将官徽章
Kragenspiegel für Generale
陸軍将官の襟章には、花弁(Blütenblatt)を模した先端に続く…将官用は2組、元帥用は3組の葉(Blatt)と6本の蔓(Rebe)、そして放射状の尾(Schweif)というアラベスク(唐草)模様を模した…“ラリッシュ・シュティッケライ(Larisch Stickerei:ラリッシュの刺繍飾り)”とも呼ばれる刺繍が施されている。
元々は、プロイセン王国時代にヨハン・カール・レオポルド・フォン・ラリッシュ陸軍中将を指揮官とした第26歩兵連隊“アルト・ラリシュ(※老将ラリッシュ)”の将校たちが、この模様を襟に刺繍していたことに由来するようである。
1900年3月22日付でプロイセン陸軍における将官礼装用襟刺繍飾りとして導入されることになるが、それでもまだ襟における装飾としての意味合いが強かったものと思われる。
その後、第一次世界大戦を機に“階級章としての襟章”として確立され、 第二次世界大戦中は勿論、現ドイツ陸軍においても将官用襟章として受け継がれている。

開戦後も陸軍少将以上の階級では共通のデザインによる襟章が装用されていたが、西方戦役での勝利に気を良くしたヒトラーは、1940年7月19日付で以下の9名を陸軍元帥に昇級させたことから、他の将官クラスとの差別化を図るため、新たに“元帥用”のデザイン(“葉”刺の四葉が六葉に変更)が1941年4月3日付の陸軍規程41年B第207号(H.V.41B,,Nr.207)によって制定された。

(L. to R.)
Wilhelm Keitel
Gerd von Rundstedt
Fedor von Bock
(Hermann Göring)
(Adolf Hitler)
Walther von Brauchitsch
Wilhelm von Leeb
Wilhelm List
Günther von Kluge
Erwin von Witzleben
Walter von Reichenau
Kragenspiegel für Generale (Generalmajor~Generaloberst)共通タイプ

Kragenspiegel für Generalfeldmarschall

陸軍戦闘部隊の将官の台布(Patte)は、陸軍元帥・将官共に真紅(hochrot)で、その多くは縦幅4.0~4.5cm×横幅10.0~10.5cm程の平行四辺形に整形されているが、“ラリッシュ・シュティッケライ”のサイズ等により若干の違いがみられる。
台布の素材はウール、フェルトなどが一般的であるが、SS将官襟章では一般的だが、国防軍ではあまり一般的でない別珍(6段目)やリネン(最下段)などの生地を使用したタイプもあった。
因みに、4、5段目のようなスエード様の素材を使用しているタイプもあったようだ。
襟章の場合は特に装用者の体型などにより、その襟の幅・形状、首周りなどに合わせて、台布のサイズは勿論、予め“ラリッシュ・シュティッケライ”を小さ目に刺繍するように注文するケースもあったようである。
素材としては、花弁・葉・蔓・尾部には細い番手の金モール糸や金織(Goldgespinst)またはゴールデンイエロー(goldgelb)のツェロン(Celleon)が使用されている。
因みに、葉部内側等には違った番手の糸や暗金色(dunkel-goldgelb)や光沢のない金色(mattgold)のツェロンが使われ、コントラストを出すことも多い。
徽章などに使われる金モール糸は金メッキを施した細い金属(銅など)線であるため、酸化等による経年変化で変色は避けられず、そのため変色の心配のいらない“化繊”のツェロン素材を好む者も少なくなかったようである。
戦争末期になりツェロン製の徽章が多くなるのは、1943年に軍需省からの金属類節約の通達が出されたことにより、金属製の金(銀)モール糸の使用を控えたことによるものと思われる。
将校~将官クラスの徽章類は手刺繍により製作されるため、襟章のみならず、個々のサイズや仕上がりに違いや出来不出来が顕著である。
※ツェロン製徽章を末期型としている資料もあるが、潮錆などの理由から海軍等では当初からツェロン製の徽章類が装用されていたようである。

ヴァルター・フォン・ライヒェナウ陸軍元帥の“四葉”(左)と“六葉”(右)の装用例
Generale der Sonderlaufbahnnen(特別職種・兵科等における将官および将官相当の階級者)も、当初から陸軍戦闘部隊の将官と同様の襟章、肩章等を装用していたが、1944年5月1日付で陸軍戦闘部隊の将官との識別を図るため、各々の所属兵科・職種色による襟章が導入されることとなった。
医療:コーンフラワーブルー(kornblumenblau)
警察:緑(Dunkelgrün)
陸軍野戦郵便局:茶+黄の縁取り(Braun+gelb)
行政官吏:ライトグレー(Hellgrau)
法務/軍法会議裁判官:クラレットレッド(Bordeauxrot)
国防軍官吏:濃緑+赤の縁取り(Dunkelgrün+rot)
海軍沿岸砲兵科:ライトブルー(lichtblau)







ロンメルとルントシュテットに関しては、“元帥用”襟章が制定された後も“四葉”タ イプを装用し続けていた。
ルントシュテットは、名誉連隊長として将校タイプの襟章との併用が見られるが、“六葉”タイプの装用例は(筆者としては)未見である。
ロンメルも開襟制服時は勿論、詰襟の場合も“四葉”タイプで徹してきていた。
1944年7月17日、カーン南部に駐屯の第1SS装甲軍団司令部を訪問し、ロンメルの司令部のあるラ・ロシュ・ギヨンへの途次…ヴィノーティア~リヴァロー間の街道を車列が走行中に、南アフリカ空軍所属のジェイコブズ・ルロー少佐機上のスピットファイアの機銃掃射を受け重傷を負うも、辛くも一命は取り留めた。
まだ左眼窩底骨折による腫れのみられる↓の写真(左)は、おそらくは8月1日にパリにおいて国際的な記者会見を行うにあたって誂えられたため…あえて“四 葉”ではなく“六葉” にしたのではないかと推測する。
その後、ドイツに帰国してからの静養時の写真等では、従来通りの“四葉”タイプが装用された開襟制服を着用している。
また、自決後の死装束↓(右)としてもこのタイプが選択されている。

