1946年10月15日…翌未明にニュルンベルグ軍事裁判での刑の執行を控え、独房棟C1階は最後の静寂の中にあり、看守のグレゴリー・ティムチシン二等軍曹は各独房の覗き小窓から房内の様子を見廻っていた。
そして、5号独房を覗いた彼は房内の異変に気付く。
左手をだらりとベッドから垂らし、異常なイビキをかき、片側の口の端から泡を噴いているその顔色は緑がかっていた。
詰まらせた息を大きく吐いた直後…
午後10時47分…
ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリング は絶命した。(享年53歳)
シアン化合物による服毒自殺であった。
ゲーリングは、この死(自殺)に至った経緯について、連合国管理委員会宛に次のような書簡を残している。
「銃殺刑であれば私は全く異議を唱えなかったであろう。 しかしながら、ドイツ国家元帥を絞首刑に処することを許すわけにはいかない。 ドイツのために私は、この絞首刑を認めることが出来ないのだ。 さらに私は、敵による罰を甘んじて受けるという道徳上の義務を感じていない。 こうした理由により、私は偉大なるハンニバル将軍のような死を選ぶこととした。 我々の死を人気第一主義の報道陣に対する見世物にすることは悪趣味の極みであると考える。 こうした終わり方が検察側と判事団の示した卑劣さと軌を一にするものであるということは間違いない。 すべては見世物裁判、質の悪い喜劇だったのだ。 私個人としては、こうした人気第一主義を避け、観客のいないなかで死ぬことにする。 」 ゲーリングの意見に正当性があるか否かは別にして、連合国側は彼の自殺により唯一残ったドイツの最重要戦犯を正義の名のもとに裁く機会を失う結果となった。
ゲーリングは生前…
「いつの日か貧しく死ぬことが私自身にとっては理想である」と語っていたという。
その言葉通りになったも言うべきか…狭い監房の一室で、自らの命を絶った。
片目だけが閉じられたその死に顔は、出し抜いてやった者たちを小馬鹿にして、まるでウィンクでもしているかのようにさえ見える。
勿論、偶然なのだろうが、ゲーリングのプライドが為せる最後の抵抗が起こさせた“偶然”だったのかもしれない。
大戦中には120kg近くあった体重も、死ぬ間際には84kg程になっていた。
(※身長は170cm程度)
ゲーリングを“無能な太っちょ”との酷評もあるが、はたしてその実はどうだったのであろうか?
ニュルンベルク収監中に行われた知能テストでは138点という…得点上では“天才”という範疇に入ることとなる得点(140点以上)に迫る程の高 得点であったという。
現にゲーリングは頭の回転が速く、その口調は荘重で風格さえ感じさせ…更に様々な表情を巧みに使い分け、しばしば公判中も彼に不快感を持って臨んだ傍聴人達でさえ、いつの間にか彼に惹きつけられてしまっていたとのことである。
ナチスが政権を執って以降、財界・団体その他…いわゆる上流階級の間では、ナチス高官のなかでも話のわかる人物として通っており、それらとの太いパイプを握ってい た彼はリベートと賄賂によって巨万の富を蓄えていくこととなる。
当初はヒトラーからの信頼も厚く…1938年2月4日付で空軍元帥(航空大臣兼空軍総司令官)に昇級していた彼に対しては、 国防軍三軍の“元帥”よりも上位にあたる新たに国家元帥(Reichsmarschall)という地位を設け、1940年7月19日付でそれに昇級させ…
さらに翌年の1941年6月29日付“総統布告”
(※) ではヒトラーの正式後継者に指名されるまでに至り、名実ともに第三帝国のNo.2の地位にまで登りつめた。
(※)
総統である余が何らかの理由により統治が出来なくなった際にはゲーリングがそれを代行するものとし、また死亡した際にはゲーリングがこれを継承することとする。 そんな彼の歯車も戦争へと突入していった頃より狂いが生じ始める。
ダンケルクでの失態、バトル・オブ・ブリテンの失敗…ついにはスターリングラードによって彼の面目は完全に失墜する。
