Der schnelle Meyer 【DiD】 und La-Keitel 【3R】

2013–03–23 (Sat) 11:47
DiD_Kurt Meyer

いよいよ、DiDからもクルト・マイヤーがリリースされるとのことである!
既にDiDによるプレヴューが為されて少々時間が経ってしまったが…とりあえず、まだリリースはされていないようなので、ココでも少し話題にくらいはしておこうかと…(苦笑)
ただ正直なところ、個人的にはマイヤー嗜好があまりないので…以前にも記したが、DAMの時と同様に…最近、少ない独軍モノであるにも拘らず、待ち遠しさ感がないところがさみしいところではあるが…
それでも、そこはDiD/3Rなだけに、ヘッドの造形を期待し…幸いに髭ヴァージョンでもないようなので…出来れば使い廻し可能ならんことを願わないではない!
因みに、DiD/3Rでは定番化しつつある?絶叫バージョンもオマケされるようであるが…
まぁ、このあたりはビネットなどでの登場人物として用いられる方には趣向が変わって重宝するものとは思うが…
プレヴューを見る限りでは、上下衣なども手直しが施されているようで、かなり襟、胸腰、ズボン周りなどなかなかタイトに仕上げてきているように思う。
“韋駄天”と異名をとるマイヤーだけに…オートバイ兵用(ゴム引き)コートも装備されているが、欲を言えば、こちらは単なるレダーマンテルではないので、もう少しダブっとさせた感じの方が雰囲気的にはよかったような気も無きにしも非ず…
因みに、“Panzermeyer”とも異名をとり、何とも異名が多い…(苦笑)
雨用長靴か?と思えるようだった将校用長靴は…スッキリした感じになっているようである。
独軍将校のセットは、ともすれば装備なども少なく…些か物足りなさ感が否めないところを考慮し、挿げ替えヘッドや帽子、装備品、木製Kar.98などの付属品で内容を何とか繕っている。

SS-Obersturmbannführer_Kurt Meyer_9 No 1942-20 Juni 1943
それは、さておき…問題となる真顔ヘッドであるが…
これが、マイヤーか?というとそれほどマイヤー似でもないようで…
良い方に転べば、誰とはなく使い廻しに最適なのだが…
如何せん、実際のマイヤー↑の方がどちらかと言われればまだ良いようにも思えるという何とも逆目になってしまったところが少々イタイ…(苦笑)
もろ私見で恐縮だが…若干ぉ猿さん顔なところが…妙にこの顔をイメージしてしまって…(^ ^;
現物はまた少し違って思えると良いのだが、はたして…
ただ、先の二頭↓に比べれば“マイヤー風”とも思え…とりあえずは、リリースが待たれるところである!
やはり、こうなると…マイヤーの次は…と期待してしまうのは私だけではないと思うのだが…
くれぐれも’45年の不精髭バージョンのみというのはやめて頂きたい!…(苦笑)

DamToy_CyberHobby_Kurt Meyer


そういえば、3Rの方ではカイテル陸軍元帥がプレヴューされているが…
これも特定の人物設定なだけに、若干ビミョウとしてしまうところが、何とも酷ではあるとは思うのだが…それを差し引いても、“髭面ヘッド”は使いづらいところが、当方にとってはさらに躊躇させる点なのである。
3R_Wilhelm Keitel

ヴィルヘルム・カイテルは独語の“Lakai(=従僕、言いなりになる人)”を捩られて「ラカイテル」と揶揄されることもあったが、餅は餅屋的に…実戦、ましてや指揮官としての軍歴、勲功などもなかったが、その実務処理能力を毀れ、陸軍元帥にまで登りつめる。
そのなかで自身の意志の弱さも相まって、妥協と打算と諦めのなか、父親に命令され軍人の道に進み、妻リーザの期待に応えるために軍に留まり、出世街道を走り続け、ひたすらに総統の期待する“国防軍最高司令部総長”という役割を演じるうちに、いつしか自身で考えることを止めてしまったのかもしれない。
そんな、勇ましい軍人像の微塵もない“普通のオジサン的”であったカイテルだが、その風貌はまさに“ドイツ軍人然”としており、その鼻下に蓄えた髭により一層風格を増していた。

