Ehrenblattspange

2012–07–03 (Tue) 02:22
Ehrenblattspange des Heeres (陸軍名誉鑑章)

国防軍総司令官ヴァルター・フォン・ブラウヒッチ陸軍上級大将(当時)は1940年4月27日刊の国防軍軍報(Wehrmachtbericht)より前線での戦果、戦功の優れた者の個人名を掲載し英雄としてひろく讃えることとした。
当然のことながら、この国防軍軍報に名前が載ることは大変な名誉とされた。

1941年1月22日刊の陸軍規程(Heeresverordnungsblatt)より陸軍においても独自に戦功の著しかった者の名前を掲載することとなる。
因みに、最初の掲載者は27名であった。
さらに1941年7月に陸軍名誉鑑(Ehrenblatt des deutschen Heeres)が制定され総統アドルフ・ヒトラーの署名入りの勲記によってその栄誉が讃えられた。
陸軍名誉鑑
※1943年9月19日付で第11歩兵師団麾下の第23擲弾兵連隊/第6中隊所属のエーリッヒ・グスト陸軍曹長に授与された陸軍名誉鑑(勲記)
名誉鑑の文言訳としては、以下のようになるものと思う。
余は1943年7月22日から8月1日の間のシンヤヴィノでの戦闘におけるエーリッヒ・グスト陸軍曹長の卓越した戦功に対しここに深く感謝の意を表するものである。
1943年9月19日 総統大本営にて      総統 アドルフ・ヒトラー(署名)


陸軍名誉鑑(1944年2月17日付)
↑(赤線部および拡大)はカール・シュヴァッパヒャー陸軍上級曹長が陸軍名誉鑑章を授与された1944年2月17日付の陸軍名誉鑑である。
このように表紙を含めた3頁綴りで日付毎に列挙されていた。

シュヴァッパヒャーは、装甲擲弾兵連隊“Großdeutschland”・IV大隊(重砲兵)・第17中隊(歩兵砲)幕僚部附の小隊指揮官に任官時の1944年2月17日付でルーマニアにおける戦功に対し陸軍名誉鑑章を授与されている。
この一連の写真が有名な“シュヴァップ(愛称)”は、陸軍歩兵連隊“Döbertz”からの古参でもあり、1939年後半からは装甲擲弾兵連隊“GD”・第33(自動車化)中隊における砲術教官として広く知られる人物でもあったようであるが、その経歴等が残っていない。
因みに、ドイツ十字章金章は装甲擲弾兵連隊“GD”・第15中隊に任官時の1942年1月19日付で受章している。(※↓では布製略章を佩用)
この一連の写真からでも確認はできないが、一般突撃章25回章を佩用しているようである。
リザルト等の資料で確認していないので受章時期は不明だが…写真からは戦傷章銀章および一級鉄十字章(※ピン留め式ではなくスクリュー式)を佩用している。
Karl Schwappacher_Oberfeldwebel


ただ、当初は選定のためのはっきりとした規定がなかったこともあり、前線の兵士たちの間で不満の声も囁かれるようになっていた。
そこで陸軍人事局長ルドルフ・シュムント陸軍中将(当時)は1943年6月20日に選定規定案の作成にとりかかった。
そして、1944年1月30日付で陸軍名誉鑑章(Ehrenblattspange des Heeres)を制定。
勲記とともに、名誉の“副章”として“シュパンゲ(※)”が授与されることとなった。(遡及的適用)
因みに、この名誉鑑章の授与にあたっては既に一級鉄十字章受章が前提とされ…残念ながらドイツ十字章金章および騎士鉄十字章には至らず、もしくはドイツ十字章金章と騎士鉄十字章の間に相当する勇敢な行為と位置付けられ、他の勲章類同様に指揮官等による証明書により申請が必要とされた。
授与総数は4,556枚(個)とされ、うち武装SSから165名の受章者が出ている。
※陸軍からは第55コサック砲兵連隊・第Ⅱ大隊指揮官のヤロスラフ・コットゥリンス キー少佐など13名、武装SSでは第11SS義勇装甲擲弾兵師団“Nordland”・第11SS装甲偵察大隊・第3中隊指揮官のハンス=イェスタ・ペーアソンSS大尉(スウェーデン)など18名の義勇兵に授与されている。
(※spangeは“略章”と解釈および訳されることが多いが語訳としては単に“留金”などとなる。
従って、一級鉄十字章1939年版略章などの“正式章”に対する“略章”としての意味合いとは違い、白兵戦章などと同様に…いわゆる留金の付いた“バッジ”的 な意味合いの徽章と考えるべきであろう。
ただ、“名誉鑑章”に関しては“勲記”そのものがが“正式章(証)”であると考えられ、金柏葉冠はその“略章”と考えることもできる。)
Ehrenblattspange des Heeres
形状は金メッキが施された24.5mmx26.5mm(5.3g)程の柏葉冠に囲まれたのデザインで、二級鉄十字章のリボンに装着し、同様に第2ボタン穴に通して佩用された。
(↑は左側上下の2本の爪ピンが折れてしまっているため柏葉冠上部にて糸留め固定している)
但し、受章者が1914年版二級鉄十字章を受章していた場合でも両リボンの同時佩用は不可とされた。
また略綬への金柏葉冠のミニチュア装着は(戦時中は)不可とされていた。