◆イレギュラーな装用例
来るべきD-Dayを見据え、フランスから出来るだけ目を逸らし、尚且つギリシャに駐留しているドイツ軍部隊を足止めにしておく目的もあり、イギリス軍は特殊部隊により、クレタ島に駐屯の第22歩兵師団の師団長だったフリードリッヒ=ヴィルヘルム・ミュラー陸軍中将(当時)を捕捉し、その身柄をカイロに拉致する作戦を立てた。
ところが1944年2月15日付でハインリヒ・クライペ陸軍少将がその後任に任官したため、その拉致の標的をクライペに変更し、1944年4月26日に実行された。
パトリック・リー・ファーマーとその副官ウイリアム・モスら数名はドイツ兵に偽装してクライペの乗る車ごと拉致。
(※添付の写真は作戦遂行前に撮られたリー・ファーマーとモスの偽装姿。)
戦時中に幾つか企てられ、実行に移されたドイツ軍将官拉致作戦のなかで唯一成功した作戦であった。
↓の写真をご覧頂けばお分かりのように、拉致当時の階級が陸軍少将であるから彼の肩章が陸軍少将用であるのは当然であるが、なぜか襟には元帥用の襟章が装用されている。
5月14日夜半なんとか島からの脱出に成功し、その後、エジプトのイギリス軍司令部においてクライペを報道陣に披露し、作戦の成功を世界に配信しているが、おそらくはその際に撮られたもの、もしくはロンドンのトレント・パーク捕虜収容所に拘留中(1944年5月25日~8月23日)に撮られたものと思われる“有名?”な写真である。
キャプションには詳細・理由等に関する明記はされていないが、英国側により意図的にこうしたイレギュラーな装用例をさせられたものと推測する。
因みに、ミュラーは1945年4月にイギリス軍の捕虜となるが、クレタ島の指揮官だった当時に島民に対して行った戦争犯罪の容疑でギリシャに引き渡され、裁判の結果、死刑判決を受けて1947年5月20日にアテネで銃殺されている。(享年49歳)

Schulterstücke für Generale
将官クラスの肩章は、Ø4mmの2本の金丸紐の間に、中央部で二割された幅4mmの銀角紐を挟み込んだ計3本の紡ぎ紐(Gespinstschnur)を四連に編んだものとなっている。
素材は、銀角紐がアルミニウム糸による紡ぎ紐(陸軍規程35年第505号(H.V.35,Nr.505)により規定)、金丸紐はツェロンによる紡ぎ紐(陸軍規程38年B第258号 (H.V.38B,Nr.258)により規定)とされた。
陸軍将官用肩章の下地(Unterlage)には、芯となる革または厚紙に襟章同様に陸軍将官色となる真紅(hochrot)のウールまたはフェルト製の布地が被せられる。
将官クラスにおける階級も他階級同様にシュテルン(Stern:星章※ピプ)によって識別される。
ドイツ国防軍(Wehrmacht)の場合、上級大将(Generaloberst)は3個、大将(General) は2個、中将(Generalleutnant)は1個で、少将(Generalmajor)はシュテルン無しとなる。
将官用シュテルンのサイズは23~28mmとなり、将校クラス以下が用いる肩章用ピプ(15~16mm)と比較すると大型であった。
規定では銀のシュテルンを装用することとなっているようだが、 金のタイプを装用している例も少なくない。
シュテルンのサイズに関しては、各自の肩章の大きさにより選択がなされることもあった。
特に上級大将などの場合は3個のシュテルンを取付けるため、大型のモノでは下段2個が肩章からはみ出すカタチとなることから、小型のモノを用いる者もいたようである。
Schulterstücke für Generaloberst


Schulterstücke für General der XX

Schulterstücke für Generalleutnant


Schulterstücke für Generalmajor


基本的には戦闘部隊の将官はモノグラムの装用はしないこととされていたが、既記したような名誉連隊長や連隊将官服の着用を認められた者に関しては、部隊兵科色ならびにその連隊の部隊番号を表す数字のモノグラムを装用することがあった。
以前に『Monogramm』でも紹介したエルンスト・オットー・レーマー陸軍少将のようなケースは例外的であるといえる。
但し、“特別職種・兵科等における将官および将官相当の階級者”の場合は、逆にそれを識別する意味から、それらを示すモノグラムを装用した。
※1944年5月1日付で、襟章とともに肩章の下地(台布)色も所属兵科・職種色に変更された。
例えば、医療・衛生部隊の将官・将校においてはアスクラープシュタップ(Äskulapstab:杖に巻きついた蛇)の職務章が装用された。

国防軍(陸軍)官吏の将官・将校(相当)においては“Heeresverwaltung”の頭文字“HV”のデザイン化されたモノグラムが装用された。
中央部の銀角紐には緑糸による矢羽根模様が入っている。
↓の画像では分かり難いかとは思うが、台布は濃緑の下地に更に赤の下地を重ねた二段重ねとなっている。
※襟章の項↑での制服の画像をご参照頂けると分かり易いかもしれない。

Schulterstücke für Generalfeldmarschall
元々はバイエルン陸軍の元帥が装用していたと のことであるようだが、プロイセン時代の元帥の肩章にも“交差する元帥杖(Marschallstab)”を 模したモノグラムが装用されていた。
ヒトラーが政権を掌握し、1935年3月16日をもってヴェ ルサイユ条約軍備制限条項の破棄が宣言され、本格的に再軍備が図られることとなった国防軍における初の“元帥”に叙されたのがヴェルナー・フォン・ブロムベルク陸軍元帥であった。
当初は先の時代の“元帥”同様の…いわゆる1stパターンと呼ばれる“元帥杖”のモノグラムがそのまま装用されることとなった。

ブロンベルクは1936年4月20日付で国防軍における三軍初の元帥に叙され、さらに国防相に就任しているが、 1938年1月26日付で辞任に追い込まれることとなる。
開戦に伴い現役復帰を望んだものの叶うことはなく、終戦まで逼塞状態を余儀なくされた。
ニュルンベルク軍事裁判には証人として出廷しているが、そのニュルンベルクでの拘留中の1946年3月14日に癌で死亡している。
その遺骸は刻銘もない墓に埋葬されていたようであるが、その後、遺族らによりバイエルン州の高級保養地として知られるバッドウィースゼーの彼の住まいのあった近くに埋葬されたということである。(享年67歳)
ブロンベルクにも当然、第73歩兵連隊名誉連隊長の称号が与えられており、歩兵科の兵科色である“白”の台布の将官用肩章の際に連隊番号である“73”のモノグラムを装用していた例があるようである。(筆者は未確認)
おそらく↓は複製品かとは思うが、2ndパターンの…それも“ブロンベルクの元帥杖”が模されたモノグラムとなっている。
後述するが、つまり2ndパターンの“陸軍”元帥杖モノグラムとは若干異なり…2個の鉄十字章と3個のバルカンクロイツとしているところまでは芸が細かいと言えなくもない。
まぁ、ただ単に陸軍用ではなく…空軍用をチョイスしてしまっただけのことであろうが…(苦笑)
(厳密に言えば、国家鷲章の掴む卐も若干違うはずであるが…それに関しては、また後程)
ただ、実際にこのようなモノグラムだったかは疑問である。
ブロンベルクは2ndパターンの元帥杖モノグラムが制定される以前には既に表舞台から去っており、おそらくは彼独自のパターンというよりは、1stパターンの元帥杖モノグラムだったとする方が妥当かもしれない。


