Scharfschütze

2012–03–25 (Sun) 20:20
STALINGRAD(1993)
先日、BSで十数年ぶりに1993年公開のドイツ映画『スターリングラード』を見る機会を得た。
いわゆる勇猛果敢な戦争映画という類のものではなく…シリアスに、時にシニカルに生死戦殺について描いた映画のように思う。
狂気に馴染めずに苦悩する主人公…ハンス・フォン・ヴィッツラント少尉役を演じているのが、若き日のトーマス・クレッチマンである。
初めて前線に赴く新米将校役…自身にとっても初となる将校役であり、この演技が多くの監督たちの目に留まることとなり、その後の出演作品…そしてドイツ将校・将官ハマリ役者?へと繋がっていくことにもなったようである。
Leutnant Hans von Witzland_Thomas Kretschmann
映画評などを見ると、映画自体の評価はさておき…“登場する兵士の軍装や髪型がドイツ制作映画ならではの考証の正確さを誇る”旨があったが…その点に関しては些か疑問がある。
私見ではあるが、その“正確な軍装”等も含め、よりリアルに見せるために『シンドラーのリスト』よろしく、全編をカラーではなくモノクロ作品にでもしてしまった方がより説得力があったのではないかなどと思ってしまうのは私だけだろうか?

Enemy at the Gates(2001)
さて、『スターリングラード』という邦題同名映画といえば…
2001年公開の『スターリングラード(原題:Enemy at the Gates)』という“フィクション”映画がある。
ソ連の狙撃兵として257名に及ぶ狙撃スコアをあげ英雄となった実在の人物…ジュード・ロウ演じるヴァシリ・ザイツェフを主人公にスターリングラード攻防戦を描いた映画であるが…
その宿敵とされたエルヴィン・ケーニッヒ少佐との手に汗握る心理戦・銃撃戦が見所といえる。
因みに、その沈着・冷静・冷徹なケーニヒ少佐役はエド・ハリスが演じているが、単に映画の中でのライバル役として設定された人物ではない…結果的には同じことになるのだが…(苦笑)
Major Erwin König_Ed Harris

エルヴィン・ケーニッヒ陸軍少佐(一説にはハインツ・ソルバルト陸軍大佐とする説もある)なる人物は…ソ連側の説明では、何でも400名以上の敵兵を射殺したとされる伝説的な狙撃の名手とされているのだが…そのような凄い人物にもかかわらずドイツ側の公式記録には一切存在せず…当然、受章しているであろう騎士鉄十字章受章者リストにも、どちらの名前も見当たらず…ソ連側が自軍の狙撃兵であるザイツェフの仕留めた相手を誇張することで彼の戦果をより誇大化し、英雄として祭り上げる為のプロパガンダとして捏造した架空の人物とする見方が濃厚のようである。
ソ連側はドイツ側が英雄の死を隠蔽して士気低下を防ごうとしたと主張しているようであるが…
以後の逸話はまさに劇中のストーリーとしても使われているが、ザイツェフに手を焼くドイツ側がベルリンの狙撃兵学校教官(※そもそもベルリンに狙撃兵学校自体が無い)でもある伝説の狙撃手“ケーニヒ”を送り込んだというのである。
これに対しザイツェフは上官からケーニヒ少佐を射殺するよう命令を受け、数日間の追撃の後にザイツェフはついに波状鉄板の下に隠れているケーニッヒを発見し、狙撃に成功したという。
その際に戦利品としてケーニヒの照準器を持ち帰ったとされ、それがモスクワの戦争博物館に展示されているとのことであるが、ザイツェフ自身の著書やアレクサンドル・シチェルバコーフへの報告書にはこの事についての記述もなく、これもどうも出来過ぎた…というより稚拙、恣意な捏造のようである。

何れにせよ、そのような眉唾な“ケーニヒ”であるから人物を特定するに至るべくも無く…
そこで単なる私的興味もあり…名前が“ケーニヒ”なる騎士鉄十字章受章者を…もしかすると、捏造に際しモデルにした人物でもいないかとの淡い期待を抱きつつ検索をしてみると…13名(陸軍8名、空軍4名、海軍1名)が存在した。
さらに柏葉章受章者に絞り込むと…アルフォンス(陸軍大佐)、エルンスト(陸軍少将)、オイゲン(陸軍中将)の3名…全て陸軍からとなり、剣付柏葉章受章者となるとアルフォンスのみとなる。

アルフォンス・ケーニヒ陸軍予備役大佐
●第199歩兵連隊・第6中隊の指揮官に任官時の1940年12月21日付で予備役陸軍中尉として騎士鉄十字章を受章。
●第217歩兵連隊・第Ⅲ大隊の指揮官に任官時の1943年2月21日付で陸軍予備役大尉として第194番目の柏葉章を受章。
●第199擲弾兵連隊の指揮官に任官時の1944年6月9日付で陸軍予備役中佐として第70番目の剣付柏葉章を受章。
※1944年6月22日にベラルーシで始まったソ連軍の反撃作戦(バグラチオン作戦)において、ハンス・ヨルダン陸軍歩兵科大将率いる第9軍はプリピャチ川沼沢地に追いつめられ…戦死者4万人、捕虜2万人という潰滅的大損害を被り7月5日に降伏した。
その最中のボブルイスクでの攻防戦においてアルフォンス・ケーニヒ陸軍予備役中佐も重傷を負い、7月8日に亡くなっており陸軍予備役大佐に死後昇進している。(享年45歳)

エルンスト・ケーニヒ陸軍少将
●第12擲弾兵連隊の指揮官に任官時の1943年9月16日付で陸軍少佐として騎士鉄十字章を受章を、1944年9月21日付で陸軍大佐として第598番目の柏葉章を受章。
※1944年11月20日付でエルンスト・ケーニヒ陸軍少将は第28猟兵師団の指揮官に任官し、同師団はフリードリヒ・ホスバッハ歩兵科大将率いる第4軍に所属。
1945年1月13日に始まった(第二次)東プロイセン攻勢に従軍するも、第4軍所属15諸師団と共にカリーニングラード湾のハイリゲンバイルで包囲され潰滅的大損害を被りソ連軍に殲滅された。
この戦闘でエルンスト・ケーニヒ陸軍少将も負傷、4月11日付でハンス・テンペルホフ陸軍大佐に指揮官を引継ぎ戦線を離れている。
Alfons König & Ernst König