一般的に裏面の四本の爪ピンは各軍用で若干の違いが見られる。
● 陸軍用は丸棒ピンで先端は尖らせることなくそのままカットされている。
● 空軍用は若干幅広の平ピンで先端は鋭く斜めにカットされている。
● 海軍用は丸棒ピンではあるが、先端は針状に加工されている。
名誉鑑章裏面爪ピン形状

製造元としてはハーナウのOtto Klein & Co、ベルリンのC.E..Juncker(L/12)などが確認されている。


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“(各軍)名誉鑑章”に関しては、授与者僅か37名の海軍は致し方ないとしても、濫発をしたともされる空軍(後述)…そして陸軍・武装SSからは4千名を越える受章者を出している。
ところが、各軍により選抜され、各軍のトップ(陸軍がカイテルではない点はさておき…)の名のもとに授与さるという…等級的には、ドイツ十字章、騎士鉄 十字章と同様の扱い…
しかも、陸軍版に至っては総統の署名入りという騎士鉄十字章(正式勲記)クラス以上の高位勲章勲記並みの“章”であるにもかかわらず、この“章”の佩用された写真等 を目にすることは決して多いとはいえない。

ここからは佩用例などをご覧頂きながら(陸軍版)受章者の紹介をしてみたいと思う。
受章者としては佐官クラスも勿論いるが…尉官クラスや下士官クラスに対する授与が比較的多いようである。
但し、1944年3月25日付での第168歩兵師団指揮官のヴェルナー・シュミット・ハマー陸軍少将(のち中将)や1944年4月7日付での第302歩兵師団指揮官のエリッヒ・フォン・ボーゲン陸軍少将(のち中将)などのように将官クラスの受章も見受けられる。
また将官クラス時期での受章ではないが、将官任官時期における以下のような佩用例も確認されている。

Hermann Hohn_Generalleutnant

ヘルマン・ホーン陸軍中将は陸軍少佐として従軍したフランス侵攻後の1940年12月1日付で第105歩兵連隊・第II大隊の指揮官に任官。
1941年8月1日付で陸軍中佐に昇進し、東部戦線に転戦。
1942年6~7月のセヴァストポリ要塞、クリミア、ストーミングの占領に従軍している。
1942年7月13日から第9軍のルジェフ戦区において第72歩兵師団・第124歩兵連隊の指揮を執り、1942年12月16日付で第105歩兵連隊の指揮官に任官している。
この間の戦功に対し、1942年12月14日付で陸軍名誉鑑が授与されている。
(※先の大戦において1917年10月31日付で二級鉄十字章(1914年版)を…1919年3月に一級鉄十字章を受章しており、今戦争における同等の戦功に対し1940年6月26日付で…1941年7月23日付でそれぞれの1939年版略章=“シュパンゲ”が授与されている。
因みに、他の写真等を見る限りでは受章後には“陸軍名誉鑑章+リボン”を佩用していない時でも“二級鉄十字章(1914年版)リボン+1939年版略章”は佩用していない。)
1943年2月1日付で陸軍大佐に昇進し、4月17日付でドイツ十字章金章を受章している。
1943年11月20~27日間のチェルカッシー付近における第5SS装甲師団“Wiking”および第10高射砲師団とともに参加した戦闘でのホーン指揮の第72歩兵師団の目覚しい戦功は、早速12月6日刊の国防軍軍報でも紹介されている。
尚、この戦功によりホーンは11月28日付で騎士鉄十字章を受章している。
1944年3月1日付で陸軍少将に昇進し、同日付で全軍第410番目の柏葉章を受章。
5月26日~7月1日の期間…第50歩兵師団の指揮官を任され、クリミア半島からルーマニアまでの撤退戦を指揮し、残存部隊を再編のためにペルレベルク(ブランデンブルク州)に何とか移動を完了させた。
ホーンは7月1日付で、そのままリヴィウ戦区の北ウクライナ軍集団麾下の第72歩兵師団の指揮官として任官した。
ソ連軍によるリヴィウ=サンドミェシュ攻勢は7月14日に第XIII軍団の担当戦区であった南側で開始され、18日までに第XIII軍団所属部隊はブロディ周辺に完全包囲されることとなる。
第72歩兵師団所属の第XXXIV装甲軍団と第XLVIII装甲軍団が救援のための必死の反攻を行うも、既にその余力もなく多大な犠牲を払い…第14SS武装擲弾兵師団所属の将兵3,500名を含む少数のみがドイツ防衛線に到達するにとどまった。
7月26日にリヴィウは解放されドイツ軍は北ウクライナからの完全撤退を余儀なくされた。
8月に入ると、ソ連の第1ウクライナ方面軍はポーランド南部のヴィスワ川を越えサンドミェシュに進軍した。
これに対しヴィスワ川全域でソ連軍を押し戻すべく…第501重戦車大隊、第16装甲師団とともに激しい反撃を開始した。
しかし頭堡を確保し続けたソ連軍の抵抗により反攻の勢いを失い、8月16日にサンドミェシュは占領された。
この戦闘における第XXXIV装甲軍団司令官ヘルマン・レックナーゲル陸軍歩兵科大将麾下の第72歩兵師団指揮官ホーンと第88歩兵師団指揮官ゲオルゲ・グラーフ・フォン・リットベルク陸軍少将の戦功が再び8月19日刊の国防軍軍報でも紹介された。
ただその華々しい発表とは裏腹にドイツ軍はその後も敗走し、第72歩兵師団もポーランド領内を転戦した。
ドイツの国境線まで目前のバラノフ付近での激しい戦闘の指揮に対しホーンには10月31日付で全軍第第109番目の剣付柏葉章が授与されている。
1945年1月30日付で陸軍中将に昇進し、4月20日付でXI軍団の指揮官に任官。
終戦をむかえ5月9日にソ連軍の捕虜となったが、ホーンは辛くもの米英軍側に引き渡され…1948年2月23日には解放されている。
1953年からバーデン=ヴュルテンベルク州のラーデンブルクに移り住み1968年11月13日に同市で亡くなっている。(享年71歳)