1940年9月27日付、陸軍規程40年B 第577号(H.V.40B,Nr.577)において“元帥”肩章用のモノグラムが改定された。
これが、いわゆる2ndパターンと呼ばれるモノグラムで、“陸軍”における実際の元帥杖を模し、5個の国家鷲章と5個の鉄十字章が交互に並ぶ二本の杖が交差するデザインとなっている。
因みに、空軍元帥のモノグラムの場合は、5個の鉄十字章が2個の鉄十字章と3個のバルカンクロイツに替わり、海軍元帥(大提督)のモノグラムの場合は、2個の鉄十字章と3個の“碇”に替わったものとなる。



材質は1st、2ndともに銀製(800)またはアルミニウム製。
銀製の場合は酸化を防ぐためにコーティング塗料が塗られている場合があり、白色に近い感じに見えるタイプもある。
肩章本体に関しては、当初は他の将官クラス同様に、2本の金丸紐と銀角紐を四連に編まれたものだったが、1941年4月3日付の陸軍規程41年B 第207号(H.V.41B,Nr.207)において、襟章の改定と合わせて“元帥用”肩章も制定された。
…とはいっても、2本の金丸紐に挟まれた中央の銀角紐も金丸紐にして、3本とも金丸紐にし、同様に四連に編んだだけのことである。
下地は何れのパターンも他の将官同様に、陸軍将官色となる真紅(hochrot)のウールまたはフェルト製の布地を被せた台布とな る。
1st.元帥杖モノグラム+1st.肩章

1st.元帥杖モノグラム+2nd.肩章 (?)

2nd.元帥杖モノグラム+1st.肩章


2nd.元帥杖モノグラム+2nd.肩章

◆イレギュラーな装用例
ロンメル率いるDAKは1942年6月21日にトブルクを攻略し、翌22日付でロンメルは陸軍元帥に昇進している。
↓の写真は、元帥昇進の報告受領直後に撮られた写真のようだが、“陸軍元帥用”の肩章が間に合わず、アルベルト・ケッセルリンク空軍元帥から“空軍元帥用”(下地が“白”台布)の肩章を譲り受け、それを装用している珍しい写真である。
因みにケッセルリンクは、西方戦役の功績により昇進を果たした既記の9人の陸軍元帥と同日(1940年7月19日)付で空軍元帥に昇進している。
尚、この時…空軍からはケッセルリンク他、エアハルト・ミルヒ、フーゴ・シュペルレの3名が空軍元帥に昇進をしている。

名誉連隊長(Generale als Chef eines Regiments)および連隊将官服(Regiments Uniformen für Generäle)着用を認められた将官においては、個々の出身部隊時代の徽章類などを装用することがある。
因みに、1938年時点で29名の陸軍大将、4名の陸軍上級大将、そして1名の帝政陸軍元帥(アウグスト・フォン・マッケンゼン:第5騎兵連隊)にこれらの名誉称号が与えられていた。
例えば有名なところでは、第18歩兵連隊名誉連隊長の称号が与えられていたゲルト・フォン・ルントシュテット陸軍元帥は連隊長時代の将校用襟章と歩兵科の兵科色である“白(weiß)”の台布(赤の場合もあり)将官用肩章に元帥杖 と連隊番号の“18”のモノグラムを装用していた例がある。
(この写真に関しては“18”のモノグラムは確認出来ない)

ヴィルヘルム・リッター・フォン・レープ陸軍元帥も出身連隊の第7砲兵連隊の砲兵科の兵科色である“赤(Hochrot)”の将校用襟章を装用した例がある。
因みに、将官用肩章の台布の色は…意識としては出身部隊である砲兵科の兵科色“赤”かとも思われるが、どちらの“赤”も“Hochrot”とされ、将官色の“赤”と見た目には区別はつかない。

↓は陸軍上級大将当時のポートレートであるが…エーヴァルト・フォン・クライスト陸軍元帥は、1940年7月19日付で陸軍上級大将に昇進し、1943年2月1日付で陸軍元帥に昇進。
連隊服着用の許されていたクライストも…将校用襟章は装用していないものの、この白黒写真の濃淡からみて将官用肩章の台布の色は、将官色の“赤”でなく出身連隊の第8騎兵連隊の兵科色“ゴールデンイエロー(Goldgelb)”のように見受けられる。
また、連隊番号である“8”のモノグラムを装用しているようである。
おそらくは元帥用肩章の際にはレープ同様に、出身連隊番号が単数字であるため、モノグラムの装用はなかったものと思われる。

Brustadler für Generale

国家鷲章(Hoheitsabzeichen)の帽章および胸章としての装用は、1934年2月25日付の軍週報により規定された。
下士官・兵/将校(将官)用の機械織り(Bevo)または機械刺繍による胸鷲章(Brustadler)の大きさに関する規定では、横幅が83mm~92mm、縦幅が36mm~39mmとされていたが、規格品ではない将官および将校用の胸鷲章は、アルミモール糸やツェロン等による手刺繍であるため、若干大きさやデザイン、仕上りに違いがみられる。
将官用も将校用も基本的な鷲章(adler)のデザインは同じだが、刺繍糸は金色およびそれに準じる色目の糸が使用された。
構成としては、頭胴部・上翼・内翼・外翼・葉冠部・卐からなり、刺繍糸の番手を変えるなどして変化を付けていることが多い。
ご覧頂ければおわかりのように、各翼部をそれぞれ分けて刺繍されているものから、単に糸による縁取りで分け目を再現しているものもある。
将校用のほとんどがそうだが、将官用の物でも太い番手のアルミモール糸による…下方六段のようなタイプが一般的と言えるかもしれない。
一段目はルントシュテット、二段目はエーリッヒ・フォン・マンシュタイン陸軍元帥の制服とされるものに装用されていた胸鷲章だけに、金糸と金アルミモール糸による丁寧かつ細密な刺繍の為された手の込んだ、上質な仕上がりとなっている。
この手のものは、テーラーなどに注文して作らせることもあるため、刺繍をする職人の技量等により、その様相や出来栄えなどの違いがはっきりし易い。
台布は、襟章同様にウールまたはフェルト製で、その色目はダークグリーン地とされるが、その濃淡は様々で、黒に近いタイプから明るいグリーンのものまでバリエーションがある。
戦車搭乗服に装用する胸鷲章では黒台布のタイプもあり、最下段の胸鷲章などはそれに相当するのかもしれない。
余段ではあるが…SS袖鷲章(SS Ärmeladler)では、SS将官クラスにおいても、ここまで細い番手の刺繍糸による細密な作例をみたことがない。
但し、太い番手の刺繍糸によるものでも、各翼の分割がしっかりと為されるなどの丁寧な作りの袖鷲章もある。
コレはヨーゼフ・“ゼップ”・ディートリヒSS上級大将の装用のものと同タイプのものとされている袖鷲章であるが…
私見ではあるが、頭胴・翼部の刺繍の技量の拙劣感が否めず、まだコチラは多少は頷けなくもないが…まぁ、比較すべき写真が不鮮明なこともあり、ゼップの物と同クラスの出来とも違うとも言い難いところではある。
ゼップ御贔屓のテーラーのお抱え、もしくは依頼する職人によるものは、おそらく、もう少し上質かつ丁寧な作りをしたものと勝手に推測したりもするのは私だけだろうか?
因みに、当方が所有するSS将校用の袖鷲章ですら…各翼の分割は勿論、各翼部、更に頭部と胴部もをそれぞれ違う糸で刺繍するなど、手間をかけた作りとなっている。