オイゲン・ケーニヒ陸軍中将
●第246歩兵師団麾下・第352歩兵連隊・第Ⅱ大隊の指揮官に任官時の1942年8月1日付で陸軍少佐(注)として騎士鉄十字章を受章。
●第451擲弾兵連隊の指揮官に任官時の1943年11月4日付で陸軍大佐として第318番目の柏葉章を受章。
(注)陸軍少佐時点で授与申請がなされたものと思われるが、軍歴によると1942年7月1日付で陸軍中佐に昇進をしている。
また、この時期、昇進と同時期に上部組織の第246歩兵師団・師団副官に任官。
その後、第352歩兵連隊の指揮官として復隊をしている。
※1944年6月6日…D-Dayによる連合国軍上陸を受け、レンヌでの戦況報告会議に出席するため、べルナヴィルの第91空挺歩兵師団の師団司令本部の置かれたシャトー・べルナヴィルをヴィルヘルム・ファレイ陸軍中将を乗せたメルセデスが出発し、村外れの製粉所に差し掛かった時…フランス本土に先行上陸していたマルコム・ブレンネン少尉率いる第82空挺師団所属部隊のバズーカによる近距離攻撃を受け、ファレイと副官のヨアヒム・バルトゥツァット陸軍少佐が殺害された。
これにより、一時的にベルンハルト・クロスターケンパー陸軍大佐が師団長を代行し、その後を6月10日付でオイゲン・ケーニヒ陸軍大佐が引き継いでいる。
しかし8月7日にモルタンで始まったリュティヒ作戦において、第91空挺歩兵師団はもとより…母体となる第7軍全軍が大損害を被り、残存兵力により戦闘団“カストドルフ”を再編し対処することとなる。
これに伴い、第91空挺歩兵師団は8月10日をもって消滅した。
その後、ケーニヒは9月1日付で陸軍少将に昇進し、レンヌの第7軍司令部付となる。
11月5日付で第344歩兵師団の指揮官に任官。
12月13日付で第272国民擲弾兵師団の指揮官に任官…師団は諸母体の移管を受けながらレマゲンなど西部戦域を転戦。
ケーニヒは1945年3月16日付で陸軍中将に昇進し、師団はさらにルール地方に移動。
師団はヴァルター・モーデル陸軍元帥率いるB軍集団と共に連合国軍に包囲され、4月18日にヴッパータールにて降伏している。
因みに、モーデルは連合軍の捕虜となることを潔しとせず、4月21日…デュイスブルク近郊の森で拳銃自決している。
Eugen König

※上記3名以外の“ケーニヒ”の騎士鉄十字章受章歴も簡単にまとめておく。

<陸軍>
ルドルフ・ケーニヒ陸軍曹長:第74装甲擲弾兵連隊・第2中隊(1942年12月17日付)
クリスチャン・ケーニヒ陸軍大尉:第41(自動車化)擲弾兵連隊・第Ⅱ大隊(1943年1月5日付)
ヴィルヘルム・ケーニヒ陸軍予備役中尉:“中央”騎兵連隊・第1中隊 指揮官(1943年9月10日付)
ゲオルグ・ケーニヒ陸軍曹長:第18戦車大隊・第1中隊(1943年9月13日付)
ハインリヒ・ケーニヒ陸軍大尉:第915擲弾兵連隊・第Ⅰ大隊 指揮官(1945年2月14日付)

<空軍>
ヘルベルト・ケーニヒ空軍上級曹長:第1輸送航空団・第12飛行中隊(1944年6月9日付)
ハンス・ハインリヒ・ケーニヒ空軍中尉:第11戦闘空団・第Ⅰ飛行大隊(1944年8月19日付)
ハインツ・ケーニヒ空軍少尉:降下突撃砲大隊“ヘルマン・ゲーリング”・第3中隊(1945年2月8日付)
ヴィクトーァ・ケーニヒ空軍曹長:第55爆撃航空団・第14飛行中隊(1944年10月6日付)

<海軍>
ラインハルト・ケーニヒ海軍(技術)中尉:U-123機関長(1944年7月8日付)

----------------------------------------------------------------------------------------------

いずれの“ケーニヒ”も…当然の結果ではあるが、“狙撃手”とは無縁のようであり…
単に、“ケーニヒ”という名前繋がりということでの紹介だけでは如何にも片手落ち観が否めないので、“狙撃手”という点についても少しふれておくことにする。

“狙撃手”に対しては狙撃兵章(Scharfschützenabzeichen)が1944年8月20日付で制定された。
この徽章制定の背景には…戦争末期となって一層疲弊を極めた兵力では、もはや大掛かりな地域戦および戦局を左右するような作戦・攻撃行動すら執ることが出来ず、地区・市街区でのゲリラ戦に持ち込む他はなく。
狙撃による不安と恐怖によって敵の士気を弱めるに効果、必要性があるとされたからであろうが、それ以上に自軍の士気を高めるに足る目に見える戦果が、こうしたことくらいしか既になくなっていたと言っても過言ではない。
当初は陸軍および武装SSの狙撃兵を対象に授与されたが、国防軍総司令部(OKW)の通達により1944年12月14日付で、軍種を問わず他の武装した部隊における狙撃・射撃手も授与対象とされることとなった。
狙撃兵章には、“3級”は20名、“2級”は40名、“1級”は60名以上の狙撃スコアにより三等級が定められており、その算定自体は1944年9月1日から行われることとなり遡及適用は認められなかった。
勿論、算出に関しては当事者の申請と同伴者・目撃者による確認が必要とされていた。
因みに、狙撃の功績に対して既に鉄十字章が授与されている場合のこの徽章の追与は行われないとする見解もあるようだが、以下を見る限りでは適宜的に行われていたようである。
この徽章の着用位置は右袖前腕部とされ、いわゆる専門職徽章と同様の位置に着用すべきとされた。
ソ連軍の捕虜になった際、この徽章着用者が射殺されることを考慮し、1945年になると捕虜となる前に徽章は破棄するよう通達が出されている。
Scharfschützenabzeichen