Gerlach von Gaudecker-Zuch_Oberst

ゲルラッヒ・フォン・ガオデッカー・ツフ陸軍大佐は1909年5月24日にノイシュテッティン(現:シュチェチネク【ポーランド】)で生まれている。
ギムナジウムを卒業後、ヴァイマル共和国軍に志願し、士官候補生となる。
開戦後はポーランド戦役、西方戦 役に従軍し、二級鉄十 字章および一級鉄十字章を受章。
東部戦線では陸軍騎兵大尉として第26偵察大隊を指揮し、ヴャジマ(モスクワとスモレンスクのほぼ中間辺の街)での戦功により1941年11月17日付でドイツ十字章金章を受章。
陸軍少佐に昇進し、1943年10月17日付で第4装甲師団/第33装甲擲弾兵連隊・第Ⅱ大隊の指揮官に任官。
さらに11月6日付で第33装甲擲弾兵連隊指揮官に任官し、12月5日付で陸軍名誉鑑を授与(※リザルト的には第Ⅱ大隊指揮官)されている。
1944年1月1日付で陸軍中佐に昇進。
3月、所属師団である第4装甲師団とともに予想されるソ連軍の春攻勢に備え、南方軍集団を支援すべくウクライナのコーヴェルに移動するも、カメネツポドリスキーで第一装甲軍が包囲されるなど南方軍集団は壊滅的打撃を受け北ウクライナ軍集団に再編成されることとなった。
6月22日に始まったバラクチオン作戦はギネスに載るほどの苛烈な戦いとなり、中央軍集団も38個師団のうち28個師団を失う壊滅的な打撃を受け、7月末までにはポーランドまで押し戻されることとなる。
第4装甲師団もこれにともない撤退を余儀なくされたれ、この際のポーランドに至るベラルーシでの撤退戦の際の戦功に対し1944年8月8日付で騎士鉄十字章が授与された。
1945年1月15日付で陸軍大佐に昇進し、待命指揮官(Führerreserve)となっている。
戦後は1956年にドイツ連邦軍に大佐として復帰。
1959年から第15装甲旅団司令官、1962年からは第41防衛管区司令部司令官に任官し、1967年に軍を退役した。
1970年3月11日にキール近郊のラボエにて亡くなっている。(享年60歳)