Wilhelm Keitel

最後に、如何にも妻の尻に敷かれていたのだろうことが窺い知れるようなプライベート写真を…
何とも、ビミョーなカイテルの表情と肩に手を掛けた妻リーザの含笑顔が印象的な一枚である。
※白いスーツの女性は、長女?のノナ。
Wilhelm Keitel_Lisa_Nona

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Reichsmarschall Hermann Göring

2013–03–11 (Mon) 01:11
Hermann Göring_adler

1946年10月15日…翌未明にニュルンベルグ軍事裁判での刑の執行を控え、独房棟C1階は最後の静寂の中にあり、看守のグレゴリー・ティムチシン二等軍曹は各独房の覗き小窓から房内の様子を見廻っていた。
そして、5号独房を覗いた彼は房内の異変に気付く。
左手をだらりとベッドから垂らし、異常なイビキをかき、片側の口の端から泡を噴いているその顔色は緑がかっていた。
詰まらせた息を大きく吐いた直後…
午前10時47分…ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングは絶命した。(享年53歳)
シアン化合物による服毒自殺であった。

ゲーリングは、この死(自殺)に至った経緯について、連合国管理委員会宛に次のような書簡を残している。
銃殺刑であれば私は全く異議を唱えなかったであろう。
しかしながら、ドイツ国家元帥を絞首刑に処することを許すわけにはいかない。
ドイツのために私は、この絞首刑を認めることが出来ないのだ。
さらに私は、敵による罰を甘んじて受けるという道徳上の義務を感じていない。
こうした理由により、私は偉大なるハンニバル将軍のような死を選ぶこととした。
我々の死を人気第一主義の報道陣に対する見世物にすることは悪趣味の極みであると考える。
こうした終わり方が検察側と判事団の示した卑劣さと軌を一にするものであるということは間違いない。
すべては見世物裁判、質の悪い喜劇だったのだ。
私個人としては、こうした人気第一主義を避け、観客のいないなかで死ぬことにする。

ゲーリングの意見に正当性があるか否かは別にして、連合国側は彼の自殺により唯一残ったドイツの最重要戦犯を正義の名のもとに裁く機会を失う結 果となった。

Hermann Göring _01
ウィンクでもしているかの如く…片目だけが閉じられたその死に顔は、まるで出し抜いてやった者たちを嘲ってでもいるようにも見える。

Hermann Göring _02
大戦中には120kg近くあった体重も、死ぬ間際には84kg程になっていた。
(※身長は170cm程度)


ゲーリングを“無能な太っちょ”との酷評もあるが、はたしてその実はどうだったのであろうか?
ニュルンベルク収監中に行われた知能テストでは138点という…得点上では“天才”という範疇に入ることとなる得点(140点以上)に迫る程の高 得点であったという。
現にゲーリングは頭の回転が速く、その口調は荘重で風格さえ感じさせ…更に様々な表情を巧みに使い分け、しばしば公判中も彼に不快感を持って臨んだ傍聴人達でさえ、いつの間にか彼に惹きつけられてしまっていたとのことである。
ナチスが政権を執って以降、財界・団体その他…いわゆる上流階級の間では、ナチス高官のなかでも話のわかる人物として通っており、それらとの太いパイプを握ってい た彼はリベートと賄賂によって巨万の富を蓄えていくこととなる。
当初はヒトラーからの信頼も厚く…1938年2月4日付で空軍元帥(航空大臣兼空軍総司令官)に昇級していた彼に対しては、 国防軍三軍の“元帥”よりも上位にあたる新たに国家元帥(Reichsmarschall)という地位を設け、1940年7月19日付でそれに昇級させ…
さらに翌年の1941年6月29日付“総統布告”(※)ではヒトラーの正式後継者に指名されるまでに至り、名実ともに第三帝国のNo.2の地位にまで登りつめた。

