
ヴァルター・フォン・ザイトリッツ=クルツバッハ陸軍砲兵科大将は、1888年8月22日にドイツ北部の港湾都市ハンブルク(エッペンドルフ)に生まれている。
第3代プロイセン王フリードリヒ2世統治期に起こった“七年戦争”において、目覚ましい武勲を立てた
フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ザイトリッツ=クルツバッハ(男爵)騎兵大将を祖先にもつ名門の出。
アビトゥーァ(Abitur:大学入学資格)を取得するも、プロイセン王国陸軍に入隊。
1908年9月18日付で第2西プロイセン第36野戦砲兵連隊第に士官候補生として配属。
見習士官として戦争学校修了後、1910年1月27日(辞令29日)付で陸軍少尉に昇進、同連隊の中隊附将校として任官。
第一次世界大戦中、同連隊は東プロイセンに派遣。
1915年1月27日付で陸軍中尉に昇進。
西部戦線における“ソンムの戦い”での塹壕戦およびジークフリート(独: Siegfried※連合軍:ヒンデンブルク線)への後退戦に参加。
1917年4月18日付で陸軍大尉昇進。
その後、“サン=カンタンの戦い”に参加。
1918年10月16日付で
ホーエンツォレルン家勲章剣付騎士十字章を受章。
※一級・二級鉄十字章、戦傷章銀章、その他を受章。
グダニスク(=ダンツィヒ)にて終戦。
戦後は、第36野戦砲兵旅団の副官に任官し、東部国境警備隊に配属。
ヴェルサイユ条約に基づき“10万人(将校:1400人)陸軍”などの人員制限による大量解雇のなか、敗戦後もヴァイマル共和国軍(Reichswehr)に残留。
1920年4月、シュヴェリーンに置かれたヴァイマル共和国陸軍の第2砲兵連隊に(連隊)副官として任官。
1925年から同連隊の砲兵教育中隊の指揮官に任官。
1929年からベルリンの国軍省(Reichswehrministerium)に転属。
陸軍兵器局(HWaA)局長
マックス・ルートヴィヒ陸軍中将(当時)および
アルフレート・フォン・フォラート=ボッケルベルク陸軍中将(当時)の副官として任官。
1930年4月1日付で陸軍少佐に昇進。
1933年4月1日付で陸軍中佐に昇進、同日付でフェルデン(アラー)に置かれた第6プロイセン砲兵連隊/第5大隊の指揮官に任官。
※1935年3月16日付で国防軍(Wehrmacht)に改称。
1936年3月1日付で陸軍大佐に昇進。
第6プロイセン砲兵連隊は第22砲兵連隊として改編、同地にて継続。
同年10月6日付で、その指揮官に任官。
1939年9月、第二次世界大戦が勃発。
ポツダムの第102砲兵司令官に任官。
1939年12月1日付で陸軍少将に昇進。
1940年3月10日付で第12歩兵師団の指揮官に任官。
同年5月17日付で二級、5月22日付で一級の各鉄十字章略章を受章。
西方戦役後、第12歩兵師団は守備隊として翌年晩春までフランスに駐留。
1940年8月15日付で騎士鉄十字章を受章。
1941年晩春、東部戦線に移動。
同年12月1日付で陸軍中将に昇進。
更に、同年12月31日付で全軍第54番目の柏葉章を受章。
1942年1月1日付で待命指揮官(Führerreserve)に編入。
同年4月21日、デミャンスクに包囲された第2軍団と第10軍団の合わせて約10万人の将兵を脱出(架橋作戦“Unternehmen Brückenschlag”)させるべく編成されたザイトリッツ集団(Gruppe Seydlitz)の指揮を執り、大きな犠牲を払いつつも脱出戦を成功させた。
同年5月8日付で第51軍団の司令官に任官。
同日付で第二次ハリコフ攻防戦に参加。
(※第51軍団は、同年1月2日付で第6軍(司令官:
フリードリヒ・パウルス陸軍装甲兵科大将(当時))に編入)
同年6月1日付で陸軍砲兵科大将に昇進。

◆
Schlacht von Stalingrad6月28日、南方軍集団(司令官:
フェードア・フォン・ボック陸軍元帥)はクルスク方面からドン河に向かって南東に攻撃を開始…「ブラウ作戦」の発動である。
6月30日には、南方軍集団隷下の第6軍はドネツ川を渡河、スターリングラードに向け進撃。