【 Meine Sammlung 】
◆実物品
彼此15年程前…世紀を跨ぐのを控えたこの時期は、世代の交代時期とも相まってか、海外の軍装実物品市場やオークションなどに、各遺族などからの流出品が結構放出されていた時期(その終盤)でもあったように思う。
そんな時期、ドイツのオークションで落札したのがマックス・ヴィンクラー陸軍少将所用の、この将官徽章類である。
今回、ご覧頂いてきたように、金銀糸などのモール糸(飾り撚り糸)による刺繍…モール織りが多用される徽章類には、それを手懸けた職人の技量などにより、その出来、仕上がりに歴然とした差が生じ易いが、ヴィンクラーのセレクトした襟章、胸鷲章ともに、当時の職人の高い技量レベルをもって、 丁寧に仕上げられている。
言ってしまえば、単なる徽章類ではあるが、そうした腕の良い職人、テーラーに注文した依頼主にも…勿論、階級、金銭的余裕などもあるが…美的感覚や拘わりというものが窺える。
胸鷲章の方は装用歴が見られるが、襟章は整形前の状態…つまり、将官・元帥用襟章の場合は、注文した勤務服の襟の形に合わせて襟章の台布を整形するケースも多く…
このような未整形のままのストック品として注文していた物、もしくは刺繍のサンプル品であった物とも思われる。
何れにしても、巷に流出するアイテムとしては、かなりレアな一品と言えるかもしれない。




マックス・ヴィンクラーは、1890年3月21日にバイエルン州の州都ミュンヘン(アメルラント?)に生まれている。
バイエルン王国陸軍に志願し、士官候補生(Fähnrich)となり1913年4月26日付で陸軍少尉に昇進…同年10月1日付で第1バイエルン歩砲兵連隊(Bayrischen Fußartillerie-Regiment Nr.1)に配属されている。
第一次世界大戦勃発により前線に配属となるも…おそらくは戦傷により、1915年4月26日付で陸軍予備役少尉となっている。
敗戦後は、1919年10月1日付でバイエルン州警察に入署、最終的に警察少佐まで昇進している。
その後、ドイツ国防軍(Wehrmacht)として新生した陸軍に復隊、1935年10月1日付で陸軍少佐として引き継がれた。
1937年4月1日付で陸軍中佐に昇進し、同日付で第79山岳砲兵連隊・第Ⅰ大隊の大隊長に任官している。
第1山岳師団麾下の連隊として、オーストリア進駐(1938年3月)およびズチェ コスロバキア(ズデーテンラント)進駐(1938年10月)に参加。
1939年9月1日のポーランド侵攻に始まった第二次世界大戦の初戦…連隊は第18山岳軍団に所属し、ポーランド戦争に参加。
1940年4月1日付で陸軍大佐に昇進し、翌5月に始まったベルギーの戦いおよび西方戦役に参加している。
1940年4月22日付(~1942年3月10日)で第79山岳砲兵連隊の砲兵監に任官。
この間の戦功により、二級および一級鉄十字章(1939年章)を追章。
連隊は1940年11月29日付で再編成が為され、1941年4月からはユーゴスラビアでの戦闘に参加。
1941年6月22日のバルバロッサ作戦発動に伴い、連隊はウクライナのジトミールに移動した後、スターリン・ライン突破の支援戦闘に当っている。
1941 年7月15日からは、ヴィーンヌィツャ・ハーイスィン・ウーマニに展開する堡塁を突破し、ドニエプル川沿岸の街ベリスラフでの大規模な戦闘に参加している。
1941年10月から同連隊の連隊指揮官(連隊長)に任官。
11月にはドニエプル川渡河を果たし、スターリノ(現:ドネツク)辺りに達し、ソ連との国境ラインに迫った。
この間の一連の戦功に対し、1941年12月15日付でドイツ十字章金章が授与された。
1942年7月26日付(~1943年9月1日)で第132砲兵司令官(Artillerie-Kommandeur:Arko)に任官。
1943年10月1日付で陸軍少将に昇進。
1943年11月26日付(~1944年1月5日)で第101砲兵司令官に任官。
最終的には、1944年4月27日付で第Ⅲ上級砲兵指揮官(Höhere-Artillerie-Offiziere)に任官している。
戦後は生まれ故郷に戻り、1979年1月24日に同地で亡くなっている。(享年88歳)
◆複製品
当時、実物品への興味、所有欲は勿論だが、それと同時に出来の良いレプリカ、複製品を探していたことがあった。
‘60年代後半~‘70年代に製造されたとされる複製品のなかには、戦時中の生地や金型、製造に携わった職人など、オリジナルのテイストを出しやすい 環境にもあってか、質が高いとされている物も多い。
その当時製造の複製品も、現在では30年近く経年しており…何をしなくても、それなりの時代掛けが為され、なかには実しやかに実物品として出廻ってしまっている物(いわゆるフェイク)もあるようである。
話を戻して…「陸軍将官徽章」などのような“モール物”は、実物ですらその出来、仕上がりには差があるわけで…複製品ともなると一層顕著で、なかには似て非なると言いたくもなるような物まで堂々と販売されていたりもする。
ならばということで、先ずは当方が自分好みのデザイン画を起こし、刺繍専門店に、それを基に作製してもらえないものかと思い立った。
そこで、当時はまだコンピューターがパーソナルではなかったもので…タウンページをググる…ではなく、括って…刺繍、徽章屋さんを一軒一軒あたってみた。
その際に、ご快諾頂いた何軒かに製作して頂いたうちの一つが、この陸軍将官の襟章である。
(因みに、他には陸軍将官用制帽前章、SS少将用襟章、SS袖鷲章なども製作して頂いた)
個人的に、江戸刺繍協会の会長さんやモール刺繍組合の方などを紹介され、直接お会いする機会なども頂いたが、その際のお話では、現在では実物品のようなモール刺繍は…その技術も勿論だが、当時使われていた糸(特に、細い番手の糸)自体もなく、再現は難しいとの ことであった。
それでも、かなり頑張って再現をして頂き、もう随分と時を経てしまったが、あらためてその時に携わって頂いた方々に感謝をする次第である。