以下に紹介する3名は、『イングロリアス・バスターズ(2009)』の“国民の誇り”として登場するフレデリック・ツォラー国防軍一等兵よろしく…かなりのハイペースで狙撃スコアを重ねた驚愕の狙撃数ベスト3(“ケーニヒ”なる人物が実在すれば及ばないものの)…奇しくも、3名とも当時まだ20歳の若者たちである。
※因みに、これらのスコアはトータルの狙撃スコアであって、徽章受章規定算定開始日以降のカウントではない。

マテウス・ヘッツェナゥアー陸軍上等兵
1924年12月23日にオーストリアのチロル州、ブリクセン・イム・ターレで生まれている。
1943年7月1日付で入営し、基礎訓練終了後、オーストリアのゼーターラーアルペ陸軍射撃演習場で狙撃兵訓練を受けた後、第3山岳師団麾下の第144山岳猟兵連隊・第Ⅱ大隊/第7中隊に配属され東部戦線に従軍。
主にK98k(6倍スコープ装着)およびGew43(4倍スコープ装着)を使用し、ドイツ軍中最多となる通算345名の狙撃スコアをあげている。
これらの戦功により、1944年に2級(9月1日付)、1級(11月25日付)鉄十字章および(1級)狙撃章(12月3日付)等を受章。
第3山岳師団の指揮官パウル・クラット陸軍中将の推挙を受け、カール・フォン・ル・スヴィーァ陸軍山岳兵科大将ヴァルター・ネーリング陸軍装甲科大将が承認し、1945年4月17日付で騎士鉄十字章を受章している。
戦後はソ連軍に捕らえられ、5年間の抑留生活の後に生まれ故郷に帰国…2004年10月3日に同地にて亡くなっている。(享年79歳)
Matthäus Hetzenauer_Gefreiter


ヨーゼフ・アラァベルガー陸軍兵長
1924年12月24日にオーストリアのシュタイアーマルク州で生まれている。
1943年6月に第3山岳師団麾下の第144山岳猟兵連隊・第Ⅱ大隊/第8中隊の機関銃手として東部戦線に従軍し、ソ連領スタヴロポリで負傷。
療養中に鹵獲品のソ連製狙撃銃の試射・分析を担当していたこともあり、復帰後には27名の狙撃スコアをあげ上官に狙撃手としての適性を認められ、ゼーターラーアルペ陸軍射撃演習場で狙撃兵訓練を受け、狙撃兵過程を優秀な成績で修了している。
主にK98k(4倍スコープ装着)およびGew43(4倍スコープ装着)を使用し、ヘッツェナゥアーに次ぐ通算257名の狙撃スコアをあげている。
詳細は不明だが、これらの戦功により2級、1級鉄十字章および(1級)狙撃章等を受章。
そして、1945年4月20日付で騎士鉄十字章を受章しているが、伝えられるところによれば…元々、山岳兵科出身であったフェルディナント・シェルナー陸軍元帥より直接、騎士鉄十字章を授与されたとのことである。
敗戦をチェコで迎え、逃避行に脱走劇などを図りながら、戦後は故郷オーストリアのヴァルス・ジーツェンハイムで父親同様に大工(家具職人との説もあるが…)として、妻のヘートヴィクと過し、2010年3月2日に同地で亡くなっている。(享年85歳)
Josef Allerberger_Obergefreiter


ブルーノ・ストクス陸軍兵長
1924年5月14日にタンネンヴァルデ(東プロイセンのケーニヒスベルク郊外)で生まれている。
父親がリトアニア人であったため、1941年にドイツに帰化し、ドイツ国籍を取得。
国防軍に入営以前は、HJ(ヒトラーユーゲント)およびSA(突撃隊)で積極的に活動し、その際に狙撃手としての適性を認められ、1943年8月~12月末までリトアニアのヴィリニュス狙撃学校で訓練課程を受けた後、第68歩兵連隊麾下の第196擲弾兵連隊に配属され東部戦線に従軍し、通算209名の狙撃スコアをあげている。
これらの戦功により、1944年には2級(7月6日付)、1級(11月6日付)鉄十字章および(1級)狙撃章(11月21日付)等を受章。
1944年末に負傷し、療養中の1945年1月に昇進および狙撃学校教官任官の通知を受ける。
戦後はソ連軍の捕虜となり、KGBによる執拗な尋問の後、1949年からシベリアでの抑留生活を強いられる。
1991年のソ連およびリトアニア崩壊の後、ドイツを戦後はじめて訪問し、1994年にドイツ国籍を再取得。
妻アントニーナの死を機に1997年にドイツに移住し、2003年8月29日に亡くなっている。 (享年79歳)
Bruno Sutkus_Obergefreiter



【 Ergänzung 】

↓の人物も…そのスコープ装着のK98kを構えてのショットから、当時“ケーニヒ?”と取り沙汰された一人だが…ヨアヒム・ハイドシュミット陸軍中佐という人物である。
ハイドシュミットに関しては、第292歩兵師団麾下・第509擲弾兵連隊の指揮官に任官時の1944年8月27日付で陸軍少佐として騎士鉄十字章を受章していることはわかってはいるが、騎士鉄十字章受章者にもかかわらず、その他の情報が実はほとんどない。
1944年次のリストには、1943年2月1日付で陸軍少佐に昇進した後、1944年10月1日付で陸軍中佐に昇進したことが記載されている。
1939年の開戦時点では、ハイドシュミットはまだ現役下士官だったのか、もしくは予備役将校として応召したことによるからなのか…まだ正規(現役)将校としての記録はないが、第94歩兵連隊に所属していたことまではわかっている。
また、第292歩兵師団麾下の…第509擲弾兵連隊ではなく…第508擲弾兵連隊・第Ⅰ大隊の陸軍大尉として、1942年10月31日付でドイツ十字章金章を受章している。
因みに、この写真のキャプションによると…↓でハイドシュミットの着用しているボタン・ダウンのシャツはフランス軍の常用シャツらしいのだが…
この手のシャツは、そもそもはポロの競技など乗馬競技中の襟の翻りが邪魔にならないようにボタン留めしたのがきっかけで作られるようになったとのことで、当時としてはまだ珍しかったのかもしれない。
Joachim Heidschmidt_Oberstleutnant
スポンサーサイト

