“赤”旗を下ろし、“黒”旗を高く掲げよ!
“粛清後”のSAは人数的には多かったものの、役割的にはSSに取って代わられ窓際族的存在となっていた。
そんな不満を少しでも解消しようということで…
1938年に6個大隊から成るSA警備連隊『フェルトへルンハレ』(SA-Wachstandarte Feldherrnhalle)が編成され、SA大将でもあったゲーリングが名目上初代連隊長となった…
ただ、当然のことながらSAとSSおよび“粛清”の手助けをした国防軍との溝が修復されるはずもなく…
そこで、ヒトラーは苦肉の策としてSSと国防軍内にSA部隊もしくはSAと連携するような部隊の編成を指示する。
“ゲーリングの空軍”ではいち早く…1936年4月6日付でドルトムント航空兵戦隊(Fliegergeschwader Dortmund)に、名誉称号(“リヒトホーフェン(Richthofen)”に続き二番目となる )『“ホルスト・ ヴェッセル”航空団』の指定を与えているが、ホルスト・ヴェッセルSA少尉がN.S.D.A.P.としては殉教者的扱いを受けてはいたものの、空軍とは関連のない人物の名を冠したこの称号を呼称としてはほとんど用いなかったと言われる。
大戦中は第26駆逐航空団(Z.G.:Zerstörergeschwader 26)、後に第6戦闘航空団(J.G.:JG:Jagdgeschwader 6)に改編となる。
陸軍では当初SA隊員と秩序警察を基に第60歩兵師団を編成。
また、第271歩兵連隊を第271擲弾兵連隊“フェルトへルンハレ(Feldherrnhalle=FHH)”に改編した。
その後1943年夏になり、それら残余により第60装甲擲弾兵師団“FHH”として再編した。
1944年9月、第26歩兵師団の残余を基に第106戦車旅団“FHH”、第110戦車旅団“FHH”、そして装甲擲弾兵師団“FHH”などの“FHH”部隊が同時期に編成されている。
その後ブダペストにおいて、これらの“FHH”3部隊が壊滅的な打撃を被ると、その残余と装甲軍団“グロースドイッチュラント(GD)”、降下装甲軍団“ヘルマン・ゲーリング(HG)”を基に第1、第2師団からなる装甲軍団“FHH”を編成した。


右から装甲擲弾兵師団“Feldherrnhalle”師団長のオットー・コーラァマン陸軍中将、中央がマックス・ユットナーSA大将、左が第2軍司令官のポール・ラォクス陸軍歩兵科大将
因みに、↓がその折の様子である。
武装SSにおいては、1944年1月30日付で第18SS義勇装甲擲弾兵師団“Horst Wessel”がようやく編成されたが、これも名を冠したにすぎず、師団の主力はハンガリーの民族ドイツ人によるものであった。
因みに、Horst Wessel(ホルスト・ ヴェッセル)とは、ホルスト・ルートヴィヒ・ヴェッセルSA少尉のことであり…別名『ホルスト・ヴェッセルの歌(Horst-Wessel-Lied)』ともいわれるN.S.D.A.P.の党歌『旗を高く掲げよ(Die Fahne hoch)』の作詞者でもあった。

ヴェッセルは1930年2月23日に愛人であった娼婦のエルナ・イェルニケの部屋においてドイツ共産党員のアルブレヒト・ヘラーによって銃撃を受け死亡したとされている。(享年22歳)
ゲッベルスは、これを非道、野蛮なる“共産党”のイメージを強調するために利用すべく、事件直後から国家社会主義運動の殉教者として仕立て上げ、彼を「国家社会主義者のキリスト」と讃えるキャンペーンを行った。
そして党として盛大な葬儀を執り行い、経緯は不明だが彼の詞にメロディーがつけられた『旗を高く掲げよ』は参加した突撃隊員や参列者によって墓前で大合唱されたという。
当時、N.S.D.A.P.はいくつかの党歌を採用していたが、この後はこの歌が最も有名な党歌となった。
“フェルトへルンハレ”について補足をさせて頂くと…
1923年11月9日のミュンヘン一揆の際にナチス党員と警察隊が衝突したのが、ミュンヘン市中心部にあるオデオン広場(Odeonsplatz)で…
この広場にある帝政ドイツ時代の“フェルトへルンハレ(将軍廟)”前を、ここで死傷した党員達の血が滲み込んだ聖地とした。
因みにヒムラー等の右ポケットのボタンホールで目にするリボンは、この一揆の参加者に授与された…その名も“1923年11月9日勲章”で、別名“血の勲章(Blutorden)”ともいわれ、1934年3月15日付で制定され、その後1938年5月30日付の総統令により、授与対象者が拡大され、特別な功績に対する勲章として1938年8月27日付で授与されるようになった。
※メダルの裏側にはこの“将軍廟”がデザインされている。