7月7日、南方軍集団はカフカースの油田地帯攻略を目指すA軍集団(司令官:
ヴィルヘルム・リスト陸軍元帥)とスターリングラード近郊でヴォルガ河西岸を封鎖し、石油供給を断つことを目指すB軍集団(司令官:フェードア・フォン・ボック陸軍元帥)に分割。
ボックはスターリングラード攻勢の前に、側面の脅威となる
ニコライ・ヴァトゥーチン中将率いるヴォロネジ戦線を掃討すべきと主張。
13日、これに対しヒトラーは、スターリングラードへの攻勢遅延を良しとせずボックを解任。
15日付で
マクシミリアン・フォン・ヴァイヒス陸軍上級大将(当時)がB軍集団を引き継いだ。

B郡集団はドン川対岸に、左翼から第2軍(司令官:
ハンス・フォン・ザルムート陸軍歩兵科大将(当時))、ハンガリー第2軍(司令官:
グスタフ・ヤーニ中将)、イタリア第8軍(司令官:
イータロ・ガリボルディ大将)、ルーマニア第3軍(司令官:
ペトレ・ドゥミトレスク大将)、パウルスの第6軍をスターリングラード正面に配し、ドン川の東岸に第4装甲軍(司令官:
ヘルマン・ホト陸軍上級大将)、ルーマニア第4軍(司令官:
コンスタンティン・コンスタンティネスク・クラップス中将)を配した。
A軍集団(司令官(9月9日まで):
ヴィルヘルム・リスト陸軍元帥)の第17軍(司令官:
リヒャルト・ルオフ陸軍上級大将)および第1装甲軍(司令官:
エーヴァルト・フォン・クライスト陸軍上級大将(当時))はクマ=マヌィチ運河以南に布陣。
※9月9日付でリストが解任、翌10日から11月23日まではOKH(陸軍総司令部)直属とされ、最高司令官兼陸軍総司令官であるヒトラーがA軍集団を指揮。
11月23日付でクライストが指揮を引き継いだ。
(
地図拡大)

パウルスの第6軍は、8月16日までにドン川西岸を確保。
第51軍団と
グスタフ・フォン・ヴィータースハイム陸軍歩兵科大将率いる第14軍団(自動車化)の先鋒部隊はスターリングラード市街に達した。
8月23日、市街に対する第4航空艦隊(司令官:
ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン空軍上級大将(当時))による猛爆撃の後、B軍集団による総攻撃が開始された。
9月13日午前6時45分、第6軍は11個師団をもって市街地への突入を開始。
11月10日までにスターリングラードのほとんどを占拠してはいたものの、
ワシーリー・チュイコフ中将率いるソ連軍第62軍は徹底した持久戦、接近戦、白兵戦を駆使して激しい抵抗をみせていた。
11月19日午前5時、ルーマニア軍に連絡役として派遣していた
ゲーアハルト・シュテック陸軍中尉(※ベルリンオリンピック投擲競技:金・銅メダリスト)から「ウラヌス作戦発動間近」の通報を受けるも、これまでもソ連軍集結に関する誤報も多かったことから、真偽の確認に手間取り、就寝中だった第6軍参謀長の
アルトゥール・シュミット陸軍少将(当時)への報告が遅れた。
同日、ソ連軍によるウラヌス(天王星)作戦が発動され、北側から
ニコライ・ヴァトゥーチン中将の率いる南西戦線が、南側から
マークス・レイテル中将の率いるブリャンスク戦線が…更にその両戦線を
コンスタンチン・ロコソフスキー中将の率いるドン戦線が支援するかたちで二重包囲作戦が開始。
11月23日、第6軍に対する包囲環が整った。
これに対しパウルスは、ニジネ・チルスカヤへの全軍撤退を打診するも、ヒトラーは撤退要請を即刻却下。
翌24日早朝、パウルスのもとに戦線死守の総統命令が届く。
既に第6軍に突破を図る余力などあろうはずもなく、パウルスは包囲下での持久戦を決断。
11月25日、ザイトリッツは脱出計画の概案を提出しているが、既にパウルスの考えを変えるには至らなかった。
ヒトラーはパウルスの栄達心を擽るべく、11月30日付で陸軍上級大将に昇進させた。

当初、ゲーリングら空軍サイドは、物資空輸により戦線維持は可能と豪語していた。
孤立したスターリングラードの状況を打開するべく、ヒトラーは
エーリッヒ・フォン・マンシュタイン陸軍元帥を司令官として、第11軍司令部を再編したドン軍集団を11月21日付で編成。
