Hermann Buchner

2012–04–11 (Wed) 02:27
ちょうど10年前となる2002年4月28日…
東京ビッグサイトで行われたスーパー・フェスティバル24におけるカスタムワールド(CW)7は、残念なことにCWとしては最後の展示となってしまったのだが…
そのCW7に出展する作例の元ネタを誰にするかを思いあぐねていた時…
次回は多少の変化をつけて“トーテンコプフ”、それも第1SS髑髏“オーバーバイエルン”出身の騎士鉄十字章受章者を…との衝動に駆られ、めぼしい人物を探していたところ目に留まったのがヘルマン・ブーフナーSS少佐の写真↓であった。
ただ当時、ブーフナーの写真といえば↓のような不鮮明なものしか見当たらず…
実の所、ブーフナーなる人物がどのような顔立ちなのかまでは結局わからず終いだった。
Hermann Buchner_01
※左袖にデミャンスク盾章(Demjanskschild)を装着しているようである。
ブーフナー同様に台布にかませず直接、盾章裏面の爪でそのまま袖に装着する例は多い。

はっきりとした購入時期は10年も前のことなので記憶にはないが…
ブーフナーをモデルとした作例を当方HPにコンテンツ化(※現在は公開していない)した際には既に所有していたことを考えれば、奇しくもほぼ同時期だったのではないかと思う。
当時のテキストには、“恐らく”と断りを入れて↓のポートレートをブーフナーとして紹介していたのだが…
購入当時には…売った側すら、これが騎士鉄十字章受章者のブーフナーだとは知らなかったようであり…単に“unknown”なSS大尉のポートレートにすぎなかった。
因みに、これまでネット上ですら、↓の写真が他で公開されているところを見かけたことはない。
Hermann Buchner_02
ただ、現在では↓のポートレート同様の画像がブーフナーとして紹介されていることから、これがブーフナーであったことが実証されたと言える。
“恐らく”は…まだどの色の白兵戦章も佩用していないことから、1942年11月20日付で授与されたドイツ十字章金章の受章を記念して撮られたものではないかと思われ…
私見だが、この二枚は…着帽、無帽のショットとして同日に撮影されたものではないかと思う。
↓は、その画像に後日…騎士鉄十字章が書き込まれたものであろう。
Hermann Buchner_03

ブーフナーは、1917年1月16日に職工長の息子としてニュルンベルクに生まれている。
ギムナジウムでは薬学を専攻し、卒業後は1934年8月21日から1936年5月31日までRAD(国家労働奉仕団)において部隊指揮官(Truppführer)として従事した。
1936年10月1日付でSS(親衛隊)に志願入隊(隊員番号:286 779)すると、ミュンヘンのSS連隊“ドイチュラント”・第12中隊に配属されている。
1938年4月1日から1939年1月30日の間、ブラウンシュヴァイクのSS士官学校に入校し、小隊長養成課程に進むも最終試験で学科の成績が思わしくなく不合格となり、1月31日からダハウでの補修課程でようやく修了している。
※SS士官学校入校期間の昇級
1938年4月1日付:SS三等見習士官(SS-Junker)
1938年9月11日付:SS二等見習士官(SS-Standartenjunker)
1938年12月21日付:SS軍曹(SS-Scharführer)
1939年2月1日付:SS上級軍曹(SS-Hauptscharführer)兼SS一等見習士官(SS-Standartenoberjunker)