(※)総統である余が何らかの理由により統治が出来なくなった際にはゲーリングがそれを代行するものとし、また死亡した際にはゲーリングがこれを継承することとする。

そんな彼の歯車も戦争へと突入していった頃より狂いが生じ始める。
ダンケルクでの失態、バトル・オブ・ブリテンの失敗…ついにはスターリングラードによって彼の面目は完全に失墜する。
それでもヒトラーにルール地方の防空体勢について尋ねられた際に「もし敵機がここまで飛来したら、私を丁稚小僧と呼んでも結構です!」とまで豪語したとのことであるが、その空自慢に反しドイツ空軍(LW)は1942年5月30日に英空軍の爆撃機150機によるケルンの夜間爆撃を易々と許してしまった。
カリン・ハルの山荘にて遊びに興じていた彼は総統官邸に呼び出された。
すぐさま駆けつけた彼は、いつものごとくヒトラーに面会の握手を求めたが拒絶され、そのうえ居並ぶLW将官・将校の前で激しく罵倒された。
空襲はその後も…米空軍が昼間に、英空軍が夜間にと一層激化し、ベルリンをはじめドイツの大部分の都市が瓦礫と化すこととなった。
彼の地位や名誉は今や名ばかりのものとなり、総統官邸に足を運ぶこともなくなり、薬に頼るなど頽廃的な日々に興じるようになっていく。
ゲーリングは政治屋としてはある程度有能だったが、戦争屋としての器ではなかったと言えるのかもしれない。

Hermann Göring _03
国家元帥に昇級当初に撮られたポートレートで、まだ割腹のよい程度で精悍な感じもする。
1stパターンの国家元帥用襟章を装用している。

ヒトラーは、初戦~フランス侵攻での軍功を讃え…1940年7月19日付で陸軍9名、空軍3名の新たな元帥を誕生させ各軍の上層部の刷新を図った。
一方、ゲーリングは1940年7月19日付で国家元帥へと昇級したのに伴い、それまでの空軍色(紺色)から独自のスカイブルー色様のユニフォーム↑などを着用するようになる。
制服(制帽)だけではなく、徽章類(襟章、肩章)のデザインも国家元帥独自のモノを採用した。


Kragenspiegel

襟章のデザインには二つのパターンが確認されており、1940年7月19日~1941年6月末頃までの1stパターン↑…1941年7月頃 (おそらく後継者候補が確約された頃)から終戦、およびニュルンベルク収監中までの間に装用していた2ndパターンが確認されている。

1stパターンは柏葉のレリーフに囲まれた中のデザインが、右襟章が国家鷲章(左向閉翼型)、左襟章がクロスした元帥杖のデザインであるのに対し、2ndパターンでは左右ともにクロスした元帥杖のシンメトリーなデザインに変更されている。
因みに、1stパターンの実物および装用時における襟章の鮮明な画像を未見なのではっきりとしたことは言えないが、この画像を見ると、どうも閉翼型鷲章の掴む鉤十字は葉冠型↓ではなく直掴型のようにも見受けられる。

#1stパターン
Hermann Göring_Kragenspiegel_Reichsmarschall_1st

#2ndパターン
Hermann Göring_Kragenspiegel_Reichsmarschall_2nd


Schulterstück

空軍元帥用が他の国防軍元帥と同様にクロスした元帥杖のモノグラムだけだったのに対し、↓のような国家鷲章を加えたデザインとした。
国家鷲章は左右シンメトリーとなっており、両頭が正面を向くようにそうに装着された。
肩章のデザインに関しては、襟章のような時期的変更はなかったものと思われる。
Hermann Göring_Schulterstück_Reichsmarschall

但し、国家元帥用鷲章は金地というのが一般的であるが、↓のように…初期には銀地のタイプを装着していたということも考えられる。
因みに、↓の画像では肩章に対し、鷲章が逆に装着されてしまっている。
Hermann Göring_Schulterstück_Reichsmarschall_1st?