陸軍将官の襟章には、花弁(Blütenblatt)を模した先端に続く…将官用は2組、元帥用は3組の葉(Blatt)と6本の蔓(Rebe)、そして放射状の尾(Schweif)というアラベスク(唐草)模様を模した…“ラリッシュ・シュティッケライ(Larisch Stickerei:ラリッシュの刺繍飾り)”とも呼ばれる刺繍が施されている。
元々は、プロイセン王国時代にヨハン・カール・レオポルド・フォン・ラリッシュ陸軍中将を指揮官とした第26歩兵連隊“アルト・ラリシュ(※老将ラリッシュ)”の将校たちが、この模様を襟に刺繍していたことに由来するようである。
1900年3月22日付でプロイセン陸軍における将官礼装用襟刺繍飾りとして導入されることになるが、それでもまだ襟における装飾としての意味合いが強かったものと思われる。
その後、第一次世界大戦を機に“階級章としての襟章”として確立され、 第二次世界大戦中は勿論、現ドイツ陸軍においても将官用襟章として受け継がれている。

開戦後も陸軍少将以上の階級では共通のデザインによる襟章が装用されていたが、西方戦役での勝利に気を良くしたヒトラーは、1940年7月19日付で以下の9名を陸軍元帥に昇級させたことから、他の将官クラスとの差別化を図るため、新たに“元帥用”のデザイン(“葉”刺の四葉が六葉に変更)が1941年4月3日付の陸軍規程41年B第207号(H.V.41B,,Nr.207)によって制定された。

(L. to R.)
Wilhelm Keitel
Gerd von Rundstedt
Fedor von Bock
(Hermann Göring)
(Adolf Hitler)
Walther von Brauchitsch
Wilhelm von Leeb
Wilhelm List
Günther von Kluge
Erwin von Witzleben
Walter von Reichenau
Kragenspiegel für Generale (Generalmajor~Generaloberst)共通タイプ

Kragenspiegel für Generalfeldmarschall

陸軍戦闘部隊の将官の台布(Patte)は、陸軍元帥・将官共に真紅(hochrot)で、その多くは縦幅4.0~4.5cm×横幅10.0~10.5cm程の平行四辺形に整形されているが、“ラリッシュ・シュティッケライ”のサイズ等により若干の違いがみられる。
台布の素材はウール、フェルトなどが一般的であるが、SS将官襟章では一般的だが、国防軍ではあまり一般的でない別珍(6段目)やリネン(最下段)などの生地を使用したタイプもあった。
因みに、4、5段目のようなスエード様の素材を使用しているタイプもあったようだ。
襟章の場合は特に装用者の体型などにより、その襟の幅・形状、首周りなどに合わせて、台布のサイズは勿論、予め“ラリッシュ・シュティッケライ”を小さ目に刺繍するように注文するケースもあったようである。
素材としては、花弁・葉・蔓・尾部には細い番手の金モール糸や金織(Goldgespinst)またはゴールデンイエロー(goldgelb)のツェロン(Celleon)が使用されている。
因みに、葉部内側等には違った番手の糸や暗金色(dunkel-goldgelb)や光沢のない金色(mattgold)のツェロンが使われ、コントラストを出すことも多い。
徽章などに使われる金モール糸は金メッキを施した細い金属(銅など)線であるため、酸化等による経年変化で変色は避けられず、そのため変色の心配のいらない“化繊”のツェロン素材を好む者も少なくなかったようである。
戦争末期になりツェロン製の徽章が多くなるのは、1943年に軍需省からの金属類節約の通達が出されたことにより、金属製の金(銀)モール糸の使用を控えたことによるものと思われる。
将校~将官クラスの徽章類は手刺繍により製作されるため、襟章のみならず、個々のサイズや仕上がりに違いや出来不出来が顕著である。
※ツェロン製徽章を末期型としている資料もあるが、潮錆などの理由から海軍等では当初からツェロン製の徽章類が装用されていたようである。

ヴァルター・フォン・ライヒェナウ陸軍元帥の“四葉”(左)と“六葉”(右)の装用例
Generale der Sonderlaufbahnnen(特別職種・兵科等における将官および将官相当の階級者)も、当初から陸軍戦闘部隊の将官と同様の襟章、肩章等を装用していたが、1944年5月1日付で陸軍戦闘部隊の将官との識別を図るため、各々の所属兵科・職種色による襟章が導入されることとなった。
医療:コーンフラワーブルー(kornblumenblau)
警察:緑(Dunkelgrün)
陸軍野戦郵便局:茶+黄の縁取り(Braun+gelb)
行政官吏:ライトグレー(Hellgrau)
法務/軍法会議裁判官:クラレットレッド(Bordeauxrot)
国防軍官吏:濃緑+赤の縁取り(Dunkelgrün+rot)
海軍沿岸砲兵科:ライトブルー(lichtblau)







ロンメルとルントシュテットに関しては、“元帥用”襟章が制定された後も“四葉”タ イプを装用し続けていた。
ルントシュテットは、名誉連隊長として将校タイプの襟章との併用が見られるが、“六葉”タイプの装用例は(筆者としては)未見である。
ロンメルも開襟制服時は勿論、詰襟の場合も“四葉”タイプで徹してきていた。
1944年7月17日、カーン南部に駐屯の第1SS装甲軍団司令部を訪問し、ロンメルの司令部のあるラ・ロシュ・ギヨンへの途次…ヴィノーティア~リヴァロー間の街道を車列が走行中に、南アフリカ空軍所属のジェイコブズ・ルロー少佐機上のスピットファイアの機銃掃射を受け重傷を負うも、辛くも一命は取り留めた。
まだ左眼窩底骨折による腫れのみられる↓の写真(左)は、おそらくは8月1日にパリにおいて国際的な記者会見を行うにあたって誂えられたため…あえて“四 葉”ではなく“六葉” にしたのではないかと推測する。
その後、ドイツに帰国してからの静養時の写真等では、従来通りの“四葉”タイプが装用された開襟制服を着用している。
また、自決後の死装束↓(右)としてもこのタイプが選択されている。