Heinz-Oskar Laebe_Oberst

ハインツ·オスカー・レーベ陸軍大佐は1932年にハンブルク警察に入隊、その後1935年1月1日付でプロイセン州警察の警察中尉に昇進。
1935年10月15日付でレーべが所属の警察部隊は第11歩兵師団麾下の第44歩兵連隊に引き継がれ、その第12中隊として再編成されている。
1937年10月1日付で陸軍中尉に昇進し、第44歩兵連隊・第5中隊の指揮官に任官。
開戦後は第44歩兵連隊・第8中隊を引継ぎポーラ ンド戦役、西方戦役に従軍し二級鉄十字章(1939年10月2日付)および一級鉄十字章(1940年6月10日付)を受章している。
1940年11月1日付で陸軍大尉に昇進。
1941年3月1日~1942年7月27日までレーべは第44歩兵予備大隊に移動し、連隊再編成の準備に務めている。
8月からは第44歩兵連隊・第Ⅰ大隊指揮官代理をとして第Ⅰ大隊を引き継いだ。
10月15日付で第44歩兵連隊は第44擲弾兵連隊として改編され、11月13日付であらためて指揮官代理として第Ⅰ大隊を引き継いでいる。
1943年1月1日付で陸軍少佐に昇進し、正式に第Ⅰ大隊指揮官に任官した。
1943年2月25日付で歩兵突撃章銀章を受章。
1943年3月28日付でレニングラード近郊での戦功に対し陸軍名誉鑑が授与されている。
1944年3月7日付でナルヴァ橋頭堡の戦いにおける戦功に対し騎士鉄十字章が授与された。
1944年6月8日付で白兵戦章銅章を受章。
1944年8月1日付で陸軍中佐に昇進し、同日付で第23擲弾兵連隊の指揮官に任官。
1945年1月30日付で陸軍大佐に昇進し、同日付で第44擲弾兵連隊の指揮官に任官。
1945年4月29日付でクールラント橋頭堡においてリバウ戦区の防衛に対し全軍第854番目の柏葉章が授与された。
戦後は生まれ故郷のニーダーザクセン州ペイネに戻り、1999年2月15日に亡くなっている。(享年86歳)


思わず劇中のトーマス・クレッチマンかと見紛ってしまう程の↓の騎士鉄十字章、ドイツ十字章金章、白兵戦章(銅章)…そして、陸軍名誉鑑章の受章者でもあるこの人物は…
Martin Steglich_Oberstleutnant

マルティン・シュテークリヒ陸軍中佐は、1915年7月16日にポーランド西部に位置する第四の都市…ブレスラウ(ヴロツワフ)で生まれている。
1936年に士官候補生としてロストックの第27歩兵連隊に配属となる。
1939年4月1日付で陸軍少尉に昇進。
戦争が始まりポーラ ンド戦役、西方戦役に従軍、二級鉄十字章(1939年9月14日付)および一級鉄十字章(1940年6月27日付)を受章している。
1941年6月22日にバルバロッサ作戦が発動されると、第27歩兵連隊は母軍(第16軍/第Ⅱ軍団/第12歩兵師団)のもと東プロイセンから北部ロシアに侵攻を開始した。
シュテークリヒは7月19日に負傷を負いな がらも奮戦、その戦傷・戦功に対し陸軍名誉鑑が1941年7月28日付で授与されている。
その後、第16軍は1942年1月、レニングラード南方のノブゴロド州デミャンスクでの戦闘で、麾下の第Ⅱ軍団、そして第X軍団の一部が徐々に包囲されつつあった。
この間のシュテークリヒの戦功に対して1942年1月11日付でドイツ十字章金章が授与され、陸軍中尉に昇進している。
2月に入ると、第12歩兵師団を含む陸軍5個歩兵師団と第3SS装甲師団“Totenkopf”および補助部隊の約10万の将兵たちは完全に包囲網に閉じ込められたが、空軍の第1航空艦隊による上空からの物資補給が可能と判断したヒトラーは、包囲が撃破されるまで各師団にその場の死守を命じ、包囲網内の将兵たちは4月21日に脱出が成功するまでの2ヶ月半にもおよぶ苦しい戦闘を戦い抜いた。
第27歩兵連隊は再編成され、1942年12月10日付で(第90皇帝ヴィルヘルム軽歩兵連隊の伝統を引き継いだ)第27軽歩兵連隊と改名されている。
一方、シュテークリヒは12月1日付で転属となり、第123歩兵師団麾下の第89歩兵連隊・第1中隊指揮官として任官している。
12月23日、第89歩兵連隊はツェメナ戦区においてソ連軍の攻撃を受けるが、シュテークリヒの的確な指揮等により侵攻を防ぎ、防衛戦を維持できたと評 されている。
年が明け、シュテークリヒは陸軍大尉に昇進し、第27 軽歩兵連隊・第Ⅱ大 隊の指揮官として復隊。
1943年1月25日付で騎士鉄十字章を受章している。
包囲網脱出後はスタラヤルーサまで退き、1943年3月中旬まで同地に留まり闘い、12月末にビテブスクに移動した。
短い休暇の後、1944年3月に連隊は母軍とともにモギリョフ(マヒリョウ)に 移動した。
シュテークリヒは連隊を離れ、大隊指揮官課程に進み、4月に陸軍少佐に昇進。
その後、さらに参謀将校、連隊指揮官課程を修了し、1944年10月31日付で第180歩兵師団麾下の第1221擲弾兵連隊の指揮官に任官した。
師団は1945年3月に、駐屯地のフェンローからヴェセルに投入される。
次第に連合軍によるルール包囲網の狭まるなか、シュテークリヒ率いる第1221擲弾兵連隊はクレーフェ~クサンテン一体の森林地形を巧みに利 用し、随伴歩兵と戦車とを引き離し近接戦で英軍戦車を撃破していった。
この戦功に対し1945年4月5日付で全軍第816番目の柏葉章が授与され、陸軍中佐に昇進している。
しかし包囲網は最終段階に達し、ついに連合軍に降伏した。
シュテークリヒは8月に釈放され、1962年~1986年まで騎士鉄十字勲章叙勲者協会の会長(その後は名誉会長)を務め、1997年10月20日に亡くなっている。(享年82歳)


