる…逆らう者は撃ち殺しても構わない!」と…その場でレーマーを“陸軍大佐”に特進させ、反ヒトラー派を容赦なく鎮圧するための全権を与えた。
それにより、陸軍参謀本部に置かれた臨時政府軍本部は鎮圧向かった部隊に包囲された。

23:00 フロムはクーデター関係者の逮捕を命じる。
00:15 即決裁判後、ベック陸軍上級大将は自決、フリードリッヒ・オルブリヒト陸軍歩兵科大将、 クイルンハイム陸軍参謀大佐、ハエフテン予備役陸軍中尉そしてシュタウフェンベルクの4名は陸軍参謀本部の中庭において銃殺された。
フロムはクーデター計画には日和見的立場をとっていたが、カイテルからヒトラー生存の電話を受け取り態度を硬化させたためシュタウフェンベルクらによって軟禁される。
しかし鎮圧部隊などにより解放されると自らにも追求が及ぶことを恐れ、シュタウフェンベルクらの身柄の確保から1時間という異例の速さでの銃殺を断行する。

この後も反体制派の追求は続き、政治家や党関係者…民間人にまで及ぶ約5000名の計画関与者が逮捕または強制収容所などに送られることになる。
シュタウフェンベルクら4名の他、翌21日中に処刑された38名を含めた約200名がベルリンのプレッツェンジー刑務所などでピアノ線による絞首刑という悲惨な死を遂げている。
またヘニング・フォン・トレスコウ 陸軍少将を含む6名が自決した。
この暗殺未遂に対するヒト ラーの追求は終戦直前の1945年4月まで続けられることになる。

因みに既記の如く、ロンメルもこの事件に関与していたとされたものの、国民的な人気を考慮し10月14日に自決を強要された。
その死は7月17日の負傷による塞栓が原因と発表され、18日にウルムで国葬が行われた。
但し、暗殺未遂事件との関与は一切公表されることはなかった。
国葬の際にヒトラーの弔辞を代読したルントシュテット陸軍元帥が差し出した腕を拒んだことはロンメル夫人ルシーのささやかな抵抗だったのであろう。
歴史において“もしも”を語ることは妥当ではないが…もしも、このクーデターが成功していたら、この後の9ヶ月間におよぶ不毛な戦いはなかったのかもしれないが…はたして、どうだったのであろうか?
ただ犠牲者の数が、それまでの5年間をも上回ることになる最期の9ヶ月間の闘いの幕引きが少しでも早まっていたならば、それだけの犠牲者・人命が失われることはなかったであろう。

シュタウフェンベルクの最後の言葉は「神聖なるドイツ万歳!」であったという。
また彼の遺骸は21日に火葬され、ベルリン郊外に散骨されたということである。
彼は生前、妻にこう語っていたという…
「失敗すれば国家に反逆したと言われるが、何もしなければ良心に背くことになる。」
(享年36歳)


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