陸軍としても、ドン軍集団をもってすればクリスマスまでには救出ができると楽観視していた。
但し、第6軍の状況は更に悪化し、空輸量は、戦力維持レベル(700t/日)の半分にも満たず、全く供給出来ない日も続く有様だった。
リヒトホーフェン空軍上級大将は、空輸に必要な
Ju-52が確保できないうえに、制空権確保と悪天候に阻まれ思うように補給のできない状況が続けば最悪の事態を招くとして、第6軍自力での脱出を許可するべきと進言したが、ヒトラーに拒否された。
たちまち食糧難に陥り、物資移動に欠かせない馬などを食用にしたことも相まって、戦力低下に拍車をかけた。

エーリッヒ・フォン・マンシュタイン陸軍元帥と第4装甲軍司令官ヘルマン・ホト陸軍上級大将
なかなか戦力が整わず、依然として満足な状態ではないものの、既に一週間程の遅れがでているうえに、これ以上の遅延は作戦遂行自体の期を逸すると判断したマンシュタインは、12月12日付でドン軍集団による救出作戦…「冬の嵐作戦」を発動。
フリードリヒ・キルヒナー陸軍中将(当時)率いる第57装甲軍団の、第6装甲師団(
エアハルト・ラオス陸軍少将(※途中、陸軍中将に昇進))と第23装甲師団(
ハンス・フォン・ボイネブルク=レングスフェルト陸軍中将(受傷にて交代)、
ニコラオス・フォン・フォーァマン陸軍大佐(※途中、陸軍少将に昇進))を主攻勢部隊とし、コテリニコヴォから北東に進撃を開始。
状況に応じて、第48装甲軍団(
オットー・フォン・クノーベルスドルフ装甲兵科大将)による東側面の援護も準備。
16日、ソ連軍は「マールイ・サトゥルン(小土星)作戦」を開始。
南西戦線の第21軍(第1親衛軍)、第63軍(第3親衛軍)、ヴォロネジ戦線(司令官:
フィリップ・ゴリコフ中将)の第6軍(第24戦車軍団)を南に向け進撃。
イータロ・ガリボルディ大将率いるイタリア第8軍を撃破し、ドン軍集団の側面を牽制した。
17日、左翼の防衛に当たっていた第17装甲師団(司令官:
フリドリン・フォン・ゼンガー・ウント・エッターリン陸軍少将(当時))も攻勢に増援。
19日、マンシュタインはドン軍集団情報参謀(Ic)のハンス・ゲオルク・アイスマン陸軍参謀少佐(当時)を第6軍司令部(グムラク)に派遣し、第57装甲軍団がリカ(川)ミシュコヴァまで達しているこの時期に、第6軍が包囲環の南側のラインをリカ(川)ドンスカヤ・ツァリツァまで押し戻す必要があった。
これには孤立地帯の放棄と、自力による包囲環の突破を図る「雷鳴作戦」との協同作戦を執る必要があるが、ヒトラーは「雷鳴作戦」を一喝した。
マンシュタインは、パウルスがヒトラーの命令を無視して撤退行動を起こすことに期待したが、ヒトラーの死守命令に忠実なパウルスと、第6軍の実質的な指揮権を有するシュミットの進言により、“現状の備蓄燃料では第57装甲軍団の待つ位置まで到達できる見込みは皆無である”と決断した。
23日、ソ連軍の右翼を南下していた第24戦車軍団はスコシルスカヤに到達。
目と鼻の先にあるタツィンスカヤの飛行場(第4航空艦隊の空輸補給の主力基地)を急襲。
この攻撃により、空輸に欠かせない輸送機72機および飛行場は完全に破壊され、以後の物資空輸は一層困難を極めた。
24日、スターリングラード戦線(司令官:
アンドレイ・エリョーメンコ中将)の第2親衛軍(司令官:
ロディオン・マリノフスキー中将)隷下、第7戦車軍団(司令官:
パーヴェル・ロトミストロフ少将)の攻勢により、第57装甲軍団は第6軍前線まで48km程のムイシコワ川で完全に進撃を阻止された。
これを受け、ホト(第4装甲軍)も撤退を決断。
事ここに至ったっては作戦の中止も已む無しと判断したマンシュタインは救出作戦を断念した。

(
地図拡大)
23日、救出作戦が既に露と消えたと感じたザイトリッツは、自らの判断で北部包囲環の防衛戦に就いていた部隊を後退させた。
これに対し、第6陸軍参謀総長のシュミットは、ザイトリッツの行動は軍規違反であるとして即時解任を主張した。