さらに4月20日から5月1日の間、SS髑髏連隊“オーバーバイエルン”第11中隊で研修を受けている。(※4月20日付でSS少尉(SS-Untersturmführer)に昇進)
9月7日付でSS髑髏連隊“オーバーバイエルン”/第Ⅴ大隊の副官に任官。
10月1日付でSS師団“トーテンコプフ”幕僚部付将校としてSSトーテンコプフ第1歩兵連隊/第Ⅲ大隊に任官。
1940年1月1日から1月10日までツェレの陸軍ガス防護学校での防ガス課程を修了した後、1940年5月30日付で第Ⅲ大隊副官に任官し、西部戦役に従軍。
カンブレ、ダンケルク、ペロンヌ、リヨン等での戦闘に参加し、その戦功により1940年6月22日付で二級鉄十字章を受章している。
1941年4月20日付でSS中尉(SS-Obersturmführer)に昇進。
独ソ戦の開戦にともない、SS師団“トーテンコプフ”は北方軍集団麾下の第4装甲軍に所属し、ハーゼルベルク付近からリトアニアに侵攻し、次いでラトビアのデュナブルクを経由して、7月初旬にはオポチカを占領…スターリンラインを突破した。
ブーフナーも、この時の戦功により1941年7月28日付で一級鉄十字章を受章している。
8月24日…その後、師団としては一年以上の長きに渡るデミャンスクでの戦闘に入る。
翌1942年2月8日に始まったソ連軍の冬季大反攻では、第2軍団司令官ヴァルター・フォン・ザイトリッツ=クルツバッハ陸軍中将(のち陸軍砲兵科大将)指揮下の陸軍5個師団(第12、第30、第32、第123、第290歩兵師団)とともにソ連軍に完全に包囲されるも、甚大なる犠牲を払い1942年4月21日に辛くも脱出に成功した。
1942年4月24日の報告書によると、第Ⅲ大隊・第9中隊の指揮を引き継いでいたブーフナーが5月21日の戦闘の際に砲弾の破片で負傷したとされており、療養中の病院にて…1942年6月21日付でSS大尉(SS-Hauptsturmführer)に昇進している。
戦傷章銀章はこの際に受章したと思われるが受章日付は不明で、また戦線への復帰日時の詳細もないが…師団はその後、10月23日まで同地区で防衛戦を戦い抜き、10月末に再編成のためフランスのボルドーに移動し、11月9日付でSS装甲擲弾兵師団“トーテンコプフ”と改称されている。
ブーフナーにも、その間の戦功に対して1942年11月20日付でドイツ十字章金章が授与されている。

1943年2月6日から師団は再び東部戦線に移動となり、第三次ハリコフ、クルスクを転戦し、8月に入りミウス川戦域に投入、8月8日にはハリコフ西方での防衛戦を戦った後、ポルタワを経て撤退戦を継続し、9月24日にはクレメンチュークにおいてドニエプル川を渡河している。
その間の近接戦闘に対し、1943年9月24日付で白兵戦章銅章が授与されている。
その後、師団は再編成を受け、10月22日付で第3SS装甲師団“トーテンコプフ”と改称され、同月下旬から翌1944年1月中旬までクリヴォイ・ローグ付近で冬季戦を戦い抜いた。
ブーフナーにとっても、この時期はかなりハードな時期であったことが戦歴からも窺われる。
1943年9月28日付で戦車撃破章銀章を受章。
10月10日付で白兵戦章銀章、さらには1941年2月7日から1943年10月16日までの間のブフナーの近接戦闘が50日におよび、10月17日付で武装SSとしては初となる白兵戦章金章を受章している。(※武装SSでは4人が受章)
(※ブーフナーはそのノーブルな顔立ちからは想像のできないような勇猛果敢な兵士だったようであり、戦死するその日までの間に参加した近接戦闘の回数は70日近くにもおよぶということである。)
その後、パリの歩兵学校において大隊指揮官養成課程を受講し、帰隊後の1943年11月9日付でSS第5装甲擲弾兵連隊“トーテンコプフ”/第III大隊の指揮官に任官。