Herbert Bullinger_Rittmeister

ヘルベルト·ブリンガー陸軍騎兵大尉はバーデン=ヴュルテンベルク州のショルンドルフで1918年7月17日に生まれている。
1937年11月にシュトゥットガルト バー ト カンシュタットの第18騎兵連隊に配属されている。
戦争が始まると、ブリンガーの部隊は第5歩兵師団麾下 の第5偵察大隊に所属し、西方の壁(denoWestwall) の攻防~西方戦役に従軍し、二級鉄十字章(1940年6月15日付)および一級鉄十字章(1940年6月28日付)を受章している。
1941年3月までフランスでの占領任務に就いた後、東部戦線に転戦…1942 年3~4月にはデミャンスクを救援すべく派兵され、4月からロシア北西部ノヴゴロド州のスターラヤ・ルサ線区に移動(同地で1943年末まで闘った)、7月に第5猟兵師団として 再編成された。
その間にブリンガーは、1942年5月4日付で陸軍少尉として陸軍名 誉鑑を授与されている。
さらに陸軍中尉に昇進し、11月12日付でドイツ十字章金章を受章した。
因みに、戦傷章金章(1942年9月9日付)や、その後の白兵戦章銀章(日付不詳)の受章などの数々の戦歴は、丸眼鏡姿のその印象とは裏腹に“歴 戦の兵”ぶりを物語っている。
1943年9月から、新たな“騎兵”の養成・活用の模索を命じられブロンベルク(ブィドゴシュチュ【ポーランド】)の騎兵学校に組織された騎兵教導中隊の教育長として赴任している。
この時期の戦局における騎兵連隊の活躍はヒトラーも“奇跡の兵器”として大いに認めるところと なり、1944年5月3日付で2個騎兵旅団からなるドイツ軍で唯一の“騎兵軍団”を創設すべく軍団司令官にグスタフ・ハルテネック陸軍中将が任官した。
第3および第4の騎兵旅団は各2個騎兵連隊を中心として編成された。
ブリンガーは7月から、その第4騎兵旅団・第5騎兵連隊・第Ⅱ大隊に配属となっている。
軍団は9月に第3、第4の両旅団が合併し、それに第14歩兵師団および第104歩兵師団を加えた騎兵軍団“Harteneck”として再編成され、10月28 日までナレフ河防衛戦を死守した。
因みに、軍団司令官のハルテネックは9月1日付で騎兵科大将に昇進し、9月21日付で騎士鉄十字章を受章している。
ブリンガーも10月に第Ⅱ大隊の指揮官に任官した。
尚、第5騎兵連隊は12月4日付で騎兵連隊“Feldmarschall v.MacKensen”と改称されている。
その後、軍団は急遽11月末にハンガリーへの移動を命じられ、1945年1月1日に発起されたブダペスト救出作戦“コンラート1~3”ではモール北方で防御戦闘を行なっている。
その間、第4騎兵旅団はザモリを死守したが、3次に渡り行われた作戦自体はブダペストには結局到達出来ず失敗に終わった。
ブリンガーには2月1日付でこの間の戦功に対し騎士鉄十字章が授与され、陸軍騎兵科大尉に昇進している。
その活躍は2月17日刊の国防軍軍報でも紹介された。
両騎兵旅団は2月23日付で名称のみ師団に昇格(軍団は第1騎兵軍団として再編)し…“春のめざめ”作戦(バラトン湖の戦い)に投入される。
3月18日に作戦は終焉をむかえ、その後はすぐさま包囲を逃れるために撤退戦に転換…国境を越えオーストリアに入り、シュトラーデン付近で一旦踏みとどまるが、無条件降伏の指示が出ると両師団は西進し、タウエルン峠南方ツィプフェルの連合軍・ソ連軍の暫定境界線を越え、5月11日にイギリス第8軍に降伏した。
戦後は1967年から大手織物貿易会社のプロクリスト(取締役代理権を有する支配人)となり、1982年に引退すると生まれ故郷に戻り、同地で2004年1月30日に亡くなっている。
(享年85歳)


Karl-Wilhelm Knauth__Hauptmann d.R.