25日、ザイトリッツは、脱出行動を起こさぬ限り、軍の崩壊は運命づけられているとした意見書を提出したうえで、仕方なく軍規に従い防衛戦に戻したが、隷下の連隊および大隊の指揮官に対し、現場の状況に応じた独断の行動および降伏も已む無しとの許可を与えていた。
包囲環内の状況はさらに悪化。
ヒトラーは、敗北者と降伏を試みた全ての将兵に対して即時射殺を許可し、「第6軍は、最後の一兵、最後の一弾に至るまで、陣地を死守せよ!」と厳命した。
包囲されていた兵力の1/4にあたる約8万人は、負傷、飢餓、それらに伴い絶命していったが、それでも残りの者は、飢えと絶望的な状況のなかでも戦いを続けていた。
年が明けた1943年1月8日、ソ連軍大本営代表の
ニコライ・ヴォロノフ砲兵大将とドン戦線の司令官
コンスタンチン・ロコソフスキー中将は第6軍側の出方を窺うため“名誉ある降伏”を勧告し、軍使を差遣するも、パウルスとの接見は敵わなかった。
因みに、その両将軍が署名した勧告内容は概ね以下の如くであった。
スターリングラードに包囲せられある第6軍司令官パウルス閣下、ならびにその代理者殿へ。
第6軍、第4装甲軍の部隊および隷下部隊は、昨年11月23日以来完全に包囲せられ、我が軍の鉄の輪の手中にある。
然して、南方および南西方からの攻撃に因りて貴官の部隊を救出せんとする望みは完全に絶たれたり。
急ぎ貴官を救援せんとするドイツ軍は、我が軍により破砕せられ、その残存部隊は、ロストフに向けて退却しつつあり。
ドイツ軍の空輸航空部隊は、貴官らに些かの食糧、弾薬、燃料を輸送しつつありといえども、迅速なる我が軍の進出により飛行場の変更を余儀なくされるとともに、遠隔の飛行場よりその輸送を行わざるを得ざる状況にあり。
これに加うるに、ドイツ軍空輸航空部隊は、我が空軍により飛行機および乗員に莫大なる損害を受けつつあり。
包囲せられたる部隊に対する助力は夢と消え去り、更なる危機に直面しつつあり。
既に飢餓と病苦と寒気に打のめされたるも、峻烈なるロシアの冬の終わりは未だ見えざらん。
酷寒、寒風、大暴雪は今後にあり。
貴官の将兵は、防寒の衣服も与えられざるままに、悲惨きわまる状態にあり。
司令官たる貴官は勿論、全将校は、この包囲の鉄環を突破脱出することの不可能なるを知るべし。
貴軍の情勢は絶望的にして、このうえの抵抗は無益なり。
以上に鑑み、無益の流血を避くる為、貴官が以下の降伏条件を受入られんことを勧告する。
1.包囲された全ドイツ軍は抵抗を中止。
2.全ての人員、兵器、資材などを我が軍に引き渡すこと。
3.抵抗を中止した将校、下士官、兵にはその生命の安全を保障し、戦争終結後には、ドイツ本国その他の希望の国に送還することを保証する。
4.降伏した部隊の将兵には、軍服、階級章、勲章、個人の所持品の保持を許し、上級将校は帯刀も認める。
5.降伏した全ての将校、下士官、兵には、正規の定量の食糧を直ちに支給する。
6.全ての負傷者、病人、凍傷患者には、医療の処置を執る。
これら勧告を拒否する場合には、ソ連陸軍および空軍が、包囲された貴軍に対し、遺憾ながら殲滅作戦を開始する所存である旨を警告するものである。
然して、その破滅の責任は貴官が負うべきところとなる。

(
地図拡大)
1月10日 午前8時5分、ソ連軍は包囲環を縮小し、決着を図るべく「コリツォー(鉄環)作戦」を発動。
この作戦を主導したのは、スターリングラード戦線司令官の
アンドレイ・エリョーメンコ中将ではなく、ソ連軍最高司令官(代理)の
ゲオルギー・ジューコフ上級大将により抜擢されたドン戦線司令官
コンスタンチン・ロコソフスキー中将指揮下の7個軍により遂行された。
第6軍の分断を目的とした主攻撃部隊の第65軍(
パーヴェル・バトフ中将)と第21軍(
イワン・チスチャコフ少将)が西側の突出部から、第66軍(
アレクセイ・ジャドフ少将)と第24軍(
イワン・ガラニン少将)が北から、第57軍(
フョードル・トルブーヒン中将)と第64軍(
ミハイル・シュミロフ中将)が南から同時に攻撃を開始した。
第62軍(
ワシーリー・チュイコフ中将)は、凍結したボルガ川を渡河して退却せぬように対岸に対峙した。

(
地図拡大)