南ウクライナでの厳しい撤退戦の後、前線を維持するため234および235高地奪取の命を受けたブーフナーの大隊は、1944年3月31日早朝6:00をもってスタロヴォまで進軍した。
しかし、偵察部隊の報告ではソ連軍は既にスゾフヤェヴカ東部のノヴォセロフカにまで達しており、事態は急を要していた。
そこでブーフナーは、重火器および大砲の援護なしに、まずは敵の攻撃により脅かされているスズロボドカ~オデッサ線への即時攻撃を決行する。
部隊を東部と北東部に展開し敵部隊の粉砕に成功している。
これにより前線を押し戻すことができたことで兵たちの士気も高まり、ノヴォセロフカへの攻撃への目処をつけることができ、またスタロヴォへの重要な鉄道路線も無事確保できた。
この功績により、第3SS装甲師団“トーテンコプフ”師団長であるヘルマン・プリースSS中将の推薦により、1944年6月16日付で騎士鉄十字章が授与され、そして、7月29日付でSS少佐(SS-Sturmbannführer)に昇進している。

7月に入り、師団はワルシャワ北西のモドリンで再編成中の第4SS装甲軍団への編入のため、ポーランドのグロドノへ移動を命じられた。
8月中旬までヴィスワ川戦域での厳しい防衛戦を展開した後、モドリン東方での戦闘において第4SS装甲軍団はソ連第3装甲軍(ポーランド赤軍師団を含む)を壊滅させている。
10月10日に始まった攻勢でも、ヴィスワ川とブーク川の合流点付近での進軍阻止に成功しており、同地で戦闘を継続した12月26日まで、ついにソ連軍のワルシャワ侵攻を許さなかった。
11月17日…そのモドリンでの戦闘の最中、敵兵が放った手榴弾が炸裂…ブーフナーは背中に重傷を負い、師団野戦病院に搬送されるも、治療の術なく亡くなっている。
現在は、そのモドリンにある軍人墓地に永眠っているとのことである。(享年27歳)


【 Kragenspiegel “Totenkopf” 】
“髑髏”襟章(将校用)

元々が“開襟”状態での着用を想定していたこともあってかと思われるが、1940年5月以前は垂直型と呼ばれるタイプの襟章を、武装SSにおける陸軍同様の“詰襟”の場合においても着用していた。
それ以降は、“詰襟”における正面からの視認性も考慮してか水平型タイプが導入された。
ただ、依然として垂直型を着用し続ける者もいたようであり、しかも垂直型、水平型ともに髑髏の向きに左向、右向の両パターンがあり、その選択は各部隊もしくは各人の嗜好により着用例にもいくつかのバリエーションが存在し必ずしも統一されていたわけではなかったようである。
因みに、ブーフナーが着用の“水平左向”が武装SSにおけるスタンダードな着用例である。
“髑髏”襟章着用例_01
ハンス・ヒリングSS伍長(のちSS曹長):ブーフナー同様の水平左向のシングル・タイプ。
フリッツ・クリステンSS上等兵(のちSS伍長):水平右向のシングル・タイプ。

“髑髏”襟章着用例_02
エドゥアルト・デイゼンホーファSS中佐(のちSS准将):垂直右向(下向)のシングル・タイプ。
※“垂直左向”シングルでの右襟(開襟、詰襟ともに)への着用例はほとんどみられないが、↑のSS二等兵は、その垂直左向(上向)のシングル・タイプの襟章を着用している。
撮影時期は1939年ということで、34年型略帽(シフヒェン)に、襟周りに白と黒の捻り紐によるパイピングが施された36年型野戦服を着用している。

武装SSにおいても陸軍同様の肩章の導入で、“肩章による階級の表示”を採用したことにより、それまでの襟章による所属部隊や階級等の識別は、もはや不要なのではないかとの考えから廃止が検討された。
そのため1939年10月~1940年5月までの短期間、SS-VT(SS-Verfuhgungstruppe=SS特務部隊)の各部隊は襟に何も着けない“ブランク”の状態とされた。
ただ“ブランク”状態への不満の声も上がったことから、襟章に関する検討が行われている間に限り、階級を示す左側の襟章に替え、右襟と“同様”のデザイン…いわゆるデュアル・タイプの襟章着用が一時的に許可された。
この着用方法は5月以降は廃止されているが、なかにはそれ以降も着用し続ける者もいた。
因みに、↓は全てデュアル・タイプの廃止後に撮られたものである。
“髑髏”襟章着用例_03
ゲオルグ・ボーフマンSS大尉(のちSS准将):垂直右向のデュアル・タイプ。
エルヴィン・マイアードレスSS中尉(のちSS少佐):垂直左向のデュアル・タイプ。