Festungskommandant

2012–03–19 (Mon) 01:15
投降するアウロック要塞部隊“サン・マロ”司令官
↑の連続写真は米陸軍第83歩兵師団に投降した際のアンドレアス・アウロック陸軍大佐の写真である。
モノクルをはめ、タバコを煙らせ、襟元には騎士鉄十字章を佩用する、その姿はまさにドイツ軍高級将校といった風格で…この写真を単に見せられたら、どちらが捕虜なのかわからない。
因みに、LWの鷲章のままのタンぼかし迷彩図柄の降下猟兵用スモックを着用しているショットというのも写真コレクターにとっては堪らないところでもある。

1930年代に始まったドイツ国防軍の国境線要塞化は、1940年6月のフランス降伏後には対英防衛体制を強化すべく英仏海峡の沿岸線のみならず、ノルウェーの極北地方からフランコ政権下のスペイン国境にまで至る大西洋防壁を構築し、更にはソ連軍の進撃を食い止めるべく新たな東方防壁、南方から迫る連合軍に対しては特別防御陣地をバルカン半島、イタリア本土各地に構築するなど要塞化した地域は歴史上、類を見ないほど大規模なものとなった。
1940年撮影のサン・マロ遠景
港湾防衛プラン
フランス北西部に位置するブルタ-ニュ地方は、英仏海峡と大西洋に突き出た半島で、その北側付根に位置する港町のサン・マロ(St.Malo)のサン・マロ城、サン・ヴァンサン大聖堂を中心とした旧市街は12世紀に築かれた城壁に周囲を囲まれ た城砦都市である。
断面図
このサン・マロも城砦が補完され要塞化がなされ、それにあたり、固定陣地…ドイツ軍のあいだでは“Tobruk”と呼ばれるトブルク陣地構築のための“Regelbau(建造規定)”に基いて多数のブンカー(バンカー)が構築されていた。
コンクリートで地下壁面や天井を固めた掩蔽壕は地下18メートルにもおよぶ施設も建造され、その地上部には砲塔陣地や“Schartenstand(=影の場所)”と呼ばれた機関銃陣地が設置され、地下の戦闘室間は地下通路で繋がっており、まさに堅固な要塞と化していた。
Bunker
建築状況視察中のアウロック大佐

そして、この要塞および沿岸圏の防衛司令官として任官した人物こそが、↑の写真で紹介したアンドレアス・マリア・カール・フォン・アウロック陸軍大佐であり、先頁『Brennt Paris?』で紹介したコルティッツ大都市パリ圏防衛司令官とは逆に、後世に悪評を残してしまった人物でもある。
アウロックは、1893年3月23日 メクレンブルク=フォアポンメルン州のコッヘルスドルフに生まれ、クロイツベルク郡で育っている。
騎士領(私)領主であった両親の奨めで陸軍士官学校に入学し、1912年には陸軍少尉として第95チューリンゲン歩兵連隊・第6中隊に任官している。
第1次世界大戦が勃発すると、転属先の第3中隊はベルギーのナミュールの最前線で奮戦し その後、第4中隊の指揮を引継いだ彼の指揮能力、戦功に対し2級および1級鉄十字章(1914年版)が授与されている。
(※2級:1914年11月9日付、1級:1915年2月23日付)
更に陸軍中尉に昇進、連隊本部配属となり、1916年のヴェルダンの戦い、1917年の第三次イープル会戦(パッシェンデールの戦い)に従軍している。
戦後は1920年4月までハノーファーシュ・ミュンデン、ゲッティンゲン等の将校キャンプに収容されている。
1937年に新生国防軍の第87歩兵連隊・第Ⅲ大隊に予備役陸軍大尉として復官。
その翌年には陸軍少佐に昇進し、1939年3月から第212歩兵連隊・第Ⅱ大隊・大隊長に任官している。
1940年8月に陸軍中佐に昇進し、第226歩兵連隊の連隊長として東部戦線に赴き、1942年8月からスターリングラード攻防戦に従軍。
ソ連軍に包囲されるも何とか飛行機でスターリングラードから脱出した。
第226歩兵連隊は1943年3月25日付で第226擲弾兵連隊として再編成された。
そのまま指揮官を継続し…その後、クバン橋頭堡の戦い等に従軍、その時の功績に対し1943年11月6日付で騎士鉄十字章を授与され、同時に陸軍大佐に昇進、第79歩兵師団の師団長に任官している。
続いて陸軍総司令部待命指揮官となり、オランダ駐留ドイツ国防軍最高司令官フリードリッヒ・クリスチャンセン空軍大将の肝入りで1944年1月にD軍集団司令部に配属となり、2月15日付で要塞“サン・マロ”の司令官に任官した。

『パリは燃えているか?』の頁でも紹介したように、“パリ解放”は市民の蜂起によって為されたかのように後世には伝えられてはいるが、実際は戦後の勢力図を見据えてのフランス共和国臨時政府(ド・ゴール)側の意図的な操作によるところと、それを利用した連合国側の思惑によるところが大である。
少なくともパリに関する限り、世に言われる“レジスタンス神話”は、あくまでも“神話”の域を脱し得るものではなかった。
フランス国内においても、4年にわたりドイツの占領下に置かれていたが…その間、対独従属であったことは否定はしないが、実のところは占領国ドイツと政治、経済、治安維持など多岐にわたり積極的に関係を持とうとする動きも多く、ドイツ側もフランスに対しては他の占領・統治国とは違い、一定の理解、それなりの自由を容認しおり、後世に伝えられているような偏った歴史認識は誤りであるとも言える。
そうしたこともあり…1944年に入り、来たるべきX-Dayが確実に迫っていたものの、サン・マロのみならず…フランス国内各所はまだ比較的安定していたものと思われるが、D-Dayを堺に状況は一変する。

