ひじカタナ話

2008–05–24 (Sat) 23:38
土方歳三

今年は新選組副長・土方歳三が亡くなって“140回忌”ということで…
祥月命日である5月11日には残念ながら“御参り”は果たせなかったが…
※明治2年5月11日(西暦では1869年6月20日となるようだが…)に函館に没した。
ほぼ一年越し…その後も何度か足止めにあったことなどもあり…
今回こそは!と、土方の生家に併設された“土方歳三資料館”訪館を実現すべく…
お天気にもめぐまれ、一週遅れ(5/18)の麗らかな日曜日にやっと赴“日野”が実現した。
国領付近での不発弾処理のおかげで若干遠回りをさせられたが…
なんとか予定より30分程の遅れで京王線“高幡不動”駅に到着…
多摩モノレールが浅川を渡ればすぐ左眼下に“土方歳三資料館”が見えてくる…
“万願寺”駅から急ぎ資料館に向かうと…
既に30人程の人が狭い資料室に詰めかけおり、館の方の説明が始まったところであった。

土方歳三資料館 正門


先にも述べたように…
なぜ、ほぼ一年越しの想いかと言えば…
資料館を訪れるなら…毎年、この時期のみ展示されるという土方所用の愛刀“和泉守兼定”を是非この目で見てみたかったからで…
昨年は既に展示期間が終了したところだったのである。
そのうえ、今年はなんと土方のもう一振の愛刀“大和守源秀国”も展示されるとのことで…訪館の想いは一入だったというわけなのである。
館の方のお話では…“大和守源秀国”が個人所有のため、こうして二振揃って展示されるのは最初で最後かもしれないとのこと…
本身はそれでなくとも引き込まれるような怪しい魅力があるものなのだが…
土方の様々な想いを知るこれら二振の愛刀を目の当りにすると、言い様のない感慨を覚えずにはいられなかった。

和泉守兼定
和泉守兼定


司馬遼太郎の『燃えよ剣』では上洛前の江戸で入手する段があるが、事実は上洛後間もなくのようで…
会津藩主松平容保の上洛に伴い会津の名刀匠である11代兼定も上洛し、京都で刀を鍛えていたこともあり…
会津藩関係者との関わりのなかで11代“兼定”(2尺8寸=106.4㎝)の作を入手し、愛用したのだそうである。
文久3年8月18日の政変や池田屋事変などの際には、さすがに、これだけの名刀…“兼定”を惜しげもなく振るっていたかは?であるが…とにかく、何かの折には腰に差していたことは間違いないであろう。
ただ、資料館に展示されていた“兼定”はこの“兼定”ではなく…
慶応3年2月の作と銘打たれた12代作の“兼定”で…
2尺3寸1分6厘(88.0㎝)と11代“兼定”よりも短い作りとなっている。
なんでも赤茶色の鞘の塗りも会津漆だそうで…そこに牡丹唐草と鳳凰の紋様が配されている。
その拵は無骨さとお洒落さがミックスした土方らしいものと言えるのではないだろうか…
この12代“兼定”は1年強程しか使われなかったようだが、その巻きの磨り減り様から推測される使い込み方は尋常ではないのだそうだ…
さすが“燃えよ剣!”、“鬼の副長”!!
実はこの“兼定”がどのような経緯で生家に届けられたかは伝えられていないのである。

土方の側近として土方絶命に際しても居合わせたという(元)新選組隊士…沢 忠助および立川主税の二人は、やはり隊士であり箱館で陸軍奉行添役となっていた安富才助の土方の戦死を伝える手紙と遺品(遺髪、写真、下げ緒など)を託され、箱館から湯ノ川への脱出を決行した。
立川は新政府軍に捕縛されたものの、沢がなんとか明治3年(1870年)に、土方の親戚である日野宿の佐藤彦五郎宅にこれらの遺品を届けたという。
ただ刀のことは伝えられておらず、もし届けられた品々のなかに刀が含まれていたのならば、むしろこのことの方が語り継がれているのではないかと見る向きもある。

そしてもう一人…
箱館時にまだ15歳…小姓として土方に付き添っていた市村鉄之助という隊士は直に土方から形見の品などを託されて箱館脱出を命じられたのだという。
市村は官軍の包囲網を掻い潜り、3ヶ月かけて何とか無事に佐藤彦五郎宅に到着したらしい。
ただ、生前の土方が激戦の最中に愛刀を手放すはずがないと見る向きもある。
これはあくまでも勝手な推量であるが…
もしこの時、11代作の“兼定”もまだ土方の手元にあったのならば…
土方が市村に12代作“兼定”を託し…
新選組全盛時を共に闘ってきた11代作“兼定”と共に自らの最期を向かえるべく、これを再び主刀としたと考えれば手放す…託す…理由とも考えられなくもないのでは?…などと。
御歴々の諸説もあくまでも推測の域を脱せず…
今となっては眼前にあった“兼定”だけが、その経緯を知るのみなのである。
因みに市村はその後、約2年ほど佐藤家に滞在していたのだという。

もう一振の“秀国”<2尺2寸8分(86.64㎝)>もやはり会津刀匠である秀国の作で…
土方が慶応2年8月に“秋月某…たぶん登之助?”に譲ったものらしい…

大和守源秀国
大和守源秀国




当日は展示最終日ということで若干混んでいたとはいえ、祥月命日となる前週は、そんな混みようではなかったのだということで…
また、土方の墓のある石田寺(せきでんじ)も、同じく相当の混みようだったそうだが…
私がお参りした時は、私の他には誰もおらず…思わず墓前に盃でもたむけて一献…といきたくなるほどだった。
そう考えれば、一週ずらしてて正解だったのかもしれない。

石田寺_正門

石田寺境内_土方歳三之墓

土方歳三之碑


帰りは高幡不動を参詣し…“土方歳三”像も拝み…土方な一日を過ごしたのでした!

高幡不動_土方歳三之像



さて、そんな土方歳三を…
やはりP☆としては1/6化せねば…ということで…
当初はアルフレックスの“栗塚”版でも購入すればそれで善し…などと考えていたのだが…
なかなか手に入らないのと…よしんば手に入るとしてもチトお高過ぎて…
栗塚氏といえば“ミスター土方”とも呼ばれているほどなのだが…
通説の土方像にはまり過ぎの観はあるものの…
勿論、司馬先生が栗塚氏の隊士姿を見て「まさに土方!」と思われたくらいですから…
私も勿論、司馬作品の土方像としては文句のつけようはないのだが…
(でも、私の中では野良犬or牟礼の旦那の方が、どちらかといえばドンピシャなのだが…)

ひじカタナ人形_01

実像に鑑みてみると…
榎本武揚も土方を評して“入室伹清風(にゅうしつしょせいふう)”と言っているくらいで…
爽やかで一見すると線の細そうな感じ?だったのではないかと…

ひじカタナ人形_02
そんなわけで今回は…ソフトな感じの十二吋土方をカタチにしてみた。

何やかんやと手を加えて(”胴”“垂”をカスタム、草鞋を編むなど…)はいるものの…あくまでもキットバッシュということで…手抜きの程は、ご容赦あれ…(^ ^;
惜しむらくは…プリントではない白山形…だんだら模様を染め抜いた浅黄色の麻地風生地などがあれば、羽織は自作したかったところである。

ひじカタナ人形_04

ひじカタナ人形_05
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