そんな不満を少しでも解消しようということで…
1938年に6個大隊から成るSA警備連隊『フェルトへルンハレ』(SA-Wachstandarte Feldherrnhalle)が編成され、SA大将でもあったゲーリングが名目上初代連隊長となった…
ただ、当然のことながらSAとSSおよび“粛清”の手助けをした国防軍との溝が修復されるはずもなく…
そこで、ヒトラーは苦肉の策としてSSと国防軍内にSA部隊もしくはSAと連携するような部隊の編成を指示する。
“ゲーリングの空軍”ではいち早く…1936年4月6日付でドルトムント航空兵戦隊(Fliegergeschwader Dortmund)に、名誉称号(“リヒトホーフェン(Richthofen)”に続き二番目となる )『“ホルスト・ ヴェッセル”航空団』の指定を与えているが、ホルスト・ヴェッセルSA少尉がN.S.D.A.P.としては殉教者的扱いを受けてはいたものの、空軍とは関連のない人物の名を冠したこの称号を呼称としてはほとんど用いなかったと言われる。
大戦中は第26駆逐航空団(Z.G.:Zerstörergeschwader 26)、後に第6戦闘航空団(J.G.:JG:Jagdgeschwader 6)に改編となる。
陸軍では当初SA隊員と秩序警察を基に第60歩兵師団を編成。
また、第271歩兵連隊を第271擲弾兵連隊“フェルトへルンハレ(Feldherrnhalle=FHH)”に改編した。
その後1943年夏になり、それら残余により第60装甲擲弾兵師団“FHH”として再編した。
1944年9月、第26歩兵師団の残余を基に第106戦車旅団“FHH”、第110戦車旅団“FHH”、そして装甲擲弾兵師団“FHH”などの“FHH”部隊が同時期に編成されている。
その後ブダペストにおいて、これらの“FHH”3部隊が壊滅的な打撃を被ると、その残余と装甲軍団“グロースドイッチュラント(GD)”、降下装甲軍団“ヘルマン・ゲーリング(HG)”を基に第1、第2師団からなる装甲軍団“FHH”を編成した。


右から装甲擲弾兵師団“Feldherrnhalle”師団長のオットー・コーラァマン陸軍中将、中央がマックス・ユットナーSA大将、左が第2軍司令官のポール・ラォクス陸軍歩兵科大将
因みに、↓がその折の様子である。
武装SSにおいては、1944年1月30日付で第18SS義勇装甲擲弾兵師団“Horst Wessel”がようやく編成されたが、これも名を冠したにすぎず、師団の主力はハンガリーの民族ドイツ人によるものであった。
因みに、Horst Wessel(ホルスト・ ヴェッセル)とは、ホルスト・ルートヴィヒ・ヴェッセルSA少尉のことであり…別名『ホルスト・ヴェッセルの歌(Horst-Wessel-Lied)』ともいわれるN.S.D.A.P.の党歌『旗を高く掲げよ(Die Fahne hoch)』の作詞者でもあった。

ヴェッセルは1930年2月23日に愛人であった娼婦のエルナ・イェルニケの部屋においてドイツ共産党員のアルブレヒト・ヘラーによって銃撃を受け死亡したとされている。(享年22歳)
ゲッベルスは、これを非道、野蛮なる“共産党”のイメージを強調するために利用すべく、事件直後から国家社会主義運動の殉教者として仕立て上げ、彼を「国家社会主義者のキリスト」と讃えるキャンペーンを行った。
そして党として盛大な葬儀を執り行い、経緯は不明だが彼の詞にメロディーがつけられた『旗を高く掲げよ』は参加した突撃隊員や参列者によって墓前で大合唱されたという。
当時、N.S.D.A.P.はいくつかの党歌を採用していたが、この後はこの歌が最も有名な党歌となった。
“フェルトへルンハレ”について補足をさせて頂くと…
1923年11月9日のミュンヘン一揆の際にナチス党員と警察隊が衝突したのが、ミュンヘン市中心部にあるオデオン広場(Odeonsplatz)で…
この広場にある帝政ドイツ時代の“フェルトへルンハレ(将軍廟)”前を、ここで死傷した党員達の血が滲み込んだ聖地とした。
因みにヒムラー等の右ポケットのボタンホールで目にするリボンは、この一揆の参加者に授与された…その名も“1923年11月9日勲章”で、別名“血の勲章(Blutorden)”ともいわれ、1934年3月15日付で制定され、その後1938年5月30日付の総統令により、授与対象者が拡大され、特別な功績に対する勲章として1938年8月27日付で授与されるようになった。
※メダルの裏側にはこの“将軍廟”がデザインされている。

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カテゴリ : 3R
テーマ : 第二次世界大戦【ドイツ】
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