それでもヒトラーにルール地方の防空体勢について尋ねられた際に「もし敵機がここまで飛来したら、私を丁稚小僧と呼んでも結構です!」とまで豪語したとのことであるが、その空自慢に反しドイツ空軍(LW)は1942年5月30日に英空軍の爆撃機150機によるケルンの夜間爆撃を易々と許してしまった。
カリン・ハルの山荘にて遊びに興じていた彼は総統官邸に呼び出された。
すぐさま駆けつけた彼は、いつものごとくヒトラーに面会の握手を求めたが拒絶され、そのうえ居並ぶLW将官・将校の前で激しく罵倒された。
空襲はその後も…米空軍が昼間に、英空軍が夜間にと一層激化し、ベルリンをはじめドイツの大部分の都市が瓦礫と化すこととなった。
彼の地位や名誉は今や名ばかりのものとなり、総統官邸に足を運ぶこともなくなり、薬に頼るなど頽廃的な日々に興じるようになっていく。
ゲーリングは政治屋としてはある程度有能だったが、戦争屋としての器ではなかったと言えるのかもしれない。
国家元帥に昇級当初に撮られたポートレートで、まだ割腹のよい程度で精悍な感じもする。
1stパターンの国家元帥用襟章を装用している。
ヒトラーは、初戦~フランス侵攻での軍功を讃え…1940年7月19日付で陸軍9名、空軍3名の新たな元帥を誕生させ各軍の上層部の刷新を図った。
一方、ゲーリングは1940年7月19日付で国家元帥へと昇級したのに伴い、それまでの空軍色(紺色)から独自のスカイブルー色様のユニフォーム↑などを着用するようになる。
制服(制帽)だけではなく、徽章類(襟章、肩章)のデザインも国家元帥独自のモノを採用した。
◆
Kragenspiegel 襟章のデザインには二つのパターンが確認されており、1940年7月19日~1941年6月末頃までの1stパターン↑…1941年7月頃 (おそらく後継者候補が確約された頃)から終戦、およびニュルンベルク収監中までの間に装用していた2ndパターンが確認されている。
1stパターンは柏葉のレリーフに囲まれた中のデザインが、右襟章が国家鷲章(左向閉翼型)、左襟章がクロスした元帥杖のデザインであるのに対し、2ndパターンでは左右ともにクロスした元帥杖のシンメトリーなデザインに変更されている。
因みに、1stパターンの実物および装用時における襟章の鮮明な画像を未見なのではっきりとしたことは言えないが、
この画像 を見ると、どうも閉翼型鷲章の掴む鉤十字は葉冠型↓ではなく直掴型のようにも見受けられる。
#1stパターン
#2ndパターン
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Schulterstück 空軍元帥用が他の国防軍元帥と同様にクロスした元帥杖のモノグラムだけだったのに対し、↓のような国家鷲章を加えたデザインとした。
国家鷲章は左右シンメトリーとなっており、両頭が正面を向くようにそうに装着された。
肩章のデザインに関しては、襟章のような時期的変更はなかったものと思われる。
但し、国家元帥用鷲章は金地というのが一般的であるが、↓のように…初期には銀地のタイプを装着していたということも考えられる。
因みに、↓の画像では肩章に対し、鷲章が逆に装着されてしまっている。
米軍に投降した際には、金モール編肩章ではなくスリップオン・タイプの
布地肩章 に直に国家鷲章/元帥杖が刺繍されたものを装用していた。
着用していた制服は、画像・映像で見る限りでは…フラノ地調の兵用様仕立ての(プリーツ無)四つ貼りポケットタイプで…また、空軍の開襟タイプを閉襟したものでもないようである。
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Brustadler 胸の国家鷲章のデザインは空軍鷲章そのままであるが…
通常、空軍将官などが夏服(白服)に装着するのと同様な白台布に金モール糸による手刺繍のタイプを白服には勿論、スカイブルー色様の制服にも装用している。
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Schirmmütze スカイブルー色調のトップに灰色~薄紫色調の鉢巻部の制帽では、その鉢巻部布地に空軍型帽章と、それを取り囲むように月桂樹のリースが金モール糸により直に刺繍が施されていた。