米軍に投降した際には、金モール編肩章ではなくスリップオン・タイプの布地肩章に直に国家鷲章/元帥杖が刺繍されたものを装用していた。
着用していた制服は、画像・映像で見る限りでは…フラノ地調の兵用様仕立ての(プリーツ無)四つ貼りポケットタイプで…また、空軍の開襟タイプを閉襟したものでもないようである。
Hermann Göring_Austria_1945


Brustadler

Hermann Göring_Brustadler_ Reichsmarschall
胸の国家鷲章のデザインは空軍鷲章そのままであるが…
通常、空軍将官などが夏服(白服)に装着するのと同様な白台布に金モール糸による手刺繍のタイプを白服には勿論、スカイブルー色様の制服にも装用している。


Schirmmütze

Hermann Göring_Schirmmütze_Reichsmarschall
スカイブルー色調のトップに灰色~薄紫色調の鉢巻部の制帽では、その鉢巻部布地に空軍型帽章と、それを取り囲むように月桂樹のリースが金モール糸により直に刺繍が施されていた。
クラウン部の空軍型鷲章もまた金モール糸により直に刺繍が施されており、さすが国家元帥用の制帽と納得するような、細いモール糸で細かく丁寧に刺繍が施されている。
※ゲーリングの製帽は、国家元帥昇級以前の帽徽章でも直刺繍によって施されていると確認し得るものがあり、好んでそうした仕立てでの注文をしたものと思われるが、台布付きのタイプも確認されている。
スカイブルー色調の制帽にはリースなしのタイプ(↓左)もあった。
またゲーリングは、制服の色には関係なく、白トップ(鉢巻部は紺色:↓右)も併用している。
Hermann Göring _04


1945年4月23日、ゲーリングは総統官邸(地下壕)に宛て、1941年6月29日付総統布告に基づき「別段のご返事を頂かない限り、私が国家の指揮権を引き継ぐつもりであります」旨の電報をオーベルザルツブルクの別荘から打った。
その前日に彼はマルティン・ボルマン官房長官兼総統秘書官から「総統はかなり精神が衰弱しているので代わりに指揮を執るように」との連絡を受け取ったという。
これは政敵であったボルマンの仕掛けた罠であり、彼も薄々は気付いてはいたようだが、勝負に出て、先のような電報を打ったということである。
これを受け取ったヒトラーは、直ちに前述の総統布告を無効とし、本来であるならば総統ならびに国家社会主義に対する反逆であるが、過去の貢献を考慮して一切の役職を退くならば極刑を免除するという内容の三通の返電を送っている。
結局はボルマンの思惑通り、術中に嵌ったカタチとなった。
この時、ヒトラーが激高した旨の記載もあるが、三通の電文を読む限りでは…むしろかつての盟友に対して同情的であったようにも思 われる。
しかしボルマンは機に敏に行動し、オーベルザルツブルクの政治警察指導者にゲーリング他の逮捕命令を下した。
ゲーリングらは拘留され、監視下におかれることとなるが…4月29日未明のヒトラーの自殺により事態は好転し、ゲーリングらは空軍部隊に身柄を引き渡され一応の拘留をとかれた。
表舞台への復帰を模索したゲーリングはその後、ヒトラーの後継者となったカール・デーニッツ大提督(大統領)に連合軍司令官アイゼンハワー元帥との交渉役に名乗りを上げ、実際に働きかけもしている が、時すでに遅く…5月7日午前2時41分、降伏調印は終了しドイツの無条件降伏が決定した。
だが、それでもまだ直接アイゼンハワーとの会見を実現すべく奔走し、副官のベルント・フォン・ブラウヒッチュ空軍大佐(ブラウヒッチュ陸軍元帥の長男)を連絡役として米36歩兵師団本部 におくり…5月7日、ザルツブルク南東のラドシュタットで、妻のエミーと8歳になる愛娘エッダ、部下らとともに出迎えにきたロバート・スタック准将に投降した。
Hermann Göring_Emmy_Edda
ゲーリングの愛妻エマ・ヨハンナ・ヘニー(通称“エミー”)のサイン入りポートレート。
彼女はゲーリングと結婚する以前、ワイマール国立劇場の女優であった。
先妻に先立たれていたゲーリングと先夫と離婚していたエミーは1935年4月10日に結婚…1938年6月2日に待望の愛娘のエッダを授かった。
※この時、着用の上衣は白のフリーガ仕立てと思われる。
襟周りには金撚り紐による縁取りは為されていないようである。