当時のドイツ軍はオットー・カリウスミヒャエル・ヴィットマンなど名だたる戦車エースを輩出しているが、カール・ヴィルヘルム・クナオス陸軍予備役大尉もまた…リザルト的には不確実なところも実はあるのだが…撃破戦車数101+輌(68輌以上は確認)という第10位のスコアを誇る知る人ぞ知る戦車エースのうちの一人なのである。
1916年1月29日、ノルトライン‐ヴェストファーレン州ジーゲン・ ヴィトゲンシュタイン郡にあるザルヘンドルフという村にクナオスは生まれている。
1936年に国防軍に予備役として志願し、開戦により1939年9月1日付で応召している。
第5戦車連隊・第6中隊の陸軍予備役軍曹に任官時の1940年5月25日付で二級鉄十字章を…11月11日付で一級鉄十字章を受章している。
1942年6月1日付で陸軍予備役少尉に昇進。
1943年2月12日付で第505重戦車大隊に転属。
1943年9月1日付で陸軍予備役中尉に昇進。
1943年9月7日付で陸軍予備役中尉として陸軍名誉鑑を授与されている。
1943年11月14日付で第505重戦車大隊・第3中隊指揮官として騎士鉄十字章を受章。
1944年3月1日付で陸軍予備役大尉に昇進。
1945年1月20日付で第505重戦車大隊・第3中隊指揮官としてドイツ十字章金章が追与されている。
また1944年3月26日付で戦車突撃(25回)章、1944年10月26日付で戦車突撃(50回)章を受章している。
1945年2月5日付でブランデンブルク 戦車連隊・第Ⅱ大隊指揮官として任官。
1945年4月25日…戦死したとされているが詳細は不明である。(享年29歳)
ただ、現在クナオスの墓はハルベの森のヴァルトフリードホフ(森の墓)と呼ばれている戦没者共同墓地にあることから、時期的にもハルベでの戦闘の最中に戦死したものと思われる。
※リザルトには日付等の詳細は不明だが戦傷章金章も授与されたことになっているが、これは死後の追与かもしれない。


Karl Mühleck_SS-Obersturmführer

カール・ミューレックSS中尉はバーデン=ヴュルテンベルク州ハイルブロン郡のヴァインスベルクという街で1920年7月27日に生まれている。
第2SS装甲師団“Das Reich”・SS第2戦車連隊“Das Reich”・第Ⅰ大隊・第1中隊指揮官として経歴を終えていることと数字的なリザルト以外は資料がない。
ミューレックの戦歴は1940年5月26日からはじまっている。
1941年9月4日付で二級鉄十字章を受章。
1941年10月6日付で一級鉄十字章を受章。
1943年4月7日付で戦車突撃章(銀章)を受章。
1943年8月23日付で戦傷章(銀章)を受章。
1944年6月4日付で騎士鉄十字章を受章している。
(第2SS装甲師団“Das Reich”・SS第2戦車連隊“Das Reich”・第Ⅰ大隊・第1中隊・第(?)小隊の小隊長任官時)
おそらくは4月のカメネツ=ポドリスキーに包囲されていた第1装甲軍救出作戦における戦功に対し授与されたものと思われる。
(第1装甲軍司令官のハンス=ヴァレンティーン・フーベ陸軍歩兵科大将(当時、のち上級大将)の名をとって“フーべ包囲陣”ともいわれている)
6月6日の連合軍によるノルマンディー上陸に伴い西部戦線に投入されると、8月6日付で発起された“リュティッヒ”作戦の先鋒部隊としてアブランシュから20km地点まで進出したが、結局ファレーズで包囲され、辛くもルーアン南方からセーヌ川を渡河して8月24日に脱出している。
おそらくは、この間の戦功により1944年8月15日付で陸軍名誉鑑および“略章”が授与されたものと思われる。
(第2SS装甲師団“Das Reich”・SS第2戦車連隊“Das Reich”・第Ⅰ大隊・第1中隊指揮官任官時)
その後はドイツ本国での師団の再編成の後、“ラインの守り”作戦に投入…12月16日の作戦開始後にはシェーンベルク付近で戦線を突破…サン・ヴィトを経てさらに西進し、クリスマス頃にマンエー付近で米第7機甲師団と交戦している。
この戦闘の最中…12月26日にミューレックは戦死している。(享年24歳)
現在はルクセンブルクに程近いゼントヴァイラーにある戦没者共同墓地に永眠している。



Ehrenblattspange der Luftwaffe (空軍名誉鑑章)