“髑髏”襟章着用例_04
マックス・ゼーラSS少佐:垂直左右“下向”のデュアル・タイプ。
※SS少尉は垂直左向を右襟に着用しての垂直左右“上向”というかなり稀なデュアル・タイプ。

収容所部隊_襟章
SS髑髏大隊(SS-Totenkopf-Sturmbann)は第3SS装甲師団“トーテンコプフ”の前身ではあるが、戦時中は別枠的範疇として収容所の監督・警備にあたっていた収容所部隊である。
戦前の1937年までは“Konzentrationslager(収容所)”の頭文字である“k”をデザインした襟章を右襟に着用していたが、1937年7月に“k”のみのデザインから“髑髏”の下に“k”をあしらったものに替えられた。
sample_Kz_NCO
KZ_Unteroffizier

さらに1940年5月以降は、収容所部隊員の髑髏章として水平右向“髑髏”を導入している。
しかし、収容所部隊以外の将兵も水平右向の“髑髏”を着用していることがあり…また、当初SS髑髏大隊は一般SS扱いであったが、強制収容所監督官府とともに1941年4月22日付で武装SS扱いとなっており、その着用例のみで収容所隊員と判別することが難しい場合もある。
戦中・後期には慢性的な人員不足から、SS髑髏大隊は各収容所に警備を担当する監視隊を出すにとどまっていた。
↓はその監視隊として任官していたSS少尉(※ダッハウ強制収容所の監視隊指揮官に任官中(?)のゲオルグ・ボーフマン)およびSS軍曹である。
収容所監視隊SS少尉およびSS軍曹


【 Ärmelband “Oberbyern” 】

第3SS装甲師団“トーテンコプフ”は、基本的には1942年9月に採用された『Totenkopf』のカフタイトルを着用したが、第1SS髑髏連隊“オーバーバイエルン”の出身者には“髑髏”図柄のカフタイトルを着用し続ける者も多かった。
“オーバーバイエルン”のカフタイトルは、1stパターンは1936年5月から採用されゴシック体で『Oberbyern』と刺繍されたものだった。
これが1938年9月に2ndパターンとなる“髑髏”のデザインのものに変更され、1939年10月31日にヴェルテンベルクにおいて髑髏連隊などを再編成してSS師団“トーテンコプフ”が編成された時点で廃止となっている。
かなり不鮮明だが、↑(2枚目)に掲載のブーフナーの写真でその着用を確認頂けるだろうか?
cuffband _Oberbyern_skull pattern


【 Ergänzung 】

Hermann Buchner_f_01
最後に…はじめに触れたCW7および当方HPで過去に紹介した作例も少しご覧頂こうと思う。
この作例で使用しているヘッドは、当方の「ドイツ軍将校に使えそうなヘッドを…」という無理強いにもかかわらず、林 浩己氏がミュージシャンの“Sting”をモデルに、わざわざ原型を制作し、塗装まで手懸けてくださったというもので…この塗装済ヘッドと予備の無塗装ヘッドの計二頭を頂いたのだが、氏制作の男性ヘッドということに加え、既に氏の手元にすら“Sting”ヘッドはないとのとで大変貴重なヘッドである。
素体は、当時は…その体形等のバランスが結構気に入っていたボークスのNEO-GUYを使用している。

Hermann Buchner_f_02
Hermann Buchner_f_collar tab

因みに、↓がCW7での展示の様子である。
作例“SS-Sturmbannführer” _CW7
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