8月に入り、米陸軍の第4機甲師団はレンヌに…第6機甲師団はデイナンに達し…第8、第79および第83歩兵師団がそれに追従してサン・マロを目指し進撃していた。
しかし、第6機甲師団はディナンでルドルフ・バッヘラー陸軍大佐率いる第1049擲弾兵連隊によって側面をつかれ進撃を止められることとなった。
これによって、サン・マロのドイツ軍守備隊に24時間程の準備時間をもたらす結果となり、その功績によってバッヘラーには8月11日付で第550番目となる柏葉章が授与されている。
因みに、ベッヘラーの部隊は8月15日に米第83歩兵師団ロバート・C.マコン少将の申し出を受け、350名の部下と共に降伏している。

一方、サン・マロが既にほぼ米軍の手中に落ち、旧市街…“要塞“を包囲するカタチで上記の三歩兵師団は外環を狭めてきていた。
退避通知
アウロック要塞司令官によって出された住民に対する市街からの退避を勧告したビラ

8月15日までには旧市街以外を全て失ったにもかかわらず、それでもでなお要塞部隊“サン・マロ”は徹底抗戦の構えを崩さず、堅固な要塞もまた何とか持ち堪えてはいたが…執拗な爆撃と砲撃についに1944年8月17日の午後、アオロックは降伏を決意し、605名の部下たちと共に降伏した。
要塞部隊サン・マロ降伏

因みに、この最後の抵“功”を認てか…はたまたヒトラーの“降伏防止”常套策のつもりだったのか…降伏前日の8月16日付で第551番目となる柏葉章が授与されている。
マコン少将とアウロック要塞司令官
マコン少将に通訳を通して状況を説明するアウロック要塞司令官(残念ながら柏葉章は間に合わなかった…)

サン・マロの街は、この一連の猛爆を受けて街の8割方が壊滅し、城壁を残すのみとなるまで破壊された。
1944年崩壊後撮影のサン・マロ市街
戦後、住民たちはその瓦礫のひとつひとつを積み上げて…街を元通りに復元したのだという。
日本であれば新しい街に作り替えるところであろうが…サン・マロに限らず、欧州の街の復元という考え方には驚かされる。
現在のサン・マロ遠景とトブルク陣地の残骸

“Teddy”

2012–03–11 (Sun) 15:38
Theodor Wisch_01

確か、ミリタリーに再燃し、1/6フィギュアを制作し始めた1998~99年頃に手に入れたのがテオドール・ヴィッシュSS少将の直筆サイン入ポートレートで…
まさにドイツ軍将校・将官を絵に書いたような、そのヴィッシュの姿は…創作意欲を大いに掻き立ててくれたのは言うまでもなく、ヴィッシュをモチーフにした作例を一刻も早く具現化したいと相当意気込んで作業に臨んだという記憶がある。
まぁ、当時は今とは比べ物にならない程のモチベーションが…この作例に限らず…あったようにも思うが…(苦笑)
ただ現在は、あまりに初期の作例のため掲載は控えさせて頂いているのだが…(^ ^;
その掲載当時…ヴィッシュのコンテンツをご覧になったというカナダの方からメールを頂いた。
なんでも戦時中、その方の御爺様は…なんと、ヴィッシュの運転手をされていたのだとか…
メールを頂いた当時は、まだご存命だったと思うが…拙作を見て当時を懐かしんでおられたとのことであり、そのことを伝えるべくお孫さんがわざわざメールして下さったというのである。
その後、何度かメールのやりとりをさせて頂いたのだが…
その際に見せて頂いたのが↓の御爺様ご本人の当時の写真とヴィッシュの准将時代の写真…二級鉄十字章および一般突撃章の勲記である。
御爺様…ライモント・リュックヴァルトSS上等兵は砲兵連隊“LSSAH”・大隊本部付だったようである。
この他にもSoldbuch(給与支給帳)、自らの訓練風景や車輌…またゼップなどの写った貴重なスナップ写真なども見せて頂けて…何とも作者冥利に尽きる、嬉しい交流であった。

Raimund Ruckward
※1943年9月16日付で授与された二級鉄十字章の勲記にはSS装甲擲弾兵師団“LSSAH” 師団長のテオドール・ヴィッシュSS准将(当時)が署名。
1943年9月1日付で授与された一般突撃章の勲記には同師団/砲兵連隊“LSSAH”連隊長のグスタフ・メルッシュSS中佐(当時)が署名。

Theodor Wisch_02

ヴィッシュは、如何なる戦局に於いても沈着かつ冷静に情勢を判断し、指揮した優れた指揮官であり…武装SS、ドイツ陸軍の指揮官のみならず同盟国軍の指揮官達からも、その指揮能力は一目置かれるものであった。
また部下達からも尊敬され、頼りにされていたことは親しみを込めて呼ばれていた“Teddy”という彼の愛称からも窺える。

1944年7月中旬からのカーン~ファーレーズ間を巡る攻防戦は激烈を極め、連合国軍による包囲網は着実に狭まりつつあった。
第1SS装甲師団“LSSAH”の8月13日時点での保有戦車台数は、わずかにⅣ号戦車14輌、Ⅴ号パンター戦車5輌の計19輌にまで減り、なんとかグーフェルンの森からサン・ランバール・シェル・ディーヴにかけての狭隘部を突破することが出来た8月20日時点には一個戦闘団にも満たないまでに装備、兵力ともに疲弊していた。
こうした厳しい戦局の中に於いて尚、連合軍の包囲網を突破せしめた彼の指揮能力に対する評価は高い。
しかし、その突破目前…連合国軍の砲撃によりヴィッシュは両脚に重傷を負う。
(※両脚切断に至る程の創傷と記述されていた著書もあり、以前はそれを参考にHP上に掲載(その後、訂正)したが、リュックヴァルト氏の話では切断には至らなかったとのことである。)
辛くも救援に駆けつけた第2SS装甲師団“Das Reich”の“Der Führer”連隊に助けられるも彼自身は戦線からの離脱を余儀なくされる。
ヴィッシュの代理は、ヴィルヘルム・モーンケSS准将(のちSS少将)が師団長に任官するまでの間…砲兵連隊“LSSAH”連隊長であったフランツ・シュタイネックSS中佐が指揮を執ることとなった。
ヴィッシュには、この時の戦功、戦傷に対して1944年8月28日付で第94番目となる柏葉剣章および戦傷章金章が授与された。
終戦までの間、ベルリンの北40㎞程にあるホーエンリューヘンの親衛隊病院(SS-Lazarett)に入院し、戦後は1948年までフランスにて捕虜生活をおくることとなった。
釈放後は、ドイツ最北端の連邦州であるシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州…生まれ故郷のヴェッセルブレーネルコーフからも80㎞程のピンネベルクで暮らし、1995年1月11日に同地で亡くなっている。
現在は、ピンネベルクに程近いハンブルク市内の墓地に永眠っている。(享年87歳)