16日時点で、既にグムラクの補助飛行場が空輸に使えるだけで、300t/日という最低量さえも届かなかった。
ラステンブルクの‟狼の砦”において、1944年12月21日付けで全軍22番目の剣付き柏葉章をヒトラーから直接授与された第14装甲軍団司令官
ハンス・フーベ陸軍装甲兵科大将(当時)は、その折、スターリングラードの厳しい戦況と包囲環突破の必要性を強く訴えたが、ヒトラーは敗北の可能性を断じて認めようとせず、翌年2月中旬には戦況は打開され、増援による救援が行われるであろうという幻想に固執するばかりであった。
17日、フーベは、再び必要最低限の物資を供給するようヒトラーから確約を取り付けるため、急遽、ラステンブルクに向かうように命じらた。
※同日付けで第14装甲軍団の指揮は“一旦”
ヘルムート・シュレマー陸軍中将が引き継ぐが、結局、フーベはスターリングラードに戻れな?…らな?かった。
フーベはスターリングラード攻防戦終結の後の1943年3月5日付けで再び第14装甲軍団の司令官に再任官。
同年10月29日付けで第1装甲軍の司令官に任官。
1944年4月1日付けで陸軍上級大将に昇進。
イタリア半島南部、ウクライナでのコルスン(コールスニ)およびカームヤネツィ=ポジーリシクイの両包囲戦などの戦功により、同年4月20日付けで全軍13番目の宝剣付き柏葉章を受章…ベルクホーフ(オーバーザルツベルク)の山荘にてヒトラーから直接授与された。
翌21日、乗機した
ハインケルHe111が離陸後、墜落。
葬儀は5日後の4月26日に、ベルリンにて国葬として執り行われた。(享年53歳)
21日、第6軍の生命線ともいうべきグムラク飛行場がソ連軍の手に堕ち、これにより物資補給も勿論だが、人員の搬送も全く不可能となった。
22日、「コリツォー(鉄環)作戦」はいよいよラストフェーズへと突入、第6軍は市内の防衛線内に追い込まれる。
26日、
アレクサンドル・ロジムツェフ少将率いる第13親衛狙撃師団と
チスチャコフ少将率いる第21軍がママエフ・クルガン(ママイの墳丘墓)で合流…
これにより、
チュイコフ中将率いる第62軍は、5ヵ月ぶりにドイツ軍の脅威から解放された。
一方、第6軍が逆に南・北に分断される羽目に陥る。

28日には、司令部が孤立するカタチで南・北・中央に分断された。
【南側包囲環内】
第6軍司令部
第71歩兵師団(
フリッツ・ロスケ陸軍少将)
第14装甲師団(
ギュンター・ルートヴィッヒ陸軍大佐)
【北側包囲環内】
第11軍団(
カール・シュトレッカー陸軍上級大将)
【中央包囲環内】
第8軍団(
ヴァルター・ハイツ陸軍上級大将)
第14装甲軍団(
ヘルムート・シュレマー陸軍中将)※29日降伏
第4軍団(
マックス・プフェッファー陸軍砲兵科大将)
第51軍団(
ヴァルター・フォン・ザイトリッツ=クルツバッハ陸軍砲兵科大将)
ただ、この第6軍の絶望的かつ無意味な戦闘継続は、全くの無意味だったかというとそうではない。
1942年12月16日からのロストフ奪回を図るソ連軍の攻勢により、A軍集団が包囲の危機に陥っていたため、マンシュタインとしてはA軍集団を速やかに撤退させなければならなかった。
そのためには、第6軍がスターリングラードで踏み止まり、A軍集団に対する戦力を縮減させておく必要があり、降伏勧告拒否の厳命を下したヒトラーを非難しつつも、彼自身も戦術上、これに断固同意だったと後年述べている。
渋々ながらヒトラーが1月27日になり、ようやくA軍集団の撤退を許可したことで、危ういところで撤退はとりあえず完遂をみた。
ヒトラーは、自身の内閣発足(1933年)からちょうど10周年目の30日付けをもってパウルスを陸軍元帥に昇格させた。
「ドイツ陸軍史上、降伏した元帥はいない」という引き合いを出してパウルスに威圧感を与え、最悪の場合も、パウルス以下が全員戦死もしくは自決することを切望し、正規軍としての降伏という不名誉だけは断固として許さなかった。
30日、第64軍(
シュミロフ中将)は、第6軍司令部が置かれたスターリングラード中央デパートを包囲。
翌31日 午前6時、砲撃を開始。
数分後、ドイツ側からの休戦の申し入れに応じ、シュミロフは作戦参謀(ルーキン大佐)と情報参謀(ルイジョフ大佐)を派遣した。