↓の映像は、投降の際の…おそらくはプロパガンダ的映像であろうが…様子である。
余談だが…投降に際し、このような状況下においてなおトラック2台分の家財道具、調度品なども持ち込んだと言われているが…そのあたりは、ある意味さすがゲーリングである…(苦笑)


当初、収容所での生活は快適なものだった。
降伏翌日の5月8日には、米第8空軍司令官カール・スパーツ大将がシャンパンを持って彼を訪れ、互いの勇猛果敢さを讃えて乾杯をした。
その晩には、米第7軍本部の置かれたキッツビュール(オーストリア)のグランド・ホテル内将校用食堂での夕食会にも招かれ、米軍将校たちは競うように“有名敵将”に酒を振る舞い、彼を囲んで『テキサスの奥深き田舎』などを歌って聴かせた。
上機嫌になった彼は、収容所に持ち込んだ山のような荷物の中からアコーディオンを持って来させ、『我、その意味を知らず』を弾き語りしてその歓迎に応えたという。
ところが、この米軍将校たちによる有名ナチス幹部饗応が新聞で報道され、米国内で物議を醸すと、世論に敏感になってなっていたアイゼンハワーは、ゲーリングをはじめとするナチス高級幹部を今後は他の戦争捕虜と同様に扱うように命令した。
Hermann Göring_Nürnberg_1946
報道陣などとの取材、懇談の際にはいつも人垣が出来、勲章類の佩用こそないものの収監中も国家元帥としての徽章類の装用されたままの制服を着用しての登場であった。

Hermann Göring _05
襟元に燦然と輝いているのは1939年度版“大鉄十字章(Grosskreuz)”で、鉄十字章のなかで最高位のものとされるものであり、これを 受章したのは彼だけであった。
基本的なデザインは騎士鉄十字章(Ritterkreuz=RK)と同じだが、“Gross”というだけあり、そのサイズはRKよりも 一回り程大きい縦長65㎜(RK:48㎜)となっている。
既記したが、彼は帝国議会において1940年7月19日付で国家元帥を拝命し、それと同時にGKの授与も承認されている。

1893年1月12日に南独のバイエルン州ローゼンハイムの裕福な家庭に生まれたゲーリングは、ベルリン近郊のグロース・リヒターフェルデ士官学校に進み、1912年3月にミュルハウゼンの第112歩兵連隊“プリンツ・ヴィルヘルム”に陸軍少尉として任官している。
その後、1914年10月に第25野戦飛行分遺隊の偵察将校として航空隊への転属を果たし、1915年3月に一級鉄十字章(EKI:1914年版)を受章している。
1917年8月には第27戦闘飛行中隊の指揮官に任官していたが、1918年4月21日にドイツの大エース…レッドバロンことマンフレート・フォ ン・リヒトホーヘン男爵が空中戦闘中戦死したことで、ゲーリングに大きな転機がもたらされた。
就任に際し当初は軍人としてのキャリア、実績等から反対する声もあったが、リヒトホーヘンの後任として第1戦闘航空団“リヒトホーヘン”の司令官に就任し、結果的には彼持ち前の運営・統括能力に次第に魅了され、エリート戦闘航空団を掌握するに至っている。
また、撃墜スコアは22機に達していたものの、一応の授与目安となる25機以上の撃墜スコアには達していなかったが、1918年6月2日付で公然たる“エースパイロット”仲間入りの証ともなるプール・ル・メリット勲章(Pour le Mérite)が特例的に授与されている。


Flugzeugführer und Beobachterabzeichen mit Brillanten
(パイロット/観測員(共通)ダイヤモンド章)
Flugzeugführer und Beobachterabzeichen mit Brillanten
Hermann Göring_Flugzeugführer und Beobachterabzeichen mit Brillanten