Ergänzung

1944年2月、シュテンマーマン集団の56,000名がコルスンでソ連軍に包囲された。
このコルスン・ポケットからの救出作戦に投入された際の戦功に対し2月12日付で第393番目となる柏葉章が授与された。
救出部隊側の消耗もかなりのものとなったが、それでも2月末までに包囲網内の残存部隊は橋頭堡を経由して脱出し、戦闘は一旦終了した。
3月4日にソ連軍の春期攻勢が再開されると、その勢いを食い止められず、救出に投入された第1装甲軍自体がカメネツ・ポドルスキー付近で包囲されてしまう。
4月6日、辛くも包囲網を脱出するも、その消耗は甚だしく…“LSSAH”は休養および再編の為ベルギーに送られることとなった。
↑の写真は、おそらくその際に撮影されたものと思われる。
因みに騎士鉄十字章は、1941年7月11日に開始されたウクライナのジトミル攻勢の際、西翼攻撃に投入されたSS師団“LSSAH”第Ⅱ大隊の彼の指揮・戦功に対し1941年9月15日付で授与されている。
(※ヴィッシュは騎士鉄十字章 受章後の9月27日付でSS中佐に昇進しており、↓の写真はその間に撮影されたものとなる。)
Theodor Wisch_03


Postskriptum

ヴィッシュは、その武勲、容姿ともに…まさに“ミスターLAH”と言っても過言ではない。
…にも拘らず、各社…確かドラゴン/CHですら、まだフィギュア化をしていないのではなかったかと記憶している。
是非とも彼(…として使えるでも結構!)のフィギュア化(超絶ヘッド化)を希望して止まない。

Max Müller 【DiD】

2012–03–04 (Sun) 01:09
DiD_German Infantry 1914-1915_Max Muller
これからは、ココにもレヴューもどきなことも たまに書いていこうかとも思い…
SALON(掲示板)でも、先日少しふれたことでもあるのだが…
2012年に入り、今のところめぼしい“WWII”独軍フィギュアのリリースには至っていない。
結局はドラゴン/サイバーホビーだけがライフ・ライクな実在人物シリーズをリリースし意気を吐いているにとどまっており…
あのDiD/3Rも…アレキサンドリア目前に進撃が止まったロンメルよろしく、DAKモノのリリース後どちらも止まってしまっている状態である。
現在は…今年は?…映画『戦火の馬』公開に便乗して?…“WWI”路線にシフトしてきたというわけでもないのだろうが…
先の英軍モノ…それも矢継ぎ早の500体限定スペシャル版(実は在庫処理?ではと勘ぐりたくもなるような…)には、わざわざ汚しまで入れてのビミョ~な力の入れようでのリリースとなっている。
…と、そこに…“WWI”シリーズでの独軍モノも投入されるという情報が入ってきた。

“WWI”シリーズといえば…2003年~2005年頃だったと思うが、Sideshow Toysから
“Bayonets Barbed Wire”シリーズとして…独英米…陸空の“WWⅠ”関連フィギュアが、確か10アイテム位はリリースされていたのではなかったかと記憶している。
その中には“レッドバロン”の異名をもつマンフレート・フォン・リヒトホーフェンもフィギュア化されていた。
DiD/3Rも、よもやそれに肖って…先の1stバージョンのHGヘッドを…そのまま?or少し手直しして?…あの“WWIのエース”として再販を目論んでいるなどというようなことは…
まぁ~ないとは思うのだが…(苦笑)

それはさておき、話を戻すと…
DiDの次なるマックス・ミュラーは“WWI”独軍モノでこそあれ、そこはDiD/3R…
今回も“使えるヘッド”にしてくれているところがありがたい。
まぁ、もともと私的にはBOXで購入する気などは…“WWⅡ”モノにせよ端から無いので関係はないのだが…
惜しむらくは、プロイスィッシャー・アドラー(Preußischer Adler)のモールドが、もしドラゴン並みであればピッケルハウベも是非…置物としてでも欲しかったところだったのだが…
因みに、鷲の胸に刻まれた“FR”は“Fredericus Rex(国王フリードリヒ)”の略である。

ともかく、今回のヘッドもなかなかに期待がもてそうなのでリリースが待たれる!
…ということで最後に、そのマックス・ミュラーを陸軍参謀大佐としてみたらヴァージョンを…
“マックス・ミュラー陸軍参謀大佐”版

Brennt Paris?