地下の自室に籠り孤影悄然のパウルスに代わり、シュミット参謀長とロスケ陸軍少将が引接。
パウルスは第6軍全軍の降伏ではなく、司令部の置かれた南側包囲環内のみの降伏を受諾、北側包囲環内を指揮するシュトレッカー陸軍上級大将への降伏要請は拒絶した。
中央包囲環内では、クルツバッハら指揮官の働きかけにより、25日以降、各部隊ごとに降伏交渉を始めていた。
2月1日、トラクター工場を急場の司令部として抵抗を続けていた北側包囲環内の第11軍団のシュトレッカーは、パウルスと他の部隊が降伏したことを確認して、麾下の指揮官を集めて、部隊ごとの判断により適宜な行動をとる自由があることを伝えた。
2日朝、第11軍団の全部隊が降伏し、これをもって第6軍の抗戦は終結した。
包囲された第6軍の将兵30万人のうち、25,000名程がなんとか脱出、救出されたが、第6軍とともに最後まで闘ったルーマニア軍2個師団などの約3,000名を含む約91,000名が捕虜となった。
因みに、戦死または傷病による死亡率は、兵・下士官が95%、下級将校が55%に対し、上級将校はわずか5%であった。
その後、捕虜となった将兵たちは、仮収容所が設けられたベケトフカまでの足場の悪い雪道を、極寒のなか飢えと疲れ果てた身体を引きずりながら徒歩で移動させられ、落伍する者は、そのまま見捨てられ凍死するか、その場で容赦なくソ連兵に射殺された。
パウルス“元帥”を筆頭に27名(軍医将官含む)の将官たちも捕虜となったが、下々の将兵たちとは違い優遇された。
【Generalfeldmarschall】
Friedrich Paulus(Oberbefehlshaber der 6.Armee)
【Generaloberst】
Karl Strecker(Kommandierender General des XI.Armeekorps)
Walther Heitz(Kommandierender General des VIII.Armeekorps)
【General der...】
Max Pfeffer(Kommandierender General des IV.Armeekorps)
Walther von Seydlitz-Kurzbach(Kommandierender General des LI.Armeekorps)
【Generalleutnant】
Alexander Edler von Daniels(Kommandeur der 376.Infanterie Division)
Arno von Lenski(Kommandeur der 24.Panzer Division)
Arthur Schmidt(Chef des Generalsstabs der 6.Armee)
Carl Rodenburg(Kommandeur der 76.Infanterie Division)
Hans-Heinrich Sixt von Armin(Kommandeur der 113.Infanterie Division)
Heinrich-Anton Deboi(Kommandeur der 44.Infanterie Division)
Helmuth Schlömer(Kommandierender General des XIV.Panzerkorps)
Werner Sanne(Kommandeur der 100.Jäger Division)
【Generalmajor】
Erich Magnus(Kommandeur der 389.Infanterie Division)
Fritz Roske(Kommandeur der 71.Infanterie Division)
Hans-Adolf von Arenstorff(Kommandeur der 60.Infanterie Division(mot.))
Hans-Georg Leyser(Kommandeur der 29.Infanterie Division(mot.))