◆イレギュラーな装用例
来るべきD-Dayを見据え、フランスから出来るだけ目を逸らし、尚且つギリシャに駐留しているドイツ軍部隊を足止めにしておく目的もあり、イギリス軍は特殊部隊により、クレタ島に駐屯の第22歩兵師団の師団長だったフリードリッヒ=ヴィルヘルム・ミュラー陸軍中将(当時)を捕捉し、その身柄をカイロに拉致する作戦を立てた。
ところが1944年2月15日付でハインリヒ・クライペ陸軍少将がその後任に任官したため、その拉致の標的をクライペに変更し、1944年4月26日に実行された。
パトリック・リー・ファーマーとその副官ウイリアム・モスら数名はドイツ兵に偽装してクライペの乗る車ごと拉致。
(※添付の写真は作戦遂行前に撮られたリー・ファーマーとモスの偽装姿。)
戦時中に幾つか企てられ、実行に移されたドイツ軍将官拉致作戦のなかで唯一成功した作戦であった。
↓の写真をご覧頂けばお分かりのように、拉致当時の階級が陸軍少将であるから彼の肩章が陸軍少将用であるのは当然であるが、なぜか襟には元帥用の襟章が装用されている。
5月14日夜半なんとか島からの脱出に成功し、その後、エジプトのイギリス軍司令部においてクライペを報道陣に披露し、作戦の成功を世界に配信しているが、おそらくはその際に撮られたもの、もしくはロンドンのトレント・パーク捕虜収容所に拘留中(1944年5月25日~8月23日)に撮られたものと思われる“有名?”な写真である。
キャプションには詳細・理由等に関する明記はされていないが、英国側により意図的にこうしたイレギュラーな装用例をさせられたものと推測する。
因みに、ミュラーは1945年4月にイギリス軍の捕虜となるが、クレタ島の指揮官だった当時に島民に対して行った戦争犯罪の容疑でギリシャに引き渡され、裁判の結果、死刑判決を受けて1947年5月20日にアテネで銃殺されている。(享年49歳)

Schulterstücke für Generale
将官クラスの肩章は、Ø4mmの2本の金丸紐の間に、中央部で二割された幅4mmの銀角紐を挟み込んだ計3本の紡ぎ紐(Gespinstschnur)を四連に編んだものとなっている。
素材は、銀角紐がアルミニウム糸による紡ぎ紐(陸軍規程35年第505号(H.V.35,Nr.505)により規定)、金丸紐はツェロンによる紡ぎ紐(陸軍規程38年B第258号 (H.V.38B,Nr.258)により規定)とされた。
陸軍将官用肩章の下地(Unterlage)には、芯となる革または厚紙に襟章同様に陸軍将官色となる真紅(hochrot)のウールまたはフェルト製の布地が被せられる。
将官クラスにおける階級も他階級同様にシュテルン(Stern:星章※ピプ)によって識別される。
ドイツ国防軍(Wehrmacht)の場合、上級大将(Generaloberst)は3個、大将(General) は2個、中将(Generalleutnant)は1個で、少将(Generalmajor)はシュテルン無しとなる。
将官用シュテルンのサイズは23~28mmとなり、将校クラス以下が用いる肩章用ピプ(15~16mm)と比較すると大型であった。
規定では銀のシュテルンを装用することとなっているようだが、 金のタイプを装用している例も少なくない。
シュテルンのサイズに関しては、各自の肩章の大きさにより選択がなされることもあった。
特に上級大将などの場合は3個のシュテルンを取付けるため、大型のモノでは下段2個が肩章からはみ出すカタチとなることから、小型のモノを用いる者もいたようである。
Schulterstücke für Generaloberst


Schulterstücke für General der XX

Schulterstücke für Generalleutnant


Schulterstücke für Generalmajor


基本的には戦闘部隊の将官はモノグラムの装用はしないこととされていたが、既記したような名誉連隊長や連隊将官服の着用を認められた者に関しては、部隊兵科色ならびにその連隊の部隊番号を表す数字のモノグラムを装用することがあった。
以前に『Monogramm』でも紹介したエルンスト・オットー・レーマー陸軍少将のようなケースは例外的であるといえる。
但し、“特別職種・兵科等における将官および将官相当の階級者”の場合は、逆にそれを識別する意味から、それらを示すモノグラムを装用した。
※1944年5月1日付で、襟章とともに肩章の下地(台布)色も所属兵科・職種色に変更された。
例えば、医療・衛生部隊の将官・将校においてはアスクラープシュタップ(Äskulapstab:杖に巻きついた蛇)の職務章が装用された。

国防軍(陸軍)官吏の将官・将校(相当)においては“Heeresverwaltung”の頭文字“HV”のデザイン化されたモノグラムが装用された。
中央部の銀角紐には緑糸による矢羽根模様が入っている。
↓の画像では分かり難いかとは思うが、台布は濃緑の下地に更に赤の下地を重ねた二段重ねとなっている。
※襟章の項↑での制服の画像をご参照頂けると分かり易いかもしれない。

Schulterstücke für Generalfeldmarschall
元々はバイエルン陸軍の元帥が装用していたと のことであるようだが、プロイセン時代の元帥の肩章にも“交差する元帥杖(Marschallstab)”を 模したモノグラムが装用されていた。
ヒトラーが政権を掌握し、1935年3月16日をもってヴェ ルサイユ条約軍備制限条項の破棄が宣言され、本格的に再軍備が図られることとなった国防軍における初の“元帥”に叙されたのがヴェルナー・フォン・ブロムベルク陸軍元帥であった。
当初は先の時代の“元帥”同様の…いわゆる1stパターンと呼ばれる“元帥杖”のモノグラムがそのまま装用されることとなった。

ブロンベルクは1936年4月20日付で国防軍における三軍初の元帥に叙され、さらに国防相に就任しているが、 1938年1月26日付で辞任に追い込まれることとなる。
開戦に伴い現役復帰を望んだものの叶うことはなく、終戦まで逼塞状態を余儀なくされた。
ニュルンベルク軍事裁判には証人として出廷しているが、そのニュルンベルクでの拘留中の1946年3月14日に癌で死亡している。
その遺骸は刻銘もない墓に埋葬されていたようであるが、その後、遺族らによりバイエルン州の高級保養地として知られるバッドウィースゼーの彼の住まいのあった近くに埋葬されたということである。(享年67歳)
ブロンベルクにも当然、第73歩兵連隊名誉連隊長の称号が与えられており、歩兵科の兵科色である“白”の台布の将官用肩章の際に連隊番号である“73”のモノグラムを装用していた例があるようである。(筆者は未確認)
おそらく↓は複製品かとは思うが、2ndパターンの…それも“ブロンベルクの元帥杖”が模されたモノグラムとなっている。
後述するが、つまり2ndパターンの“陸軍”元帥杖モノグラムとは若干異なり…2個の鉄十字章と3個のバルカンクロイツとしているところまでは芸が細かいと言えなくもない。
まぁ、ただ単に陸軍用ではなく…空軍用をチョイスしてしまっただけのことであろうが…(苦笑)
(厳密に言えば、国家鷲章の掴む卐も若干違うはずであるが…それに関しては、また後程)
ただ、実際にこのようなモノグラムだったかは疑問である。
ブロンベルクは2ndパターンの元帥杖モノグラムが制定される以前には既に表舞台から去っており、おそらくは彼独自のパターンというよりは、1stパターンの元帥杖モノグラムだったとする方が妥当かもしれない。