Ehrenblattspange der Luftwaffe

空軍においてはゲーリングより“Goldene Buch”を贈られた9名の飛行要員が1938年4月20日刊の空軍官報(Luftwaffen-Verordnungsblatt)においてはじめて紹介されている。
(“Goldene Buch”に関しては、戦時中にさらにエントリーがなされ計35名が帝国航空省内にあった“名誉の殿堂”でその名を公開されたそうであるが、現在ではその半数以上の詳細がわからなくなっている。)

航空産業界はゲーリングの47歳の誕生日である1940年1月12日に“鉄十字章と双闘鷲”のデザインが刻まれた銀製の“ゴブレット(杯)”を寄贈した。
それに気をよくしたゲーリングは1940年2月27日付で戦功のあった優れた飛行要員(操縦士および乗務員)の名誉を讃える“名誉杯(Ehrenpokal)”の制定を命じている。
因みに、1940年8月21日付で授与された第26駆逐航空団“ホルスト・ヴェッセル”・第Ⅲ大隊指揮官のヨハン“ハンス”シャルク空軍中佐が初の受杯者となった。
戦線拡大に伴い、戦果・戦功のあった者は1941年8月26日付で制定された空軍名誉名簿(Ehrenliste)においてその名が掲載され、リザルト的には約58,000名程が掲載されているようであるが、そのうちの13,000~15,000名が受杯の栄誉に輝いている。

“名誉杯”の受杯基準もまた「一級鉄十字章を既に受章し、残念ながらドイツ十字章金章および騎士鉄十字章には至らない勇敢な行為」に対して授与され…しかもまさにゲーリングたる、後の“空軍名誉鑑章”よりも豪華な“副章”が既に存在していたわけである。

Ehrenpokal
1942年7月16日付でヘルムート・ズィン空軍少尉に授与された“名誉杯”(勿論、脚部に刻名)
脚部に受章者名、受章年月日とともに「FÜR BESONDERE LEISTUNG IM LUFTKRIEG (空中戦における目覚しい功績に対し)」と刻まれている。
ズィンは第22偵察飛行隊・第2長距離偵察中隊所属の空軍中尉として1943年12月31日付で騎士鉄十字章を受章している。
因みに、ズィンはドイツのミリタリーウォッチメーカーとしても有名なジン・スペツィアルウーレン(ジン特殊時計会社)の創設者でもある。
Sinn_logo

陸軍の制定から半年程遅れて、1944年8月5日付で空軍においても空軍名誉鑑章を制定し、空軍人事局長として顕彰部門の統括も兼務して いたブルーノ・レーァツァー空軍上級大将は、その章の制定に伴い1944年 12月10日をもって“名誉杯”の廃止を決定した。
そのため、ほとんどが12月10日前に申請がな されたともいわれている。
“名誉杯”は飛行要員に限定的であったともいえ…制空権の侭ならぬこの時期の空軍における戦局を考えれば…“空中戦”に限定しない名誉鑑章への移行は遅すぎたとも言えなくもない。
陸軍同様に遡及的適用が認められていたにもかかわらず、名誉鑑章授与対象者数が三軍中最多の約3万人とも言われる空軍において…なぜか“シュパンゲ”の佩用例をほとんど見ない。
詳細は不明・不確実だが…空軍名誉鑑章の授与総数自体を180個程としている資料もあり、空軍においては“ゴブレット”程の知 “名誉”度のなかったがために“シュパンゲ”の佩用自体がなされなかったということのだろうか…?
その佩用例は僅かに↓のかなり不鮮明なハンス・ユングヴィルト空軍少佐の写真でしかまだ見た記憶がない。
ユングヴィルトの空軍名誉鑑章の受章年月日などの詳細その他は不明だが、第12降下偵察大隊の指揮官として1945年5月9日付で騎士鉄十字章の戦後駆け込み受章をしている。

Hans Jungwirth_Major

形状は金メッキが施された24.5mmx24.5mm(2.5g)程の柏葉冠に囲まれた(空軍)鷲章のデザインで、製造元としてはハーナウのOtto Klein & Co、ベルリンのC.E..Juncker(L/12)などが確認されている。



Ehrentafelspabge der Kriegsmarine (海軍名誉鑑章)

Ehrentafelspabge der Kriegsmarine

今更ではあるが、一般には“名鑑章”と訳されることが多いものとは思うが、個人的意見で申し訳ないが…「名鑑」では有名無名、有功無功にかかわらない単なる名簿的なニュアンスに感じられ、あえて 「名誉鑑(めいよかがみ)」とさせて頂いている。
(※読み方的には【めいよかん】とでもして頂いて…)
『Ehrenblatt』は“Ehren=名誉”、“Blatt=紙”という意味になり、陸空軍の如く…軍公報に掲載および勲記…つまり “紙モノ”が主たる“章”ということになる。
それが海軍においては『Ehrentafel』…“Blatt=紙”ではなく“Tafel=板”となり…“板モノ”が主たる“章”という ことになろうか。
確かに、紙では水に弱いこともあり理には適っている。
但し海軍でも、勲記類などは“板モノ”ではなく“紙モノ”で授与され…名誉鑑章に関しても言葉面通りに“板モノ”での授与では勿論ない。
何れにしても、名誉ある者の名を連ねたことにはかわりはなく“海軍名誉鑑章”とさせて頂く。