1936年3月26日付で制定されていたパイロット/観測員(共通)章をより限定的授与するため1936年10月19日付で制定されている。
ゲーリング自身の肝入りで制定したにも拘らず、それを自らが誇らしげに佩用してしまうあたりは彼ならではといったところであろう。
デザインはほぼパイロット/観測員(共通)章と同様であるが、その素材が全く違い、リース部は22金、プラチナ製の鷲章部に計14カラットのダイヤがはめ込まれた豪華な造りとなっている。
因みに、ウィーンのルドルフ・シュトッビガー宝石店に60個注文し、自身をはじめ以下の面々に授与されている。

Luftwaffe

Reichsmarschall Hermann Göring
General Walther Wever:11 November 1935
General Erhard Milch:11 November 1935
General der Flieger Hugo Sperrle:19 November 1937
Major Werner Mölders:Mitte August 1940
Major Helmut Wick
Hautpmann Werner Baumbach:Mitte August 1940
Major Adolf Galland:Mitte August 1940
Generalfeldmarschall Wolfram Freiherr von Richthofen:Mitte August 1940
Generaloberst Kurt Student:am 2. September 1940
General der Flieger Friedrich Christiansen:September 1940
General der Flieger Günther Korten:1941
General der Flieger Josef Kammhuber
Generaloberst Alexander Löhr:1941
Oberstleutnant Hans-Ulrich Rudel:Sommer 1944
Oberst Bernd von Brauchitsch:Sommer 1944
Hauptmann Erich Hartmann:am 25 August 1944
Generalmajor Martin Harlinghausen :17 April 1945
Hauptmann Hans-Joachim Marseille
Oberst Dietrich Peltz
Generalfeldmarschall Robert Ritter von Greim:17 April 1945
Generalfeldmarschall Albert Kesselring
Generaloberst Otto Dessloch
Generalleutnant Karl Angerstein
Oberst Walter Oesau:17 October 1943
Bruno Loerzer
Melitta Schenk Gräfin von Stauffenberg:März 1943
Wilhelm Conrad Röntgen (ehrenhalber)
Renato Sandalli
Flug-Kapitänin Hanna Reitsch:am 27 März 1941

Honorary Empfängern

Reichsführer-SS Heinrich Himmler:am 12 Juli 1942
Großadmiral Karl Dönitz:am 30. Januar 1943
SS-Sturmbannführer Otto Skorzeny:Herbst 1944
SS-Oberstgruppenführer Sepp Dietrich:Herbst 1944
Generalfeldmarschall Erwin Rommel
Generalfeldmarschall Erich von Manstein

Ausländer

Benito Mussolini (Italien):am 28 November 1937
Carl Gustaf Emil Mannerheim (Finland):Anfang Juli 1942
Marschall Ion Victor Antonescu (Rumänien)
Regent Miklós Horthy (Ungarn)
Italo Balbo (Italien)
Francisco Franco (Spanien)


Hanna Reitsch
授与者のなかには紅一点として女流飛行家のハンナ・ライチュも含まれている。
傑出した飛行家であったライチュは、グライダーによる数々の世界記録を持つ他、ヘリコプターによる初の室内飛行テストや世界初の地対地巡航ミサイ ル“V-1(Fieseler Fi-103)”の開発において、操縦席を取り付けた試作機での飛行テストを行なったことでも知られている。
1941年3月28日付でEKII(女性におけるEKII受章者は外国人2名を含む27名で、その大半は最前線における従軍看護婦であった)を受章し、1942年11月5日付で女性初のEKIも受章している。

ライチュに関しては、先の記事『ベルリン脱出劇』も併せてご覧頂ければ嬉しい限りである。
そこで掲載した写真では、通常のモノより小さめの女性版パイロット章(…というよりライチュ版)を佩用している。


【 Hinzufügen 】

英国空軍博物館には当作例と同パターンの制服(レプリカ)着用の、なかなかリアルな蝋人形↓が展示されているとのことである。
因みに、国家元帥用襟章は1stパターンが装用されている。

Hermann Göring_wax

Hermann Göring_Unterschrift

ようやく一昨年(2011年)…HeadPlayの仕掛けに呼応?…対抗?するかたちで…3Rから満を持して二部作+3αでのリリースの運びとなり… フィギュア市場でHGが10年ぶりに話題に上ることとなった。
そうした流れを受け、過去の拙作もニューHGヘッドに挿げ替えて…2013’新春BHでは、最後のCUSTOMW WORLDとなった2002年のCW7(GAMS2)以来の11年ぶりとなる再出展もさせて頂いた。
そこで、この機会に…以前、当方HP上で掲載していたHGのコンテンツもリ:コンテンツ化を図らせて頂いた次第である。