クラウン部の空軍型鷲章もまた金モール糸により直に刺繍が施されており、さすが国家元帥用の制帽と納得するような、細いモール糸で細かく丁寧に刺繍が施されている。
※ゲーリングの製帽は、国家元帥昇級以前の帽徽章でも直刺繍によって施されていると確認し得るものがあり、好んでそうした仕立てでの注文をしたものと思われるが、
台布付きのタイプ も確認されている。
スカイブルー色調の制帽にはリースなしのタイプ(↓左)もあった。
またゲーリングは、制服の色には関係なく、白トップ(鉢巻部は紺色:↓右)も併用している。
1945年4月23日、ゲーリングは総統官邸(地下壕)に宛て、1941年6月29日付総統布告に基づき「
別段のご返事を頂かない限り、私が国家の指揮権を引き継ぐつもりであります 」旨の電報をオーベルザルツブルクの別荘から打った。
その前日に彼はマルティン・ボルマン官房長官兼総統秘書官から「
総統はかなり精神が衰弱しているので代わりに指揮を執るように 」との連絡を受け取ったという。
これは政敵であったボルマンの仕掛けた罠であり、彼も薄々は気付いてはいたようだが、勝負に出て、先のような電報を打ったということである。
これを受け取ったヒトラーは、直ちに前述の総統布告を無効とし、本来であるならば総統ならびに国家社会主義に対する反逆であるが、過去の貢献を考慮して一切の役職を退くならば極刑を免除するという内容の三通の返電を送っている。
結局はボルマンの思惑通り、術中に嵌ったカタチとなった。
この時、ヒトラーが激高した旨の記載もあるが、三通の電文を読む限りでは…むしろかつての盟友に対して同情的であったようにも思 われる。
しかしボルマンは機に敏に行動し、オーベルザルツブルクの政治警察指導者にゲーリング他の逮捕命令を下した。
ゲーリングらは拘留され、監視下におかれることとなるが…4月29日未明のヒトラーの自殺により事態は好転し、ゲーリングらは空軍部隊に身柄を引き渡され一応の拘留をとかれた。
表舞台への復帰を模索したゲーリングはその後、ヒトラーの後継者となったカール・デーニッツ大提督(大統領)に連合軍司令官アイゼンハワー元帥との交渉役に名乗りを上げ、実際に働きかけもしている が、時すでに遅く…5月7日午前2時41分、降伏調印は終了しドイツの無条件降伏が決定した。
だが、それでもまだ直接アイゼンハワーとの会見を実現すべく奔走し、副官の
ベルント・フォン・ブラウヒッチュ空軍大佐 (
ブラウヒッチュ陸軍元帥 の長男)を連絡役として米36歩兵師団本部 におくり…5月7日、ザルツブルク南東のラドシュタットで、妻のエミーと8歳になる愛娘エッダ、部下らとともに出迎えにきたロバート・スタック准将に投降した。
ゲーリングの愛妻エマ・ヨハンナ・ヘニー(通称“エミー”)のサイン入りポートレート。
彼女はゲーリングと結婚する以前、ワイマール国立劇場の女優であった。
先妻に先立たれていたゲーリングと先夫と離婚していたエミーは1935年4月10日に結婚…1938年6月2日に待望の愛娘のエッダを授かった。
※この時、着用の上衣は白のフリーガ仕立てと思われる。
襟周りには金撚り紐による縁取りは為されていないようである。
↓の映像は、投降の際の…おそらくはプロパガンダ的映像であろうが…様子である。
余談だが…投降に際し、このような状況下においてなおトラック2台分の家財道具、調度品なども持ち込んだと言われているが…そのあたりは、ある意味さすがゲーリングである…(苦笑)
当初、収容所での生活は快適なものだった。
降伏翌日の5月8日には、米第8空軍司令官カール・スパーツ大将がシャンパンを持って彼を訪れ、互いの勇猛果敢さを讃えて乾杯をした。
その晩には、米第7軍本部の置かれたキッツビュール(オーストリア)のグランド・ホテル内将校用食堂での夕食会にも招かれ、米軍将校たちは競うように“有名敵将”に酒を振る舞い、彼を囲んで『テキサスの奥深き田舎』などを歌って聴かせた。
上機嫌になった彼は、収容所に持ち込んだ山のような荷物の中からアコーディオンを持って来させ、『我、その意味を知らず』を弾き語りしてその歓迎に応えたという。