海軍においても海軍公報(Marine-Verordnungsblatt)によりその戦果・戦功は紹介され、その栄誉を讃えるためデーニッツも海軍名誉鑑(Ehrentafel)を1943年2月23日付で制定。
さらに翌年、陸軍の制定に呼応して1944年5月13日付で海軍名誉鑑章が制定された。
基本的な授与基準は他の二軍同様となっているが、海軍においては授与者総数が僅か37名とかなり少ない。
リザルトを見てみると、かつて大西洋で“灰色の狼”と名を馳せ、高位勲章を授与されたUボート乗組員たちの名前などもないことから、デーニッツらしく…名誉鑑制定以降の期間に名誉鑑章授与に相当する戦功者を厳格に(濫発することなく)人選したものと思われる。
この三軍の名誉鑑章を見るだけでも、そのトップのカラーが窺われるところが面白い。
37名と少ないこともあるが、氏名、階級、授与年月日が全て記録として残っているので一応、以下に列挙しておく。

Alais Pambuch Oberbootsmannsmaat (18.11.1944)
Albert Moors Leutnant (31.1.1945)
Alfred Wolf Sonderführer (11.1.1945)
August Eggers Kapitänleutnant (18.11.1944)
Ehrhard Preuschoff Obersteuermann (8.8.1944)
Emil Wolf Oberleutnant zur See d.R. (6.9.1944)
Ernst Schröger Steuermannsmaat (8.8.1944)
Franz Offermanns Kapitänleutnant (11.1.1945)
Friedrich Weilkes Oberwaffenwart (11.1.1945)
Gregor Guski Maschinenmaat (8.8.1944)
Günther Kayser Kapitänleutnant d.R. (10.10.1943)
Günther Wegener Oberleutnant zur See (9.10.1944)
Günther Weiss Bootsmannsmaat (8.11.1943)
Gustan Rübel Korvettenkapitän d.R. (8.11.1943)
Güter Konejung Oberleutnant d.R. (17.10.1944)
Hans Rademaker Oberleutnant d.R. (31.12.1943)
Hebert Wilhelm Obermech.Maat (8.8.1944)
Heinrich Schiebel Oberfeldwebel (8.8.1944)
Heinz Glaubrecht Matrose (8.8.1944)
Heinz Müller Oberleutnant zur See d.R. (10.1.1945)
Herbert Grohne Leutnant zur See (27.3.1945)
Joost Kirchoff Leutnant zur See (11.1.1945)
Karl-Heinz Hansen Leutnant zur See (8.8.1944)
Karl-Heinz Knauth Oberleutnant zur See (8.11.1943)
Karl-Heinz Pettke Oberfähnrich (8.8.1944)
Kurt Graf Matrosenobergefreiter (18.11.1944)
Kurt Lerch Sonderführer (8.11.1943)
Otto Nordt Kapitänleutnant (8.11.1943)
Ottokar Paulssen Korvettenkapitän (9.10.1944)
Paul Cordsmeier Oberleutnant (9.10.1944)
Paul Roth Matrose (8.8.1944)
Paul Schwarz Oberleutnant (28 June 1943)
Richard Kruse Bootsmannsmaat d.R. (8.11.1943)
Ruprecht Rössger Kapitänleutnant(18.11.1944)
Ulrich Schütz Oberleutnant zur See d.R. (11.1.1945)
Waldemar Geschke Leutnant (31.1.1945)
Wilhelm Bitterer Oberleutnant (11.1.1945)

Günther Weiss_Bootsmannsmaat
海軍名誉鑑(1943年11月8日付)
ギュンター・ヴァイス海軍二等兵曹の名(↑赤線部)はも掲載されている1943年11月8日付の海軍名誉鑑である。

海軍名誉鑑_勲記
※1944年10月9日付でパウル・コルツマイアー海軍中尉に授与された海軍名誉鑑(勲記)
名誉鑑の文言訳としては、以下のようになるものと思う。
本官はパウル・コルツマイアー海軍中尉の卓越した戦功に対しここに深く感謝の意を表するものである。
1944年10月9日 ベルリンにて 海軍総司令官 カール・デーニッツ海軍元帥(署名)



形状は金メッキが施された25.5㎜×25.5㎜(2.92g)程の柏葉葉冠に囲まれた“卐と碇” のデザインで…ベルリンのJörg Nimmergut製。


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