1940年9月27日付、陸軍規程40年B 第577号(H.V.40B,Nr.577)において“元帥”肩章用のモノグラムが改定された。
これが、いわゆる2ndパターンと呼ばれるモノグラムで、“陸軍”における実際の元帥杖を模し、5個の国家鷲章と5個の鉄十字章が交互に並ぶ二本の杖が交差するデザインとなっている。
因みに、空軍元帥のモノグラムの場合は、5個の鉄十字章が2個の鉄十字章と3個のバルカンクロイツに替わり、海軍元帥(大提督)のモノグラムの場合は、2個の鉄十字章と3個の“碇”に替わったものとなる。



材質は1st、2ndともに銀製(800)またはアルミニウム製。
銀製の場合は酸化を防ぐためにコーティング塗料が塗られている場合があり、白色に近い感じに見えるタイプもある。
肩章本体に関しては、当初は他の将官クラス同様に、2本の金丸紐と銀角紐を四連に編まれたものだったが、1941年4月3日付の陸軍規程41年B 第207号(H.V.41B,Nr.207)において、襟章の改定と合わせて“元帥用”肩章も制定された。
…とはいっても、2本の金丸紐に挟まれた中央の銀角紐も金丸紐にして、3本とも金丸紐にし、同様に四連に編んだだけのことである。
下地は何れのパターンも他の将官同様に、陸軍将官色となる真紅(hochrot)のウールまたはフェルト製の布地を被せた台布とな る。
1st.元帥杖モノグラム+1st.肩章

1st.元帥杖モノグラム+2nd.肩章 (?)

2nd.元帥杖モノグラム+1st.肩章


2nd.元帥杖モノグラム+2nd.肩章

◆イレギュラーな装用例
ロンメル率いるDAKは1942年6月21日にトブルクを攻略し、翌22日付でロンメルは陸軍元帥に昇進している。
↓の写真は、元帥昇進の報告受領直後に撮られた写真のようだが、“陸軍元帥用”の肩章が間に合わず、アルベルト・ケッセルリンク空軍元帥から“空軍元帥用”(下地が“白”台布)の肩章を譲り受け、それを装用している珍しい写真である。
因みにケッセルリンクは、西方戦役の功績により昇進を果たした既記の9人の陸軍元帥と同日(1940年7月19日)付で空軍元帥に昇進している。
尚、この時…空軍からはケッセルリンク他、エアハルト・ミルヒ、フーゴ・シュペルレの3名が空軍元帥に昇進をしている。

名誉連隊長(Generale als Chef eines Regiments)および連隊将官服(Regiments Uniformen für Generäle)着用を認められた将官においては、個々の出身部隊時代の徽章類などを装用することがある。
因みに、1938年時点で29名の陸軍大将、4名の陸軍上級大将、そして1名の帝政陸軍元帥(アウグスト・フォン・マッケンゼン:第5騎兵連隊)にこれらの名誉称号が与えられていた。
例えば有名なところでは、第18歩兵連隊名誉連隊長の称号が与えられていたゲルト・フォン・ルントシュテット陸軍元帥は連隊長時代の将校用襟章と歩兵科の兵科色である“白(weiß)”の台布(赤の場合もあり)将官用肩章に元帥杖 と連隊番号の“18”のモノグラムを装用していた例がある。
(この写真に関しては“18”のモノグラムは確認出来ない)

ヴィルヘルム・リッター・フォン・レープ陸軍元帥も出身連隊の第7砲兵連隊の砲兵科の兵科色である“赤(Hochrot)”の将校用襟章を装用した例がある。
因みに、将官用肩章の台布の色は…意識としては出身部隊である砲兵科の兵科色“赤”かとも思われるが、どちらの“赤”も“Hochrot”とされ、将官色の“赤”と見た目には区別はつかない。

↓は陸軍上級大将当時のポートレートであるが…エーヴァルト・フォン・クライスト陸軍元帥は、1940年7月19日付で陸軍上級大将に昇進し、1943年2月1日付で陸軍元帥に昇進。
連隊服着用の許されていたクライストも…将校用襟章は装用していないものの、この白黒写真の濃淡からみて将官用肩章の台布の色は、将官色の“赤”でなく出身連隊の第8騎兵連隊の兵科色“ゴールデンイエロー(Goldgelb)”のように見受けられる。
また、連隊番号である“8”のモノグラムを装用しているようである。
おそらくは元帥用肩章の際にはレープ同様に、出身連隊番号が単数字であるため、モノグラムの装用はなかったものと思われる。

Brustadler für Generale

国家鷲章(Hoheitsabzeichen)の帽章および胸章としての装用は、1934年2月25日付の軍週報により規定された。
下士官・兵/将校(将官)用の機械織り(Bevo)または機械刺繍による胸鷲章(Brustadler)の大きさに関する規定では、横幅が83mm~92mm、縦幅が36mm~39mmとされていたが、規格品ではない将官および将校用の胸鷲章は、アルミモール糸やツェロン等による手刺繍であるため、若干大きさやデザイン、仕上りに違いがみられる。
将官用も将校用も基本的な鷲章(adler)のデザインは同じだが、刺繍糸は金色およびそれに準じる色目の糸が使用された。
構成としては、頭胴部・上翼・内翼・外翼・葉冠部・卐からなり、刺繍糸の番手を変えるなどして変化を付けていることが多い。
ご覧頂ければおわかりのように、各翼部をそれぞれ分けて刺繍されているものから、単に糸による縁取りで分け目を再現しているものもある。
将校用のほとんどがそうだが、将官用の物でも太い番手のアルミモール糸による…下方六段のようなタイプが一般的と言えるかもしれない。
一段目はルントシュテット、二段目はエーリッヒ・フォン・マンシュタイン陸軍元帥の制服とされるものに装用されていた胸鷲章だけに、金糸と金アルミモール糸による丁寧かつ細密な刺繍の為された手の込んだ、上質な仕上がりとなっている。
この手のものは、テーラーなどに注文して作らせることもあるため、刺繍をする職人の技量等により、その様相や出来栄えなどの違いがはっきりし易い。
台布は、襟章同様にウールまたはフェルト製で、その色目はダークグリーン地とされるが、その濃淡は様々で、黒に近いタイプから明るいグリーンのものまでバリエーションがある。
戦車搭乗服に装用する胸鷲章では黒台布のタイプもあり、最下段の胸鷲章などはそれに相当するのかもしれない。
余段ではあるが…SS袖鷲章(SS Ärmeladler)では、SS将官クラスにおいても、ここまで細い番手の刺繍糸による細密な作例をみたことがない。
但し、太い番手の刺繍糸によるものでも、各翼の分割がしっかりと為されるなどの丁寧な作りの袖鷲章もある。
コレはヨーゼフ・“ゼップ”・ディートリヒSS上級大将の装用のものと同タイプのものとされている袖鷲章であるが…
私見ではあるが、頭胴・翼部の刺繍の技量の拙劣感が否めず、まだコチラは多少は頷けなくもないが…まぁ、比較すべき写真が不鮮明なこともあり、ゼップの物と同クラスの出来とも違うとも言い難いところではある。
ゼップ御贔屓のテーラーのお抱え、もしくは依頼する職人によるものは、おそらく、もう少し上質かつ丁寧な作りをしたものと勝手に推測したりもするのは私だけだろうか?
因みに、当方が所有するSS将校用の袖鷲章ですら…各翼の分割は勿論、各翼部、更に頭部と胴部もをそれぞれ違う糸で刺繍するなど、手間をかけた作りとなっている。