ところが、この米軍将校たちによる有名ナチス幹部饗応が新聞で報道され、米国内で物議を醸すと、世論に敏感になってなっていたアイゼンハワーは、ゲーリングをはじめとするナチス高級幹部を今後は他の戦争捕虜と同様に扱うように命令した。
報道陣などとの取材、懇談の際にはいつも人垣が出来、勲章類の佩用こそないものの収監中も国家元帥としての徽章類の装用されたままの制服を着用しての登場であった。
襟元に燦然と輝いているのは1939年度版“大鉄十字章(Grosskreuz)”で、鉄十字章のなかで最高位のものとされるものであり、これを 受章したのは彼だけであった。
基本的なデザインは騎士鉄十字章(Ritterkreuz=RK)と同じだが、“Gross”というだけあり、そのサイズはRKよりも 一回り程大きい縦長65㎜(RK:48㎜)となっている。
既記したが、彼は帝国議会において1940年7月19日付で国家元帥を拝命し、それと同時にGKの授与も承認されている。
1893年1月12日に南独のバイエルン州ローゼンハイムの裕福な家庭に生まれたゲーリングは、ベルリン近郊のグロース・リヒターフェルデ士官学校に進み、1912年3月にミュルハウゼンの第112歩兵連隊“プリンツ・ヴィルヘルム”に陸軍少尉として任官している。
その後、1914年10月に第25野戦飛行分遺隊の偵察将校として航空隊への転属を果たし、1915年3月に一級鉄十字章(EKI:1914年版)を受章している。
1917年8月には第27戦闘飛行中隊の指揮官に任官していたが、1918年4月21日にドイツの大エース…レッドバロンこと
マンフレート・フォ ン・リヒトホーヘン男爵 が空中戦闘中戦死したことで、ゲーリングに大きな転機がもたらされた。
就任に際し当初は軍人としてのキャリア、実績等から反対する声もあったが、リヒトホーヘンの後任として第1戦闘航空団“リヒトホーヘン”の司令官に就任し、結果的には彼持ち前の運営・統括能力に次第に魅了され、エリート戦闘航空団を掌握するに至っている。
また、撃墜スコアは22機に達していたものの、一応の授与目安となる25機以上の撃墜スコアには達していなかったが、1918年6月2日付で公然たる“エースパイロット”仲間入りの証ともなる
プール・ル・メリット勲章(Pour le Mérite) が特例的に授与されている。
◆
Flugzeugführer und Beobachterabzeichen mit Brillanten (パイロット/観測員(共通)ダイヤモンド章)
1936年3月26日付で制定されていた
パイロット/観測員(共通)章 をより限定的授与するため1936年10月19日付で制定されている。
ゲーリング自身の肝入りで制定したにも拘らず、それを自らが誇らしげに佩用してしまうあたりは彼ならではといったところであろう。
デザインはほぼパイロット/観測員(共通)章と同様であるが、その素材が全く違い、リース部は22金、プラチナ製の鷲章部に計14カラットのダイヤがはめ込まれた豪華な造りとなっている。
因みに、ウィーンのルドルフ・シュトッビガー宝石店に60個注文し、自身をはじめ以下の面々に授与されている。
Luftwaffe Reichsmarschall Hermann Göring
General Walther Wever:11 November 1935
General Erhard Milch:11 November 1935
General der Flieger Hugo Sperrle:19 November 1937
Major Werner Mölders:Mitte August 1940
Major Helmut Wick
Hautpmann Werner Baumbach:Mitte August 1940
Major Adolf Galland:Mitte August 1940
Generalfeldmarschall Wolfram Freiherr von Richthofen:Mitte August 1940
Generaloberst Kurt Student:am 2. September 1940