Hermann Göring _fig

もう、かれこれ10年近く前のことだが、某メーカーが次期ラインナップとしてHGを商品化したいということで、当方がHGを作例として紹介してい たという経緯もあり、その製作会社の担当者がシン ガポールから訪日するのに合せお会いすることとなった。
HGは勿論、その後の商品企画にも、ほんの少しだけオブザーバー的に関わらせて頂くというようなことがあった。
その際、他のパターンの制服で…ダブルのパターンや、白や紺色の開襟タイプ等々…いくつか企画が上がったが、結局、当初からの…このパターンで商品化されることとなった。
製品化されたモノは、HGというよりは太ったアジア系?としか思えないような様相を呈し、ただただ陳腐…それでも、当時は…少しは話題になったものでした…(^ ^;
これが教訓となったのか、はたまたトラウマとなったのか…
その後、10年強もの永きにわたり…3Rの主要人物のなかでも、その風貌、キャラクター的な人気も高い?HGが製 品化されてこなかったのが不思議なくらいである。
10年前にも、そのファットマン・ボディをどうするかが問題となり…結局は、このような胸腹一体の成型ボディにおさまったが…(3Rも同様のパターンを採用)
可動性の問題や、衣装の使い回しなどの点などが製品化を消極的にさせる要因だったのかもしれない。
私的には、ファットマン・ボディとしての製品化には…HotToysやENTERBAYなど他社も試みているような、既存のボディに“肉襦袢”を着せるパターンの方が、わざわざ“型”などもおこさず効率もよく、そのう え可動性もある程度確保されて良いように思うのだが…
因みに、拙作はDragon製のボディ(胸腹臀、下腿部など)にスポンジを貼付け…それをハサミでカットして、思うような“肥体”になるよう調整するという、お気軽な手法を採っている。

HeadPlay_Hermann Göring_Head
3RのHGヘッドの造形は本当に出来がよく…ただHGとしては、個人的な嗜好として、雰囲気的にもなかなかに特徴を捉えたHeadPlayの方を 選択した。
造形の面では、肌の質感や髪などのモールドが雑で、塗装の面でも顔色が悪いなど不満点もあるが、 それはさておき…首から下自体が、もう10年以上前の制作物でもあり、“超絶”よりはこの位の感じの造形の方が全体的なバランスはとれたのではないかとも思え…
これで懸案であったヘッドの問題がやっと解消し…10年越しで何とかHGとして一応のカタチに落ち着いたものと、とりあえず満足している。

P'sCUSTOM__Hermann Göring_Head_1st
因みに、当初の拙作では…昨今のように簡単に超絶ヘッドが手に入る時代ではなかったこともあり、かなりお恥ずかしい限りのヘッドであるが…Sideshow製の“2nd US ‘BERDAN’ Sharpshooter”のヘッドにパテ盛りして肥えさせてHGに見立てていた。
出来不出来、似不似等に関しては…何卒、ご勘弁の程を…

徽章、勲章類は、国家元帥用は勿論…当時はないものの方が多かったため、現在からすればかなりゆるいが、パテや在りモノのパーツなどを駆使して“それ風”を自作するしかなかった。
ただ、今思えば…ないモノが多いから作る楽しみ、喜び、意欲があったのかもしれない。
人はお腹がいっぱいになると眠くなってしまうものだから…


Der Handschuhe des Göring

Der Handschuhe des Göring

この作例では実際の女性用ドレスグローブの生地を使用して、Dragon製ベンダブル・ハンドにはめる将校・将官用手袋を製作を試みた。
比較的伸縮性があり、尚且つしっかりしているものでないと、特に各指部の縫い目にほつれが生じ易いので、なかなか上手い具合の生地がなかったりするのだが、この生地はそれら条件に加え、色目・薄さ等もイメージに合うものであった。


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