2012–03–02 (Fri) 23:24
パリは燃えているか?
【 Is Paris Burning? / Paris brûle-t-il ? / Brennt Paris? (1966) 】
パリは燃えているか_ドイツ版パンフレット表紙

仏レジスタンス(共産主義者とドゴール派)と自由フランス軍によるパリの解放を描いたラリー・コリンズとドミニク・ラピエールの共著本『パリは燃えているか?』をルネ・クレマンが監督、脚本をゴア・ヴィダルフランシス・フォード・コッポラが担当した1966年制作の米・仏合作映画である。
制作スタッフの顔ぶれも豪華だが…
俳優陣も…ジャン・ポール・ベルモンドアラン・ドロンカーク・ダグラスイヴ・モンタングレン・フォードオーソン・ウェルズなど、他にも多くの世界的スター達の共演している映画なのである。
そして、この映画のキーパーソンともなっているディートリヒ・フォン・コルティッツ将軍役を演じているのが…
『007 ゴールドフィンガー』でのタイトル・ロールのゴールドフィンガー役を演じていると言った方がピンとこられる方の方が多いかもしれないが…
ドイツの国民的映画俳優であるゲルト・フレーベである。
ゲルト・フレーベ_ディートリヒ・フォン・コルティッツ将軍

ただ、私個人的にフレーベの出演映画で一番印象に残っているシーンといえば…
『史上最大の作戦』での冒頭シーで、いつものように朝の海岸線を呑気に馬に乗り、コーヒー缶を背負わせたロバを引いていると…目の前のノルマンディの海上を埋めつくす連合軍の大上陸船団を発見し唖然とするカフィークラッチュ軍曹役↓であろうか…
ほんのちょい役にも関わらず…何故か印象深い。
因みに、“カフィークラッチュ”はKaffeeKlatschという綴りになるのだが…
これは独語で“コーヒー・ブレイク”を意味する。
ところが何故かここ最近のクレジットでは…この名前がいつの間にやら“カフィーカンネ”に変名されていて…綴りで言えばKaffeekanneとなり…こちらは独語で“コーヒー・ポット”の意味となる。
そのフレーベ…戦時中はNSDAPの党員でもあったようだが、その肩書きを活かしユダヤ人のドイツ国外脱出を援助し、ウィーンにおいて匿っていたという経歴もある人物なのだそうである。
そのうちのユダヤ人家族がフレーベに救助されたことを明らかにするまで、イスラエルでは“元ナチス党員の俳優”とされていたために『007 ゴールドフィンガー』の上映は禁止されていたのだとか…
カフィークラッチュ軍曹

フレーベが演じたディートリヒ・フォン・コルティッツ陸軍歩兵科大将とは勿論、実在の人物であり、今回はそのコルティッツを紹介させて頂こうと思う。
ディートリヒ・フォン・コルティッツ陸軍歩兵科大将
※1943年に授与された“ルーマニアの星”…剣付ルーマニア騎士十字章を騎士鉄十字章と共に襟元に佩用している。
(ルーマニア公カロルⅠ世(カール・アイテル・フリードリヒ・ゼフィリヌス・ルートヴィヒ<‘81年より国王>)により1877年5月22日付で制定)

コルティッツは1894年11月9日、上シレジア地方(現ポーランド領)のヴィーゼ・グレーフリッヒに生まれている。
1914年3月6日付でザクセン第8ヨハン・ゲオルク王子第107歩兵連隊に士官候補生として配属されて間もなく勃発した第一次世界大戦では西部戦線に従軍し、9月28日付で陸軍少尉に昇進した。
戦後もヴァイマール共和国軍に残り…陸軍中尉~陸軍中佐と、順当に昇進を重ねている。
そして、第二次世界大戦が勃発。
1940年5月10日に始まったオランダとの戦闘では、コルティッツ(陸軍中佐)率いる第16空輸歩兵連隊/第3大隊はロッテルダム市街地中心部を横断するように流れるニューウェ・マース川のヴィルヘルム橋の空挺強襲・占拠作戦に投入され、この時の戦功により1940年5月18日付で騎士鉄十字章を受章している。
同年9月10日付で第16空輸歩兵連隊長に就任し、翌年の1941年4月1日付で陸軍大佐に昇進。
東部戦線においては、1942年6月のセヴァストポリ攻略戦に参加…
ルーマニアのプロイェシュティにある油田確保に貢献した。
1942年9月1日付で陸軍少将に昇進。
1943年3月1日付で陸軍中将に昇進。
1943年3月5日~10月1日:第11装甲師団司令官としてクルスク戦にも参戦。
1943年10月1日~11月15日:第48装甲軍団副軍団長に任官。
1944年3月1日~4月16日:第86装甲軍団長に任官。
(※アンツィオ、メッツ、モンテ・カッシーノ、ローマ南部に投入される。)
1944年6月15日~7月3日:第25軍団長に任官。
1944年8月1日付で陸軍歩兵科大将に昇進。

ここからいよいよ映画『パリは燃えているか?』に描かれているラストシーンへと展開していく。
1944年8月7日午後12時半から始まった総統大本営“狼の巣(Wolfsschanze)”での戦況会議に出席を命じられたコルティッツは、そこで総統により大都市パリ圏防衛司令官に任命。
コルティッツには、ドイツ国防軍の最高司令部(OKW)からパリの死守が厳命され…
レジスタンスによるテロやサボタージュの阻止、パリ市内での市民蜂起・暴動発生時の鎮圧、セーヌ川の45橋(1944年8月15日まで)の爆破、パリの工業中心地、北東部の爆撃などの命令がなされていた。
そして8月9日付でパリに着任すると、パリにおける司令部をリヴォリ通りに面したオテル・ル・ムーリスに置いた。

パリ市内では8月15日から始まったストライキに続き、18日からのゼネストはパリ全域の労働者に広がっていった。
ついに、8月19日午前7時、フランス国内軍(FFI)主導のもとパリ市内のレジスタンスが蜂起を開始。
市内各所では膠着状態が続いていたが、コルテッツも市内兵力をもって本格的な鎮圧に乗り出すべく、20日には中立国スウェーデン総領事ラウル・ノルドリンクを通して…
「攻撃を停止しなければ、パリを空襲し、本職に与えられたパリ破壊命令を最大限に実行する用意がある」との最後通告を行なっている。

パリを取り巻く状況もこうした動きに連動し、連合国軍内部でもそれぞれの思惑が錯綜しつつもパリ進軍が開始された。
それに伴いパリ防衛が不可能であると考えたヴァルター・モーデル陸軍元帥は、パリの東と北まで防衛ラインを下げることを具申するも、あくまでもパリ防衛に拘るヒトラーに却下された。