General der Flieger Friedrich Christiansen:September 1940
General der Flieger Günther Korten:1941
General der Flieger Josef Kammhuber
Generaloberst Alexander Löhr:1941
Oberstleutnant Hans-Ulrich Rudel:Sommer 1944
Oberst Bernd von Brauchitsch:Sommer 1944
Hauptmann Erich Hartmann:am 25 August 1944
Generalmajor Martin Harlinghausen :17 April 1945
Hauptmann Hans-Joachim Marseille
Oberst Dietrich Peltz
Generalfeldmarschall Robert Ritter von Greim:17 April 1945
Generalfeldmarschall Albert Kesselring
Generaloberst Otto Dessloch
Generalleutnant Karl Angerstein
Oberst Walter Oesau:17 October 1943
Bruno Loerzer
Melitta Schenk Gräfin von Stauffenberg:März 1943
Wilhelm Conrad Röntgen (ehrenhalber)
Renato Sandalli
Flug-Kapitänin Hanna Reitsch:am 27 März 1941 Honorary Empfängern Reichsführer-SS Heinrich Himmler:am 12 Juli 1942
Großadmiral Karl Dönitz:am 30. Januar 1943
SS-Sturmbannführer Otto Skorzeny:Herbst 1944
SS-Oberstgruppenführer Sepp Dietrich:Herbst 1944
Generalfeldmarschall Erwin Rommel
Generalfeldmarschall Erich von Manstein
Ausländer Benito Mussolini (Italien):am 28 November 1937
Carl Gustaf Emil Mannerheim (Finland):Anfang Juli 1942
Marschall Ion Victor Antonescu (Rumänien)
Regent Miklós Horthy (Ungarn)
Italo Balbo (Italien)
Francisco Franco (Spanien)
授与者のなかには紅一点として女流飛行家のハンナ・ライチュも含まれている。
傑出した飛行家であったライチュは、グライダーによる数々の世界記録を持つ他、ヘリコプターによる初の室内飛行テストや世界初の地対地巡航ミサイ ル“V-1(Fieseler Fi-103)”の開発において、操縦席を取り付けた試作機での飛行テストを行なったことでも知られている。
1941年3月28日付でEKII(女性におけるEKII受章者は外国人2名を含む27名で、その大半は最前線における従軍看護婦であった)を受章し、1942年11月5日付で女性初のEKIも受章している。
ライチュに関しては、先の記事『
ベルリン脱出劇 』も併せてご覧頂ければ嬉しい限りである。
そこで掲載した写真では、通常のモノより小さめの
女性版パイロット章 (…というよりライチュ版)を佩用している。
【 Hinzufügen 】
英国空軍博物館には当作例と同パターンの制服(レプリカ)着用の、なかなかリアルな蝋人形↓が展示されているとのことである。
因みに、国家元帥用襟章は1stパターンが装用されている。
ようやく一昨年(2011年)…HeadPlayの仕掛けに呼応?…対抗?するかたちで…3Rから満を持して二部作+3αでのリリースの運びとなり… フィギュア市場でHGが10年ぶりに話題に上ることとなった。