Hans Wulz(Artilleriekommandeur des IV.Armeekorps/Arko 144)
Martin Lattmann(Kommandeur der 14.Panzer Division/389.I.D.)
Moritz von Drebber(Kommandeur der 297.Infanterie Division)
Otto Korfes(Kommandeur der 295.Infanterie Division)
Richard Lepper(Artilleriekommandeur des XI. Armeekorps/Arko 6)
Ulrich Vassoll(Artilleriekommandeur des LI.Armeekorps/Arko 153)
【Generalstabartz(≒Generalleutnant)】
Otto Karl Renoldi(Generalstabartz der 6.Armee)
【Generalarzt(≒Generalmajor)】
Hermann Kayser(Generalarzt des IV. Armeekorps)
Hans Spiegelberg(Generalartz des XI.Armeekorps)
Siegfried Müller(Generalarzt des VIII.Armeekorps)
投降後のザイトリッツは、ルニョヴォ捕虜収容所内で設立された、捕虜となっていた上級将校ら95名から成る、反ヒトラー、N.S.D.A.P.独裁体制への抗戦を訴える組織… “ドイツ将校同盟(BDO)”の盟主として活動している。
その後、共産主義の作家エーリヒ・ヴァイネルトらを中心として組織された、共産主義亡命者と戦争捕虜、(下級)将校から成る“自由ドイツ国民委員会(NKFD)”等と合流し、ソ連当局の管理下のもと副委員長として、政治的・イデオロギー的リーダーシップを担った。

自由ドイツ国民委員会委員長のエーリヒ・ヴァイネルトとザイトリッツの席を囲む委員たち。
1943年9月22日と1944年2月4日の二度の覚書で、ザイトリッツはソ連指導部に、ソ連軍と共同で打倒ヒトラーと戦争の早期終結を目指す4万名のドイツ人捕虜から成るドイツ解放軍の編成を許可するように求め、さらにスターリン宛に、ドイツ人捕虜将兵に貢献する機会を与えるよう切望する旨の書簡も送っている。
だがソ連側としては、たとえ一部のドイツ人捕虜が恭順しているにせよ、共産主義に傾倒しているわけではなく、その真意には懐疑的な見方をしていた。
結局、スターリンの承認は得られず、この構想は実現することはなかったが、“ザイトリッツ部隊(Seydlitztruppen)”という神話はソ連当局により対独プロパガンダに利用された。
その結果、家族連帯責任懲罰法(Sippenhaft)により、ザイトリッツの家族にも罪が及ぶこととなる。
1944年7月、妻インゲボルクと長女メヒティルト、次女ディートリントはブレーメン警察に拘置の後、シレジアの強制労働収容所(シュメルト機関収容所)に移送された。
三女イングリットと四女ウーテは、ボルンタールのバート・ザクサ児童養護施設に預けられた。
同年8月、反ヒトラー的プロパガンダ活動などを行うザイトリッツに対し、反逆者として名誉剥奪と全財産の没収、さらに欠席裁判で死刑が宣告された。
(※インゲボルクは、これ以上の報復を避けるためにザイトリッツとの離婚に同意…戦後、この離婚は無効となる。)
1949年1月、ザイトリッツは釈放を請求し、ソ連占領地域への居住を希望するも却下。
1950年5月24日、ザイトリッツはブッテルスカヤ刑務所に移送。
同年6月12日、戦時の在任中に、ノヴゴロド地域において殺人を犯したとされた民間人の殺害およびソ連軍将校の投獄に関与したとして起訴された。
同年7月8日、ソ連の軍事法廷はザイトリッツに死刑を宣告。
その後、
ハンス・ベック=ベーレンス陸軍中将と
インゴ・フォン・コラーニ陸軍少将による供述に虚偽が判明し、矯正施設での25年の禁固刑に減刑。
1955年10月7日、保釈が認められ西ドイツ(当時)のフェルデンに帰郷。
1956年、フェルデン地方裁判所は、第三帝国時代の死刑判決を無効とした。
しかし、ドイツ連邦軍はザイトリッツの軍籍抹消を撤回せず、軍人恩給の支給は拒否された。
義母の死後、ザイトリッツ一家はブレーメンに移り住み、1976年4月28日に同地にて死去。(享年87歳)
1996年4月23日、モスクワのロシア最高検察庁は、死後恩赦により1950年の判決を無効とした。