パリではFFIと防衛軍による散発的な戦闘がみられるも、休戦状態は概ね維持されていたが…
ついに、以下のような1944年8月23日午前11時付“国防軍最高司令部/国防軍作戦部通達 44年第772989号”…いわゆる総統指令が発令される。
総統指令(複製)
橋頭堡としてのパリ防衛は軍事的・政治的に重要である。
この地を失うことは北方沿岸線全域のみならず、その英国への長距離攻撃(爆撃)の基地をも失うことである。
これまでの歴史をみても、パリを失うことは全フランスを失うことを意味する。
総統閣下はパリに非常戦をはるべく、 西方軍総司令官に援軍要請を強くご命じになられた。
都市において蜂起がみられた場合は、首謀者の摘発と、必要に応じて潜伏ブロックの解体を断固執行すべきである。
セーヌ川に架かる橋は、解体のための準備もしなければならない。
パリが敵の手に落ちる場合は焦土と化さねば許可しない。


難色を示すコルテッツに対しモーデルも総統命令遂行を厳命するも、都市破壊は行われることはなく…
8月25日、米第4歩兵師団司令官レイモンド・バートン少将麾下の第12連隊およびフィリップ・ルクレール少将の率いる仏第2機甲師団の本隊が三方向からパリ市内に突入。

正午にはエッフェル塔のにシーツで作った即席のフランス国旗である三色旗が掲げられた。
因みに、この旗を掲げたのは1940年6月30日の“パリ陥落”の日にドイツ国旗(旗)を掲げるために三色旗を下ろすことを命じられた消防士だったのだとか…
午後1時10分、オテル・ル・ムーリスにフランス軍のアンリ・カルシェ中尉らが突入したのを機にコルティッツはこれを降伏の機会と考え、降伏する旨を伝え、司令部を武装解除した。
コルティッツは仏第2機甲師団の司令部の置かれたパリ警視庁に護送され、午後3時30分に降伏文書は調印された。
降伏文書に調印するコルティッツ

コルティッツが降伏命令を各部隊に発令したことで、パリ市内のドイツ軍部隊は午後7時35分までにはほとんど降伏し、パリは事実上解放された。
武装解除後のコルティッツおよびドイツ軍将兵
※1944年8月25日の投降後にルクレール少将、バートン少将と面会するコルティッツ(上段)と武装解除し投降するドイツ軍将兵(中・下段)

結果的に、ヒトラーからの焦土命令に従わなかったコルティッツは…後に“パリを救った人物”と称されるようになるのだが…
既にそうした破壊命令を遂行出来得る状態ではなかったというのが実情で…
コルティッツにしてみれば、敗戦後を見据えた交渉の切り札としていただけではなかったのかとされている。

一方、パリ解放が現実となろうとしているにもかかわらず、一向に焦土作戦開始の一報すら入らぬことに苛立つヒトラーは国防軍最高司令部作戦部長アルフレート・ヨードル陸軍上級大将に三度『Brennt Paris?』(パリは燃えているか?)と怒鳴ったという。
因みに、劇中では既に主のいなくなった司令官執務室の受話器越しに?…「Brennt Paris?」と叫んでいる場面でエンドロールとなる…


コルティッツは1947年4月に釈放されるとバーデン=ヴュルテンベルク州に属するバーデン・バーデン近郊のリヒェンタールに妻フーベルトと移り住み…
1966年11月5日、持病の肺気腫が悪化しバーデン・バーデン市内の病院にて亡くなった。
72回目の誕生日を目前に、そして奇しくも映画の公開に合わせたかのような死であった。
彼の葬儀にはドイツ連邦国軍の将官・将校に加えフランス軍の将校なども参列し…
軍楽隊を先頭に長い葬列をつくったとのことである…享年71歳。
コルテッツの葬列

【 Postskriptum 】

歴史の神様がいるとするならば、時に気まぐれとも思えるような人選をなさることがあるが…
今回紹介したコルティッツは、その眼鏡にかなったのかもしれない。
確かに軍人として…とりあえずは満足すべき階級…陸軍歩兵科大将にまで昇進し…
軍人として栄誉ある、騎士鉄十字章も受章したにせよ…
彼のそれまでの経歴…ヴァイマール共和国軍での陸軍中尉昇進から陸軍歩兵科大将にまで至る正式昇進日付は全て〇月1日付という…まさに判で押したような、いわゆる順当な昇進であり…大きな功績もないかわりに大きな失敗もない分、決まったレールの上で定例的な昇進を重ねていたといっても過言ではないだろう。
特に目立つわけでもなく、特に武に優れたわけでもなく…また知に優れたわけでもなく…
ごく平凡な…とは失礼かもしれないが…
それまで…そして、そのまま行けば…30年強におよぶ軍歴において、歴史に名を刻むことは最後までなかったのではないだろうか。
確かに、彼だけではなく、ごく平凡な“大将”…のみならず、たとえもっと偉かったとしても…ただ単にそれだけでは歴史に名を刻めるものではないだろうが…
軍歴最期の最後…ほんの16日間が決め手となって、彼は歴史の表舞台に引張り上げられることとなった。
フランスでの、その幕引きの演じ方を…後世からすれば…誤らなかったが故に、現代もこうして語り継がれる“有名”将官にまでなれたのである。
既にパリを焦土と化す程の余力がなかったとはいえ…また自らの保身も考えなかったとは言えなくはないにせよ…結果的に彼の下した決断が、今なお続くパリの伝統と歴史を多少なりとも守ったことには違いはない。
実は、歴史の神様がお決めになられたシナリオに自我を張らずに素直に従うような人物だったならば他の人物でもよかったのかもしれないが…それは、まさに神のみぞ知る…である。

 | HOME | 

SALON / Hauptraum

PEIPER

Author:PEIPER

卐 Nachricht 卐

Aktuelle Zeit

Zugriffszähler

Online-Zähler

現在の閲覧者数:

Bildersammlung

Kategorie

Anzahl der Artikel

全タイトルを表示

Aktuelles Artikel

Trackbacks

Archive

Große Dodekaeder

Andere Sprachen

LINK

Suche

ブロとも申請フォーム

QRコード

QRコード