そうした流れを受け、過去の拙作もニューHGヘッドに挿げ替えて…2013’新春BHでは、最後のCUSTOMW WORLDとなった2002年のCW7(GAMS2)以来の
11年ぶり となる再出展もさせて頂いた。
そこで、この機会に…以前、当方HP上で掲載していたHGのコンテンツもリ:コンテンツ化を図らせて頂いた次第である。
もう、かれこれ10年近く前のことだが、某メーカーが次期ラインナップとしてHGを商品化したいということで、当方がHGを作例として紹介してい たという経緯もあり、その製作会社の担当者がシン ガポールから訪日するのに合せお会いすることとなった。
HGは勿論、その後の商品企画にも、ほんの少しだけオブザーバー的に関わらせて頂くというようなことがあった。
その際、他のパターンの制服で…ダブルのパターンや、白や紺色の開襟タイプ等々…いくつか企画が上がったが、結局、当初からの…
このパターン で商品化されることとなった。
製品化されたモノは、HGというよりは太ったアジア系?としか思えないような様相を呈し、ただただ陳腐…それでも、当時は…少しは話題になったものでした…(^ ^;
これが教訓となったのか、はたまたトラウマとなったのか…
その後、10年強もの永きにわたり…3Rの主要人物のなかでも、その風貌、キャラクター的な人気も高い?HGが製 品化されてこなかったのが不思議なくらいである。
10年前にも、そのファットマン・ボディをどうするかが問題となり…結局は、このような
胸腹一体の成型ボディ におさまったが…(
3Rも同様のパターン を採用)
可動性の問題や、衣装の使い回しなどの点などが製品化を消極的にさせる要因だったのかもしれない。
私的には、ファットマン・ボディとしての製品化には…HotToysやENTERBAYなど他社も試みているような、既存のボディに“
肉襦袢 ”を着せるパターンの方が、わざわざ“型”などもおこさず効率もよく、そのう え可動性もある程度確保されて良いように思うのだが…
因みに、拙作はDragon製のボディ(胸腹臀、下腿部など)にスポンジを貼付け…それをハサミでカットして、思うような“肥体”になるよう調整するという、お気軽な手法を採っている。
3RのHGヘッド の造形は本当に出来がよく…ただHGとしては、個人的な嗜好として、雰囲気的にもなかなかに特徴を捉えたHeadPlayの方を 選択した。
造形の面では、肌の質感や髪などのモールドが雑で、塗装の面でも顔色が悪いなど不満点もあるが、 それはさておき…首から下自体が、もう10年以上前の制作物でもあり、“超絶”よりはこの位の感じの造形の方が全体的なバランスはとれたのではないかとも思え…
これで懸案であったヘッドの問題がやっと解消し…10年越しで何とかHGとして一応のカタチに落ち着いたものと、とりあえず満足している。
因みに、当初の拙作では…昨今のように簡単に超絶ヘッドが手に入る時代ではなかったこともあり、かなりお恥ずかしい限りのヘッドであるが…
Sideshow製の“2nd US ‘BERDAN’ Sharpshooter” のヘッドにパテ盛りして肥えさせてHGに見立てていた。
出来不出来、似不似等に関しては…何卒、ご勘弁の程を…
徽章、勲章類 は、国家元帥用は勿論…当時はないものの方が多かったため、現在からすればかなりゆるいが、パテや在りモノのパーツなどを駆使して“それ風”を自作するしかなかった。
ただ、今思えば…ないモノが多いから作る楽しみ、喜び、意欲があったのかもしれない。
人はお腹がいっぱいになると眠くなってしまうものだから…
◆
Der Handschuhe des Göring この作例では実際の女性用ドレスグローブの生地を使用して、Dragon製ベンダブル・ハンドにはめる将校・将官用手袋を製作を試みた。
比較的伸縮性があり、尚且つしっかりしているものでないと、特に各指部の縫い目にほつれが生じ易いので、なかなか上手い具合の生地がなかったりするのだが、この生地はそれら条件に加え、色目・薄さ等もイメージに合うものであった。