【 Meine Sammlung 】
◆実物品
彼此15年程前…世紀を跨ぐのを控えたこの時期は、世代の交代時期とも相まってか、海外の軍装実物品市場やオークションなどに、各遺族などからの流出品が結構放出されていた時期(その終盤)でもあったように思う。
そんな時期、ドイツのオークションで落札したのがマックス・ヴィンクラー陸軍少将所用の、この将官徽章類である。
今回、ご覧頂いてきたように、金銀糸などのモール糸(飾り撚り糸)による刺繍…モール織りが多用される徽章類には、それを手懸けた職人の技量などにより、その出来、仕上がりに歴然とした差が生じ易いが、ヴィンクラーのセレクトした襟章、胸鷲章ともに、当時の職人の高い技量レベルをもって、 丁寧に仕上げられている。
言ってしまえば、単なる徽章類ではあるが、そうした腕の良い職人、テーラーに注文した依頼主にも…勿論、階級、金銭的余裕などもあるが…美的感覚や拘わりというものが窺える。
胸鷲章の方は装用歴が見られるが、襟章は整形前の状態…つまり、将官・元帥用襟章の場合は、注文した勤務服の襟の形に合わせて襟章の台布を整形するケースも多く…
このような未整形のままのストック品として注文していた物、もしくは刺繍のサンプル品であった物とも思われる。
何れにしても、巷に流出するアイテムとしては、かなりレアな一品と言えるかもしれない。




マックス・ヴィンクラーは、1890年3月21日にバイエルン州の州都ミュンヘン(アメルラント?)に生まれている。
バイエルン王国陸軍に志願し、士官候補生(Fähnrich)となり1913年4月26日付で陸軍少尉に昇進…同年10月1日付で第1バイエルン歩砲兵連隊(Bayrischen Fußartillerie-Regiment Nr.1)に配属されている。
第一次世界大戦勃発により前線に配属となるも…おそらくは戦傷により、1915年4月26日付で陸軍予備役少尉となっている。
敗戦後は、1919年10月1日付でバイエルン州警察に入署、最終的に警察少佐まで昇進している。
その後、ドイツ国防軍(Wehrmacht)として新生した陸軍に復隊、1935年10月1日付で陸軍少佐として引き継がれた。
1937年4月1日付で陸軍中佐に昇進し、同日付で第79山岳砲兵連隊・第Ⅰ大隊の大隊長に任官している。
第1山岳師団麾下の連隊として、オーストリア進駐(1938年3月)およびズチェ コスロバキア(ズデーテンラント)進駐(1938年10月)に参加。
1939年9月1日のポーランド侵攻に始まった第二次世界大戦の初戦…連隊は第18山岳軍団に所属し、ポーランド戦争に参加。
1940年4月1日付で陸軍大佐に昇進し、翌5月に始まったベルギーの戦いおよび西方戦役に参加している。
1940年4月22日付(~1942年3月10日)で第79山岳砲兵連隊の砲兵監に任官。
この間の戦功により、二級および一級鉄十字章(1939年章)を追章。
連隊は1940年11月29日付で再編成が為され、1941年4月からはユーゴスラビアでの戦闘に参加。
1941年6月22日のバルバロッサ作戦発動に伴い、連隊はウクライナのジトミールに移動した後、スターリン・ライン突破の支援戦闘に当っている。
1941 年7月15日からは、ヴィーンヌィツャ・ハーイスィン・ウーマニに展開する堡塁を突破し、ドニエプル川沿岸の街ベリスラフでの大規模な戦闘に参加している。
1941年10月から同連隊の連隊指揮官(連隊長)に任官。
11月にはドニエプル川渡河を果たし、スターリノ(現:ドネツク)辺りに達し、ソ連との国境ラインに迫った。
この間の一連の戦功に対し、1941年12月15日付でドイツ十字章金章が授与された。
1942年7月26日付(~1943年9月1日)で第132砲兵司令官(Artillerie-Kommandeur:Arko)に任官。
1943年10月1日付で陸軍少将に昇進。
1943年11月26日付(~1944年1月5日)で第101砲兵司令官に任官。
最終的には、1944年4月27日付で第Ⅲ上級砲兵指揮官(Höhere-Artillerie-Offiziere)に任官している。
戦後は生まれ故郷に戻り、1979年1月24日に同地で亡くなっている。(享年88歳)
◆複製品
当時、実物品への興味、所有欲は勿論だが、それと同時に出来の良いレプリカ、複製品を探していたことがあった。
‘60年代後半~‘70年代に製造されたとされる複製品のなかには、戦時中の生地や金型、製造に携わった職人など、オリジナルのテイストを出しやすい 環境にもあってか、質が高いとされている物も多い。
その当時製造の複製品も、現在では30年近く経年しており…何をしなくても、それなりの時代掛けが為され、なかには実しやかに実物品として出廻ってしまっている物(いわゆるフェイク)もあるようである。
話を戻して…「陸軍将官徽章」などのような“モール物”は、実物ですらその出来、仕上がりには差があるわけで…複製品ともなると一層顕著で、なかには似て非なると言いたくもなるような物まで堂々と販売されていたりもする。
ならばということで、先ずは当方が自分好みのデザイン画を起こし、刺繍専門店に、それを基に作製してもらえないものかと思い立った。
そこで、当時はまだコンピューターがパーソナルではなかったもので…タウンページをググる…ではなく、括って…刺繍、徽章屋さんを一軒一軒あたってみた。
その際に、ご快諾頂いた何軒かに製作して頂いたうちの一つが、この陸軍将官の襟章である。
(因みに、他には陸軍将官用制帽前章、SS少将用襟章、SS袖鷲章なども製作して頂いた)
個人的に、江戸刺繍協会の会長さんやモール刺繍組合の方などを紹介され、直接お会いする機会なども頂いたが、その際のお話では、現在では実物品のようなモール刺繍は…その技術も勿論だが、当時使われていた糸(特に、細い番手の糸)自体もなく、再現は難しいとの ことであった。
それでも、かなり頑張って再現をして頂き、もう随分と時を経てしまったが、あらためてその時に携わって頂いた方々に感謝をする次第である。


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テーマ : 第二次世界大戦【ドイツ】
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